「素朴」に帰れ よみがえる民藝運動——対話企画 長者町岬『日本美術 近代化の蹉跌』

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長者町 岬
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コラム

 「ART PLAZA TIMES」では、小説家・長者町岬氏による対話企画「近代美術を『もう一度やり直せたら』 日本美術 近代化の蹉跌」をスタートします。長者町氏は東京藝術大学を卒業後、東京国立近代美術館の研究員として数々の展覧会を企画した後、東京都庭園美術館の館長などを歴任し、その後小説家に転身した異色の経歴の持ち主。
 タイトルにある「蹉跌(さてつ)」とは、「物事がうまく進まず、しくじること」や「挫折」を意味する言葉で、日本美術には近代化によってもたらされた大きな「蹉跌」があったと、氏は考えています。
 第2回では、工芸史家・杉山享司氏、美術史家・松原龍一氏との鼎談の様子を、ご紹介します。

長者町岬(ちょうじゃまち みさき)
 1950年、東京幡ヶ谷生まれ。本名、樋田豊次郎。東京藝術大学で美術史を学び、展覧会企画および芸術研究の道に進む。東京国立近代美術館の研究員として数々の展覧会を企画し、意欲的な工芸論を展開。その後、秋田公立美術大学の学長・理事長、東京都庭園美術館の館長を歴任した後、小説家に転身。小説『アフリカの女』(現代企画室)、『台湾航路』(田畑書店)を上梓している。

杉山享司(すぎやま たかし)
 1957年、静岡県静岡市生まれ。工芸史家。日本民藝館の学芸員から学芸部長を経て、現在は日本民藝館の常務理事。民藝運動を中心とした近代工芸史、工芸論を専門とし、日本民藝館で開催される数々の展覧会を企画してきた。民藝に関する著述も多く、特に京都との関わりでは、「柳宗悦と京都民藝のルーツを訪ねる」を2018年に京都で出版。

松原龍一(まつばら・りゅういち)
 1958年生まれ。美術史家。京都国立近代美術館の研究員から学芸課長、副館長を経て、現在は新居浜市美術館の館長。京都の工芸に関するさまざまな展覧会を企画。なかでも今回の民藝に関わる展覧会としては、2008年に「生活と芸術 アーツ・アンド・クラフツ――ウィリアム・モリスから民藝まで」展覧会を企画し、「三国荘」を再現展示した。

本文の前に

 「民藝一〇〇年――京都が紡いだ日常の美」展の記念シンポジウムで、民藝の誕生とその復活に焦点を当てた対話が、京都市京セラ美術館で開催された。話は以下の順を追って進んでいった。

一 柳宗悦没後の民藝
二 民藝思想の原点
三 日本の朝鮮統治にたいする反撥
四 名もなき無垢な職人はほんとうにいたのか?
五 蒐集する民藝から創る民藝へ
六 よみがえる民藝

 私はこれらを抄訳してART PLAZA TIMESに載せてもらうつもりだった。しかし対話がいったん終わった後、会場の聴衆から二つの質問が出た。それらは私たちの対話を要約し、さらにそこに新しい疑問を投げかける内容だった。いわば私たちの対話を深め、私たちの思考をもっと先に進めることを促すものだった。
 そこで異例な判断ではあるが、私は会場から出た質問と、それにたいする私たちの応答をそのまま再現することによって、対話の抄訳に代えようと考えた。そのほうがこれを読んでくださる方々に、対話をおこなった趣旨と、さらに会場の熱気がうまく伝わるのではないかと期待したからである。

会場からの質問(その一) 

 これは私自身の民藝にかんする感想なんですけども、民藝にかんしてのメルクマールといいますか、それが民藝であるかどうかの判断基準はいくつかあると思います。たとえば、民衆の生活から出てきたものであるとか、製作者が不詳なものであるといったことです。ですけどもそうした判断基準を並べてみても、民藝とはどういうものかという、いわば民藝の概念ですね、それを組み立てようとすると、いつもやっぱり分からなくなる。
 民藝がそのなかに含まれる、造形芸術という大きな範疇がある。その造形芸術のなかで、生活の道具が民藝ということになるのだろうが、しかし生活の道具だからといって、そのすべてが民藝であるというものでもないだろう。
 民藝と類似した言葉に、工芸という言葉もある。どちらも造形芸術という範疇に含まれるという意味では共通しているが、しかし両者の違いをどういう風に考えたらいいんだろうか。
 先ほど民藝には理想主義という要素があるとおっしゃいました。でも、その有無だけが民藝と工芸を区別する指標になるというわけでもないでしょう。民藝には理想主義のほかにも、実用性を備えていることというプラクティスといいますか、戒律があります。
 それからさらに民藝の概念を難しくしているのは、「生活の道具には日常の美がある」という民藝の主張です。その「美」とはいったいなんやと思わざるをえません。物から抽出された美というものを、そのまま民藝にもち込んでもええもんやろうか。こういう疑問が、私の民藝の概念を組み立てる作業に迷いを生じさせます。これらにかんしては、いかがなもんでしょうか。

長者町 いい質問をしてくださり、ありがとうございます。私たちの対話の底辺にくすぶっていた問題を、白日のもとに晒してくださったような感じがします。造形芸術と工芸の違い。その工芸と民藝の違い。さらに実用という戒律をもつ民藝に、「美」を持ちだすのはどういうことなのか。要するに「用即美」という民藝の教義を鵜呑みにしてもいいのだろうかということですね。

松原 周知のように民藝とは、柳が「民衆的工芸」という言葉を発案し、それをつづめたものです。でも問題はここからで、民衆的工芸の民衆とは、いったい誰のことでしょうか。前もって長者町さんとも議論したのですが。これが曖昧なのです。戦前の日本に大勢いた小作農のことでしょうか。それとも、都市の下層にいた労働者のことでしょうか。
 あるいは貧乏だったかどうかではなく、柳自身のような高等遊民も含めた都市生活者一般のことだったのでしょうか。生活費を稼ぐ心配のない人たちを民衆というのも変ですが、でも柳は自分たちが政府の権力にくみしていないという自負をもって、高等遊民を民衆と呼んだ可能性もなきにしもあらずです。柳はこの肝心な民衆を定義していません。それで、工芸と民藝の違いが分かりにくいのです。
 またもうひとつ、柳は民藝を「貴族的工芸」の対極にあるものとして提示していますが、この貴族的工芸についても具体的に語っていません。たとえば朝鮮渡来の素朴な井戸茶碗のような大名物を念頭に置いているのでしょうか。それとも徳川三代将軍の長女の婚礼道具として製作された技巧の粋を誇る「初音の調度」を指しているのでしょうか。要するに評価のされ方が貴族的なのか、それとも材料技法が貴族的なのか、そこが分からないのです。
 もしかしたら、民衆的工芸の価値を引き立てるために、柳は貴族的工芸という概念を発明したのかもしれません。そんなわけで、民藝の概念を組み立てようとしても、そこに迷いが生じてしまうのは当然なのです。

長者町 私は質問の後半にあった、「用即美」という民藝の教義の根拠はどこにあるのだろうかというあなたの意見に同感します。遠回りのように見えても、おそらくその問いを考えることが、造形芸術という大きな範疇のなかでの民藝の独自性を突きとめることに繋がるのではないでしょうか。
 私は柳が晩年になって、「美」は民藝の必須条件じゃないという境地に到ったと考えています。なぜかというと、柳は晩年になって美と醜には区別はない、そういうものに区別を立ててはいけないんだという説明をしているからです。そう語る柳の論拠は、阿弥陀様が悟りを開こうとして願掛けしたときのことを説く大無量寿経という経典にあります。経典の四番目で、阿弥陀様は自分が悟りを開いたときには、この世は美や醜のない時代であってほしいと願掛けしているのです。
 私は仏教の門外漢なので、解釈が間違っているかもしれませんが、私なりに思うところでは、美と醜は高い次元で止揚(統合)される、平たくいえば、「美にとらわれない境地こそ大切だ」とこの経典は教えているようです。なにが美しいかという議論は、美人の判断が時代ごとに変わるように、必ず既成の文脈に支配されていますからね。美とは、文脈とかその時代の権力によって変わるものだと私は考えています。
 だから柳もそれに気づいて、民藝の本質は美にとどまるのではなく、そのさらに奥にある、さっき杉山さんが河井寛次郎の思想として紹介していた「誠実」、「健康」、「簡素」、「自由」にあるんだという考え方に動いていったんだろうと思います。それらを備えることが、民藝の独自性なんじゃないでしょうか。

杉山 たしかに最晩年になって、柳は美醜なき美という言い方をしていますよね。それは最後にたどり着いた世界です。
 ただ、これを現世に引き寄せると、それでも美としての世界があるわけで、そのなかで、柳は美とはなにかということを絶えず求めていたわけです。できるだけ身の回りを美しいもので、自分自身が心地よく過ごせる空間を求めていました。自分が嫌いなものは一切身の回りに置かないとするわけです。そういったものを身の前に置くこと、それを規範として物を作り、また物を買うことが、柳や河井さんにとってみると民藝の美を体現することだったと思いますよね。
 ですから民藝の美とは、用途から発生しているんだと思います。用途は決して物理的な用途だけじゃなくて、精神的な用途もあるわけで、心と身体の両方の用途から造形が生まれている。そういった意味で考えると、民藝の原点は暮らしの造形という風なことで表現できると私は解釈していましてね。そこに先ほどの河井さんがいった誠実、健康、簡素、自由という大きな価値が生まれると思うんです。

長者町 私もその意見には賛成する。でも最後にひとつ、あらためて訊きたいんだけど、その大きな価値を「美」って呼ぶ必要がある? 民藝にとって美は自分の生き方を見つけるための手段に過ぎないのでは。自分の生き方を深めて、自信があるものにしていくっていうことが最後の目的ならば、美は二次的な問題ではないですか? 私は身の回りに美しい生活の実用品がなくても、自分の生き方を追求できると信じています。

杉山 私なんかは民藝品を見て、これはいいな、あれもいいなって見ていると、自分の物を見る物差しができてくるわけですよ。それに照らすと、他のいろんな現代美術でもなんでも、その物差しが規範になってくる、自分のなかのね。そういう物差しをもつことがすごく大事だと思う。

長者町 でも、物差しの根拠は生き方でしょう。自分の生き方を脇に置いといて、器物の美を語ってみても、なんかしらけちゃう。自分の生き方に照らして器物を見るとき、そこに普遍的な美なんぞの出る幕はない。それこそ、まさに自己信頼に戻るべきでは……。

会場からの質問(その二)

 民藝が生まれた時代背景がすごくよく理解できて、大変勉強になりました。一九二〇年代は、やはりフランスとか中国でも実は同じような動きがあって、そこにリンクするようなことがあるなっていう風に思いました。
 ひとつ伺いたいのは、プリミティヴィズムっていうのをおっしゃっていて、すごく面白いと思ったんですけど、柳は東北地方に民藝調査に行ったとき、現地の情報をどれぐらい蒐集したのでしょうか? 
 時代的には東大の考古学との連携もあったっていうことですけど、ちょうどこの時期に民間芸術への関心が海外でも盛り上がっていきます。でも、そのときは模様だけを採用するとか、装飾だけを抽出していくっていう動きに止まっていました。柳の場合は現地の民藝を、精神性とか哲学とかっていうレベルで語っていくわけですけど、そのとき現地のモノづくりの人々の情報というのは、どれぐらい取り入れられたのかなっていうのが気になっています。
 つまり、蒐集した模様の情報だけでモノを作る人っていうのは海外にもいて、それは単にその模様を真似るっていうことなんですけど、柳が蒐集から創作に移行するとき、その精神的なものとか、哲学的なものを、どれぐらい現地から吸収していったのかっていうことを、もしご存知でしたら教えていただきたいと思います。

長者町 それはね、民藝運動の本質ですね。私は柳宗悦っていう人の一番の問題は、そこだと思うんです。
 結局ね、自分なりの理想主義で朝鮮半島を見て、その文化に同情して、それが美しいと語ったとこから柳は出発したじゃないですか。その立場っていうんですか、そういうものの見方は本質的には終生変わらなかったんだと思います。柳は日本全国を回って「手仕事の日本」という本を戦時中に書きます。出版は戦後ですが、あちこち行って民藝を蒐集してくるわけです。だけど、それじゃあ、どこまでその土地々々のヴァナキュラーな文化といいますか、方言のような土地固有の文化を汲み取ったのか、それをどうやって日本全体の芸術にまで組み込もうとしたのかといえば、そこは私には見えない。
 そういう客観的で冷徹な目は、この理想主義者にはなかったんだろうと私は感じます。だから、民藝の遺産を問うとすれば、それは私たちが自分たち自身の食卓の上で、あちこちの食器をもってきて、自分たちなりに哲学的な問いを発する以外に、その答えは見つからないんじゃないかと私は感じています。

杉山 柳がたんに理想主義者であって、客観的な目をもっていなかったという長者町さんのご意見は非常に厳しいですね(笑)。まず前提的に、柳は作者ではなかったわけですよね。柳は思想家であり、実践家であり、いわばプロデューサーです。
 柳は思想を提示し、そしてそれに共鳴する人たちを組織したわけですよね。柳が全国に調査をするときにも、必ず現地の協力者がいました。各地の素封家であり、また教育者であり、その地域の、たとえば東北地方であれば山形県の行政機関ですよね、そういうところが自力更生の戦時下にあって、地元の地場産業をいかに活性化させるか、新しい産業として残していくためにはどうすればいいか、柳は時流に抗いつつも、さまざまな要求に応じて活動しています。
柳は民藝運動の柱を三つ設けています。ひとつ目は、美術館。二つ目は、雑誌『工芸』あるいは『民藝』というメディア。三つ目は、民藝店。いまでいうセレクトショップです。それからもうひとつあげるとすれば、新作民藝運動。京都の上賀茂民藝協団や、その後は、鳥取の吉田障也さんがつくった鳥取民藝協団です。

長者町 いま問うべきは、柳の活動形態ではなく、柳やその仲間が全国各地の民藝からなにを抽出してきたかということではないかな。私としては、柳が自分の確立した思想を、大政翼賛会の風潮に乗って、全国に布教していったとは考えたくない。むしろ反対に、柳は土地の風土に根ざした全国のモノづくりに啓発されながら、いわゆる日本美術史には組み込めない「異端の思想」を形成していったんだと思う。こういってしまうと、無名会でお世話になった水尾比呂志さんには申し訳ないけどね……。でも、民藝をほんとうによみがえらせるには、民藝運動の組織的な遺産を守るんじゃなくて、それを超えて、民藝運動に哲学的な遺産を探すことが必要なんじゃないかな。

杉山 まったく、その通りだと私も思います。それを探していきましょう。
(二〇二五年一一月一六日 シンポジウム「民藝誕生の意味を語る」 京都市京セラ美術館)

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