東京美術学校の5代目校長・正木直彦。31年在職したその理由とは?

ライター
山見美穂子
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東京藝術大学の構内にある藝大アートプラザ。そのすぐ前にある、重厚な木造の門を「正木門」といいます。
寺院の入り口にあるような門をくぐると、右手の日陰には椅子に座った紳士の姿が。愛情を込めて「正木おじさん」と読んでいる人がいるとかいないとか。
この方は正木直彦(まさきなおひこ)先生。藝大の前身にあたる東京美術学校の校長を30年以上もつとめた方です。

この門をくぐると右側に座っているのが正木先生。門の奥にちらっと見えているのが藝大アートプラザです

美術行政に人生を捧げた、帝大卒のエリート官僚

正木先生こと正木直彦は、1862(文久2)年に大阪の堺で生まれました。文久2年といえば皇女和宮(かずのみや)が江戸の徳川家茂(とくがわいえもち)のもとへ嫁ぎ、京都の伏見では尊王攘夷派の志士が暗殺される寺田屋騒動が起こった年です。幼少期に時代は幕末から明治へ。1884(明治17)年に旧制第一高等学校の前身である、東京大学予備門に入学します。同期には夏目漱石(なつめそうせき)、正岡子規(まさおかしき)、南方熊楠(みなかたくまぐす)などの姿がありました。

1892(明治25)年に帝国大学(現在の東京大学)法学部を卒業した後は、奈良県尋常中学校に校長として赴任し、帝国奈良博物館の学芸員なども兼任でつとめています。
その後、1897(明治30)年に文部大臣の秘書官に任じられて上京し、大臣官房秘書課長、大臣官房文書課長などを歴任しました。

この頃、30代半ばの正木先生は次のように美術行政の未来を同僚と語り合っています。

「高田君は、日本には国立劇場が無いから今の中に文部省の手でこれを造りたい、といふし私はまた、博物館、美術館といふものを大いに興し一方では仏蘭西の制度の如く、文部省といふものを教育美術省としたい。(中略)科学と美術と芸術との総合発達を図りたい、といひ、ふたりで大隈さんのところへ行つて熱心にその話をした。」
『回顧70年』より

*高田君……後に早稲田大学初代学長となった高田早苗(たかたさなえ)

この計画は時の総理大臣だった大隈重信(おおくましげのぶ)に認められ、1898(明治31)年に準備段階として新設された文部大臣官房「美術課」課長に任命。しかし、大隈内閣が解散すると教育美術省の予算は削られてしまい、フランス万博の出品調査委員として渡欧することになります。
欧米の教育機関などを視察して帰国したのち、東京美術学校の校長に就任したのは1901(明治34)年のこと。

官僚としてのエリートコースから転じて、教育者として美術行政をけん引することになった正木先生。ここから31年という長期にわたって東京美術学校の校長をつとめることになるのですが……。

等身大の正木先生の陶像は、東京美術学校の教授だった沼田一雅(ぬまたかずまさ/いちが)作。堂々たる存在感です

騒動に揺れていた東京美術学校の校長に就任

東京美術学校が開校したのは1887(明治20)年。明治23~31年まで岡倉覚三(おかくらかくぞう/天心てんしん)が校長をつとめ、横山大観(よこやまたいかん)、下村観山(しもむらかんざん)ら後世に名を残す日本画家を育てました。
しかし、天才肌だった岡倉覚三(天心)には周囲の反発も大きく、やがて学内で排斥運動が勃発します。岡倉覚三(天心)は20人以上の教員を率いて東京美術学校を退職し、日本画の団体「日本美術院」を設立しました。

正木先生が東京美術学校の校長に就任したのは、この騒動があった3年後。著作『回顧70年』の中で、当時を次のように振り返っています。

「岡倉前校長は天才肌の人であつた。(中略)岡倉君に云わせれば、美術などと云ふものは多数の凡庸は犠牲にしても、少数の天才が生かされればよい、――と云ふのであつた。(中略)幸ひ私は、絵画、彫刻、工芸のいずれにも同じ様に興味を持つている。だから、それらを平等に見、扱つて行こう、と考へた。また、教授先生にしても、総てが特技を持つた選ばれたる人々ばかりであるのだから、その人の教育法というものに対しては干渉をせぬことにしよう――と考えたのであつた。」
『回顧70年』より

委嘱製作に力を注ぐ

ところで、正木先生が校長をつとめていた大正~昭和のはじめにかけて、東京美術学校では皇室関連の美術品や工芸品の製作を精力的に請け負っています。

1915(大正4)年の大正天皇即位式、翌年の親王立太子の礼では宮内省からの注文のほかに、自治体から皇室への献上品も製作することになり、教師陣から学生、卒業生まで総出で寝る間がないほどの忙しさだったとか。
1928(昭和3)年の昭和天皇即位式では、即位御剣の装飾を東京美術学校が担当することになり、正木先生自らが製作指揮をとりました。

1930(昭和5)年からはメタルアートの第一人者である津田信夫(つだしのぶ)教授の監督のもと、帝国議会議事堂(現在の国会議事堂)のブロンズ扉群の製作に着手。それまでの西洋建築では輸入品に頼っていたブロンズ扉の国産に挑みました。
また、議事堂内にある皇族室には、漆塗り蒔絵の装飾も行っています。

こうした委嘱製作には、学校で学んだことを実地で現していくという狙いがありました。

正木先生といえば美術学校、美術学校といえば正木先生

正木先生が東京美術学校の校長を退任したのは、1932(昭和7)年。職員一同への挨拶では、在任期間を振り返ってこう話しています。

「……斯く長くなりましたのは、全く私は平凡に暮らしたからでありまして、又際立ったことが嫌であるのと、何でも事柄をなだらかに済したいと云ふ性質から因循なことになつたのであります。……」
『東京藝術大学百年史 東京美術学校篇』正木前学校長の退任挨拶より

実際のところ、正木先生が異例の長きにわたって校長をつとめることになったのは、美術界の派閥争いが複雑すぎてあちらを立てればこちらが立たず、後任がなかなか見つからないという事情があったようです。正木先生の後任として挨拶に立ったのは、文部省で専門学務局長をつとめていた赤間信義(あかまのぶよし)という官僚で、校長事務取扱という立場でした。

「正木先生と言えば美術学校、美術学校と謂へば正木先生、(中略)美術学校の発達、美術其のものの発達、美術を学校化したところの其の御功績は、若し維新以後の美術のことを述べ、若し明治中年以後の美術史を叙するに際しては、正木先生が其の重要なる位置を占めると云ふことは信じて疑いませぬ。」
『東京藝術大学百年史 東京美術学校篇』赤間学校長事務取扱の挨拶より

文部省美術展覧会(文展)の開催に尽力

また、正木先生は東京美術学校の学長に在任中に、日本初の官営美術展である文部省美術展覧会(文展)の開催にも尽力しています。展覧会の仕事が忙しく、学校にはなかなか顔を出せないこともあったでしょう。でも、どんな仕事も学校のためだった、と正木先生は語っています。学校のためというのはつまり、美術界のこれからを担う人たちのため。

「平常は各種の教会であるとか展覧会等の仕事が沢山ありまして、学校の数育の方の側を不勤にしたやうなこともありましたが直接学校に関係のあるやうなないやうな事柄に到しても成る可く学校を培蓑すると云ふやうな心持を常に持つて勤めてゐました。」
『東京藝術大学百年史 東京美術学校篇』正木前学校長の退任挨拶より

文展から帝国美術院展覧会(帝展)になってからも幹事をつとめ、校長を退任する前年の1931(昭和6)年からは帝国美術院長として絵画、彫刻、工芸と、美術全般の発展に晩年まで力を注ぎました。

正木記念館と等身大の陶像

正木先生の功績を讃えて建設された「正木記念館」は1935(昭和10)年に開館。開館式では、東京美術学校の教授である沼田一雅が3年の歳月をかけて完成させた、正木先生の等身大の陶像が贈られました。

沼田一雅は正木先生の推薦で渡欧し、フランスのセーブルにある国立陶磁製作所で焼き物を研究したという経歴の持ち主。日本における陶彫刻の父と呼ばれています。その作品の中でも等身大の陶像というのは、とても珍しく貴重なものなのだそう。

足元の木板には、墨で書かれた「沼田一雅作 正木直彦先生像」の文字が読めます

十三松堂(じゅうさんしょうどう)という号で茶の湯をたしなみ、茶道具の名物を収集した近代数寄者(すきしゃ)のひとりでもあった正木先生。
絵画も、彫刻も、工芸も。美術を心から愛し、1940(昭和15)年に数え79歳で人生を閉じました。

正木記念館には日本画を飾るための日本間があるのが特徴で、展覧会などに使用されることがあります。また、藝大アートプラザがオープンしている日には正木記念館の入り口の正木門も開いています。
門をくぐると右手に正木先生がいて、今もどっしりとした存在感で学校を見守っているかのよう。
せひ正木直彦先生の陶像に会いにきてください。

【参考文献】
東京藝術大学百年史 東京美術学校篇(財団法人芸術研究振興財団/東京芸術大学百年史刊行委員会)
国士大辞典(吉川弘文館)

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