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橋本雅邦ってどんな人?人材育成にも貢献し日本画に革新をもたらしたその功績とは

ライター
中野昭子
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日本最高峰の美術大学の一つである東京藝術大学。大学には素晴らしい講師陣が揃っていますが、講師たちはアーティストであることと教育者であることを両立させる難しさも感じているだろうと思います。
ところで日本画の黎明期に、生涯にわたって創作活動を続けながら、名だたる日本画の大家を指導した画家がいました。その画家の名は橋本雅邦(はしもとがほう)。雅邦はもともと狩野派の画家で、東京藝術大学の美術学部の前身である東京美術学校の発足に関わり、第一次の帝室技芸員のメンバーにも選ばれている日本画壇の重鎮で、教育面においても大きく貢献しました。
以下、画家としても教育者としても目覚ましい活躍を見せた雅邦の生涯についてご紹介します。

橋本雅邦筆『Landscape』明治時代(恐らく1885–89年) メトロポリタン美術館蔵

橋本雅邦ってどんな人?

雅邦の父は狩野派で、幕府や諸大名に仕えた御用絵師でした。雅邦は父から絵を学んだ後、狩野派の最後の大家とも言われた晴川院養信(せいせいいんおさのぶ)と、その後継者の勝川院雅信(しょうせんいんただのぶ)に入門します。入門先には既に狩野芳崖(かのうほうがい)がおり、雅邦と芳崖は生涯の親友となりました。

入門先で塾生の代表者である塾頭になるなど、頭角を現した雅邦は後に絵師として独立し、米国の哲学者・美術研究家であるアーネスト・フェノロサと岡倉天心(おかくらてんしん)による伝統絵画の復興運動に参加しました。このとき芳崖も一緒で、二人は新しい表現技法を模索し、東京美術学校の開校に向けて準備を進めます。
東京美術学校では、雅邦は主任を務めて多くの画家を育て上げました。またこの時期に、宮内省による美術・工芸品に関する顕彰制度である帝室技芸員のメンバーに選ばれています。

天心が美術学校騒動※で東京美術学校を辞職すると、雅邦も退職し、天心と共に日本美術院※の創立に携わりました。美術院での活動の傍らで後続者の指導への指導も活発に行い、次男の橋本永邦(はしもとえいほう)と三男の橋本秀邦(はしもとしゅうほう)も日本画家になっています。

※美術学校騒動……
明治31(1898)年に岡倉天心が帝室博物館(現・東京国立博物館)美術部長と東京美術学校校長を辞職するにあたって起きた学校騒動のこと。美校騒動とも称される。
経緯としては、帝国博物館の初代総長だった九鬼隆一(くきりゅういち)への更迭運動が起こり、帝国博物館理事兼美術部長を務めていた天心が、帝国博物館を辞職することで九鬼を留任させようとした。ところがこの時期、天心を誹謗する怪文書が全国各地に送られ、天心は東京美術学校の校長職についても辞職することになる。天心の辞職に伴って多くの教授が辞職しようとしたが、文部省が慰留工作を行って教授の一部は留任することとなり、騒動は収まった。
なお、本件で登場する「怪文書」なるものは一教員の私怨によるものに過ぎないが、騒動の背景には東京美術学校の設立に関する軋轢なども絡まっていて複雑である。

※日本美術院……
岡倉天心が東京美術学校を辞職した際、一緒に辞めた美術家を集め、谷中大泉寺にて結成した団体。その後、事実上の解散や再興など紆余曲折あるが、今も日本を代表する日本画の美術団体である。現代では日本美術院の公募展(展覧会)である「院展」と同義に扱われることが多い。

世界的に評価された橋本雅邦の画業

東京美術学校に務め、帝室技芸員にまで選抜された雅邦は、画家としてはどのような作品と功績を残したのでしょうか。

狩野派の御用絵師の家庭に生まれた雅邦はそのまま絵の道に進みます。しかし明治期には御用絵師の仕事がなくなり、加えて明治維新の時期に火災で家財を喪失、細々とした仕事で糊口をしのぐ日々が続きました。その後、兵部省の海軍兵学校で図係学係として就職します。

橋本雅邦筆『水雷命中之図』明治時代・19世紀 カンバス・油彩
出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp/
※雅邦の油絵。海軍兵学校での労働経験を画題に生かしたものと思われます。

そうした中、雅邦は西洋画に出会って衝撃を受けます。遠近法などの技法を取り入れるなどして西洋画の技術の研鑽を重ね、雅邦ならではの境地を開拓しました。そして明治15(1882)年に開かれた第1回内国絵画共進会へ出品した『琴棋書画図(きんきしょが)』が銀牌第一席を受賞します。フェノロサや天心と出会ったのもこの頃です。

そもそも「日本画」という言葉は西洋画への対立概念として生まれたものでした。フェノロサと天心は、日本の伝統的な絵画が廃れてしまうという危機感を抱いたため、伝統絵画の復興運動に参加するよう雅邦に懇願したのです。以降、雅邦は、同門の芳崖と共に、狩野派の描法を基盤としながら日本画と西洋画を両立させた画風を確立し、日本画の発展に貢献していきます。こうして西洋画の良さを取り入れながら日本画家を育てていくという流れが生まれたのです。

雅邦の作品は、国内のみならず、海外でも広く評価されています。明治33(1900)年のパリ万国博覧会に出品した『龍虎図』は銀賞を受賞しましたし、明治37(1904)年のセントルイス万国博覧会では『林間残照図』が最高賞を獲得しました。
伝統的なモチーフを踏まえ、狩野派の繊細な線使いで構成し、遠近法や色彩の新しさなどを取り入れた雅邦の絵は奇跡のようなバランスで成立しており、その新鮮な美しさは当時の鑑賞者を圧倒したことでしょう。
また雅邦は、技術ばかりではなく「心持ち」(概要としては、精神や想像力のこと)を表すことを重視したといいます。絵から伝わってくる気迫は、雅邦の深い精神性に由来するのだと思います。

動乱の時代における橋本雅邦の人間関係

雅邦が生きた時代は幕末の動乱があり、美術の世界も大きく動きました。雅邦を取り巻く人間関係も実に彩り豊かで、また時代を反映しています。

橋本雅邦筆『Boy with Cow at the River’s Edge』明治時代 メトロポリタン美術館蔵

雅邦が芳崖と共に参加した伝統絵画の復興運動の中心メンバーはフェノロサと天心ですが、フェノロサは雅邦より18歳年下で、天心に至っては27歳年下でした。一方で芳崖は雅邦の7歳年上です。これほど年代の違う4人が団結したのは、日本画のあり方への危機感と熱意があったからでしょう。
なお、芳崖は激しやすい性格で狩野派の師匠ともたびたび喧嘩をしていたといいますし、天心は放埓な言動で敵が多かったと言われています。穏和な性格だったとされる雅邦は、曲者揃いの美術家たちの中で、場の雰囲気を良くする稀有な存在だったのではないかと思います。

雅邦の東京美術学校や美術院での教え子は、横山大観(よこやまたいかん)、下村観山(しもむらかんざん)、菱田春草(ひしだしゅんそう)、川合玉堂(かわいぎょくどう)といった素晴らしい画家たちです。彼らを育て上げられたのは、恐らく雅邦が画家としても教育者としても傑出していたためだろうと思います。
なお玉堂は、明治28(1895)年の第4回内国勧業博覧会で、雅邦の『龍虎図屏風』と『十六羅漢』を見て弟子入りを決意したそうですが、歴史画で知られる島田墨仙(しまだぼくせん)も、玉堂と同じ絵を新聞で見て雅邦への入門を志したと言われています。多くの画家を魅了した『龍虎図屏風』は、後に近代絵画で初めて重要文化財に指定されており、今は静嘉堂文庫美術館に所蔵されていますので、鑑賞できる機会があるかもしれませんね。
(明治28(1895)年の第4回内国勧業博覧会で出品された『龍虎図屏風』は、明治33(1900)年のパリ万国博覧会で受賞した『龍虎図』とは別の作品です。)

雅邦が絵師として独立した時は、狩野派の絵の需要が減っていました。経済的な受難は長く続き、第1回内国絵画共進会へ出品した『琴棋書画図』が銀牌第一席を獲得した時、雅邦は既に40代後半にさしかかっています。そうした苦難の時代における模索が画風の確立にもつながったのでしょうし、多くの傑出した後継者を育成できたのは若い頃に苦労を重ねていたせいなのかもしれません。
一方で後発の画家たちは、御用絵師の家系で描くことにそれほど動機が必要なかったであろう雅邦と異なり、日本画と言うジャンルのあり方やモチーフに関して考察を重ねる必要があったなど、雅邦とはまた違った苦労や悩みを持っていたものと推測されます。

時代が動く時は、人の関係性も大きく動きます。日本画の黎明期に活躍した雅邦の、複雑で豊かな人間関係を知った上で作品を鑑賞すると、また違った感想が生まれるように思います。

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