横山大観とは?波瀾万丈な生涯と代表作をたどる

ライター
瓦谷登貴子
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近代日本画の巨匠として知られる横山大観。なかでも富士山を題材にした、数々の名画が有名です。他の画家も描いたにもかかわらず、「大観と言えば富士」と言われるほどで、今なお人気が続いています。

大観は明治、大正、昭和と激動の時代を生き、近代日本画の発展に一生を捧げました。誰もが認める日本を代表する画家ですが、絵の世界に入ったのは、20歳からと遅いスタートだったことは、あまり知られていません。また、輝かしい栄光を掴むまでは、苦難の連続でした。そんな大観の人生を追ってみたいと思います。

幸運なスタートからの波乱

大観は明治元(1868)年、水戸藩士・酒井捨彦(すてひこ)の長男として生まれました。やがて20歳の時に、母方の親戚である横山家を継ぎます。当時は、私立東京英語学校で英語を学んでいましたが、官立の美術学校が創設されると聞き、心が動きます。大観は突然に画家を志し、父の友人に3ヶ月ほど学んだだけで、受験に臨むのです。全く絵筆を持ったことがなかったのに、何かインスピレーションが湧いたのでしょうか?

名だたる画塾の門弟たちも受験する中で、無事に合格を果たします。明治22(1889)年、東京美術学校(後の東京藝術大学美術学部)の第一期生として入学した大観は、そこで生涯の師となる岡倉天心と出会うのです。

若くして東京美術学校の校長も務めた天心は、明治という新しい時代にふさわしい日本美術の創造を目指して、熱心に指導をしました。大観は天心や教授陣から、従来の流派の枠組みにとらわれない教育を受けたことが、後の人生に大きな影響を及ぼすことになります。卒業後、母校の助教授に就任し、画壇での出世作『無我』を発表と、順風満帆な日々でした。この作品は、無心の童子から、仏教的な悟りの境地が感じられると、注目を集めました。

『無我』明治30(1897)年 出典:ColBase

順調な画家生活をスタートさせた大観でしたが、思わぬトラブルに巻き込まれます。校長の天心が辞職に追い込まれる出来事があり、母校に勤めていた下村観山(かんざん)、菱田春草(ひしだしゅんそう)らと共に、辞職したのです。

生活苦のなか、師匠や同士と新しい芸術を模索

大観は、天心のもとに集まった同志たちと共に、日本美術院を設立します。在野の美術研究団体として研究を重ね、作品を発表します。しかし、その作品は世間から酷いバッシングを受けました。特に大観が春草と共に生み出した試みは、『朦朧体(もうろうたい)』と激しく非難されました。墨の輪郭線を描かずに、無線彩色で繊細なグラデーションから、気分や情感を表現する新しい日本画は、世間の理解が得られなかったのです。

その後も作品は売れず、妻、弟、娘を失う不幸が大観を襲います。明治39(1909)年には、美術院の経営難から茨城県五浦(いずうら)への移転を余儀なくされてしまいます。ここでも負の連鎖を断ち切ることはできず、生活は貧しく、新築したばかりの家が全焼するなど、不幸続きでした。当時のことを、大観は後に次のように語っています。「私と菱田君は餓死寸前まで来ていた。しかし私たちはそれに屈しないで、自己の信ずるところに進んだ」

生涯描き続けた富士の絵

明治から大正へと元号が変わる頃には大観の芸術も、広く認められるようになっていきます。そして朦朧体から飛躍した色彩感覚溢れた作品は、時代のムードと合い、世間の関心を集め出します。大観は「春、夏、秋、冬ばかりでない、朝、昼、夜とまた自ら異なっている」と、様々な表情を見せる富士の絵を、精力的に描き始めます。生涯に描いた富士の絵は、1500点。亡くなる直前に仕上げた作品も、富士でした。

金色の空を背景に、雲海に姿を現す富士を描いた『雲中富士』。白と青と金の色彩の対比が鮮やかで、モダンな印象を受けます。また同時に、琳派を熱心に研究した傾向も、強く感じられます。日本の伝統を取り入れて近代的に仕上げた大観流の富士と言えるでしょう。

『雲中富士』六曲一双の部分 大正2(1913)年頃 出典:ColBase

晩年に辿り着いた理想の日本画

盟友春草と、師匠の天心を見送った後、大観は観山と共に日本美術院の再興に力を注ぎます。その後、昭和に入ると、時局と密接に関わりながら、国民画家として、その立場を変えていきました。戦時下は国家や軍部へ積極的に協力したため、在野の美術団体を導く姿から信念の変化と受け取られたりもしました。しかし、皇国思想の強い水戸藩士の家に生まれた大観にとっては、矛盾していなかったのかもしれません。

敗戦の混乱から復興へ向う時期も、大観は絵筆を握り続けました。この時、大観は70半ばを過ぎていましたが、2人の妻を死別で失った後に得た賢夫人のサポートで、活発に活動します。戦後の一時期、伝統的な価値観の否定が行われ、日本画も例外ではありませんでした。洋画風の表現へと傾く画家が多いなか、大観は理想とする日本画を追求し続けました。かがり火に桜が照らし出された『夜桜』は、詩情豊かな日本の美を伝えています。

『夜桜(花)』昭和27(1952)年 出典:東京富士美術館

天心の志を受け継いで、日本美術院の中心となって活躍し、出品も続けましたが、昭和33(1958)年、ついにその生涯を終えます。享年89歳。明治41(1908)年以降、大観が暮らした家は、横山大観記念館として公開されています。昭和20(1945)年の空襲で焼失しますが、その後再建して、没するまでこの家で暮らしました。上野池之端不忍池のほとりにある記念館を訪れると、大観を身近に感じることができそうです。

横山大観記念館

アイキャッチ:国立国会図書館「近代日本人の肖像」https://www.ndl.go.jp/portrait/

参考書籍:横山大観の全貌(平凡社) 横山大観の世界(美術年艦社) 横山大観ARTBOX(講談社) 大観邸画業と暮らしと交流(求龍堂) 日本大百科全集(小学館)

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