人の数だけアートがある! 芸術に対する思いは人それぞれ。藝大アートプラザでは、アートとは何かをさまざまなアーティストたちに尋ねることで、まだ見ぬアートのあり方を探っていきます。
今回お話を伺うのは、アーティストのねがみくみこさん。
「二律背反」をテーマに、人生の悲劇を戯画化し喜劇に変える人生賛歌の作品——「まじめにふざけた」彫刻を制作をしている立体作家です。その手から生み出される作品はどれも、ちょっととぼけたようなテイストと意表を突かれる造形で、独特の世界観を醸し出しています。
自らのアート観について、これまでの活動とともに伺いました。
「自分はマシュマロでできているかもしれない」
—— ねがみさんの作品はユニークな動物をモチーフにしていることもよくありますが、現在制作中のこの作品もおもしろいですね。
ねがみ:ハチワレ柄の猫って、「のり巻き」っぽいなと。スライスしたら中身は実はのり巻きだったらなんだかいいなと思って。幼い頃、人体模型で見るような内臓や肉や骨が自分の体の中にもあるということが私には実感できなかったんです。「もしかしたら自分はマシュマロでできていたりしないかな……そうだったらいいな」などと妄想していました。そうした感覚というか記憶も少し反映されています。
動物をモチーフにすることが多いのですが、子供の頃から自宅で保護犬や保護猫に囲まれていたので、犬や猫に育てられたという感覚があります。嬉しいも悲しいも、人間と何も変わらない感情を持っている愛すべき4本足たちという感じで、かわいさだけでなく、ずるいところとか悪いところとか、人間臭い一面が一緒に暮らしていると見えてくるわけです。私の作品をご覧になった方から「目に白目がありますね」と指摘されることがあるのですが、白目があると表情が豊かになるんですよね。ふとした瞬間に見せる彼らの人間臭い顔。あの一瞬を切り取れたらと。
想像の中だけの「ちょっと悪いこと」
—— 多くの作品がコメディーを想起させるというか、喜劇的である気がします。どのようなタイミングで着想を得るのですか?
ねがみ:最近は寝ている間に夢の中で浮かぶことが多いですね。だからベッドの近くにノートを置いておいて、朝方にぽっと浮かんだスケッチのイメージやキーワードを忘れないうちに書き留めています。日中にインプットしたものが夜になると脳内で分解されて排出されるのかもしれないですね。
作風に関しては、特定の人や物に強く影響を受けたという感覚はあまりないのですが、身近でありふれたものから主にインスピレーションを受けます。何か自分にとって不幸が起こった時にも、「これは人生の大喜利だ、いつか作品にしよう」と思うようにしています。
たとえば「しくじり翁」は、もし竹取の翁の手元が狂って姫ごと切ってしまったら……というものなんですが、他人に迷惑をかけないように懸命に生きている自分のような小市民でも、想像の中だけでは少しばかり邪悪なことを考える自由があってもいいんじゃないか、と。
そんなささやかな自由が奪われたら何の楽しみもなくなってしまうんじゃないか、もし「人間らしさ」が失われたら、寂しい人生のような気がすると考えたりもします。
「つらい」を「楽しい」に変換するために
—— 失敗や馬鹿らしさ、邪(よこしま)な気持ちの中に「人間らしさ」があると。
ねがみ:業や欲など、ダメなところを含めて人間です。そういう部分を隠したり無くしたりして表現することは私にはできない。自分だって不完全な人間です。他者を責める前に汗をかいて恥をかいて生きている自分を思い出せ、という、私自身への戒めでもあります。せめて寛容さを忘れないようにしようと。
作品には業や欲にまみれたブラックな笑いを込めたりもしているんですが、根底には生まれ育った環境や出会った人への感謝があります。生まれてきてよかった気がするから、たとえみっともなくても私は生きたいわけです。生への執着が私の中の太い柱になっています。
立体を志した理由
—— 藝大では彫刻科をご卒業されていますが、そうしたねがみさんの作風はどのように形成されたのでしょう?
ねがみくみこさん(以下、ねがみ):子供のころから言葉よりも絵を描いたり物づくりで身近な人を喜ばせるのが、私のコミュニケーションの方法でした。藝大に入ったことでそういう作風が変わったということはなかったように思いますが、藝大で培ったアカデミックな彫刻技術を全力で「無駄遣い」してはいます。
美術の道に進みたいとは小さな頃から考えていたのですが、中でも彫刻科に進んだのは、道具が好きだったことが大きいかもしれません。父が金属加工の会社に勤めていたので、自宅にものこぎりややすり、砥石、グラインダーの刃などの工具があって、私はそれを大事に机にしまって眺めたりしていました。
私の肩書きは「彫刻家」で、”アーティスト”という言葉はしっくりこない。彫刻家のほうが第2次産業の従事者っぽい言葉の響きがあるような気がします。それは製造業に携わってきた父へのリスペクトでもあります。
考えてみると、刃物を使って木を削るという感覚は自分にとても合っていたように思いますね。それは、小さな頃に山や森で遊んだ記憶と深く繋がっているからなのかもしれません。
アートの役割とは
—— 学校で美術を教えながら制作をされていますね。教員としての立場は制作に何か影響を与えているのでしょうか。
ねがみ:たくさんの人と関わる中で気が付いたのは、どんなに世界が物質的に豊かになったとしても、それだけで心が満たされるわけではないということ。日常の中に幸せを見出すことは実は結構難しいのではないかと思います。怒りとか不安、悲しみや寂しさといったネガティブな感情に、人はどうしてものみこまれやすいですよね。苦しみを昇華する方法を身につけなければ、と思うんです。私の場合は、その方法がアートやユーモアでした。
—— ねがみさんにとってアートとはどういう存在でしょう。
ねがみ:難しいですね。生きることは私にとって「つくること」でもあるので、「衣食住創」という感じでしょうか。
以前、私の作品をご覧になったある人から「もっと社会に問題提起を行うべきでは」という意見を頂いたことがあります。それもとても大切なことだとは思うのですが、「アートの役割は、それだけではないのでは」と私は感じます。
たとえば暗い気分のときにアートに触れて一瞬でもつらい事を忘れられて前に進めた、制作に没頭することで気持ちが楽になったということだってアートの大切な要素だと思いますし、むしろ自分の役割はそちらのほうにあるのではないかと感じています。美術教育に関わり、それを実感しました。理不尽なことへの怒りや悲しみを拡げることは、私の望むことではないんです。
アートは一見「生活に絶対必要」なものではないんですけど、コンクリートジャングルにおける街路樹みたいなものだと思っています。かんかん照りの時に日避けになったり、一時的に雨をしのげたり、季節を感じることができたり……。鑑賞するうえでも「分かる人だけが分かる高尚なもの」にはしたくないという思いがあります。
—— たとえばこの「小さな魚をくわえた猫が大きな魚に飲み込まれている」という作品を、盛者必衰のメタファーなどとして受け取るのは、作者の意図とは異なるということですね。
ねがみ:そうですね。よく考えると私は他人に偉そうなことが言えるほどできた人間ではないので、教訓めいた作品を避けてきたのかもしれません。中にはそうした作品や、美しいものだけをつくりたい、眺めていたいという人もいるとは思いますが、観た人を楽しませたいというサービス精神が私の中では一番強いです。とはいえ、誰にも観たいように観て楽しんでもらえればと思っていますが。
想像の余地があるのがアートの懐の深さですし、鑑賞するということは自分の心を鏡に映すようなことですよね。アイデアは息をするようにいつも自分の中から生まれてくるので、これからも一生、彫刻を作り続けていくと思います。
【ねがみくみこ】
2006 東京藝術大学美術学部彫刻科 卒業
2007 第1回藝大アートプラザ大賞展(藝大アートプラザ)
2008 同大学大学院美術研究科修士課程彫刻専攻 修了
2009 「スターだらけの」(Gallery MoMo)
2010 「ザギンでシースーを」 (CASHI)
2011 「ロマンティックがとまらない」 (UnsealContemporary)
2020 「ものすごくくだらなくて、ありえないほど品がない」 (Gallery 花影抄)
2021 ナイロン100℃ 47th SESSION「イモンドの勝負」作品提供
2022 MUSEUM OF INTERNATIONAL FOLK ART( U.S.A.)収蔵
日南町美術館収蔵
2023 「ホルモンと情熱のあいだ」(日南町美術館)
ウェブサイト:http://k-negami.com/