「素朴」に帰れ よみがえる民藝運動——対話企画 長者町岬『日本美術 近代化の蹉跌』【全文】

ライター
長者町 岬
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コラム

 「ART PLAZA TIMES」では、小説家・長者町岬氏による対話企画「近代美術を『もう一度やり直せたら』 日本美術 近代化の蹉跌」をスタートします。長者町氏は東京藝術大学を卒業後、東京国立近代美術館の研究員として数々の展覧会を企画した後、東京都庭園美術館の館長などを歴任し、その後小説家に転身した異色の経歴の持ち主。
 タイトルにある「蹉跌(さてつ)」とは、「物事がうまく進まず、しくじること」や「挫折」を意味する言葉で、日本美術には近代化によってもたらされた大きな「蹉跌」があったと、氏は考えています。
 第2回における、工芸史家・杉山享司氏、美術史家・松原龍一氏との鼎談の様子について、全文を公開します。

長者町岬(ちょうじゃまち みさき)
 1950年、東京幡ヶ谷生まれ。本名、樋田豊次郎。東京藝術大学で美術史を学び、展覧会企画および芸術研究の道に進む。東京国立近代美術館の研究員として数々の展覧会を企画し、意欲的な工芸論を展開。その後、秋田公立美術大学の学長・理事長、東京都庭園美術館の館長を歴任した後、小説家に転身。小説『アフリカの女』(現代企画室)、『台湾航路』(田畑書店)を上梓している。

杉山享司(すぎやま たかし)
 1957年、静岡県静岡市生まれ。工芸史家。日本民藝館の学芸員から学芸部長を経て、現在は日本民藝館の常務理事。民藝運動を中心とした近代工芸史、工芸論を専門とし、日本民藝館で開催される数々の展覧会を企画してきた。民藝に関する著述も多く、特に京都との関わりでは、「柳宗悦と京都民藝のルーツを訪ねる」を2018年に京都で出版。

松原龍一(まつばら・りゅういち)
 1958年生まれ。美術史家。京都国立近代美術館の研究員から学芸課長、副館長を経て、現在は新居浜市美術館の館長。京都の工芸に関するさまざまな展覧会を企画。なかでも今回の民藝に関わる展覧会としては、2008年に「生活と芸術 アーツ・アンド・クラフツ――ウィリアム・モリスから民藝まで」展覧会を企画し、「三国荘」を再現展示した。

柳宗悦没後の民藝

長者町 この会場にいらっしゃる方は、いま開催されている展覧会「民藝誕生一〇〇年 京都が紡いだ日常の美」をご覧になっているでしょうし、柳宗悦の書いたものをお読みなったこともあると思います。柳は矛盾の多い人でした。でも、それを指摘してもしょうがないと私は思っています。あの宗教がかった思想や文章が、民藝運動の魅力にもなっているのですから。そこで私は、柳がその後の日本に残した哲学的遺産がなんであったのかを探ってみようと思います。
 私は一九七〇年代の中頃(昭和五〇年頃)、日本民藝館で開催されていた「無名会」という民藝の研究会に五、六回参加したことがあります。「無名の職人」から取った名前だったようでした。私が参加したのは興味本位で、まさか半世紀後に民藝について語ることになるとは思っていませんでした。往時茫々。松原さんから無名会に参加したときの経緯を訊かれましたが、どうしても思い出せません。
 私の記憶では、柳没後の民藝運動は停滞していました。このまま世間の記憶から消えていくのではないかと思えるほどでした。無名会というのは、そうさせてはならじと、運動にテコ入れをしようとして、後に民藝協会々長に就く水尾比呂志という美術史家がはじめた会でした。柳宗悦は一九六一年に亡くなっていましたから、私は会っていません。
 その会では、柳の活動について意見が交わされるときは、不思議なことに必ずしも柳を讃えていませんでした。柳にも批判の目が向けられているようだった。いわば毀誉褒貶がつきまとう人として、柳は語られていたという印象があるんです。それもあってか、水尾さんのアシスタントをしていた女性が、「民藝運動はこれだけ長くつづいているんだから、そこには何か大切なものがあるはずなのよ!」といって、ヒートアップした場の空気を沈めていたことを覚えています。
 柳没後は、なんとなく祭りが終わった後みたいな寂寥感があったんですね。それで、柳を教祖のように祭り上げないで客観的に見ていこうという空気が出たのが、この一九七〇年くらいからかなという印象を私はもっています。

杉山 私が日本民藝館に勤めはじめたのは一九八二年(昭和五七)です。ですからそれ以前のことは詳しくはわからないので、民藝館に入職した頃の経験をベースにしてお話ししたいと思っています。
 いま長者町さんが無名会の話をされましたけども、私が館に入ったときにはもう無名会は活動を休止しておりました。なお、その会を主宰した水尾比呂志先生は、元々は民藝館の職員であり、いわば職場の大先輩であります。しかし、その頃はすでに武蔵野美術大学に移っておられました。
 長者町さんが無名会に参加したころの民藝館は、まさに冬の時代であったと思います。いまの入館者数は、週末だと五〇〇人くらいの日もあるんですが、私が入ったころは一日二、三〇人の日もあり、五〇人を超えると「今日はどうしたんだろうね」なんて話し合っていたんです。長者町さんが「民藝が忘れ去られた時代だった」といってましたけど、国鉄のディスカバー・ジャパンの流行に乗るまで、民藝は冬の時代でした。水尾先生は「これではいけない!」と思われたんでしょうね。

長者町 まさにそういうことだったんでしょうね。あのころ街では民藝茶屋なんていうのが出てきて、「民藝」という言葉が商業的に消費されだしていましたから。

杉山 幸い柳さんは一九六一年に亡くなっています。

長者町 幸いじゃなくて、不幸にしてじゃないですか?

杉山 幸いですよ。だって、民藝が商業的に消費されて凋落していく様子を見ないですんだんですから。浜田庄司先生とか芹沢銈介先生などの民藝運動の重要なメンバーの方々は、「民藝」って言葉はもう使いたくないっておっしゃっていたそうです。

長者町 そこまでいいましたか。

杉山 そんな風潮のときに、水尾先生は柳宗悦を学問的な対象として取り上げたんです。勇気があったと思いますね、同時に柳の弟子としての強い使命感があったんだと思います。水尾さんは「国華」という岡倉天心が創刊した権威ある美術雑誌の編集委員も務めていて、それまで美術史において評価の対象と見なされていなかった民藝を、三回にわたり特集を組まれたんです。要するに、アカデミズムのなかにどう民藝を位置づけるかを試みたのが、水尾さんだったと思うんですね。

長者町 松原さんは、無名会の幹事役だった𠮷田孝次郎さんへのインタビュー記事を、今回の展覧会図録に載せていますね。

松原 京都市京セラ美術館の学芸員の人たちと、私は𠮷田孝次郎さんにインタビューをしたのですが、𠮷田さんは「水尾先生のことは、非常に高い位置にいて、自分がそんなに気安く話すような人ではなかった」と話していました。実際には、𠮷田さんは無名会の事務局を引き受けていて、会の運営や若い人たちとかを取り仕切っていました。吉田さんは武蔵野美術大学で、日本の抽象絵画の草分けである山口長男という画家に師事し、その助手もしていました。そうした経歴もあってか、美術の「運動」にも関心があり、後で出てくると思いますが、柳が提唱した「上加茂民藝協団」というギルド的な芸術団体の活動を調査していました。

民藝思想の原点

長者町 無名会のあと、私は東京国立近代美術館の工芸館に就職しました。そして、近代主義(いわゆるモダニズム)や伝統主義の道に進んだ芸術家たちの日本美術を調べてきました。その目であらためて民藝運動を思い返すと、民藝運動は前者の方、つまり近代主義に連なる運動だったと思います。
 こういうと皆さんは、「そんなはずはない。民藝運動は日本の古い生活道具を掘り起こしてきたんだから伝統主義ではないか」と反論されるのではないでしょうか。確かにそうなんです。ですが私は、柳が学生時代に白樺派の運動に参加していたこと、そしてその時期に、ラルフ・ウォルドー・エマソン(一八〇三~八二)という、アメリカの宗教哲学者に心酔していた点に注目しました。エマソンはハーバード大学を出て、最初は牧師の道を歩みだしますが、教会の方針に反対して職を辞し、その後は個人主義の思想を深めていった人です。

杉山 私も長者町さんの民藝運動は近代主義に連なる運動だという意見には賛成ですね。白樺時代は柳にとって大事な時期であり、まさにその時代に思想形成や人格形成がされたと思っております。また、学習院時代の柳で忘れてならないのは、やはりキリスト教世界との出会いでしょうね。当時の学習院では英語教育が盛んで、それは要するに近代化や国際化に向かうにあたって、自主自立の精神を育てるための人間形成を目指したんですね。中学の頃には神田乃武とか服部他之助というキリスト者の教師たちによって、キリスト教主義に基づく社会へと導かれていくわけですよね。
 そのような背景のなかで、先ほどのエマソンとかウィリアム・ブレイクなどを学びながら、キリスト教世界が生んだ芸術文化に触れていくんですね。ですから、柳はこの出会いによって、自己の確立めざし、真の近代人としての自覚を形成していったんだと思います。

長者町 エマソンは教会の制度を批判して牧師そのものの仕事はしなくなりますが、でも自分なりのキリスト教を布教し、また哲学的な文章を書いて名を残した人です。いまではその名は忘れられていますが、十九世紀には哲学者として著名だった人です。柳は彼の著作を英語で読んでいます。そして、雑誌「白樺」に発表した「革命の画家たち」という論説の冒頭で引用しています。

杉山 「白樺」は文芸雑誌であったんですけど、同時に西洋の近代美術を紹介するなど、総合芸術雑誌の色合いが強かったといえるでしょうね。柳さんが東京帝大を卒業する年の一九一三年、それは「白樺」が創刊されて三年目ですが、当時の柳さんの自宅だった東京市麻布区市兵衛町の書斎の写真が残っています。
 デスクの上には彫刻が置いてありますが、これは一九一一年にロダンから白樺のメンバーたちに贈られた、彫刻作品三点の内のひとつであるマダムロダン胸像です。これはもちろんオリジナル作品で、このロダンからの贈り物を預かっていた柳は、自宅に置いて鑑賞していました。また、額に入っている絵はゴッホの「糸すぎ」で、これは複製画です。当時の柳の美への関心がどういったものであったのかが、よくわかると思います。

長者町 杉山さんが、柳のフランス近代美術への傾倒を指摘するように、面白いのはね、その原点において柳は自己確立を唱えているんです。
 それでさっきの「革命の画家」ですが、柳が引用したのはエマソンの「自己信頼」という文章でした。民藝運動というと、反射的に他力本願という言葉が頭に浮かびますが、なんと柳の出発点は自力本願だったんです。柳がエピグラフ(冒頭の引用句)として掲げている翻訳は文語調でわかりにくいので、ここでは最近の翻訳で紹介します。

自分の考えを信じること、自分にとっての真実は、すべての人にとっての真実だと信じること――それが天才である。
心の中で確信していることがあるなら、声に出して語るがよい。そうすれば、それは普的な意味をもつようになるだろう。

一個の人間でありたいなら、社会に迎合してはならない。不滅の栄誉を得たいなら、善という名目に惑わされることなく、それが本当に善かどうかを探求する必要がある。
結局のところ、自分の精神の高潔さ以外に、神聖なものはない。自分自身を牢獄から解き放てば、いずれ世界の賛同を得られるだろう。(伊東奈美子訳、海と月社)

 これを読むと、柳の昂揚した表情が思い浮かぶようです。また、その後の彼の人生を彷彿とさせます。柳はこの思想を拠りどころにして、フランス印象派の画家たちが社会に迎合することなく未知の絵を描いたことを擁護したわけですが、それと同時に柳はエマソンの思想から、毀誉褒貶のつきまとう自分の人生を耐え抜く覚悟を得たものと考えられます。
 「革命の画家」は、印象派の画家をロンドンに紹介したルイス・ハインドの「The Post Impressionists」を土台にして書かれています。柳は同時代の無理解や中傷にたいして屈することのなかった印象派を讃えたわけです。私はエマソンの思想が、柳に当時の日本人が見下していた朝鮮民族を擁護する立場を取らせたり、忘れられていた李朝陶器を讃美する目を育ませたのだと思います。

松原 長者町さんのいうとおり柳はこうして自分を信じてるわけですから、白樺にものすごくのめり込んで、その後には朝鮮陶磁の方にのめり込んで、つぎには木喰上人の仏像にのめり込んで、それで最後は民藝にのめり込んで。もう自分を信じてなければ、本当にやっていけなかったのでしょうね。生涯亡くなるまで理想にエネルギーを費やしたんだなと思っています。残念ながら展覧会ではなかなかそこまでたくさん出品できないっていうのもありましたが……。

日本の朝鮮統治にたいする反撥

長者町 柳は李朝陶器の讃美にあたって、同時代の日本の思想も拠りどころにしていました。たとえば、日本政府の植民地政策にたいする抵抗として、一九一九年に朝鮮で三・一運動が勃発したことへの反応がそれを推測させます。
日本人でいち早くこの運動に理解を示したのは、吉野作造と柳宗悦でした。吉野は民本主義とキリスト教の人道主義からこれを擁護しました。柳の立場も、吉野の提唱した大正デモクラシーと通底していました。柳は「朝鮮人を想う」という文章を読売新聞に連載(同年五月二〇~二四日)して、こんな風に書いています。

朝鮮の人々よ、私は御身等について何の知識もなく経験もない一人である。(中略)併し私は御身等の故国の芸術を愛し、人情を愛し、その歴史が嘗めた寂しい経験に尽きない同情を持つ一人である。

 ただし、ここに出てくる「同情」という言葉づかいには、私は違和感をおぼえます。これは朝鮮の現状にたいする柳の率直なシンパシーの表現だったのでしょうが、しかし同時に、実情以上に李朝陶器の評価を低く見積もる視点を拡散させる言葉でもあったわけです。こういう民藝品を格下に見る態度が、いちどは民藝運動に賛同した人たち――富本憲吉、河井寬次郎、青山二郎、白洲正子、鎌倉芳太郎といった人たちを離反させていく遠因になったのではないでしょうか。
杉山 長者町さんの「実情以上に李朝陶器の評価を低く見積もる視点を拡散させた」というご指摘には、ちょっと異論がありますね。確かに柳は理想主義の塊みたいな人でしたので、「同情」という率直なるシンパシーを吐露したことには間違いないと思います。ただ、だからといってそれが「民藝品を格下に見る態度」であったと決めつけることは違うように思いますね。それは、当時の柳が記した他の言説や行動などが示していると思います。また、富本憲吉や河井寬次郎、白洲正子らも柳の李朝陶器への賛美には共感しておりますし、誤解されている方もおおいのですが、彼らとは家族を含めた交流を生涯保ち続けていました。
 私は柳にとっての東洋美の開眼や東洋への回帰は、朝鮮にたいする思想的な「同情」から始まったわけではなく、ストレートに美への感動、そして「同情」というより「共感」から発していると考えるべきだと考えます。そして、そのきっかけになったのが浅川伯教が持参した李朝陶器であり、そこに柳は命の輝きや自然の姿を見たわけです。

アカデミックであることの危険性

長者町 杉山さんの意見には賛成すると同時に、反論もあるなあ。
 まず反論からいえば、モノに価値を認めるということは、命がけだという側面があるということです。柳が李朝白磁をはじめて見た一九一四年のすこし前から、関野貞によって楽浪漆器の発掘がはじまります。楽浪というのは、北朝鮮の平壌郊外にある地域です。いまは高層アパートが並んでいるところのようですが、昔はここに土饅頭のようなお墓がたくさんありました。
 それを発掘してみたら、高級漆器が大量に出てきました。出土品は、ソウルの韓国国立博物館と、関野が教授だった東京大学の考古学研究室に保管されています。東大に残る漆器のひとつに、「永平十二年蜀郡西工夾行三丸冝子孫盧氏作」という文字が書かれていました。簡単にいうと、この漆器は紀元後六九年に、中国の四川省にあった官営工房で製造されたと書いてあったんです。当時の楽浪郡は後漢の植民地でしたから、統治者である中国の高級役人がその漆器をもってきて、死後墓に副葬品として埋めてもらっていたんです。
 当初、ソウル国立博物館は楽浪漆器を、自国文化の出発点として展示していました。松原さんと私を含む数人で、それを調査したことがあります。ところが、それから半年くらいの間に、楽浪漆器の展示は全部撤去されました。なぜかといえば、それを展示すると朝鮮文化の源流が、中国によってつくられたことになってしまうからです。
 考古学というのは怖いものです。実証に徹しているようで、実はその国の文化の歴史を性格づけていくのですから。韓国の人たちは考古学の発掘品が、自分たちの国家のアイデンティティーと繋がっているというような意味で、とても重たいっていうことに気づいたわけです。関野も柳も、民族の歴史とは自国民のあいだですら評価が定まらず、書き換えられつづけていくものだということに無頓着でした。
 つぎに杉山さんの意見に賛成する点をいえば、柳には社会の現実に束縛されない自由な目があったという点です。というのも李朝白磁は、実は無名の工人が作った雑器ではなく、李朝王朝が管理していた官窯で一流の職工の手によるものだったのですが、その高級品に柳は直観で無為の価値を見抜いたからです。これは柳が朝鮮の現状に共鳴した根底に、大正デモクラシーの理想主義、あるいはユートピア思想があったからです。それらは生活の苦労をしなくてもよかった学習院のお坊ちゃんたちの、高等遊民的心情だったにしても、そうであるがゆえに柳は官窯の白磁に、朝鮮の民衆がもっていた美意識を感受できたのでしょう。

杉山 確かに「社会の現実に束縛されない自由な目」は柳を語る上で、大事な要素だと思います。柳らが李朝陶磁を蒐集した時代は、朝鮮半島にあっても李朝の品に対する価値はほとんど認められていませんでした。当時は李朝白磁よりも、その前の時代の高麗青磁の方が評価が高かった。柳が浅川さんたちと一緒に朝鮮の骨董屋を回ったころ、「ほんとにあんたは見る目がないね」とか「物の価値が分かっておらん」といわれたというんですね。そして実際に、朝鮮の人から「下賤の民が作ったものを通して朝鮮の美を語ってくれては困る」といったことをいわれたと柳自身が語っています。朝鮮社会においては、官窯の陶工であれ職人の社会的地位は非常に低く見られていたのですね。
 そして、柳は民間で用いられてきた陶器をはじめ、木工品や金工品や民画などにも注目して、それらに朝鮮民族の生み出した固有の美や民族の姿を感じ取ったのです。ですから、私は決して柳は朝鮮の美を貶めようとしたわけではないと思うんです。
 しかし、それは朝鮮の人たちの立場からすれば、日本人としての優越感に基づく朝鮮に対するオリエンタリズムのような感傷に過ぎないと受け取ったかもしれませんね。柳の意図とは離れ、朝鮮という国のアイデンティティーや自尊心を損ねてしまった可能性を全く否定することはできないと思います。

名もなき無垢な職人はほんとうにいたのか?

長者町 李朝陶器のあと、しばらくすると柳は朝鮮のことを話さなくなりますね。そして入れ違いのようにして、日本の民藝を蒐集したり、創る方に話が進んでいきます。松原さんはさっき、上加茂民藝協団の話をしていたでしょう。あれは上加茂民藝協団が、民藝に現代作家による創作の道を開いたという指摘ですか?

松原 そうです。柳は李朝陶器の後、木喰上人が作った仏像の蒐集に向かいますが、その後、上加茂民藝協団を工芸家に結成させて、民藝の創作に熱中します。集められたのは、まだ若かった木工の黒田辰秋、織物の青田五郎、金属の鈴木実でした。金属の青田七良という青田五郎の弟もちょっといたかもしれません。

黒田、青田、鈴木の三人に、中世のギルドみたいな形で、禁欲的に作品だけを製作させました。柳は文章で参加しました。でも、やっぱりそういう中世のギルドのような形でずっと作りつづけるのはなかなか難しくて、これは失敗に終わってしまうんです。
 でも、この上加茂民藝協団の試みで、柳は蒐集するだけじゃなくて、何かを作らせるっていうことを発想し、名もなき職人のものから、同時代のちゃんと名のある人々のものに目を転じていきました。それは柳が京都に来て、そこにはいろんな作家の人が溢れていましたから、そういう様子を見て思いついたんじゃないかと思っています。

長者町 ということは、民藝運動の対象は一九二四年(大正一三)頃に、朝鮮民藝から日本民藝にシフトしていったということだね。民藝運動にとっては大きな方針転換だったわけだ。
 柳は朝鮮民族美術館の設立を提唱した一九二一年から五年経って、日本民藝館の設立趣意書を発表したときも、民藝は「凡ての美を故国(日本)の自然土地とから汲んで、民族の存在を鮮やかに示した」と宣言している。柳は世に受け容れられなかったフランス印象派の画家に不屈の意志を読み取り、つぎは滅びゆく朝鮮の陶工に寂しい経験を感受し、ついには日本の無名な職人に商魂に迎合しない魂を発見したということだ。
だけど柳が思い描いたような無垢な職人は、ほんとうにいたのだろうか。上加茂民藝協団に集まった人たちは、後に名をなす工芸家だったわけだし。上加茂民藝協団がギルド組織を理想にしていたといっても、そのギルドってなんだったんだろう?
 柳が念頭に置いていたギルドって、二つの解釈の仕方があるでしょう。ひとつは無名の職人の集まり。もうひとつは、自立を目指す工芸家の卵という意味合いもあったと思う。これはちょっと唐突な喩えだけど、ロシア革命なんかでもインテリの貴族たちが万国の労働者に目覚めよって指導するでしょう。ああいう意識が柳にもあったんじゃないかな。そんな風に感じるんだけど。

杉山 おっしゃる通り、両面あったと思いますよね。先ずは、「柳が思い描いたような無垢な職人は、ほんとうにいたのだろうか」という問いですが、柳が思い描いた職人像は、いわば「あるべき職人の姿」であって、こうあって欲しいという理想の姿であったと思います。ゆえに柳は、正しい工芸家、つまり何が本当に美であるのかを理解する工芸家たちが指導者となり、職人たちを指導することで彼らを目覚めさせようと考えていたわけです。ちょうど僧侶と信徒の関係ですね。そして、上賀茂民藝協団ですが、これはまさに民藝の世界に現代作家による創作の道を開いていく試みだったと思います。中世のギルド組織を参考に、互いの信頼関係と個々の工芸家としての高い意識を持って仕事に励めば、必ずや美しい品物が生まれるに違いないと柳は考えたのだと思います。ただ、上加茂民藝協団もやっぱり実験的な試みであり、経済的な基盤の裏付けも脆弱であったため、結局は理想通りにはいきませんでしたね。新作民藝運動を進めていく上での、大きな一歩であったことには間違いないですが。

蒐集する民藝から創る民藝へ

長者町 松原さんがね、今回の民藝展を企画した動機を訊きたいんだけど。松原さん、もうだいぶ前だけど、「京都の工芸 一九一〇~一九四〇――伝統と変革のはざまに――」(一九九八年)という展覧会をやったでしょう。京都中のいろんな工芸を集めてきた大展覧会だった。
 一九一〇~四〇年というのは、日本が大東亜戦争にのめり込んだ時代でしたね。日本の膨張期、海外進出期だったわけだけど、それでかなあ、展示された工芸品は、京都が海外の流行模様を応用するのに敏だったことを示していた。そこが面白かったんだけど、反面ね、そうだとすると、京都からいったいなにが生まれたんだとも感じた。近代の京都は、情報移入は巧みだけど、じゃあ京都自身からはなにが出てくるんだと思った。それをね、きっと松原さんも感じて、京都からだって芸術は生まれてくるんだということを主張したくて、つまり京都の近代工芸には自発性が薄弱だという見方をリベンジ(雪辱)したくて、今回の民藝展を企画したんじゃないかと思ったんだけど。

松原 その展覧会には、上加茂民藝協団のセクションがあったのですよ。一九一〇年からの三〇年間にはいろんな海外の影響、たとえばアール・デコがあったのですが、そのなかで上加茂民藝協団は異質だったわけです。それで、𠮷田孝次郎さんにもたどり着きました。もっと詳しく知りたいなと思って作品を調べていくと、上加茂民藝協団は当時の京都の工芸品とはまったく違うものを作っていたことがはっきりしてきたので、今回の展覧会をやってみようと思ったんです。つまり民藝という語が誕生して一〇〇年たち民藝とは何であろうかと考えたときにもう一度京都と民藝について検証してみようと思ったのです。だからリベンジとは違いますよ。今回三人で話しているこのシンポジウムも民藝とは何かを考える上で重要なシンポジウムだと思っています。

長者町 リベンジってのは言葉の綾だけど。要するに近代の京都は、頭脳流入だけの街じゃなくて、京都の側からも自発的になにかが生まれてくるという気持が、京都に住んでると湧いてきませんか。

松原 上加茂民藝協団のちょっと前ぐらいには国画創作協会が生まれましたし、近代になっても京都は急進的にいろんな芸術が生まれる街なんです。

よみがえる民藝

長者町 柳は直観で日用雑器に美を見いだしましたが、しかし柳はそんな目利きに止まる人ではなかった。彼はその美を理論で解明する思想家でもあろうとしました。直観と理論という相容れない精神の働きをなんとか結び付けようとしました。その点にこそ、柳が発揮した雑器を評価する目の真骨頂を見ることができるでしょう。
 民藝が誕生してから百年経ったいま、民藝を語ることの意義は、柳の思想が日本美術に与えた変化を見極めることにあります。そしてその変化が、いまなお有効であるか否かを探ることでしょう。
五〇〇年も前に千利休は朝鮮の飯茶碗を見て、それに触発されて侘び寂びという日本芸術にひそむ美意識を再認識しましたが、李朝(朝鮮時代)の陶器を見て、二十一世紀の日本人はそこにどんな美意識を見ることができるでしょうか? この点が、いま民藝展を企画開催するうえでの肝になると思うけど……。要するに現代の民藝ですね。そこに話を進めましょう。

杉山 そうですね。民藝の現代的な意義といいますか、そういったことに関連すると思うんです。どうでしょうか、会場の皆さんも多分感じてると思うんですけど、いまの世の中はインターネットが社会的な情報基盤となり、IT化が全盛になっていますよね。実際に考えても我々は手でものを生みだす行為や実際に体験することから、だいぶ遠ざかってしまっている。でも、ほんとうにこれでいいのか、人としての豊かな生活とは何なのかということを問いただすような時代になってきているように思うんですよ。
 そういうときに、民藝の魅力に目が向けられてくるのは必然的な気がしています。民藝とは人々の生活から生まれた手仕事の文化であり、その根底には風土とか自然の恵みや、伝統の力とか人との繋がりが積み重なっており、人として生きていく上で忘れてはならない大事なものが民藝にはあるわけでしてね。つまり、人間が持っている本来の感性から遠ざかるような社会にあるがゆえに、反比例するように、まるで振り切れた針が正常に戻るように、人間性を取り戻す行為として受け入れられてきてるんじゃないのかな、そう私は思っています。
 ところで、李朝の陶器などからどんな美意識を見ることができるのかという問いですが、河井寛次郎先生が物を選ぶ基準として、こういうことをいってるんですね。ひとつは誠実なものであること、次に簡素なものであること、そして健全なものであり、自由なものであること。つまりこの四点が物を選ぶ基準であり、大事な美意識だというんです。柳も同じ思いであったと思いますし、私もこの美意識は大事に思います。
 なお、寛次郎さんの京都における存在は柳にとっては大きいですよね。民藝運動が京都で花開いた背景には、寬次郎の存在なくしてはあり得なかったと思うんだけど、どうですかね。

松原 そうです。私も河井寬次郎の展覧会を何度もやってるんですけど、そのたびに彼の偉大さを感じました。寬次郎は島根県の安来の出身ですが、京都には外からの新しい文化を引き受けながら、それを咀嚼して新しいものを生みだす力があります。しかもそれが公の力じゃないところが、京都の力強さじゃないかと思うのですけどね。

長者町 私は柳が京都で発見したのは、日本美術がもつ「素朴さ」(プリミティヴ)だったと考えています。柳は朝鮮芸術をモデルにして日本芸術を見たとき、そこで見た究極は「素朴さ」だったと思うのです。大正時代になると、連続打ち上げ花火のようにつぎからつぎと西洋芸術を輸入して、それを消費しつづける日本の近代主義(モダニズム)を空しく感じていた人は多かったでしょうから、柳はそういう時流に警鐘を鳴らしたかったのではないでしょうか。
ちょっと調べてみたんですが、日本芸術には土偶、埴輪、中世陶器、円空、木喰、波の伊八、石黒宗麿、田中一村のように「素朴さ」を愛する系譜がありました。石黒のチョークで描いた薔薇の花を見てください。陶器で使えるチョークを開発して、それで子供がいたずらしたように薔薇を描いている。これはね、実はフランスで展示したものでした。だから、ピカソを相手にして、西洋近代のプリミティヴィズムに負けないぞ、日本にもこういうのがあるんだぞっていうことをいいたかったようです。田中一村の「アダン」の絵だって、アンリ・ルソーみたいじゃないですか。
 柳はそれを職人の手仕事に発見したということです。李朝芸術にたいする柳の讃美は、宗教的そして情緒的な言葉に満ちていますが、いったんそれらが放つ幻影を除外すれば、そこに残るのは「素朴さ」を発見したことの驚きだったと私は思います。そして柳には、その「素朴さ」を「素朴主義」(プリミティヴィズム)にまで高めてやろうとするつよい執念があったと思います。
 民藝運動を伝統回帰の運動として見ることも可能でしょう。でも、民藝運動が特異だったのは、回帰すべき原点を自国芸術の伝統にではなく、李朝陶器という外国芸術に求めたことです。そういう点で、民藝運動は伝統主義に似通ってはいても、「素朴主義」と呼び分けた方がいいと私は考えています。

消費者本位の民藝

長者町 ところで、最近は民藝ブームが起きていますが、これはどうしてでしょう?
 先日、私も恵比寿駅近くにあるセレクトショップと呼ばれる食器店に行ってみました。土曜の午後だったせいか、店内は若い夫婦や外国人でごった返していました。私は三〇代後半に見える女性の店長さんに訊いてみました。「いわゆる民藝の食器はどれでしょうか?」
 彼女は困っていました。そして指差したのは、濃紺の太い線で蛸唐草文を描いたマグカップでした。「手描き風でしょ!」 それが彼女の選んでくれた民藝食器でした。杉山さん、これ、どう思います?

杉山 現在では民藝のすそ野が広がってますので、こういった素朴感を持つ品物を民藝として選ぶことも理解できます。ただ個人的には買わないかな。私自身はこれを美しいと思わないし、使いたいと思わないから。でも、その人が自分の生活空間を考えて、自身の目で買う買わないの判断をすることは、とても大事なことですよね。それから、先ほどの長者町さんの、民藝運動は「素朴主義」だというご指摘ですが、それには私も賛成します。この「素朴さ」という観点は、柳にとって「美術」と「工芸」とをつなげる大事なキーワードであったと思います。

長者町 柳が共鳴した大正デモクラシーって、空想的・理想的で、書生的な主義主張だったけど、それが柳の考えから離れて、だんだん現実味を帯びていったのではないでしょうか。若い女性や若い夫婦はセレクトショップに行けば、自分たち好みの民芸品を買えるんだから。彼女たちは自分で自由で楽しい生活を演出できるようになった。
 いま民藝を買う若い人たちは、もはや李朝や沖縄陶器の姿かたちを追い求めていません。柳が理想とした素朴さと、彼女らが自宅のテーブルに置きたい素朴さとはとうぜん違ってきます。彼女らは自分たちの好みとしての「素朴さ」を求めています。ということは、柳が若い時分に共鳴した大正デモクラシーという夢物語が、そうした若い消費者たちによって現実の個人的ライフスタイルとして実践されているのかもしれません。それこそまさに、柳が心酔した「自己信頼」の現代版なのでしょう。

会場からの質問(その一) 

 これは私自身の民藝にかんする感想なんですけども、民藝にかんしてのメルクマールといいますか、それが民藝であるかどうかの判断基準はいくつかあると思います。たとえば、民衆の生活から出てきたものであるとか、製作者が不詳なものであるといったことです。ですけどもそうした判断基準を並べてみても、民藝とはどういうものかという、いわば民藝の概念ですね、それを組み立てようとすると、いつもやっぱり分からなくなる。
 民藝がそのなかに含まれる、造形芸術という大きな範疇がある。その造形芸術のなかで、生活の道具が民藝ということになるのだろうが、しかし生活の道具だからといって、そのすべてが民藝であるというものでもないだろう。
 民藝と類似した言葉に、工芸という言葉もある。どちらも造形芸術という範疇に含まれるという意味では共通しているが、しかし両者の違いをどういう風に考えたらいいんだろうか。
 先ほど民藝には理想主義という要素があるとおっしゃいました。でも、その有無だけが民藝と工芸を区別する指標になるというわけでもないでしょう。民藝には理想主義のほかにも、実用性を備えていることというプラクティスといいますか、戒律があります。
 それからさらに民藝の概念を難しくしているのは、「生活の道具には日常の美がある」という民藝の主張です。その「美」とはいったいなんやと思わざるをえません。物から抽出された美というものを、そのまま民藝にもち込んでもええもんやろうか。こういう疑問が、私の民藝の概念を組み立てる作業に迷いを生じさせます。これらにかんしては、いかがなもんでしょうか。

長者町 いい質問をしてくださり、ありがとうございます。私たちの対話の底辺にくすぶっていた問題を、白日のもとに晒してくださったような感じがします。造形芸術と工芸の違い。その工芸と民藝の違い。さらに実用という戒律をもつ民藝に、「美」を持ちだすのはどういうことなのか。要するに「用即美」という民藝の教義を鵜呑みにしてもいいのだろうかということですね。

松原 周知のように民藝とは、柳が「民衆的工芸」という言葉を発案し、それをつづめたものです。でも問題はここからで、民衆的工芸の民衆とは、いったい誰のことでしょうか。前もって長者町さんとも議論したのですが。これが曖昧なのです。戦前の日本に大勢いた小作農のことでしょうか。それとも、都市の下層にいた労働者のことでしょうか。
 あるいは貧乏だったかどうかではなく、柳自身のような高等遊民も含めた都市生活者一般のことだったのでしょうか。生活費を稼ぐ心配のない人たちを民衆というのも変ですが、でも柳は自分たちが政府の権力にくみしていないという自負をもって、高等遊民を民衆と呼んだ可能性もなきにしもあらずです。柳はこの肝心な民衆を定義していません。それで、工芸と民藝の違いが分かりにくいのです。
 またもうひとつ、柳は民藝を「貴族的工芸」の対極にあるものとして提示していますが、この貴族的工芸についても具体的に語っていません。たとえば朝鮮渡来の素朴な井戸茶碗のような大名物を念頭に置いているのでしょうか。それとも徳川三代将軍の長女の婚礼道具として製作された技巧の粋を誇る「初音の調度」を指しているのでしょうか。要するに評価のされ方が貴族的なのか、それとも材料技法が貴族的なのか、そこが分からないのです。
 もしかしたら、民衆的工芸の価値を引き立てるために、柳は貴族的工芸という概念を発明したのかもしれません。そんなわけで、民藝の概念を組み立てようとしても、そこに迷いが生じてしまうのは当然なのです。

長者町 私は質問の後半にあった、「用即美」という民藝の教義の根拠はどこにあるのだろうかというあなたの意見に同感します。遠回りのように見えても、おそらくその問いを考えることが、造形芸術という大きな範疇のなかでの民藝の独自性を突きとめることに繋がるのではないでしょうか。
 私は柳が晩年になって、「美」は民藝の必須条件じゃないという境地に到ったと考えています。なぜかというと、柳は晩年になって美と醜には区別はない、そういうものに区別を立ててはいけないんだという説明をしているからです。そう語る柳の論拠は、阿弥陀様が悟りを開こうとして願掛けしたときのことを説く大無量寿経という経典にあります。経典の四番目で、阿弥陀様は自分が悟りを開いたときには、この世は美や醜のない時代であってほしいと願掛けしているのです。
 私は仏教の門外漢なので、解釈が間違っているかもしれませんが、私なりに思うところでは、美と醜は高い次元で止揚(統合)される、平たくいえば、「美にとらわれない境地こそ大切だ」とこの経典は教えているようです。なにが美しいかという議論は、美人の判断が時代ごとに変わるように、必ず既成の文脈に支配されていますからね。美とは、文脈とかその時代の権力によって変わるものだと私は考えています。
 だから柳もそれに気づいて、民藝の本質は美にとどまるのではなく、そのさらに奥にある、さっき杉山さんが河井寛次郎の思想として紹介していた「誠実」、「健康」、「簡素」、「自由」にあるんだという考え方に動いていったんだろうと思います。それらを備えることが、民藝の独自性なんじゃないでしょうか。

杉山 たしかに最晩年になって、柳は美醜なき美という言い方をしていますよね。それは最後にたどり着いた世界です。
 ただ、これを現世に引き寄せると、それでも美としての世界があるわけで、そのなかで、柳は美とはなにかということを絶えず求めていたわけです。できるだけ身の回りを美しいもので、自分自身が心地よく過ごせる空間を求めていました。自分が嫌いなものは一切身の回りに置かないとするわけです。そういったものを身の前に置くこと、それを規範として物を作り、また物を買うことが、柳や河井さんにとってみると民藝の美を体現することだったと思いますよね。
 ですから民藝の美とは、用途から発生しているんだと思います。用途は決して物理的な用途だけじゃなくて、精神的な用途もあるわけで、心と身体の両方の用途から造形が生まれている。そういった意味で考えると、民藝の原点は暮らしの造形という風なことで表現できると私は解釈していましてね。そこに先ほどの河井さんがいった誠実、健康、簡素、自由という大きな価値が生まれると思うんです。

長者町 私もその意見には賛成する。でも最後にひとつ、あらためて訊きたいんだけど、その大きな価値を「美」って呼ぶ必要がある? 民藝にとって美は自分の生き方を見つけるための手段に過ぎないのでは。自分の生き方を深めて、自信があるものにしていくっていうことが最後の目的ならば、美は二次的な問題ではないですか? 私は身の回りに美しい生活の実用品がなくても、自分の生き方を追求できると信じています。

杉山 私なんかは民藝品を見て、これはいいな、あれもいいなって見ていると、自分の物を見る物差しができてくるわけですよ。それに照らすと、他のいろんな現代美術でもなんでも、その物差しが規範になってくる、自分のなかのね。そういう物差しをもつことがすごく大事だと思う。

長者町 でも、物差しの根拠は生き方でしょう。自分の生き方を脇に置いといて、器物の美を語ってみても、なんかしらけちゃう。自分の生き方に照らして器物を見るとき、そこに普遍的な美なんぞの出る幕はない。それこそ、まさに自己信頼に戻るべきでは……。

会場からの質問(その二)

 民藝が生まれた時代背景がすごくよく理解できて、大変勉強になりました。一九二〇年代は、やはりフランスとか中国でも実は同じような動きがあって、そこにリンクするようなことがあるなっていう風に思いました。
 ひとつ伺いたいのは、プリミティヴィズムっていうのをおっしゃっていて、すごく面白いと思ったんですけど、柳は東北地方に民藝調査に行ったとき、現地の情報をどれぐらい蒐集したのでしょうか? 
 時代的には東大の考古学との連携もあったっていうことですけど、ちょうどこの時期に民間芸術への関心が海外でも盛り上がっていきます。でも、そのときは模様だけを採用するとか、装飾だけを抽出していくっていう動きに止まっていました。柳の場合は現地の民藝を、精神性とか哲学とかっていうレベルで語っていくわけですけど、そのとき現地のモノづくりの人々の情報というのは、どれぐらい取り入れられたのかなっていうのが気になっています。
 つまり、蒐集した模様の情報だけでモノを作る人っていうのは海外にもいて、それは単にその模様を真似るっていうことなんですけど、柳が蒐集から創作に移行するとき、その精神的なものとか、哲学的なものを、どれぐらい現地から吸収していったのかっていうことを、もしご存知でしたら教えていただきたいと思います。

長者町 それはね、民藝運動の本質ですね。私は柳宗悦っていう人の一番の問題は、そこだと思うんです。
 結局ね、自分なりの理想主義で朝鮮半島を見て、その文化に同情して、それが美しいと語ったとこから柳は出発したじゃないですか。その立場っていうんですか、そういうものの見方は本質的には終生変わらなかったんだと思います。柳は日本全国を回って「手仕事の日本」という本を戦時中に書きます。出版は戦後ですが、あちこち行って民藝を蒐集してくるわけです。だけど、それじゃあ、どこまでその土地々々のヴァナキュラーな文化といいますか、方言のような土地固有の文化を汲み取ったのか、それをどうやって日本全体の芸術にまで組み込もうとしたのかといえば、そこは私には見えない。
 そういう客観的で冷徹な目は、この理想主義者にはなかったんだろうと私は感じます。だから、民藝の遺産を問うとすれば、それは私たちが自分たち自身の食卓の上で、あちこちの食器をもってきて、自分たちなりに哲学的な問いを発する以外に、その答えは見つからないんじゃないかと私は感じています。

杉山 柳がたんに理想主義者であって、客観的な目をもっていなかったという長者町さんのご意見は非常に厳しいですね(笑)。まず前提的に、柳は作者ではなかったわけですよね。柳は思想家であり、実践家であり、いわばプロデューサーです。
 柳は思想を提示し、そしてそれに共鳴する人たちを組織したわけですよね。柳が全国に調査をするときにも、必ず現地の協力者がいました。各地の素封家であり、また教育者であり、その地域の、たとえば東北地方であれば山形県の行政機関ですよね、そういうところが自力更生の戦時下にあって、地元の地場産業をいかに活性化させるか、新しい産業として残していくためにはどうすればいいか、柳は時流に抗いつつも、さまざまな要求に応じて活動しています。
柳は民藝運動の柱を三つ設けています。ひとつ目は、美術館。二つ目は、雑誌『工芸』あるいは『民藝』というメディア。三つ目は、民藝店。いまでいうセレクトショップです。それからもうひとつあげるとすれば、新作民藝運動。京都の上賀茂民藝協団や、その後は、鳥取の吉田障也さんがつくった鳥取民藝協団です。

長者町 いま問うべきは、柳の活動形態ではなく、柳やその仲間が全国各地の民藝からなにを抽出してきたかということではないかな。私としては、柳が自分の確立した思想を、大政翼賛会の風潮に乗って、全国に布教していったとは考えたくない。むしろ反対に、柳は土地の風土に根ざした全国のモノづくりに啓発されながら、いわゆる日本美術史には組み込めない「異端の思想」を形成していったんだと思う。こういってしまうと、無名会でお世話になった水尾比呂志さんには申し訳ないけどね……。でも、民藝をほんとうによみがえらせるには、民藝運動の組織的な遺産を守るんじゃなくて、それを超えて、民藝運動に哲学的な遺産を探すことが必要なんじゃないかな。

杉山 まったく、その通りだと私も思います。それを探していきましょう。
(二〇二五年一一月一六日 シンポジウム「民藝誕生の意味を語る」 京都市京セラ美術館)

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