小林古径(こばやしこけい)という日本画家をご存知でしょうか。
大正から昭和にかけて活躍し、新古典主義という新たな画風を確立した画家の代表格でした。
小林古径の生涯を、その代表作とともに振り返ってみましょう。
小林古径の生涯と画業
明治時代に岡倉天心(おかくらてんしん)のもとに集結した日本美術院の画家たちが、「朦朧体(もうろうたい)」など新しい日本画の表現を模索し切り開いたとするなら、小林古径はそれを引き継ぎ、さらに高みを追求し日本画壇を牽引した画家といえます。
生い立ち
小林古径は、1883(明治16)年、新潟県中頸城郡高田土橋町(現・新潟県上越市大町)に生まれ、本名を茂(しげる)といいました。
父の株(みき)は元高田藩士で明治維新後は新潟県の役人となりました。茂が3歳の時に父の転勤で一家は高田を離れ新潟市へと転居し、その後も県内を転々とします。
父・母・兄・妹・祖母の6人家族でしたが、茂は少年時代に次々と家族を失います。4歳の時に母、9歳で祖母、12歳で兄、13歳の時には父を亡くして妹と二人きりになってしまいました。
師との出会いと画壇デビュー
1894(明治27)年、茂が11歳の時、東京美術学校で横山大観(よこやまたいかん)と同期だったという山田於菟三郎(やまだおとさぶろう)に日本画の手ほどきを受け始めたといわれています。
しだいに絵の道に進みたいと願うようになり、新潟で活躍していた遊歴画家の青木香葩(あおきこうは)に教えを受けて歴史画を描きながら画家となることを決意します。
1899(明治32)年、16歳の時に上京し、新聞小説等の挿絵画家として著名な梶田半古(かじたはんこ)の画塾に入門しました。
半古は当時、日本画新派の急先鋒であった岡倉天心が会頭の青年絵画協会の発起人に加わり、絵画共進会審査員も務める気鋭の画家でした。
毎日のように画塾に通った茂を半古は熱心に指導し、その様子はほとんど手を取らんばかりだったといいます。
この頃の半古塾には、前田青邨(まえだせいそん)、高木長葉(たかぎちょうよう)など十数人が在籍しており、後に奥村土牛(おくむらどぎゅう)も入塾しています。
茂は「古径」という雅号を半古からもらい、「写生」と同時に「画品(画の品格)」について教えられました。豊かな才能を発揮して画塾の中でも塾長的な存在となり、展覧会でも実力を認められるようになります。
岡倉天心との出会い
上京した古径は、本郷弓町にあった親類の屋敷の門長屋(武家屋敷などの前面に家臣などの住居として造った長屋)に、妹・ヨシとともに住むようになります。
ここで1907(明治40)年に第1回文展に出品した『闘草』、1912(明治45)年に文展出品の『極楽井』、翌年、紅児会展出品の『住吉詣』、1914(大正3)年に再興院展に出品した『異端』などが制作されています。
この古径が住む長屋を岡倉天心は二度訪れています。最初は1908(明治41)年頃のことで、古径にロンドンで開催される日英博覧会に出品する作品の制作を依頼するためでした。
二度目は1912(明治45)年3月、古径が29歳の時で、第17回紅児会で古径の作品を見て改めてその才能を認めた天心が前途を祝すために訪問しています。
この時、古径は三好マスと結婚したばかりで、天心は古径の生活にも気を配り、同年に実業家の原三溪(はらさんけい)にその援助を依頼しています。
紅児会への参加と再興院展への出品
古径は、「師の梶田半古と岡倉天心以外でもっとも影響を受けたのは、安田靫彦(やすだゆきひこ)と今村紫紅(いまむらしこう)である」と後に語っていますが、それは当時、意欲的で勢いのあった研究グループ、紅児会での交友によるものでした。
紅児会は、はじめ紫紅会と称し、小堀鞆音(こぼりともと)門下が始めた研究会で、意気盛んな実力派の会として注目されていました。
古径の才能を高く買っていた安田靫彦に勧められ、古径は1910(明治43)年に紅児会に入会します。紅児会展に出品した作風は自由でおおらか、ロマン主義的な古径芸術の基礎を築いています。
1914(大正3)年の『異端』は第1回再興日本美術院展で入選し、この時に同人に推挙され、以降は院展が主な作品発表の場となります。
古径は院展に『阿弥陀堂』『竹取物語』『出湯(いでゆ)』『麦』『芥子(けし)』といった作品を次々に出品しますが、紅児会風の情緒的な表現から写実的な表現へと変化していきます。
古径の初期の作風はロマン的ともいえる豊かな人間性を秘めており、青年時代の古径が文学作品を好んだことにも由来しているといわれます。しかし甘美に流されなかったのは造形としての絵画を常に意識したからで、この時期の写実画の代表といえる作品が『芥子』でした。
ヨーロッパ留学とその成果
1922(大正11)年、古径は前田青邨とともに日本美術院留学生としてヨーロッパに約一年滞在し、西洋美術を研究しました。
エジプト、ギリシャ、イタリア、フランスを周遊したのち、二人はロンドンで大英博物館が所蔵する『女史箴図巻(じょししんずかん)』の模写に取り組みます。
書名の「女史」は後宮の女官、「箴」は戒めの文という意味で、西暦300年頃の中国で専横を極めた当時の皇后一族をいさめるため、張華という人物が自らを女史に擬して「女史箴」の文章を著し、婦人としての徳を説きました。それを画家の顧愷之が「女史箴図」として絵画化したもので、まるで蚕の吐く糸のように細く柔らかな線描は「高古遊絲描(こうこゆうしびょう)」と呼ばれ、中国古典技法の最高峰とされました。
帰国後の古径の作風は、線の表現をさらに洗練させ、構図もより簡潔に変化したといわれます。この古画との出会いと、中世キリスト教美術とエジプト美術の洗練された様式美の発見が古径のヨーロッパ留学の収穫でした。
古径芸術の完成
帰国後の古径は1924(大正13)年、第11回院展に『犬と遊ぶ』を出品。その後も『機織(はたおり)』『鶴と七面鳥』『琴』『清姫』『髪』『弥勒』『孔雀』と、生涯の代表作を発表します。
この頃の作品は、画面全体も描線そのものの表現力を抑え、無駄のない純粋で清らかな格調高い描線となっています。
構図は単純化され、色彩は優美で華麗な中にも清澄を保って寡黙ながら含むところの多い端正な表現は新古典主義の完成を表し、同時に古径芸術の完成を意味していました。
1930(昭和5)年、古径は日本美術院の経営者同人の一人となり、名実ともに大観や観山についで日本美術院の支柱となります。
1935(昭和10)年に帝国美術院会員(のちの帝国芸術院会員・日本芸術院会員)となり、さらに1944(昭和19)年には帝室技芸員を拝命しました。
東京美術学校教授就任と晩年
1944(昭和19)年、東京美術学校(現・東京藝術大学)の教授となって後進を育てることにも力を注ぎ、その熱心な指導が学生たちに強い影響を及ぼしました。
1950(昭和25)年、67歳の時に文化勲章を受章。
円熟期ともいえる昭和10年代から晩年にかけては『白日』『紫苑紅蜀葵(しおんこうしょっき)』『楊貴妃』といった大作を制作するいっぽう、『猫』『鉢花』といった小品にも厳格でありながら味わい深い、澄み切った画境を伝えました。
1952(昭和27)年の『菖蒲(しょうぶ)』を最後に院展への出品は途絶え、1957(昭和32)年4月3日、74歳の生涯を静かに閉じました。
画風の変遷と新古典主義の完成
古径ほど代表作の多い画家は珍しいといわれますが、その画風は多くの変遷をたどりました。
時代の影響を受けて歴史画から学び、大正期には南画風の大和絵、細密描写などを試みてしだいに古典的世界へ向かっていきます。
大きな転機は、ヨーロッパ留学中に模写した大英博物館の『女史箴図巻』の模写でした。細く、やわらかいがピンと筋の通った緊張した線、また緻密で単純化された構図が緊張感の高い画面を作り出しました。
古典を強く意識する中、やがて古典を知的に解釈し、厳格な構図と研ぎ澄まされた線、緊張感みなぎる画面と透明感あふれる色彩により、新古典主義と呼ばれる画風の代表格となります。
寡黙で、どちらかというと内向的な人だったという小林古径。寂しがりやでロマンチストな一面もあったといいます。
古径の作品は、時に厳格で完璧すぎると評されることもありますが、その人柄のようにどこか観る人をほっとさせる温かさも感じられるような気がします。
画風の変遷を楽しみながら、改めてじっくりと鑑賞してみてはいかがでしょうか。
画像提供:
小林古径記念美術館
東北大学附属図書館
参考書籍:
近代日本の画家たち-日本画・洋画 美の競演(平凡社)
ARTIST JAPAN-36小林古径(デアゴスティーニ・ジャパン)
美術の窓-再発見‼小林古径の美学(生活の友社)
週刊朝日百科 世界の美術 戦前の日本画画壇(朝日新聞社)