まるで謎解き?仏像研究と藝大の古美研、歴史と向き合うことで見えてくるもの

ライター
中野昭子
関連タグ
インタビュー コラム

教育プログラムであり、研究成果であり、施設であり、人とのつながりでもある「古美研」。前回の記事では東京藝術大学(藝大)教授の松田誠一郎(まつだせいいちろう)先生に、そんな古美研の奥深い魅力を教えていただきました。続く本記事では、古美研に参加する前に松田先生が研究なさっていたことと、古美研に参加した後で広がった研究内容、また作家における美術史の重要性など、幅広く語っていただきます。

奈良の仏像研究の魅力

――松田先生は、古美研に参加する前は、何を研究していらっしゃったのでしょうか。

一番研究していたのは、奈良時代の仏像ですね。
私はもともと奈良が好きで、中学二年生の時に、東京から一人で奈良へ旅行したんですね。その時に東大寺を訪れたのですが、当時、戒壇院(かいだんいん)では、四天王像※が安置されている、仏壇の上まで昇ることができました。
四天王像は、今は外側を向いて安置されているのですが、当時は内側を向いていて、手を伸ばせば触れられるような距離感でした。そのような場所で鑑賞してみると、四天王像の表情が息づいているように思われ、眼差しに生彩を感じ、強い感動を覚えたのです。

竹内久一作 広目天立像(模造)1892(明治25)年、原品=奈良時代・8 世紀 東京国立博物館 出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp/
東大寺戒壇堂の広目天立像を木彫技法で模刻したもの。

※戒壇院戒壇堂の四天王……四天王は広目天・増長天・持国天・多聞天からなる四方を守る護法神で、戒壇堂の壇上四隅に立つ四天王像は天平彫刻の傑作として知られる。国宝。

私は、大学は藝大ではなく、東京学芸大学に入学し、卒業論文では、唐招提寺金堂の盧舎那仏坐像(るしゃなぶつざぞう)※の銘文の研究をしました。盧舎那仏の台座には、さまざまな場所に制作に携わった人の名前が書いてあるのですが、読めない名前があったんですね。そこには「練奥子□道福」と記載されていたのですが、書道や書跡の先生方に見ていただいたところ、上三文字の筆跡と下三文字の筆跡が異なるので、字句の意味も三文字で切れるということが分かりました。

「練奥子□道福」の記載。□の部分は不明だが、意味は三文字で切れるとのこと。

※盧舎那……すべてのものをあまねく知慧(ちえ)と慈悲の光で照らす仏身のことで、毘盧遮那(びるしゅな)とも呼ばれる。

「練奥子」という字句は、人名と思われます。「練」という姓は、日本の古代には見られませんが、中国では見ることができます。姓としては稀な部類に属しますが、浙江省や福建省など、揚子江より南の地域に分布する姓でした。
そこで、中国の地図で「練」姓の人物の出身地に印をつけ、あわせて『東征伝』から知られる鑑真一行の足跡を線で描き込んだところ、鑑真一行の足跡が、「練」姓の分布地域を囲むような感じになりました。そこで、台座銘の「練奥子」は、江南の地域で鑑真一行と合流して日本に来た俗人=仏工ではないかと考えたわけです。
唐招提寺の木彫像には、中国・盛唐期の影響があらわれていると言われているのですが、脱活乾漆造(だっかつかんしつぞう)※である盧舎那仏像にも、同様に中国からの影響があるのではないか、といったことを研究しました。

※脱活乾漆造……粘土で原型をつくり、表面に麻布を貼り固め、像内の粘土を除去して中空にし、麻布の表面に木屎漆(こくそうるし:麦漆に木材や樹皮の粉末を混ぜたペースト)を盛り付けて形にする仏像制作技法。

当時、学芸大で歴史学の勉強はしていたのですが、指導教員だった木村茂光先生に、美術史を勉強するなら藝大だろうと薦められました。当時、藝大には水野敬三郎先生がいらっしゃったので、試験を受けて大学院から藝大に入りました。入学してから「古美研に行った方がいい」と薦めて下さったのも水野先生でしたね。

盧舎那仏を調査した時の話をする松田先生。中国の地図に練姓の分布と鑑真一行の足跡を描き込んだとのこと。

仏像研究はミステリー小説の謎解きに通ずる!?

――仏像研究に関しても、歴史的なアプローチと技術的なアプローチがあると思いますが、先生はどちらになるのでしょうか。

私は歴史の方から研究しています。仏像そのものを見て魅力を感じることももちろんあるのですが、歴史を学び、研究することで見えてくることもありますね。

――お話を伺っていると、先生の研究は、時代の謎を追いかけるという、まるでミステリー小説のような魅力がありますね。

はい、研究にはそういった魅力がありますね。
例えば、私は修士論文を書いた後、東京国立博物館(東博)にある、多武峰(とうのみね)※に伝来した十一面観音菩薩立像(じゅういちめんかんのんぼさつりゅうぞう) を研究したことがあります。この像は、ビャクダン材を用いた「檀像」で、全体としては中国の隋から初唐にかけての時期、7世紀の作品に通じる特徴が見られます。ところが、お顔の表現はとてもエキゾチックで、インド風というべき特徴を示しています。そのため、いつごろ、どういう人がつくったのだろうと不思議に思いました。

十一面観音菩薩立像 唐時代・7世紀 中国 出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp/
この十一面観音菩薩立像は、明治まで奈良県多武峯の談山神社に伝来した。

多武峰(とうのみね)……奈良県桜井市南部にある山、及びその一帯にあった寺院のこと。藤原鎌足と中大兄皇子が、蘇我入鹿討伐の密談を行った山として知られる。

多武峰の十一面観音像は、右手の手首に数珠を掛けられているとともに、少し分かりにくいのですが、全身を飾る装身具・瓔珞(ようらく)の末端が掛けられています。
十一面観音像の形については、お経の中に規定があります。玄奘(げんじょう)訳の『十一面神呪心経』という経典には、「右手は数珠を掛ける」とあり、阿地瞿多(あじくった)訳の『陀羅尼集経』(だらにじっきょう)という経典には、「右手は瓔珞をつらぬく(掛ける)」とあります。つまり多武峰の像には、中国・唐代の7世紀半ばころに翻訳された2つの経典の規定が、ともに反映されているわけです。十一面観音の表現として、こうしたことはきわめて珍しいことと言えるでしょう。

この像が伝わった奈良県の多武峰は、藤原鎌足の長男である定恵(じょうえ)※によって開かれたと伝えられます。定恵は653(白雉4)年に留学僧として唐に渡り、長安の慧日道場(慧日寺)に住み、玄奘の弟子である神泰(じんたい)に師事しました。定恵が唐に渡る少し前、651(白雉2)年には阿地瞿多訳の経典が長安の慧日寺で翻訳され、渡唐後の656(白雉7)年には、玄奘訳の経典が同じく長安で翻訳されています。
私は、多武峰像の示す珍しい表現を、唐における定慧の人間関係や場所に関わる歴史的事実と結びつけて、この像が定恵によって唐から日本にもたらされたと推測しました。

定恵……生没年643-665年。飛鳥時代の学僧で、遣唐使に従って唐を訪れ、玄奘の弟子である神泰について学んだ。多武峰に寺院を建立して鎌足の遺骸を改葬したとする説もある。

大海や砂漠をわたって仏教の教えを伝えた求法僧たちは、3つの大切なものを持ち帰りました。
ひとつ目は仏舎利(ぶっしゃり)で、これはブッダの遺骨、身体の一部ですね。ふたつ目は経典で、これはブッダの言葉です。最後は仏像、これはブッダの偶像です。とりわけビャクダンで造られた檀像は尊ばれました。
インドに求法の旅に出た玄奘は、仏舎利や大量の経典とともに檀像を持ち帰っています。多武峰の十一面観音像も檀像です。多武峰像の示すインド風の面貌には、玄奘がもたらしたインド彫刻の影響があらわれている可能性があります。定恵は、唐の首都・長安で、玄奘がインドから持ち帰った檀像を実際に目にしていたかもしれません。
エキゾチックな雰囲気をたたえた多武峰像の背後には、阿地瞿多・玄奘・神泰・定恵というインド・中国・日本の僧侶を介した、3国のつながりが暗示されているように思われるのです。

多武峰の十一面観音について語る松田先生。

――これは、当時の最先端文化ですね。

インドから中国または朝鮮に伝わり、さらに日本に伝わることを意味する「三国伝来」という言葉がありまして、この多武峰の十一面観音像は、まさに檀像を通して三国伝来を体現しているのだと思います。この像のお顔は、鼻梁が高く秀でて眼窩がくぼんでいる点に特徴があり、また眉がいわゆる「弓眉」ではなくて、への字型に近い形をしていますね。これもインド彫刻からの影響と推測できます。

――一つの像から、実にさまざまなことが読み取れますね。

そうですね。また、この像は東博に納まる前は、藝大の前身である東京美術学校にありました。
なぜ美術学校にあったのかと言うと、アーネスト・フェノロサが多武峰で購入し、1889(明治22)年の開校時、美術学校に入ったのです。その後、まもなく1892(明治25)年には、美術学校から帝室博物館へ譲渡されました。その理由について、東京国立博物館の『列品録』には「廣ク公衆ノ縦覧ニ供」するためと記載されています。
また、この時には、同じく美術学校にあった奈良時代の日光・月光菩薩像(京都・高山寺旧蔵)のうち、日光菩薩像も博物館に譲渡されています。破損甚大な月光菩薩像は美術学校に残して研究用の資料とし、保存良好な日光菩薩像は博物館に移して一般に公開したわけです。多武峰像も製作優秀な中国製の檀像として、博物館に移されたものと思われます。

作家は座標軸をつくることが重要

――今、先生にしていただいたような話は、藝大の学生たちも聞くことができるのでしょうか。
また、彫刻科や油絵科、日本画科の学生も美術史を学ぶのか、学ぶとすれば美術史はどのような位置づけになるのでしょうか。

藝大のカリキュラムには日本美術史がありますが、今の話は中国彫刻にまつわる話になりますので、授業ではあまり話さない内容ですね。
多くの実技科において、「日本美術史概説」は選択必修科目に指定されており、教職科目でもあるため、美術学部の多くの学生が履修します。藝大美術学部における美術史は、制作者である学生が、自分たちの立ち位置を知るための歴史的な座標軸を学ぶことに他なりません。その意味では、歴史上の作家たちも、ライバルということになりますね。
私自身も「日本美術史概説」を担当していますが、毎年、日本の仏像の講義をしています。制作に真剣に向かい合う学生たちに、通りいっぺんの知識に基づいた講義では通用しない気がするのです。深く知っていて、大好きな作品を選んで講義をする、そうすることで言葉に実感がこもり、これから制作の第一線で活躍する若い人たちにエールを送ることができるように思うからです。

――制作に悩んでいる人には、座標軸をつくることが重要ですね。

そうですね。現在、制作に取り組んでいる学生には、過去の作品に向き合うことも重要だと思います。東大寺法華堂執金剛神像(奈良時代・8世紀)や円成寺大日如来像(平安時代後期・1178<治承2>年、運慶作)など、日本彫刻史上の傑作にも試行錯誤の痕が確認されています。
制作過程における修正や変更は、制作に対する作家の思いを知るための直接的な手がかりであり、興味深い研究対象であると言えるでしょう。

――藝大においては、そういった修正や修復、分析などの研究はいつぐらいから盛んになったのでしょうか?

私の専門分野である日本彫刻史と関係の深い、大学院の文化財保存学・保存修復彫刻分野に関して言えば、古くより修復事業や模刻制作を通した実証的研究が行われてきました。
ことに、この15年間ほどは、博士後期課程における研究制作が一段とさかんになり、博士論文のかたちで研究成果が発表されています。3D測量やX線透過撮影などを併用した精密な模刻制作を通して、古典作品の技法材料や制作工程を復原する、優れた研究業績が蓄積されつつあります。
先ほどお話しした円成寺大日如来像や東大寺執金剛神像に関する研究も、その成果の一部です。

――藝大では、同時代の人や過去の人、また先生や教授など、いろいろなライバルがいますね。

美術史の世界では、同時代の水平方向と、過去などの垂直方向の座標軸を意識することになります。作品を自分の眼で見ることは、思いのほか難しいことです。自分の眼で見ているのか、それとも他者の眼で見ているのか、自覚的になる必要がありますね。
その上で、過去の人から学んでいくと、自分の独自性を持って見ることができる瞬間があります。それは、自分の眼や作品を覆っていた鱗が剥がれるような感覚です。

仏師快慶※の耳に着目した、水野敬三郎先生の研究があります。快慶の作品では、若年期の作例から晩年期の作例に至るまで、耳の輪郭や襞のかたちが一定しており、大きな変化が見られません。快慶の事例に着目すると、耳の形で仏像の作者を識別することができるように思われます。

※快慶……平安時代末期から鎌倉時代初頭にかけて活躍した仏師。繊細で優美な作風で、その絵画的な美しさは、後世の仏像彫刻に大きな影響を与えた。

快慶作品には多くの在銘像があるのですが、中には、後の時代に記されたものなど、銘記に疑問のある作品もあります。その場合、耳の形を照合してみると、銘記の信憑性を判断することができます。こうしたフィルタリング作業によって、より精度の高い快慶作品のグループを抽出することが可能となり、快慶作品の鑑識や研究の水準が大きく向上しました。
「耳の形に気がついたとき、快慶を理解できたと思った」と、水野先生から伺ったことがあります。こうした発見を経て、先行研究が相対化され、初めて自分の眼で作品が見られるようになるのだと思います。

また、運慶※作品でも、快慶とは異なる、独特の耳の形がみられます。ただし、例外もあります。1186(文治2)年に興福寺西金堂の本尊像として再興され、現在、興福寺国宝館に陳列されている木造の仏頭は、現在では運慶作品のひとつとされています。ところがこの仏頭の耳は、他の運慶作品とは異なっています。そのため、かつては奈良仏師の成朝作とする説もあったのですが、「類聚世要抄(るいじゅうよようしょう)」という史料に、運慶との関係を示す記事が見出され、運慶作品と考えられるようになりました。
耳による作者識別論にとってはちょっと困った作品なのですが、史料の信頼性は高く、今のところ、運慶作品にみられる耳のかたちの振れ幅として理解するほかないように思います。

※運慶……平安時代末期から鎌倉時代初頭にかけて活躍した仏師。天平以来の彫刻の古典を踏まえつつ、写実的で豪壮な作風であり、特に東国の武士たちに高く評価された。

耳による作者識別論は、他の時代の仏像にも応用されています。
例えば、東大寺法華堂の執金剛神像、日光・月光菩薩像、戒壇堂の四天王像は、いずれも同じ耳の形を示しており、同一工房の制作になると考えられています。

また、東寺講堂諸像のうち、創建期に制作された五菩薩像のうち4体と五大明王像5体は、それぞれ同じ耳の形をしています。五大明王像の場合、降三世明王(ごうざんぜみょうおう)の足下に踏まれる大自在天と烏摩妃(うまひ)も、五大明王像と同じ耳の形をしています。そのことから、五菩薩像と五大明王像は、それぞれ別の工房によって制作されたことが推測できるでしょう。
五仏像はすべて後補されているため、断言はできませんが、東寺講堂の3組の本尊像(五仏・五菩薩・五大明王)は、3つの工房によって分担製作された可能性が高いと考えられます。

5体が完存している五大明王像※を見てみると、できばえに微妙な差異があり、中尊の不動明王像や東方尊の降三世明王像がことに優れたできばえを示しているように思われます。鎌倉時代の運慶工房の事例を参照すれば、工房を主催する大仏師が中尊像を担当し、その弟子の仏師たちが順次、四明王像を分担製作した可能性があります。大学の研究室に譬えて言えば、研究室の教授が中尊を、助手が東方尊を、大学院生たちが南方尊以下の三尊をそれぞれ担当した、そんな感じかもしれません。
こんなことを空想しながら眺めてみると、東寺講堂の密教像がごく身近に感じられ、生き生きとして見えるように思われます。

※5体が完存している五大明王像……五大明王像は、中央に不動明王、四方に降三世明王・大威徳明王・軍荼利明王・金剛夜叉明王が配置されている。

仏像について熱弁する松田先生。仏像も工房でつくられていて、その中でも大学のような関係性があったと思うと、親近感がわきますね。

――先生は、つくり手である彫刻家への憧れなどはありますか?

私にとって、彫刻家は尊敬の対象です。
松田研究室には、芸術学科の学生のほか、博士論文を執筆している保存彫刻の大学院生もよく訪れます。保存彫刻の学生は、彫刻家の立場から3D画像やX線画像を解析し、技法材料や制作工程を合理的に推測していきます。彼ら彼女らの研究は、論文を書いて終わりではなく、遠い時代に活躍した優れた仏師と同じ方法を用いて、同じように優れた仏像を造らなければならないのです。時には判断しがたい難しい問題について、明日までに答えが欲しいと頼まれることもあります。
私はただ学生の話しをよく聴き、悩みを分かち合うことぐらいしかできません。論文指導とは名ばかりで、むしろ学生たちから教わることの方がはるかに多いように思います。

――今回のお話を伺って、アートはものの見方が大切なんだと強く実感しました。

今回お話ししたのは、私流のものの見方です。美術史の立場から、学問的にものを見る場合には、より厳密に根拠を示さないといけない可能性もあります。とはいえ、学説といえども絶対のものではありません。後から新しい根拠が発見され、ものの見方が覆されることもあります。ともかく根拠が明瞭で、理屈が通っていることが重要なんだと思います。

学問の立場から少し離れて、鑑賞者の立場から言うならば、優れた作品には、解釈の多様性を許容するような表現の豊かさがあるように思います。いろいろなことを楽しく空想しながら、ものを見ることも大切なように思います。古美研に行って自分自身の眼で古美術作品を見ること、ヒントは存外そんなところにあるのかもしれません。

松田誠一郎プロフィール

1960 年  東京生まれ
東京学芸大学教育学部卒業、東京藝術大学大学院美術研究科博士後期課程修了
1984 年 東京藝術大学美術学部非常勤講師
1989 年 第1回国華賞
1990 年 東京藝術大学より学術博士の学位取得
1991~99 年 京都市立芸術大学美術学部専任講師
1999 年 東京藝術大学美術学部専任講師
2001 年 東京藝術大学美術学部准教授
2009 年 東京藝術大学美術学部附属古美術研究施設長
2012 年 東京藝術大学美術学部教授
著書『東大寺と平城京 日本美術全集第4巻 奈良の建築・彫刻』共著(講談社)、『カラー版 日本美術史』共著(美術出版社)、『週刊朝日百科 日本の国宝15京都/広隆寺』責任編集(朝日新聞社)、『醍醐寺大観 第1巻 建築・彫刻・工芸』共著(岩波書店)など多数。

おとなの古美研:詳細はこちらのサイトから

おすすめの記事