日展の前身「文部省美術展覧会」とは?歴史や関わった人物を解説

ライター
山見美穂子
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文部省美術展覧会は通称「文展」と呼ばれる、日本で最初の官営の美術展覧会です。
日本画と洋画、またそれぞれの流派によっても対立のあった日本の美術界に、共通の場を設けることを目的として開催されました。

文展の開催を目指した人々

第1回文展が開催されたのは1907(明治40)年。
ときの内閣総理大臣は公家出身でフランスに留学経験のある西園寺公望(さいおんじきみもち)、文部大臣は大久保利通の次男で岩倉使節団とともに渡米留学し、帰国後は外交官として活躍していた経歴を持つ牧野伸顕(まきののぶあき)です。

開催に尽力したメンバーは、帝大の教授だった美学者の大塚保治(おおつかやすじ)、東京美術学校の校長に就任したばかりの正木直彦(まさきなおひこ)や、同校の西洋画科で教授をつとめていた黒田清輝(くろだせいき)など。

正木直彦は著作『回顧70年』の中で、文部省の官僚として渡欧した際に牧野伸顕から計画を聞いたときのことを、こう振り返っています。

「明治33年にドイツに居ったとき、私は岡田良平、福原鐐二郎とともにオーストリアを訪ねたことがあった。その時、オーストリアの公使は牧野伸顕さんで、イタリアから転じられたばかりのところであった。会って話してみると、大層美術のことに趣味を持っておられ、かつ欧米各国の美術施設にも精通していることが分かった。
(中略)
しきりに日本に於いても文部省あたりで、美術の奨励法を講ずべきであると力説せられ、それについてはフランスのサロンの如きものを文部省が主催すべきである、と述べられたのであった。もちろん我々はこれに大いに賛意を表し、共々この実現に努むべきことを約したのであった。」
『回顧70年』より

*フランスのサロン……1667年ルイ14世の時代にはじまった官営の展覧会のこと。ルーブル宮殿の「サロン・カレ」が会場の一室として使われたことから、「ル・サロン」と呼ばれた。

紛糾した審査委員のメンバー選考

文展開催のニュースは、「国が美術を奨励した」と日本の画壇を大いに盛り上げました。
しかし紛糾したのが、審査委員の選考です。

帝大総長の浜尾新(はまおあらた)、京都高等工芸学校の校長だった中沢岩太(なかざわいわた)、正木直彦、黒田清輝らが選考にあたり、まず名前があげられたのは日本画の大家だった橋本雅邦(はしもとがほう)です。

審査委員の打診を受けた橋本雅邦は、東京美術学校を退職して日本美術院を設立していた「岡倉天心(おかくらてんしん)が参加するなら受ける」と答えたそう。岡倉天心はその突出した才能から、東京美術学校で排斥運動がおこったという経緯があり、波乱含みです。そこで岡倉天心の先輩にあたる中沢岩太が「岡倉なら吾輩が抑えつける」とフォローにまわったのだとか。

岡倉天心は東京美術学校から日本美術院へと率いてきた「下村観山(しもむらかんざん)と横山大観(よこやまたいかん)も審査委員にするなら受ける」と答え、そうなると「東京の人数が多いから、京都の人数をもっと」と中沢岩太がリクエスト。もう、収拾がつきません。日本画の派閥争いは、のちに文展の解散にもつながっています。

新人の登竜門にも。文展初期の話題作

第1回文展は1907(明治40)年10月25日~11月20日、上野公園の元東京勧業博覧会美術館で開催されました。
日本画、洋画、彫刻の3部門からなり、日本画では京都の竹内栖鳳(たけうちせいほう)が出品した六曲一双の屏風「雨霽(あまばれ)」、東京の下村観山(しもむらかんざん)が出品した二曲一双の屏風「木の間の秋」、寺崎広業(てらさきこうぎょう)の「大仏開眼」などが評判となりました。

また、洋画では無名の新人が2等賞(最高賞)をとって話題をさらいました。
和田三造(わださんぞう)の「南風(なんぷう)」です。まだ20代半ばだった和田三造は雑誌のインタビューに答えて、「こう責任を負うては将来が困ります」と戸惑いを見せました。

「前夜には文部大臣の招待で帝国ホテルへ行ったが、イヤハヤ大苦しみ。コンな目に逢ったのは産まれて初めてです。私はご覧の通りの日本服で、従来洋服と云ふものを着たことがない。当夜も此儘で行くつもりでしたが先生(黒田清輝)のたってのすすめで、洋服の借り着です。靴が小さくて痛いのには非常に弱りました。」
『絵画叢誌』248号(明治40年12月)より

1908(明治41)年開催の第2回文展では、前年に東京美術学校を卒業したばかりの朝倉文夫(あさくらふみお)が「闇」という作品で彫刻部門の2等賞をとり、頭角をあらわしています。朝倉文夫は第3回に出品した「山から来た男」でも3等賞をとって、その評判を確かなものにしていきました。
こうして、文展は新人の登竜門としての役割も持つようになっていくのです。

文展分裂から帝展、日展へ

美術界を活気づけ、後世に残る多くの作品を世に送りだした文展でしたが、審査委員の分裂が顕著になり1918(大正7)年に幕を閉じました。
そして翌年から、文部大臣の管理下に新設された帝国美術院が主催する帝国美術院展(帝展)がスタート。帝展では審査委員は帝国美術院が推薦し、内閣が任命する中堅作家と決められていたそうです。

その後、1937(昭和12)年から改めて文部省の主催となった新文展の時代がありますが、戦火が激しくなった1943(昭和18)年に中断。戦後まもない1946(昭和21)年に日本美術展覧会(日展)として再開しました。日展は組織の改編などを経ながら今も続き、毎年秋に日本画、洋画、彫刻、工芸美術、書の5部門で開催されています。

アイキャッチ画像:『文部省美術展覧会創立二十五周年記念 遺作展覧会図録』より下村観山「木の間の秋」(国立国会図書館デジタルコレクション) 

【参考書籍】
日展史1 文展編1(社団法人日展)
世界美術全集 第32巻(平凡社)
世界美術全集 第33巻(平凡社)
国史大辞典(吉川弘文館)
改定新版 世界大百科事典(平凡社)

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