藝大の前身「東京美術学校」の教授の作品でたどる日本近代洋画の歴史

ライター
浮世離れマスターズつあお&まいこ
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明治維新を迎え、日本の社会は洋風化へまっしぐら! と思いきや、意外と紆余曲折に満ちていたのが、西洋から技法がもたらされた油彩画、いわゆる「洋画」の世界でした。つるした荒巻鮭を油彩で写実的に描いた名作『鮭』(重要文化財、東京藝術大学蔵)で知られる高橋由一など、それまで日本になかった写実的な画風に惹かれた作家たちは、油彩の技術を何とかして自分たちのものにしようと、好奇心たっぷりに研究を始め、魅力的な作品群を生み出します。五姓田義松、原田直次郎などの才能がきらめきを発し、山本芳翠などフランスに留学する画家も表れますが、中でも洋画の存在感を日本の画壇で高める役割を果たしたのは、1896年に東京藝術大学美術部門の前身である東京美術学校で創設された西洋画科の教授に就任した黒田清輝でした。ヌードを描くことは今日本の美大の修練の基本になっていますが、黒田が東京美術学校で始めたことだったそうです。黒田のヌードについては「『考える人』の女性版?黒田清輝の描くヌードは、なぜ美しいのか?」という記事で以前取り上げました。

さて、そんな時代に、厳然とした画風で極めてインパクトの強い作品を残した洋画家がいました。和田三造です。「えっ? そんな画家いたっけ?」なんていう人もいるかもしれませんね。しかし、絵を見ればきっと思い出します。『南風』は、明治時代に描かれた洋画の稀代の名作ですから。

和田三造=
 日本芸術院会員、日展顧問、財団法人色彩研究所長の洋画家和田三造は、8月22日午前零時10分、燕下性肺炎のため東京逓信病院で死去した。享年84才。和田三造は黒田清輝に師事し、東京美術学校西洋画科選科卒業後、第1回文展に、後に日本における外光主義の記念碑的作品を評価されるようになった「南風」を出品、二等賞をうけた。その後、海外留学、帰朝後は工芸美術の研究にもあたり、東京美術学校教授となって、図案科の指導を担当、また日本標準色協会を設立して色彩研究を開拓、晩年は日本画を製作。昭和33年、文化功労者の表彰をうけた。(出典=東京文化財研究所

東京国立近代美術館でこの絵の前に立った浮世離れマスターズのつあおとまいこは、その何とも力強い表現に見入り、またしても他愛のないトークを始めました。画家たちはどんな思いで洋画を描いていたんだろう? と、改めて明治時代の画壇に思いを馳せます。そして、少し時代がくだって、後に東京美術学校の教授を務めることになる安井曾太郎の昭和初期の肖像画の名作『金蓉』にも目を留めながら、おしゃべりは続いて行くのです。絵画が表す写実性の変遷を見るうえでも、興味深い比較になりました。

えっ? つあおとまいこって誰だって? 美術記者歴◯△年のつあおこと小川敦生がぶっ飛び系アートラバーで美術家の応援に熱心なまいここと菊池麻衣子と美術作品を見ながら話しているうちに悦楽のゆるふわトークに目覚め、「浮世離れマスターズ」を結成。さまざまなアートを見て他愛のないおしゃべりに興じてきました。さて今日はどんなトークが展開するのでしょうか。

ミケランジェロのような人物表現

和田三造『南風』 1907年 油彩・カンヴァス 第1回文展出品作 東京国立近代美術館蔵

つあお:日本の洋画の黎明期の傑作といえば、やっぱりこれかな。和田三造の『南風』。
画家がそれほど有名じゃないのに絵がこんなに有名なのってのも、珍しいですよね。

まいこ:筋肉隆々で赤い腰巻をしているさっそうとしたこの男性は、いったい何者なのでしょうか?

つあお:この人、ホントすごいですよね、ミケランジェロの『ダヴィデ像』みたいだ!

まいこ:『ダヴィデ像』腰巻バージョン(笑)。

つあお:この絵は、構図がすごくしっかりしてるし、力強さも出ている。描かれた内容や意味するところが全然わからなくても楽しめちゃいますよね!

まいこ:本当に! ちょっと不思議に思ったんですが、彼らはいかだに乗ってるんでしょうか?

つあお:いかだですね。ただ見ただけだと、誰も彼らが遭難してるなんて思わないよね。

まいこ:そうなんですよ(笑)! っていうか、遭難している場面なんですね。でも、誰も心配そうな顔をしていない。さっき言った真ん中の彼なんて、むしろ自信に満ちて見えます!

つあお:そういう絵を描きたかったんですかね。この絵を見ると、日本の画家もすごく頑張ってるなーって思う。

まいこ:それは、ミケランジェロのような人物表現ということですか?

つあお:そうなんです(しつこい 笑)。黒田清輝なんかが描いたちょっと印象派っぽく光を表現したような絵とはまったく違う。古代ギリシャの昔からある力強いリアリズムが根底にあるような気がするんですよね。

まいこ:確かに! 和田三造さんは、ほかにもこのような感じの絵を描いているのでしょうか?

つあお:何しろこの絵以外については、たわくし(=「私」を意味するつあお語)もよく知りません。でも、この1枚は、十分日本の近代洋画史の金字塔になっていると思いますよ。

まいこ:「遭難」というテーマにも、何となく自然と戦う西洋のスピリットを感じます。

つあお:そう。やっぱりスピリットが大切だよね!

まいこ:はい! この時代の洋画のスピリットでは、誰にも負けない画家だったのかもしれませんね!

つあお:きっと、このいかだに乗ったおじさんたちも、自然に立ち向かって勝ったんじゃないかな。そう思わせますよね。やっぱりすごい作品だ。

モデルは5ヶ国語が堪能な才女

安井曾太郎『金蓉』 1934年 油彩・カンヴァス 第21回二科展出品作 東京国立近代美術館蔵

つあお:うってかわって、こちらの安井曾太郎の人物画はなかなか優雅です。

まいこ:青いチャイナドレスが素敵ですね!

つあお:これはいかにも、絵を描いてもらおうというようなポーズですね。

まいこ:右足を組んで、お化粧もバッチリ!

つあお:視線の方向も理想的!

まいこ:でも肖像画にしては、美化をしているというよりは、リアルですね。

つあお:確かに。描かれた女性の存在感がかなりよく出ている!

まいこ:たとえばルノワールだったら、もっとふんわりとした柔らかい顔立ちに目や眉も優しげなんじゃないかな?

つあお:ルノワールの場合は、自分の好きな女性像を表したかったんだと思うんですけど、安井は描かれた人の人間性を表したかったんだろうなと思っています。

まいこ:なるほど! これぞ日本人の洋画スピリット! なんですかね?

つあお:ちょっと小耳に挟んだ話をば。安井が描いたある肖像画の例では、描くことになった人のところに入り浸って、何日も取材をしてから筆を握った、なんてこともあるそうなんです。

まいこ:へー! なら、やはり気に入った女性を描いてたっていうことなんでしょうか?

つあお:この絵のモデルは小田切峯子という5ヶ国語が堪能な才女で、1934年の春、安井のパトロンだった細川護立に指名されて10回も安井の画室に通ったのだとか!

まいこ:ほー! 役得(笑)!

つあお:ははは。人物の本質を描くためには、とことん知る必要がある。リアリズムに徹した作品なんですよ! いずれにしても、美女と何日も一緒にいるのはきっと楽しいですよね。まいこさんにもぜひ、安井のモデルになってほしいなぁ。

まいこ:おほほほほ…。(まんざらでもないといった感じで、 イキナリなりきりモードのまいこ)

才女、小田切峯子になりきるまいこさん

近代洋画界の動き


日本の画家による油彩画への挑戦は、江戸時代中期の司馬江漢にさかのぼり、幕末から明治初期にかけて高橋由一がものにしたところから本格的な歩みが始まります。由一は先んじて洋画の技法を試していた川上冬崖に、さらには英国から来日した記者兼画家のチャールズ・ワーグマンに学ぶことによって、迫真性の高い表現を身につけました。由一はまた、司馬江漢を先駆者と仰いでいたらしく、会ったことがないはずなのに、『司馬江漢像』を描いています。

ここで明治期における洋画導入のキーワードを挙げておきましょう。「驚き」です。由一が洋画を学ぼうと思ったのは、輸入された石版画を見て、迫真性の高さに「驚き」を覚えたからだといいます。陰影による立体感の表現は、たとえば、現代の美術予備校などでも、学びの基本なのだそうです。つあおが教員として勤めている多摩美術大学でも入試でデッサンの試験が多くあり、受験生たちは美術予備校で学んだ陰影表現を見せてくれます。落書きのような絵しか描かないつあおはその成果を眺めて、ひたすら感心しています。現代でさえそうなのですから、明治初期に人々が感じた立体感の表現に対する「驚き」は半端ではなかったでしょう。

たとえば、東京美術学校で教授を務めた黒田清輝や久米桂一郎は、屋外の光の下で描くことを重視したことから「外光派」と呼ばれますが、根底にあるのは写実性を追求する「リアリズム」です。黒田はまた、留学したフランスからヌードを表現すること自体を日本の美術教育に導入しました。そこには、リアリズムを学ぶ題材としてふさわしいという理由もあったでしょう。一方、「外光派」と対立しているかのように捉えられていた「脂派(やには)」は、明治初期にイタリア人画家のアントニオ・フォンタネージが教えた工部美術学校の系譜に属しますが、やはり、いかにしてリアルな光景を描くかということに腐心しました。五姓田義松や原田直次郎が、素晴らしい作品を残しています。

ところで、明治初期に排斥されていた日本美術は、来日していた米国人哲学者アーネスト・フェノロサらが価値を再発見し、なんとその反動で、明治中期に開校する東京美術学校では洋画のほうが排斥されてしまいました。絵画ジャンルは日本画科のみでスタートしたのです。反発した洋画家たちが「明治美術会」という団体を結成して対抗します。さらには中で分裂が起きて「白馬会」が結成されました。その中心が黒田清輝でした。日本画科に遅れること7年。東京美術学校では、黒田を教授に据えて、1896年にようやく西洋画科が創設されます。

以後、東京美術学校は日本の洋画教育の中心になり、青木繁、藤田嗣治、熊谷守一などのそうそうたる画家たちを生み出しました。また、浅井忠が1903年に京都で始めた「聖護院洋画研究所」から展開した「関西美術院」からは梅原龍三郎や安井曾太郎など日本の画壇の中心になる洋画家が出てきますが、東京美術学校は彼らをも教員として取り込みます。梅原と安井は、文部省美術展覧会(文展)に反発してできた「二科会」でも活動をしました。近代の洋画界は、さまざまな価値観が交錯する中で、展開していったのです。(by つあお)

つあおのラクガキ

浮世離れマスターズは、Gyoemon(つあおの雅号)が作品からインスピレーションを得たラクガキを載せることで、さらなる浮世離れを図っております。​​

Gyoemon『遭難男とダヴィデ』

和田三造『南風』の真ん中に立っている筋肉質の男とミケランジェロの『ダヴィデ像』をそれぞれ「模写」して並べてみました。姿勢といい、筋肉質な表現といい、なかなかよく似ています。和田は1909年に渡欧していますが、『南風』はその2年前に描いた作品なので、もし『南風』を描く前に『ダヴィデ像』を見ていたとしたら、写真や版画、書籍等を介してということになりそうです。偶然の一致だとすると、かなり面白いですね。古代ギリシャ以来の理想とする身体の姿の一つとは言えそうな気もします。東大寺南大門の『金剛力士立像(吽形)』なども、近いポーズを取っています。あるいは、男性モデルが取るお決まりのポーズの一つだったのか、ということも検証する必要がありそうです。というわけで、謎解きの楽しみが一つ増えました。

参考文献

山内マリコ「モデルの一生(7) 安井曽太郎「金蓉」」(日本経済新聞2021年1月12日付朝刊)

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