東京音楽学校出身の作曲家・本居長世。『仰げば尊し』『赤い靴』数々の童謡を手がけたその生涯をたどる

ライター
大澤法子
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藝大の偉人

童謡を作曲した人と聞いて思い浮かぶ人といえば、『赤とんぼ』や『待ちぼうけ』、『この道』で知られる山田耕筰(やまだこうさく)ではないだろうか。

音楽の教科書では常連の顔ぶれとなっており、西洋音楽の基礎を作るなど、日本の音楽界に輝かしい功績を残している。また、童謡においては詩に日本語のアクセントを付けるという寄与を果たしている。

が、童謡を広めた先駆者にふさわしいのは、江戸時代に国学で大成した本居宣長の子孫こと、本居長世かもしれない。

意外と知られていない童謡の歴史

童謡のルーツは古代日本の「わざうた」だ!

童謡の歴史は、『日本書紀』の時代に遡る。古くは「わざうた」と訓ぜられ、『日本書紀』の皇極紀(こうぎょくき)、斉明紀(さいめいき)、天智紀(てんじき)などに記された古代歌謡を指す。

「童」といえば、現代では「子供」と結びついた言葉として浸透している。しかしながら、古代は「子供」ではなく、「庶民」を表す言葉であった。そして、「わざうた」は政治的に風刺したり、事件を予言したり、あるいは神様の気持ちをほのめかしたりする時に歌われた。

近代の童謡と「わざうた」は、直接的には何ら関係性を持たないものと思われる。しかし、「童謡」は「わざうた」とも読める。この点を踏まえ、童謡の研究者である周東美材(しとよしき)氏は、古代の「わざうた」こそが童謡のルーツであると考えている。

明治時代に童謡がタブー視されていたホントの理由

現代の私たちが考えるところの童謡は概ね、古代からの伝統としての「わざうた」、子供が遊びの中で歌う「わらべうた」、流行歌としての「はやりうた」という3つの顔を持つ。

ちなみに、「はやりうた」の意味が顕在化された歌謡が明治時代の童謡である。「はやりうた」とは、江戸時代に花柳界の遊女が三味線の音に乗せて歌い流行した歌謡全般を指す。

『仮宅の後朝』(喜多川歌麿)-メトロポリタン美術館

明治時代に入り、国をあげた西洋音楽の受容が進むなかで、端唄(はうた)や都々逸(どどいつ)、女工(じょこう)の歌といった江戸時代に流行した「はやりうた」に加え、子守歌や手毬歌などの「わらべうた」にも卑猥・野卑な「俗歌」「俗謡」のレッテルが貼られ、批判の対象となった。

江戸時代には遊女の言葉でもあった「です」が、その後一般の日本人に浸透するのにかなりの年月を要した。その原因のひとつに遊女が関係しているのだとすれば、明治時代に童謡が忌避されていた理由としても大体説明がつく。江戸の文化を対置し、正当化するやり方は明治政府の常套手段であったが、そもそも政治的な風刺の意味合いもあった「わざうた」は、帝国主義が強まり、国家に歯向かう者は非国民扱いされた明治期の日本の方針にはそぐわないものであったのかもしれない。

本居宣長の子孫の本居長世は音楽界の柳宗悦だ!

明治政府が「わらべうた」や「はやりうた」のような俗歌を何としてでも排除しようとしたのは、学校唱歌を普及させるためでもあった。俗謡や在来の邦楽を研究・改良することが目下の課題とされるなかで、本居長世や山田耕筰の学び舎である東京音楽学校(現在の東京藝術大学音楽学部)は、学校唱歌の創作や邦楽調査の拠点となった。

「大正デモクラシー」と称され、民藝運動や米騒動など民衆の利福の追求を標榜とした運動が各地で巻き起こった大正時代。音楽の領域でも本居長世を筆頭に、これらに匹敵する動きがあった。

柳宗悦(やなぎむねよし)を筆頭とする民藝運動とは、明治政府の思惑によって奪われた工芸品の中の伝統的な美を取り戻すための運動を指す。同様に、明治政府下で推進された学校唱歌に反発し、明治期に喪失された童謡の「わざうた」「わらべうた」の側面を復活させる流れを作ったのが本居長世であったのだ。

大正時代、芸術教育のエリートは成城小学校だった

童謡といえば、子供の教育と強く結びついた側面がある。大正時代に起きたもうひとつの運動が新教育運動であり、後に童謡が誕生するきっかけにもなった。

新教育運動を展開するにあたり、『社会契約論』の著書でお馴染みであり、フランス革命に影響を与えたジャン=ジャック・ルソーをはじめ、スイスの教育学者のヨハン・ハインリヒ・ペスタロッチ、幼稚園の生みの親であるドイツの教育学者のフリードリヒ・フレーベルらの教育思想が参照された。これらの思想に触発された結果、公教育への批判が高まった。子供の個性を尊重し、自発的かつ自由な学習を標榜とした新教育運動が展開されるなかで、ルソーはその運動を牽引する存在となり、彼の著書である『エミール』は明治時代後期から何度も翻訳された。また、ルソーは日本の童謡の誕生にも関係しており、例えば『むすんでひらいて』はルソーが作曲したものが元となっている。

「今も昔も芸術分野のエリートは東京藝大だ!」、そのようなイメージを抱いている人は多いのではないだろうか。ところが、『戦争と平和』の著者として知られるロシアの小説家のレフ・ニコラエヴィチ・トルストイや、武者小路実篤(むしゃのこうじさねあつ)の「新しき村」の思想に影響された「学園ユートピア」の構想のもと、当時芸術教育のトップに君臨していたのは東京藝大ではなく、成城小学校であった。

大正から昭和初期にかけて新教育運動を展開するうえでのロールモデルにもなった成城小学校は、まさに新教育の中心的存在であった。学園創立から昭和初期までの間には、音楽家の教師に真篠俊雄(ましのとしお)や梁田貞(やなだただし)、下総皖一(しもうさかんいち)など、音楽家としての実績のある著名人を任用。既存の学校唱歌の教育法を批判しつつ、「児童の表現と創造性の尊重」を主軸に据えた最高水準の音楽教育を実践した。そのため、学校には常に「先端的な芸術教育を一目見たい」という多くの参観人で溢れた。

成城小学校の音楽教育の中でも特筆すべきは作曲教育であった。子供らしい自由な発想を尊重し、詩に自由に曲を付けて指導するという、当時の小学校としては極めて異例の指導スタイルがとられた。

関東大震災をきっかけに芸術家たちが次々と成城へ移住

成城小学校は1917(大正6)年、東京市牛込区原町(現在の東京都新宿区原町)にあった成城中学校の敷地内に併設するかたちで開校した。その後、学校法人玉川学園の創立者であり教育学者の小原国芳(おばらくによし)らによる働きかけもあり、1927(昭和2)年4月、小田急線成城学園前駅が開業。関東大震災で東京の旧市街が壊滅的被害を受けるという出来事が後押しし、郊外の開発が一気に進んだ。

現在、学校法人成城学園の周辺は閑静な住宅街となっている。

新興住宅地としての成城が独自の文化圏を形成していくなかで、北原白秋や柳田国男のほか、本居長世、西条八十(さいじょうやそ)、山田耕筰といった作詞・作曲家の人たちもまた、その文化圏に魅了。明治政府の忖度で動く東京音楽学校周辺の上野の地に居を構えることに半ば嫌気がさしていたのかもしれない。芸術におけるあるべき姿を求め、成城に移住する芸術家たちが続出した。本居長世においては、昼間は東京音楽学校で教鞭をとり、夜や休日は同士とともに成城で作曲活動に勤しむ生活を送った。

成城には民俗学のエキスパートや童謡詩人がおり、また最先端の作曲教育を享受できる。作曲家であると同時に、民俗学にも傾倒していた本居長世にとって、成城が芸術的素養を高めるにはうってつけの環境であったのは言うまでもない。特に西条八十とは思想の面で共鳴するところが多かったようで、彼と共同で作った作品は少なくない。

多くの芸術家や僧侶の影響を受けながら童謡の基礎を築き上げる

そんな本居長世は1885(明治18)年、国学の名家の長男として生を受けた。先祖を辿っていくと、江戸時代に大成したあの国学者、本居宣長の6代目の子孫にあたる。父親はすでに離縁されており、幼くして母親を失った長世の育ての親となったのは、本居宣長の曽孫にあたる祖父の本居豊穎(とよかい)であった。本居家は天皇家とも関わりのある国学の名家として広く知れ渡っていたが、それも宣長ではなく、豊穎の名声(※)によるところが大きかった。

※1895(明治28)年、紀州出身の本居豊穎は江戸で神官や国学者として要職を累進。東宮御用掛や東宮侍講の職に就き、嘉仁皇太子(後の大正天皇)に和歌や作文、歴史、地理を教えた。さらに、『北白川宮』など天皇家と関わりのある歌の作詞も手がけた。

本居長世は幼い頃から大家の跡取りとして羨望され、祖父の指導のもとで和歌や漢学の素養を磨き、歌学や言語への関心を高めていった。ところが13歳の時に事態が急変。兄の直臣が突如現れたことで、家学の継承を断念せざるを得なくなった。自らの将来について悩み抜いた末、音楽の道に進むことを決意。1902(明治35)年、東京藝術大学音楽学部の前身である東京音楽学校の予科に入学した。

予科を極めて優れた成績で卒業した本居長世は、その後本科ピアノ科に進み、ピアニストの幸田延(こうだのぶ)らに師事。首席で卒業すると同時に、国語の能力が高く買われ、東京音楽学校の邦楽調査掛補助(※)に抜擢。明治以降の俗謡改良の政府方針と邦楽調査の経験を積みながら、柳田国男や折口信夫とは異なる切り口で民俗学に踏み込んでいった。その後も順調にエリート街道を突き進み、学校を卒業してからわずか2年でピアノ科助教授の職に就いた。

※邦楽調査掛は1907(明治40)年、在来の邦楽の調査および保存を目的に文部省により設置。主に、楽曲の採譜や録音による保存、古老からの聞き取り、公開演奏会の開催・批評、楽譜や教則本の出版などの事業を行う部門として機能した。

声明研究は昭和に入って本格的に始められたが、先駆者としてその道を切り拓いたのはこの本居長世である。邦楽調査掛の職に就いていた頃には、当時京都帝国大学(現在の京都大学)で教鞭をとっていた2人の僧侶の声明(しょうみょう/仏教の法会に用いられる歌曲)を聞いている。「平家琵琶を学ぶには、まずは声明を研究することから始めなければならない」という考えがあって、声明にも関心を抱くに至った。

13歳の時に国学者から音楽家へと転身を図った本居長世であるが、少なくとも彼にとって国学と音楽は全く別物の学問ではなかったようだ。

童謡のみならず、『君が代』や『仰げば尊し』の編曲も担当

本居長世が実際に作曲(編曲)を手がけた曲を挙げると、『汽車ぽっぽ』や『赤い靴』、『鯉のぼり』、『十五夜お月さん』、『通りゃんせ』、『七つの子』、『蝶々』、『桃太郎』、『一月一日』など。どれもタイトルを聞いてメロディーがすぐに脳裏に浮かんでくるような名曲ばかりだ。よって、童謡界において本居長世と山田耕作は互いに双璧をなす存在であるのは間違いない。

本居長世は『かぞへうた:ヴァリエーシオン』の作曲も手がけた。-国立国会図書館デジタルコレクション

童謡以外では、かつて卒業式の定番として親しまれてきた(現在は歌われなくなったと聞くが)『仰げば尊し』などの学校唱歌、『日の丸の歌』、『明治天皇御製』の作曲(編曲)も担当。日本国歌である『君が代』の成立をめぐっては諸説あるが、一説によると、幕末~明治前期の雅楽演奏者である林廣守(はやしひろもり)が作曲し、本居長世が編曲したものと伝えられている。

さらに、『輝く日本-すめらみくに-』も作曲した。-『すめらみくに:国史百光譜』(山崎弘幾著/ヤマビコ会)国立国会図書館デジタルコレクション

現代の私たちに親しまれる数々の童謡の作品からは、「わざうた」と「わらべうた」という明治政府により疎んじられてきた、本来の童謡が持つ日本古来の姿が顕現化される。本居長世は幼少期に得た和歌や漢学の素養を糧に、東京音楽学校での研鑽やさまざまな芸術家たちとの交流を経て、童謡の基礎を着実に作り上げていった。

童謡はこうして日本各地に広まった

童謡といえば、今では老若男女を問わず愛されている。
では、童謡はどのような過程を経て、多くの世代に受け入れられたのだろうか。
まず、童謡の普及の流れを作ったのが児童向け雑誌『赤い鳥』の創刊だ。

『赤い鳥』の創刊が童謡ブームの火付け役に

『赤い鳥』とは、子供の純性を保全開発し、多くの子供たちに純真な読み物を与えることを目的に、1918(大正7)年7月、「日本の児童文化運動の父」と称される児童文学者の鈴木三重吉(すずきみえきち)により創刊された児童文芸誌である。泉鏡花(いずみきょうか)をはじめ、小川未明(おがわみめい)、小山内薫(おさないかおる)、高浜虚子(たかはまきょし)、野上豊一郎(のがみとよいちろう)、谷崎潤一郎(たにざきじゅんいちろう)、徳田秋声(とくだしゅうせい)、内田百聞(うちだひゃっけん)など、多くの作家たちの賛同が集まり、『赤い鳥』の創刊に至った。

明治時代には社会教育者の山県悌三郎(やまがたていさぶろう)のもとで日本初の少年雑誌『少年園(しょうねんえん)』が創刊。その後、『少国民(しょうこくみん)』、『少年世界』、『幼年の友』など、子供をターゲットにした読み物が相次いで創刊された。主に立身出世、忠君愛国、英雄賛美をテーマとした物語が量産されたが、特に人気であったのが、巌谷小波(いわやさざなみ)(※)の読みものであった。

※巌谷小波は近代の日本の児童文学を切り拓いた先駆者である。子供たちのための娯楽がない時代において、「童話のおじさん」の愛称で親しまれるとともに、全100巻にわたる『世界お伽噺』の編纂にも携わった。

講談社などの大手出版社が子供向け読み物市場を牽引するなかで、鈴木三重吉は当時流布していた子供向けの読み物を俗悪と一蹴。これらの読み物に対し、子供の純粋さや芸術的創造性を損なう元凶と考えた三重吉は、さらに文部省が定めた学校唱歌に対し非芸術的と批判。本居長世が編曲を手がけた『蝶々』や『仰げば尊し』にも批判の矛先が向くなかで、『赤い鳥』の創刊の流れを生み出した。

資本主義化された明治期以来の読み物に対し、『赤い鳥』は純粋かつ高級な児童雑誌として位置づけられた。『赤い鳥』の創刊以来、子供のための文化の創造に対して強い使命感を持っていた西条八十や北原白秋、草川信(くさかわしん)、野口雨情(のぐちうじょう)らが創作に名を連ねた。もちろん、子供の声を大切にする『赤い鳥』の趣旨に共鳴した本居長世もそのひとりであった。

芸術性の革新を目指し、童謡雑誌として創刊された『赤い鳥』は、主に都市の中間層の間で好んで読まれた。創刊時の発行部数は1万部であったが、翌年の末には3万部を突破。子供のみならず、教育熱心な親、新教育運動に傾倒する教師、日曜学校の宗教家、田舎の知識層の間でも大変反響を呼び、徐々に子供に対する純粋無垢なイメージが定着していった。

現代が星野源『恋』なら、大正時代は『青い眼の人形』でLet’s Dance!

童謡といえば、やはり今日では「歌って踊る歌」という意味合いが強い言葉として罷り通っている。ところが、『赤い鳥』の創刊当時の童謡は、楽曲を伴わない単なる詩として創作された文芸作品に過ぎなかった。

そんなある日、『赤い鳥』の投書欄に読者からのこんな意見が寄せられた。

私どもの家庭では、私自身が下手ながらも子供のために色んな唱歌を作り、子供に歌わせるというようなことを行っています。もちろん、譜面も言葉も自分流です。子供たちは「母ちゃんが作った」といって、4歳の子供までもが喜んで歌っています。

なかには童謡の読み方や歌い方について自説を展開する読者も。

童謡とは、ただ単に読んで済ますものではなく、声の律動として鳴り響くものである。

大人が子供のために作ったものはどうも大人臭くて駄目ですね。子供目線でいかに歌えるかが重要だと思います。

こうして、「童謡において極めて重要なのは、古来のわらべうたの意味合いを持たせることである」という認識が『赤い鳥』の読者の中で生まれた。そして、読者の意見を反映した作品に仕上げるべく、本居長世は野口雨情と二人三脚で『青い眼の人形』の創作に取りかかった。

大正時代を一言で表すと、国際愛が強調された時代だ。そんな世相を反映したのが、1920(大正9)年に発表した『青い眼の人形』であった。そして、野口雨情においては原稿を出版社側から提示されるやいなや、頭の中に主旋律が自然と思い浮かび、全く苦心することなく歌を書き上げた。

その作品が掲載された『赤い鳥』の号の巻末には、譜面や振り付けが紹介された。そして、『青い眼の人形』が紹介された『赤い鳥』を手にした読者は親子揃ってメロディーを口ずさみながら、本誌の巻末に掲載された振り付けどおりに身体を動かした。現代の私たちが民放ドラマのエンディングで流れた『恋』ダンスを見様見真似で覚えていったように。

本居長世が野口雨情と共同で作った作品は実に多く、同じく国際性をテーマとした『赤い靴』はそのひとつである。横浜の山下公園の敷地内の一角には『赤い靴』の中で歌われる少女をモチーフとした像が建立され、今では山下公園は横浜を代表する観光スポットとなっている。-画像提供:横浜観光情報

本居長世の娘たちが日本各地に童謡を広めた

『赤い鳥』の読者といっても、日本全体で考えるとごく一部に過ぎない。しかしながら、今日では童謡は老若男女を問わず愛される歌として浸透している。ここでカギを握るのが、本居長世の3人の娘たちだ。

可愛い娘のためなら、少しも努力も惜しまず尽くしてあげたいというのが親心というもの。本居長世も例外ではなかった。

それは1920(大正9)年11月、東京の有楽座で「新日本音楽大演奏会」が開催された日のこと。本居長世には上からみどり、貴美子、若葉という3人の娘がいたが、「新日本音楽大演奏会」では8歳のみどりと、宮城道雄(みやぎみちお)、吉田晴風(よしだせいふう)という若手音楽家との共演をセッティングするという親バカぶりを発揮したのだ。幼い頃、両親からの寵愛を受けずに育ったからこそ、余計に「自分の娘には自分と同じ境遇を味わわせたくない」という思いが強かったのだろう。

かねてより著名な国学者や作曲家を輩出したお家柄のお嬢さんとして注目を集めていた長女のみどりは(厳密に言うと1年前に開催された「赤い鳥音楽会」でも歌声を披露していたわけであるが)、「新日本音楽大演奏会」という大舞台で童謡を歌ってデビューし、一躍有名となった。独唱という公演形態によって、みどりの可憐さや子供らしい自然な哀調が際立ち、さらに将来を期待される先天的な才能に、人々の熱視線が向けられた。演奏会の翌々日の『国民新聞』では、

ホロリとさせた/みどり嬢の独唱/将来はきつと楽壇の/大ものに成る人/本居長世氏の令嬢(八ツ)

という見出しとともに大きく報じられた。

その初デビューから約1か月後に開催された雑誌『金の船』主催の「童謡音楽会及童話劇会」にも本居親子は出演。みどりの歌声が会場に響き渡るなかで、観衆は将来の声楽家を期待させられる、哀れの美が漂うふくよかな声に心を奪われる人が続出した。

その後、長女の後を追うように、次女や三女も童謡の歌唱でデビュー。彼女たちが各地で公演を行うたびに評判を呼び、雑誌のグラビアを飾ったり、レコードを吹き込んだり、あるいはラジオで歌ったりと現代のアイドル顔負けの活動を展開。日本全国、北は北海道の隅から隅まで趣き、また時には国境を超えて朝鮮や台湾、樺太、遥々アメリカの地へ遠征し高らかと歌い上げた。こうした流れのなかで、明治政府により着せられた汚名は払拭され、童謡は日本全国へと広まっていった。

ちなみに、三姉妹が童謡を歌い上げるという伝統は、現代の由紀さおり、安田祥子姉妹に受け継がれているようにも思う。

2011(平成23)年3月11日、三陸沖を震源とするマグニチュード9.0の地震が発生。その後、チェルノブイリの大惨事に匹敵する原発事故が起きたことで、日本社会を震撼させる事態に陥ったことは記憶に新しい。

そんな状況の中、大正時代の本居3姉妹に相当するひとりの少女が現れた。日本テレビ系ドラマ『Mother』での演技で一際注目を集め、その翌年に放送された別のドラマのエンディングで相方の鈴木福と可愛らしい歌声でマルモリダンスを披露した芦田愛菜だ。年齢は6歳。本居長世の長女・みどりがデビューした年に近い。愛くるしくて、テレビの音楽番組の司会者の質問にハキハキと答える聡明なその姿に「国民の妹」のような眼差しが向けられた。そして、マルモリダンスとともに披露された『マル・マル・モリ・モリ!』は、その年の暮れにレコード大賞特別賞を受賞するという栄誉を果たした。

今も昔も大震災という前例のない災害に見舞われた日本を窮地から救ったのは、「わらべうた」「はやりうた」の意味が付与された歌を愛おしい声で歌い上げる純粋無垢な子供の姿であったのだ。

(参考文献)
『童謡の近代-メディアの変容と子ども文化』周東美材 岩波現代全書 2015年
『日本唱歌集』本居長世編纂 春秋社 1930年
『十五夜お月さん-本居長世 人と作品-』金田一春彦 三省堂 1982年

※本記事は「和樂web」の転載です。

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