東京藝術大学美術学部建築科は、明治35(1902)年、本校の前身である東京美術学校に「図案科建築教室」が設置されたことから始まりました。その後、大正12(1923)年に「建築科」となり、今日まで一貫して少人数制の緊密な建築家養成教育を行い、日本の建築界をリードする建築家を多数輩出してきました。今回は、東京美術学校・東京藝術大学を卒業し、建築分野で活躍した、個性豊かな建築家5名をご紹介します。
●吉田五十八(よしだ・いそや) 1894 – 1974
吉田五十八は、東京美術学校の図案科第二部が建築科に変更された大正12(1923)年に卒業した、藝大建築家の系譜の中でも最初期の建築家です。生前は、新興数寄屋建築の名手として知られ、「東京歌舞伎座」、「五島美術館」、「明治座」、「大和文華館」など数々の大規模な文化施設を設計し、日本らしい近代建築を形にし続けました。東京・日本橋生まれという、生粋の江戸っ子の吉田。生家の周りは下町情緒が色濃く漂い、「数寄屋建築などというものは、目にたこができるくらい、子どものころから見なれていた」そうです。東京美術学校時代やその後の海外渡航を経て、東西の古典建築やモダニズム建築を学んだ後、日本の伝統建築に回帰、数寄屋建築のモダン化に取り組みました。岩波書店創業者・岩波茂雄、元総理大臣・吉田茂、歌舞伎役者・中村勘三郎など各界の著名人からラブコールを受け、彼らの自邸や別荘を手掛け、とりわけ、吉田ならではの作品群と言えるのが芸術家の自邸や画室(アトリエ)です。横山大観、鏑木清方、小林古径、川合玉堂、伊東深水、梅原龍三郎など、美意識の高い日本美術界の巨匠たちが全幅の信頼を置いて、自邸や画室の設計を吉田の手に委ねました。中でも印象的だったという依頼主の一人が日本画家の小林古径。無口で有名な古径の注文内容は、「私にもよくわからないが、とにかく、私が好きだという家をつくってください」。これには流石の吉田も狼狽しましたが、古径を研究することで「古径らしい家」を追求し、完成の暁には、「こんなに、いい家が出来ようとは、思わなかった」という称賛の言葉を古径の口から引き出したのでした。
吉田五十八の名言
“日本人は、日本建築によって、西欧の名作と対決すべきだ。また、りっぱに対抗できる。しかし、現在の日本建築の姿そのままでは対抗できない。いまの日本建築は、ただ祖先の遺産にすきないからである。それを遺産から、自分の資産にひきもどさなければならない。” -吉田五十八『饒舌抄』「数寄屋十話」より
◆吉田五十八の一冊
吉田五十八著『饒舌抄』(中央公論新社)
雑誌や新聞に掲載された吉田五十八のエッセイや対談をまとめたもの。吉田の死後に、周辺の建築家や弟子たちによって編集された。「数寄屋建築のモダン化」の背景や川合玉堂、小林古径といった著名な施主たちの自邸建築中の濃厚エピソードがぎっしりと詰まっている。明治、大正、昭和の三つの時代にわたり、建築、そして、日本文化と真摯に向き合い続けた吉田による、貴重な名言が満載。
●吉村順三(よしむら・じゅんぞう) 1908 – 1997
日本の風土で培われた木造建築と欧米のモダニズムを融合させた建築家として知られる吉村順三。「愛知県立芸術大学」、「奈良国立博物館新館」など大規模な公共建築を手掛ける一方で、モダンな木造住宅の設計を得意とし、代表作の「軽井沢の山荘」をはじめ、生涯に230軒以上の住宅をつくりました。中学3年生の時に訪れたフランク・ロイド・ライト設計の帝国ホテルに感銘を受け、本格的に建築家の道を目指した吉村。東京美術学校に入学し、在学中より、当時日本に設計事務所を開いていたアントニン・レーモンド(帝国ホテルの建設時にライトの助手として来日)の建築設計事務所で働いていました。吉村がレーモンドと接点を持った方法がなんともアグレッシブ。ある日、吉村が学校で外国の雑誌を見ていると、面白い住宅の模型写真を発見。そこに、「アントニン・レーモンド・東京」と書かれているのを見るや、「これは東京にあるに違いない」と考え、それから毎日東京の山の手を歩き回るローラー作戦を開始! ついに、レーモンド邸を探し当て、その扉をたたくと、習いたての英語で邸内を見せてもらうことを交渉。翌週にはレーモンド設計事務所の所員の椅子を手にしたのでした。その後、美術学校を卒業すると、レーモンドの帰国にあわせて渡米し、アメリカのレーモンド設計事務所で本場のモダニズム建築を体得。日本に帰国すると自らの設計事務所を開設し、日本と欧米の建築手法を融合させた新しいスタイルの住宅を次々と生み出しました。
吉村順三の名言
“それは、建築ってのは現実だもの。(笑)現実に、ものであるということはね、逃れられないことだね。だから、建築家には実物を作るという責任が、あるわけでしょう。” -吉村順三・宮脇檀『吉村順三のディティール』「対談:吉村順三・宮脇檀-吉村順三の設計方法とディテール-」より
◆吉村順三の一冊
吉村順三著「火と水と木の詩―私はなぜ建築家になったか―」(新潮社)
1978年に行われた吉村の建築講演会で語られた内容を編集して掲載。幼少期から建築家になるまでの経緯や吉村の建築論が自身の語り口で分かりやすく、丁寧に語られている。東京にある吉村の自邸「南台の家」のカラー写真と図面も収められており、吉村の人物像に迫ることができる本。
●清家清(せいけ・きよし) 1918 – 2005
東京美術学校、東京工業大学で建築を学び、後に両学校の教授に就任した清家清。美の世界と工学の世界の両方に立脚したユニークな建築を生み出し、数々の建築家の後進を育てました。第二次世界大戦中は海軍に入り、技術将校として飛行機の格納庫の設計に携わった清家。彼はこの「格納庫」を自らの「建築の原風景」だと語っています。とりわけ「格納庫」的なイメージが色濃く見られる初期の作品の中でも、建築界に衝撃を与えたのが清家の代表作、「私の家」(自邸)。この家には、玄関がありません。家の外壁の庭に面した南面一面が引き戸で大きく開放できるようになっていて、靴のまま家に入ります。また、家の中は、洗面所やトイレにすらドアや仕切りがありません。横幅10m、奥行き5m、50平米のワンルームを家具やカーテンで間仕切りながら、居間、寝室、書斎、洗面所、キッチンを設けています。これは、日本の伝統的な「舗設(しつらい)」の概念を用いたものだそうですが、この斬新な住宅で清家は実際に4人の子どもを育てました。自分の生活そのものさえも実験の場としてしまう、清家の実験的姿勢を感じさせる建築です。
清家清の名言
“だから建築家はとにかく格納庫さえ作ってやればいい。入ってくる飛行機は全部違うし、しょっちゅうスタイルも変わっちゃう。たまには尻尾が入らない飛行機も出てくるし(笑)。だから、尻尾が入らなくてもどうにかなる建物にしておかないと、長持ちしないの。どう使うかは、使う人が決めることでね……。” -宮脇檀『住まいのプロ七人と語る―宮脇檀・対話と作品-』「モチーフ 寛 清家清」より
◆清家清の一冊
清家清著「「私の家」白書(住まい学体系)」(住まいの図書館出版局)
1954年に清家が両親の敷地に建築した実験的狭小住宅「私の家」、後に同敷地内に増築した「続・私の家」「倅(せがれ)の家」の一連の自邸プロジェクトに関する資料(写真、エッセイ、図面、他の建築家による論考)を収録。清家の住まい、生活、家族への考え方や「私の家」建築当時の社会的背景が分かる。
●宮脇檀(みやわき・まゆみ) 1936 – 1998
東京藝術大学建築科で吉田五十八、吉村順三の指導を受け、東京大学大学院で都市計画を学んだ後、宮脇檀建築研究室を開設。生涯一貫して住宅設計やニュータウンの街並みづくりなど、人びとの「住まい」のデザインに携った宮脇檀。六角鬼丈は宮脇檀について、「不眠不休に不屈の精神、しわが多いわりに永遠の青年ぶりのスーパーマンを見て、これが建築家かと目を見張った」(六角鬼丈『新鬼流八道(ジキルハイド)―叛モダニズム独話』)と述べています。また、宮脇は多くの建築作品だけでなく、多くの著作も残しています。単行本は共著で約50冊、自著としても30冊以上と本業の執筆家も顔負けの仕事量で、これを建築の本業の間にこなしていました。宮脇の著書は、建築家向けの専門的なものだけではなく、家づくりや旅行、家事などをテーマにした一般の人向けの内容のものも多く、これは、「住宅というごく一般的な主婦たちを相手にしている建築家としては、判らない言葉を使わないで都市から生活、人間のことを語り、難しいとされている建築の世界と、一般の人たちとを結びつける役目をするべきではないか」という宮脇の考えによるものです。片足を巨匠から学んだ設計手法に置き、片足を世俗の世界に置いた宮脇の住宅は「建築」というよりは、「生活」そのもののデザインでした。
宮脇檀の名言
“家のつくられ方はその家族全部の長い自叙伝であると考えることができる。一軒一軒の家のプランをながめていくと、その中の家族の生活像が自然に浮かんでこなければならない。その生活像の奥に、この家族がこんな歴史を持って今日まで歩いてきたということが読み取れるような平面をつくらねばならないし、そうつくりたいと思う。” -宮脇檀『宮脇檀の住宅設計ノウハウ』より
◆宮脇檀の一冊
宮脇檀著「宮脇檀の「いい家」の本-もっと家についてかんがえてみませんか?-」(PHP研究所)
宮脇が単行本や雑誌へ寄稿した膨大な原稿の中から、「宮脇の住宅に関する考え方がよく表れたもの」を慎重に拾い出し、再編集したベスト盤的エッセイ集。軽妙な語り口で、一般の方でも気軽に読める内容だが、「住宅というものは人間の根源の問題」と語る住宅建築家・宮脇の長年の経験が詰まった一冊。
●六角鬼丈(ろっかく・きじょう) 1941 – 2019
祖父・六角紫水、父・六角大壌ともに東京美術学校で教授をつとめた漆芸家であった六角鬼丈。幼いころから父・大壌の仕事場で繊細な漆の作業を間近で見つめ、常に美や芸術の世界を肌で感じながら育ちました。東京藝術大学建築科で建築を学び、磯崎新アトリエに勤めた後、六角鬼丈計画工房を開設。独自の創作観念をその建築作品によって表現し、ポストモダンの建築家として活躍しました。そんな六角の代表作の一つが、「東京武道館」。無数の菱形のユニットを湧き上がる入道雲のように積み重ねた奇抜な造形で人びとを驚かせました。本作のコンペの際は、「武道はスポーツ競技の中で唯一の芸術である」という、六角ならではのアプローチで勝負。「雲海山人」をテーマに、武道の芸術性や精神性を具現化した武道館を目指し、日本の自然の中で培われてきた武道の発祥の様子を菱形のユニットで表現しました。そのほか、風や水で動く彫刻作品をつくる彫刻家、新宮晋とコラボレーションした幼稚園「雑創の森学園」、五感をテーマにしたミュージアム「感覚ミュージアム」、「立山曼荼羅」を体感できる屋外展示施設「富山県立山博物館まんだら遊苑」など、アートと建築を融合させた唯一無二の空間を多数構築しました。
六角鬼丈の名言
“僕の場合、建築すべき対象との出会いのなかで、偶然発見する特異な形態や対象の潜在性に垣間見る精神性などに触れると、なぜか自分自身が変形してしまい、対象もしくは関連した事象に無意識に憑依して、略奪的な悪だくみを企て、秘かに楽しみはじめてしまう。” -六角鬼丈『新鬼流八道(ジキルハイド)―叛モダニズム独話』より
◆六角鬼丈の一冊
六角鬼丈著「新鬼流八道(ジキルハイド)―叛モダニズム独話 (住まい学大系)」(住まいの図書館出版局)
建築雑誌を中心に、1970~1980年代に六角鬼丈が発表した原稿を収録。「自邸プロジェクト」「雑創の森学園」「東京武道館」など代表作のコンセプトや制作秘話を読みながら、「奇想の建築家」とも呼ばれた六角の思考をかいま見ることができる。漆芸家の祖父・紫水、父・大壌の姿を幼い六角の目で捉えた自伝的エッセイも必読。