明治時代の洋画家の黒田清輝(くろだ・せいき、1866~1924年)は落ち着いた印象の『湖畔』が切手に採用されるなどして広く知られていますが、実はヌードの絵もけっこうたくさん描いています。黒田は東京美術学校(現・東京藝術大学)に西洋画科が設置されたときの教授で、ヌードを描くことにはとても強い思い入れがあったそうです。そして、東京・上野の黒田記念館や神奈川・箱根のポーラ美術館で黒田が描いたヌードを目の当たりにしたつあおとまいこの二人は、何やらビビビと感じるものがあったようなのです。
えっ? つあおとまいこって誰だって? 美術記者歴◯△年のつあおこと小川敦生がぶっ飛び系アートラバーで美術家の応援に熱心なまいここと菊池麻衣子と美術作品を見ながら話しているうちに悦楽のゆるふわトークに目覚め、「浮世離れマスターズ」を結成。さて今日はどんなトークが展開するのでしょうか。
黒田清輝について=黒田清輝(1866~1924)は、近代日本の美術に大きな足跡を残した画家であり、教育者であり、美術行政家であったといえます。ことに明治中期の洋画界を革新していった功績は大きく、その影響は、ひろく文芸界全般におよびました。(出典=独立行政法人国立文化財機構 東京文化財研究所ウェブサイト)
『考える人』の女性版とは?!
つあお:黒田清輝が描いたヌードといえば、まずこの作品が思い浮かびます。3人の女性がホントに美しいんですよね!
まいこ:さながら「日本の三美神」と言った感じでしょうか?!
つあお:江戸時代の浮世絵師、喜多川歌麿は「寛政三美人」を1枚の浮世絵に描いてる! 「御三家」などという言葉もよく使われますし、3という数字には、吸引力があるのかも。でも、黒田が描いたのは、浮世絵よりも古代西洋の「三美神」のほうに近そうです。
まいこ:ローマ神話の美人の代表「ヴィーナス」は頻繁にヌードで登場しますが、日本の絵には美人たちがヌードで出てきてるようなイメージはあんまりないかもしれません。
ヴィーナスの例:
『ミロのヴィーナス』=1820年にギリシャのメロス島で発見された古代ギリシャの彫像。1964年に日本で公開されたことがある。ルーヴル美術館蔵。
ボッティチェリ『ヴィーナスの誕生』=海から生まれるヴィーナスを描いたもの。恥じらう姿は、古代ギリシャ以来の典型的なポーズ。フィレンツェ、ウフィツィ美術館蔵。
つあお:黒田はきっと、西洋のヴィーナスみたいな「女性の理想の姿」を表現したかったんじゃないかな。顔は日本人なんだけど、体型は西洋人的だと指摘されることがあります。
まいこ:だから、美しいけど「不思議」を感じるのですね。タイトルも何だか難しい。『智・感・情』って何を意味しているのでしょう?
つあお:うーん。哲学的な感じがしますね。まいこさんは哲学は得意ですか?
まいこ:ふふふ。たまに謎のフィロソファーと化しています(笑)。
つあお:この『智』の人は、なんとなく頭が痛そうな感じにも見えます。フィロソファーから見て、どうですか?
まいこ:うつむき加減で頭に手をやっている。ロダンの『考える人』の女性版って感じでしょうか ?
つあお:お腹に手を当ててるのはなぜだろう?
まいこ:丹田でしょうか! あっ、よく見ると丹田より少し上のおへその辺りですね。
つあお:お腹にも実は神経細胞がけっこうたくさん集まっていて、「第二の脳」と呼ばれることもあるそうですよ。ヨガなどで丹田が重要視されるのも、むべなるかなという感じです。
まいこ:へぇ!
つあお:実際にこの女性と同じポーズをしてみると、たわくし(=「私」を意味するつあお語)は、目の前の問題を考えてみようという気になるんですよ!
まいこ:そういえば、つあおさんは以前仏像の前に立ったときにも、ポーズを真似していましたね。
つあお:そう、仏像のポーズにはたいてい何かしらの意味や効能があるんです。真似てみると、心が落ち着いたり、体の中に力がみなぎったりする。『智』の女性の左手は、仏像の手印のようにも見えます。
まいこ:確かに!
つあお:これと比べると、真ん中に立っている『感』の人は、ずいぶんオープンな印象だなぁ。
まいこ:かなり開いてますね。真正面を向いて、両手を上に上げてますから。
つあお:ひょっとすると、むしろ考えることを放棄しているのかもしれませんよ!
まいこ:お手上げってやつかしら?
つあお:ウケる〜(笑)。
まいこ:それはともかく、ほかの2体と比べて、こころなしかさっぱりした表情をしているような…。
つあお:このポーズも、真似してみると、悩みがどこかに飛んでいくような気持ちになれる! などと、たわくしは思ってしまうわけです。
まいこ:私もやってみます!
つあお:実はね、黒田はこの3体を最初「理想」「印象」「写実」という欧州の絵画ムーヴメントの潮流になぞらえて描いて、後に「智・感・情」に言い換えたという話もあるんですよ。
まいこ:へぇ〜。だとすると、『感』はもともとは「印象主義」を表していたということですか?
つあお:モネやルノワールによる印象主義(印象派)は、それまでのヨーロッパの絵画にしばしばあったようにモチーフに何かを象徴させることよりも、目に見える風景をそのまま画面に描き出した。モチーフが精神的な何かを象徴する必要はなかったわけです。
まいこ:モチーフの意味を考えるときは頭を使いますもんね。
つあお:そう。
まいこ:悩まずに現実を受け入れてみよう! っていう感じでしょうか。なんか、吹っ切れて気持が軽くなりそう!
つあお:この絵が3つの真ん中にあるのも、何だかいいですよね。
まいこ:『情』の女性は、髪の毛を降ろしていてちょっと色っぽいですね。
つあお:そうそう。でもね、見ているとなんだか同情したくなりそうなんです。
まいこ:こっちは悩める乙女という雰囲気。同じヌードでも、この3体のようにポーズが違うだけでアピールする内容がずいぶん変わって見えますね。
つあお:もうこれは、見ているほうとしては、やっぱりいろいろ考えさせられたり感じたりしてしまいます。特にタイトルが『情』ですし。
まいこ:へー! 私は同性だからなのか、そこまで女性のヌードに心身が反応するわけではないのですが、つあおさんの観点をもっと詳しく聞かせてください。
つあお:黒田はエロスを表現するためにヌードを描いているわけではないと思うんです。
まいこ:というと?
つあお:黒田はフランスに留学してますから、あるいは西洋の哲学の底流にある「真善美」なんかも意識していたのかもしれません。ヌードは古代ギリシャの理想美の具現化でもありましたし。黒田よりほんの少し前の時代のフランスでヌードを描いたマネの『草上の昼食』などの作品のほうが、よほどエロティックでスキャンダラスだったんじゃないですかね。
まいこ:なるほど~! 確かに、『草上の昼食』では、ヌードの女性が着衣の男性たちと昼食を共にしているのですから、相当エロティック。対して『智・感・情』は、単体の女性がそれぞれの額に入っていますし、エロティックな美しさというよりも、純粋さを追求したうえでの美しさがあるのかもしれませんね。
つあお:金地の背景が日本的だという話も聞きますが、この背景はモチーフの力を思いっきり際立たせていると思うんです。黒田はきっと、「智」「感」「情」という人間の心を形作る3つの重要な要素の存在を、ヌードを通じて伝えたかったのでしょう。
人間讃歌のヌード
つあお: フランスから帰った黒田清輝はヌードを描くことにこだわっていたんですけど、同じヌードでも、『野辺』という作品は『智・感・情』とはまったく趣が違う。この『野辺』も、なかなかいいなぁと思うんですよ。
まいこ: つあおさんが心惹かれるのがどこなのかが知りたい!
つあお: 描かれた彼女が花を見つめている切ない表情…かな?
まいこ:左手に小さな花を持ってて、それを見つめてる!
つあお:この花がよく見ないと見えないところがまた、「黒田、やるなぁ!」っていう感じです。
まいこ:私もよく目を凝らさないと花に気づきませんでした。
つあお:あと、全体としては結構淡い色調なんですけど、右手でお腹の辺りに持っている朱色の布が、いいアクセントになってます。
まいこ:草の緑色と布の朱色がいい感じで対照的ですね! 白い肌も輝いて見えます。
つあお:実はね、この絵の発想源となったと言われている絵を、黒田の師匠のラファエル・コランが『眠り』というタイトルで描いていて構図がそっくりなんですが、コランの絵のほうには小さな花も朱色の布もないんです。
まいこ: へー! ということは…。
つあお:そう、黒田はただコランの絵を真似したんじゃなくて、自分独自の表現を織り込んでいた。いわゆる習作なんだろうけど、けっこう思い入れが込められていますよね! ああ、だから魅力的なんだ。今まいこさんとトークをしていて、ようやくわかりましたよ!
まいこ: 私は、この絵はちょっぴり、英国のジョン・エヴァレット・ミレイが描いた『オフィーリア』みたいだなとも思いました。
つあお:おお、シェイクスピアの「ハムレット」に出てくるハムレットの恋人のオフィーリアですね。ますます切なくなってきました。
まいこ:オフィーリアは川に流れて死んでいきますが、黒田が描いた彼女はなぜ裸で草の上に寝転んでるんでしょうね。
つあお:何という素朴な問い(笑)。黒田はきっと、ここに『智・感・情』とは違った一つの理想のヌードを描きたかったんだろうなぁと勝手に推測しています。
まいこ:というと?
つあお:もう神話の世界からは離れているけど、エロティックなのとも違う。生身の人間の美しさを描き出した、人間讃歌のようなイメージかな。
まいこ:もしかして明治時代の人たちは、写実的なヌードを全然見慣れてなかったのかな?
つあお:『野辺』みたいな感じのヌードの絵を壁にかけて鑑賞するようなことは、おそらくほぼなかったんじゃないですかね。
まいこ:春画は江戸時代からありましたよね?
つあお:性愛の様子を描いた春画は普段は引き出しなんかの中にしまってあって、時々取り出して眺めるような楽しみ方をしていたみたいです。もっとも、夫婦一緒に笑いながら見たりもする。だから「笑い絵」などとも呼ばれていたようです。
まいこ:『野辺』はきっとそんな絵ではないですよね。
つあお:黒田がフランス留学で咀嚼したエッセンスが表現されているから、やはり額縁に入れて鑑賞するような前提で描いたのでしょう。でもね、一方で明治初期には庭先で女性たちが水浴びしてるとかはあったようで、来日した外国人がびっくりしてたみたいです。
まいこ:面白い! 本物のヌードは日常的に見てたのに、絵になった途端にみんな、ドン引きするとか。
つあお:そうそう、この絵を描いた少し前に黒田が描いたヌードに対して、警察がけしからんとか言ってきたりして、描かれた下半身部分に布をかけられた事件がありましたね。
まいこ:噂の「腰巻き事件」! 今からするとなんて大袈裟なって思っちゃいますけど。
つあお:今でもヌード写真なんかではときどき取締りがあって、そのたびに論争が起きたりしますが、少なくとも絵画に関してはヌードは普通に芸術表現として受け入れられるようになりましたからね。
まいこ:そうですよね。
つあお:ひょっとしたら、『野辺』に描いている朱色の布は警察に対する密かな反抗だったりして。
まいこ:つあおさん、深読みしますね~(笑)。でも、布をちらつかせつつ、下半身は額の外だけど、全裸だという想像ができますものね。
つあお:「黒田やるなぁ」って感じです。それでね、黒田は警察からの取締りにもめげず、教授を務めていた東京美術学校(現・東京藝術大学)でヌードを描くプログラムを教育システムの中に組み込んだんです。もう執念ですね、これは。現代の日本の美大教育にも受け継がれているんですから。
まいこセレクト
屋外でヌードになっている女性たちを描いた名画はいろいろですが、多くの場合は、理由があります。 たとえば、「水浴」。 セザンヌやルノワールらが描く 女性たちが、裸体を輝かせて水浴する姿は平和そのもので美しい。 ところが、この黒田清輝の3人の女性たちは、理由もなく野原でヌードになってくつろいでいます。不思議だなあ〜。 「女性のヌードを描くからには、女神だからとか、水浴するからとか、理由がなければいけない」みたいな伝統的西洋絵画のしばりから解放されている感じがしていいですね。 それにしても、女性たちが何の気兼ねもなくヌードでピクニックできる時代が来たらそれは究極に平和! SDGsなどと気張らなくても、自然と仲よくできそうですね。
つあおセレクト
フランス留学中に描いて現地で賞を得た油彩画。モデルは西洋人です。鏡に映るヌードを描く発想はなかなかユニークですよね。女性のヌードを前からも後ろからも見せているというのは、けっこう彫刻的だなとも思うわけです。体のくねり方も、なんとなく『ミロのヴィーナス』っぽい。『智・感・情』とも『野辺』とも違う。ヌードは黒田にとって実験室のようなものだったのかもしれません。
つあおのラクガキ
浮世離れマスターズは、Gyoemon(つあおの雅号)が作品からインスピレーションを得たラクガキを載せることで、さらなる浮世離れを図っております。
ボッティチェリが描いた『ヴィーナスの誕生』では、ヴィーナスは帆立貝から生まれています。なんでも、帆立貝にはそういう場所を暗に示しているという話を聞いたことがあります。Gyoemonとしては、桃から生まれても美しいのではないかと思うわけです。
展示基本情報
◎黒田記念館:東京国立博物館が所蔵する黒田清輝の作品が展示されている。展示中の作品リストはこちら。『智・感・情』など一部の作品は、年3回公開の特別室(開室日はウェブサイトに記載)に展示されている。
◎ポーラ美術館:「ラファエル・コランと黒田清輝―120年目の邂逅」展を開催中(会期=2021年4月17日~2022年3月30日)。黒田清輝の『野辺』とラファエル・コランの『眠り』が並べて展示されている。
参考文献等
日経グッデイ:腸が「第2の脳」と呼ばれる理由〜第16回「腸も喜怒哀楽を感じている!?」
文化遺産オンライン:智・感・情のうち智
美術手帖:「裸体画論争」
宮下規久朗『刺青とヌードの美術史 江戸から近代へ』(NHKブックス)
※本記事は「和樂web」の転載です。