日本の西洋音楽のパイオニア!東京藝大音楽学部の前身「東京音楽学校」とは?

ライター
米田茉衣子
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東京藝術大学には、その前身となった2つの学校、「東京美術学校」と「東京音楽学校」があります。明治時代に開校されたこの2つの学校は、明治維新以降、西洋の文化が流れ込む中、日本人が西洋の近代学校制度と“Art(芸術)”という概念に出合ったことにより誕生した、芸術分野の国立学校です。

今回は、その1つである、音楽専門の学校「東京音楽学校」がどのような学校だったのか、当時の写真資料などとともにご紹介します!

東京音楽学校の概要

東京音楽学校は、明治20(1887)年~昭和27(1952)年の約60年間開校されていた、日本初の国立の音楽学校です。校舎は、音楽学校開校時は上野公園東四軒寺跡(現・国立科学博物館の場所)にあり、明治23(1890)年に現在の東京藝術大学音楽学部の場所に移転しました。

左上の赤丸の所が東京音楽学校。右上には東京帝室博物館(現・東京国立博物館)が描かれている。大正2年に発行された上野公園の地図。(霜鳥巴浚画、小林桃山彫刻『上野東照宮境内図 附上野公園全景』 出典:台東区立図書館/デジタルアーカイブ)

東京音楽学校が開校された明治時代、政府は日本に近代的な教育システムを構築するべく、教育改革を推し進めていました。その一環として、欧米にならい、学校教育における音楽科目の必要性も説かれるようになりました。その実現化を進めたのが、当時文部省に在籍し、東京師範学校の校長も勤めていた伊澤修二でした。

伊澤修二肖像 (東京藝術大学音楽学部大学史史料室所蔵)

明治初頭から西洋の教育理論を研究し、幼児教育に唱歌遊戯を取り入れる実験を行うなどしていた伊澤は、明治8(1875)年に文部省の師範学校教育調査のためアメリカへ留学します。アメリカでは、現地の師範学校で教員養成プログラムを履修しながら、音楽教育家のルーサー・ホワイティング・メーソンのもとで歌唱や音楽教育に関する個人レッスンを受け、音楽教育の重要性を再認識します。そして、留学中に、留学生監督・目賀田種太郎(めがたたねたろう)と連名で「学校唱歌ニ用フベキ音楽取調ノ事業ニ着手スベキ見込書」を文部大輔へ提出。帰国後の明治12(1879)年には、「音楽伝習所創設議案」を文部省に提出し、これを受けて文部省内に、近代音楽と音楽教育の調査研究機関「音楽取調掛」が設置されると、伊澤は本格的に日本の音楽教育の確立に着手しました。この「音楽取調掛」が「東京音楽学校」の前身となったのです。

伊澤は就任後すぐに、アメリカ留学時代の恩師であり、初等音楽教育の専門家であるメーソンを日本に招聘。

「音楽取調掛最初の関係者」の写真。メーソン(前列左から2番目)と助教たち (東京藝術大学音楽学部大学史史料室蔵)

メーソンとともに、音楽取調掛で伝習生(生徒)を募集して音楽教員と音楽家を養成し、また、学校教育で歌うための歌「唱歌」の作成も行いました。明治14(1881)年には、日本で最初の小学生のための歌の教科書『小学唱歌集』を刊行、その後明治17、18年に第2編と第3編も刊行し、この唱歌集は小学校だけではなく、中学校や師範学校でも歌の授業に用いられ、幅広く普及しました。

音楽取調掛が制作した日本初の小学生のための歌の教科書『小学唱歌集 初編』。「ちょうちょう」のページ (出典:国立国会図書館デジタルコレクション)

明治15(1882)年には、メーソンが任期満了のためアメリカに帰国しますが、明治19(1886)年には伊澤が森有礼文部大臣に音楽学校設立の建議を提出。そして、明治20(1887)年、音楽家・音楽教師を養成するための日本初の国立の音楽学校「東京音楽学校」が開校しました。

開校当初の生徒は、音楽取調掛から移行した生徒を含めて50名程度でしたが、明治24(1891)年には約100名程度になったようです。ちなみに、東京音楽学校は当時の国立の専門学校としては唯一、男女共学校であったことも特徴の一つでした。

開校後、東京音楽学校では、欧米から招聘した外国人教師や留学から帰ってきた日本人教師が中心となって学生の指導にあたり、日本人音楽家の育成、日本初の音楽ホール「奏楽堂」の建設、日本人初のオペラ公演、日本人初のフル・オーケストラの結成、ベートーヴェン「交響曲第5番『運命』」の日本初演などを実現し、日本における西洋音楽導入のパイオニアとして大きな業績を残しました。また、昭和に入ると正規の学科として邦楽科(能楽、箏曲、長唄)が設置されました

明治36年頃の東京音楽学校の様子 (小川一真出版部『東京風景』 出典:国立国会図書館デジタルコレクション)

東京音楽学校年表

明治12(1879)年 「音楽取調掛」設置
明治14(1881)年 『小学唱歌』初編出版
明治15(1882)年 ルーサー・ホワイティング・メーソン帰国
明治18(1885)年 上野公園内に校舎を移転
明治20(1887)年 「音楽取調掛」を「東京音楽学校」と改称。(開校)
明治21(1888)年 予科と本科(師範部・専修部)を設置
明治23(1890)年 上野公園内の現在地に新校舎落成(校舎の2階は日本初の音楽ホール「奏楽堂」)
明治24(1891)年 初代校長・伊澤修二退職
明治26(1893)年 高等師範学校附属音楽学校となる
明治32(1899)年 東京音楽学校再独立
明治33(1900)年 予科、本科(声楽部・器楽部・楽歌部)、研究科、師範科、選科を設置
昭和6(1931)年  本科作曲部設置
昭和8(1933)年  校内に上野児童音楽学園設置
昭和11(1936)年 邦楽科設置
昭和14~20(1939~1945)年 第二次世界大戦
昭和24(1949)年 学制改革により、東京美術学校とともに「東京藝術大学」に包括される
昭和27(1952)年 廃校

東京音楽学校ではどんな授業をしていたの?

明治23年に完成した東京音楽学校校舎 (東京藝術大学音楽学部大学史史料室所蔵)

さて、開校当時(明治22年)の東京音楽学校では、どんな授業が行われていたのか、『東京芸術大学百年史』(東京音楽学校篇 第1巻)を参考にして当時のカリキュラムを見てみましょう。

①予科

生徒は入学後1年間、「予科」で音楽に必要な基礎教育全般を学びました。

開校時の普通科の科目を見てみると、

・唱歌
・ピアノ
・音楽論
・文学(和漢文)
・英語
・倫理
・体操、舞踏

上記のようなものでした。予科を卒業した学生には試験が行なわれて、その結果により、音楽教師を目指す学生は本科「師範部」へ、音楽家を目指す学生は本科「専修部」へ進みます。

②師範部(本科)

師範部は普通学校音楽教師になるために必要な科目を学ぶ学部で、履修期間は2年間でした。
予科の科目と変化・追加が見られるのは主に下記のような科目です。

・声楽(予科の「唱歌」がより高度化した科目)
・器楽(ピアノから、オルガン・ヴァイオリン・箏)
・音楽史(日本とヨーロッパの音楽史)
・文学(詩歌学、作詞)
・教育(教育学、唱歌教授法)

③専修部(本科)

一方、専修部は、音楽家になるための科目を学ぶ学部で、履修期間は3年間でした。
カリキュラムを見ると、師範部と概ね同じような科目が見られますが、「器楽」の科目で学べる楽器の種類が「ピアノ、バイオリン、ヴィオラ、ヴィオロンセロ(チェロ)、ダブルベース(コントラバス)、フルート、クラリネット、ホルン」など多岐にわたるほか、師範部では音楽論の一部として学ばれていた「和声楽」が独立した科目として2年生と3年生の課程に組み込まれていたようです。

明治40年代の音楽学校のレッスン風景 (東京藝術大学音楽学部大学史史料室所蔵)

東京音楽学校で活躍した、華麗なる教師陣!

●フランツ・エッケルト(音楽取調掛時代)

担当科目:管弦楽、和声楽、作曲
ドイツ出身。17歳で陸軍軍楽隊に入隊。その後、海軍軍楽隊海軍のオーボエ奏者をつとめる。日本の海軍の軍楽隊教師として来日し、翌年には『君が代』の編曲を手掛けた。メーソンの帰国後、音楽取調掛の指導者に任命され、『小学唱歌集』第3編の編纂に携わる。日本の伝統音楽を研究し、音楽取調掛解任後は、宮内省雅楽課で勤務した。

●ルドルフ・ディットリヒ

ルドルフ・ディットリヒ肖像(東京藝術大学音楽学部大学史史料室所蔵)

担当科目:ヴァイオリン、和声楽、作曲法、唱歌
オーストリア出身。ウィーン音楽院に入学し、オルガン・和声・対位法・作曲をブルックナーとクレンに学び、ヴァイオリンを校長・ヘルメスベルガーに学ぶ。優秀な成績を修め、卒業時に大銀牌を獲得。ウィーンで数々の演奏会に出演し活躍する。東京音楽学校の指導者として来日し、最初期の音楽学校で西洋音楽の専門教育を行なった。

●アウグスト・ユンケル

アウグスト・ユンケル肖像(東京藝術大学音楽学部大学史史料室所蔵)

担当科目:管弦楽、声楽、和声楽、作曲法、合唱
ドイツ出身。幼少期より父親からヴァイオリンの手ほどきを受け、ケルン音楽院に入学。優秀な成績を修め、卒業後はベルリン・フィルハーモニー・オーケストラ、ケルン・オーケストラ、ボストン・シンフォニー・オーケストラの首席ヴァイオリン奏者、シカゴ・オーケストラ独奏者をつとめる。その後、日本に渡り、東京音楽学校の教師となった。管弦楽や合唱をはじめ、音楽実技全般を幅広く指導し、東京音楽学校初のフル・オーケストラを組織した。

●ハインリッヒ・ヴェルクマイスター

ハインリッヒ・ヴェルクマイスター肖像(東京藝術大学音楽学部大学史史料室所蔵)

担当科目:チェロ、コントラバス、ピアノ、和声楽
ドイツ出身。幼少期より父親に就いて音楽を学び、ベルリン王立高等音楽学校に入学。卒業後は、ベルリン音楽院で教鞭をとる傍ら、チェロ奏者として活躍。東京音楽学校には約20年在籍し、日本に初めて正式なチェロの奏法を伝えるとともに、山田耕筰、信時潔、近衞秀麿らに作曲を教授。日本の近代音楽の黎明期に多数の音楽家を育成した。

●ハンカ・ペツォルト

ハンカ・ペツォルト肖像(東京藝術大学音楽学部大学史史料室所蔵)

担当科目:声楽、ピアノ
ノルウェー出身。フランスで声楽をM.マルケージに師事、後に、ドイツでリストからピアノ、リヒャルト・ワーグナーの妻、コジマ・ワーグナーからオペラを学び、ヨーロッパ各地でピアニスト兼オペラ歌手として活躍。東京音楽学校では、声楽とピアノを指導。門下には、三浦環、柳兼子、清水金太郎らがおり、「日本声楽の母」と称された。

●幸田延(こうだのぶ)

幸田延肖像(東京藝術大学音楽学部大学史史料室所蔵)

担当科目:ピアノ、ヴァイオリン、唱歌、和声楽
小説家・幸田露伴の妹。東京女子師範学校(現・お茶の水女子大学)附属小学校に入学。小学校で唱歌を教えていたメーソンの推薦により、音楽取調掛に入学し、第1回卒業生となる。日本初の政府派遣音楽専修生として、ボストンおよびウィーンに6年間留学し、ヴァイオリン、ピアノ、和声楽、対位法、作曲などを学ぶ。帰国後は、東京音楽学校で教鞭をとった。

東京音楽学校の卒業生にはどんな人がいるの?

【声楽】
三浦環(明治37年卒)、柳兼子(明治43年卒)、木下保(昭和3年研究科卒)、伊藤武雄(昭和5年研究科卒)、畑中良輔(昭和21年研究科卒)など

【作曲】
滝廉太郎(明治31年卒)、岡野貞一(明治33年卒)、山田耕筰(明治41年)、本居長世(明治41年卒)、信時潔(大正4年研究科卒)、團伊玖磨(昭和20年卒)、芥川也寸志(昭和24年研究科卒)、黛敏郎(昭和24年研究科卒)など

【器楽】
安藤幸(明治29年卒)、橋本國彦(昭和3年卒)など

東京音楽学校についてもっと知りたい人は……

東京藝術大学上野キャンパスの音楽学部校舎内に、「東京藝術大学音楽学部大学史史料室」があります。史料室では、音楽取調掛、東京音楽学校、東京藝術大学音楽学部で作成された公文書などの大学史史料と、関係者からの寄贈資料を保存・公開しており、一般の方でも資料の閲覧が可能です。(施設利用の1週間前までに、電話またはウェブサイトから利用申請が必要です。)

東京藝術大学音楽学部大学史史料室ウェブサイト
https://archives.geidai.ac.jp/

参考文献:東京芸術大学百年史編集委員会編『東京芸術大学百年史 東京音楽学校篇 第1~2巻』(音楽之友社)

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