日本初の動物園「上野動物園」写真でたどる140年の歴史

ライター
米田茉衣子
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緑豊かな上野公園内にある東京藝術大学上野キャンパス。その隣には、年間来場者数日本一を誇る「東京都恩賜上野動物園」があり、東京ドーム約3個分(14ha)の敷地にパンダ、ゾウ、キリンをはじめ、約300種3,000点の動物たちが暮らしています。実は、この上野動物園、明治時代に日本で最初に開園した日本最古の動物園だって知っていますか? 今回は、明治、大正、昭和、平成、令和、時代とともに変貌を遂げてきた上野動物園の約140年間の歩みを写真資料とともに辿っていきたいと思います!

日本初の動物園「上野動物園」はどうやってできたの?

「日本に動物園をつくる」……この構想の発端は幕末。
そして、そんなビジョンを胸に抱き、後に実現まで漕ぎつけた人物がこちらの羽織袴姿の男性です。

田中芳男肖像(『横浜鎖港使節・パリ万博使節他写真(田中芳男)』より) 国立国会図書館蔵 出典:国会図書館デジタルコレクション

東京国立博物館の創設者の一人で、「日本の博物館の父」とも称された、博物学者・田中芳男。田中は、シーボルトの教えを受けた理学博士・伊藤圭介のもとで医学や本草学を学んだ後、幕府の洋学研究教育機関である、「蕃書調所(ばんしょしらべしょ)」に出仕。1867(慶應3)年に、江戸幕府が初めてパリ万国博覧会に公式参加した時には、「日本産昆虫標本の出品」の幕命を受け、江戸近郊で捕獲した昆虫標本56箱を携えて海を渡り、パリ万博に参加します。
 パリでは、欧米諸国の最先端の技術を目の当たりにして、「見るもの聞くものに驚くばかりだった」という田中。渡航中、博物学者の田中はセーヌ川沿いの「国立自然史博物館」を訪れ、その付属の植物園と動物飼育場も見学し、日本にも博物館や動物園のような施設をつくる必要があると感じたようです。
 帰国した田中は、元薩摩藩英国留学生で、同じくパリ万博に参加した文部大丞・町田久成とともに、明治新政府の博物局で日本国内における博覧会開催を推進。また、町田と田中はウィーンで開催される万国博覧会の御用掛に任命され、日本政府の万博出展業務にも携わりました。このウィーン万博では、政府の指示で日本中から出品用の物産が集められ、その収集品を一般の人びとにも公開するため、内山下町(現・千代田区内幸町)に博物館が開館されました。同館には付属の動物飼育場も設けられ、万博出品のため各地から集められた動物など約30種(クマ、イノシシ、シカ、タヌキ、オットセイ、水牛、孔雀など)を飼育することになりました。この動物飼育場が今日まで続く、上野動物園の原点になっています。
 明治6(1873)年に町田と田中は、博物館、動物園、植物園、図書館が複合した文化施設を上野公園に設立したい旨を建議。この複合的な提案の背景には、田中がパリで見た、動植物園を備えた「国立自然史博物館」の姿があったと考えられます。提案は一筋縄では了承されませんでしたが、粘り強い交渉の末、上野公園内に広大な敷地を手に入れることに成功し、明治15(1882)年、内山下町にあった博物館(現・東京国立博物館)は上野公園に移転。同時に、博物館に隣接した付属動物園が建設され、内山下町の飼育場の動物たちをここに移し、さらに新たに採集・購入・寄付された動物も加わって、ついに、日本初の動物園「上野動物園」が開園しました。

明治時代の上野動物園の園内の様子。手前に入口があり、中央の円形の建物は水禽舎。(雑誌『風俗画報』明治29年発行より) 提供:(公財)東京動物園協会

拡大図。「とら」「くじゃく」「らくだ」「くま」などの文字が見える。(雑誌『風俗画報』明治29年発行より) 提供:(公財)東京動物園協会

明治・大正時代の上野動物園

 開園当初の上野動物園は農商務省の所管で、国産の動物が主体となっていましたが、一部外国産の動物もいたようです。また、開園半年後には、オオサンショウウオ、金魚、フナ、コイなどの淡水魚を飼育する日本初の水族館「観魚室(うおのぞき)」も完成しました。一躍東京の人気観光名所となった上野動物園には、開園1年目から約20万人の見物客が訪れました。明治19(1886)年には上野動物園の所轄が農商務省から宮内省に移管。「帝室動物園」として運営されることになりました。

明治時代の猛禽舎。 提供:(公財)東京動物園協会

 それでは、明治時代に世間を驚かせた動物園の動物たちを見てみましょう!

その① トラ

明治19(1886)年、世界巡業の途中で来日したイタリアのサーカス団のトラが日本で出産。そのうち、オス・メス2頭のトラが上野動物園にやってきました。ネコ科の猛獣は上野動物園史上初。秋葉原で生まれたこの2頭のトラは、「神田っ子虎」という愛称で人気者となり、この年の入場者数は前年比35.8%増を記録しました。

その② ゾウ

 今も動物園のスター的存在であるゾウ。ゾウが上野動物園にやってきたのは、明治21(1888)年。タイ(シャム)の皇帝より日本の帝室へオス・メス2頭のゾウが寄贈され、上野動物園で飼育することとなりました。この時も多くの見物客がゾウを一目見ようと動物園に足を運び、入園者数は急上昇しました。

その③ キリン

明治40(1907)年、横浜港にドイツ船パスボルグ号でオス・メス2頭のキリンが到着しました。船で東京湾に向かったキリンは、日本橋の浜町河岸から陸揚げされ、3月18日に上野動物園に来園。オスは「ファンジ」、メスは「グレー」と呼ばれて話題を呼び、この年の年間入園者数は100万人の大台に乗りました。しかし、当時の飼育設備は万全とは言えず、残念ながらこの2頭のキリンは来園してから1年以内に亡くなってしまいます。

明治40年に来園したキリン 提供:(公財)東京動物園協会

 このように、明治時代の中頃から末期にかけて、上野動物園では帝室への寄贈やドイツ、イタリア、オーストラリア、アメリカなど、海外諸国の動物園との交流を通して、海外の珍しい動物たちを次々と初公開しています。来場者数は年々増加の一途を辿りましたが、その一方で、日本で初めて飼育する動物を前に、動物園職員たちは日夜試行錯誤の日々であったと想像されます。
 大正時代には上野動物園にある変化が訪れます。大正13(1924)年、昭和天皇のご成婚を記念し、上野動物園は上野公園とともに東京市に下賜され、「上野恩賜公園動物園」という名称となりました。以来、市民に親しまれる市民のための動物園として、その性格を変化させていきました。

昭和の大改造!近代的な新生・上野動物園へ

昭和 12 年頃の動物園の園内案内図。 提供:(公財)東京動物園協会

 大正末期に宮内省から上野動物園の運営を引き継いだ東京市は来場者数のさらなる増加を図り、動物園改造計画を立案。昭和に入ると、園内の大改造に着手します。ホッキョクグマ舎、ヒグマ舎、クマ舎、オットセイ舎、カバ舎など、次々と新たな動物舎が完成。昭和2(1927)年から昭和13(1938)年に行われた「昭和の大改造」によって、明治・大正時代の動物舎はほとんどすべて姿を消し、より近代的な新生・上野動物園として生まれ変わりました。
 それでは、昭和の大改造で生まれ変わった、昭和初期の園内の写真を見てみましょう。

ゾウ舎。右側、鼻を高く掲げたゾウがいるのは、昭和7年につくられたプール付きの運動場。左側のゾウの顔のレリーフがついた建物は昭和10年に完成。 提供:(公財)東京動物園協会

昭和4年にできた水族室。淡水魚やオオサンショウウオが飼育されていた。 提供:(公財)東京動物園協会

昭和7~8年ごろに完成した日本で最初のサル山。サル山の岩は、房総半島の山々を参考にしてつくられた。 提供:(公財)東京動物園協会

 この時代、園内にいた記録が残る珍しい動物を列挙してみます。種子島特産の「ウシウマ」。これはウシのような毛をしたウマで、天然記念物に指定されていましたが、第二次世界大戦直後に絶滅してしまった動物。南アメリカ産の「キンカジュー」。アライグマ科の動物で、尻尾を枝に巻きつけてぶらさがるなど面白い動作で人気があり、上野動物園ではカステラを食べていたそうです。
 他にも、アマミノクロウサギ、ナマケモノ、マメジカ、アメリカバイソンなどがいたようで、インドゾウやライオン、クロヒョウといった人気の大型動物もやってきました。また、東京市の運営となり、市民の教育やレクリエーションのためのイベントも盛んに催されるようになりました。

昭和初期の入場券。 提供:(公財)東京動物園協会

「忘れることができない日」上野動物園と戦争

 しかし、上野動物園の大盛況の裏で、戦争の足音は徐々に忍び寄っていました。昭和12(1937)年に日中戦争、昭和14(1939)年に第二次世界大戦が開戦。国内の物資不足に伴って、動物園では徐々に飼料の確保が難しくなり、職員たちは苦心しながらさまざまな手段で飼料の確保に励みました。また、軍への鉄材の供出のため園内のベンチや柵が回収され、職員の中から召集を受けて従軍する者も多数いました。
 そして、いよいよ日本本土への空襲が始まり、東京での大規模な空襲も目前に迫りつつあった、昭和18(1943)年8月。上野動物園の歴史において最も辛い歴史となった「猛獣処分」の命令が都の上層部より下されたのでした。戦時中、上野動物園の陣頭に立った福田三郎園長代理、そして戦前戦後に園長を務めた古賀忠道陸軍獣医(当時)の2名は、この時の胸中を下記のように記しています。

八月十六日は、私にとって忘れることが出来ない日となった。昼前、公園課長から直ぐ来るようにと電話で呼び出された。猛獣処分の件にちがいないと直感した。私は、殺さねばならない動物の一覧表を書きあげて持っていった。課長室には、同じく呼び出された古賀さんが、陸軍獣医学校から来ていた。私の予想は的中した。しかも1ヶ月以内に毒殺せよということだった。(中略)動物園へ帰った私は、小雨が降りはじめた園内を一巡した。いま思い返しても、あのときほど胸のふさぐ思いで歩いたことはない。近づいていくと、私の足音、顔を覚えていて、すり寄っているトラやゾウの目を正視することはとてもできなかった。 ――福田三郎『実録上野動物園』より

私はその時、ああ、いよいよ来るものが来たと感じました。このことに至るまでに、都の首脳部としては、相当議論をされたようでした。私たちは、その決定に対して、ただうなだれるよりほかはありませんでした。 ――古賀忠道「動物と私」(月刊『うえの』)より

亡くなる前のゾウのトンキーと担当の飼育係たち。 提供:(公財)東京動物園協会

 正式な記録には残されていませんが、命令を受けた福田、田中はゾウなどの一部の動物だけでもなんとか地方の安全な動物園に疎開させることはできないか、と算段したようですが、その案が都の上層部に採用されることはありませんでした。
 そして、命令が下った翌日より猛獣処分は開始され、処分の対象となったライオン、トラ、ヒョウ、クロヒョウ、チーター、マレーグマ、インドゾウ、ホッキョクグマ、ツキノワグマなど、合計14種類27頭の動物たちの命が犠牲となりました。

戦時殉難動物慰霊祭。 提供:(公財)東京動物園協会

カボチャの種1合で入園券1枚プレゼント!?アイデア勝負の戦後復興

 「猛獣処分」を行った2年後の昭和20(1945)年8月、第二次世界大戦は終結。終戦当時、上野動物園の園内は草が生い茂り、いたるところが芋畑になっていたそうです。この廃墟のような状態から、戦後の上野動物園の復興はスタートしました。
 職員たちは園内を片付けながら、厳しい食糧難の中、動物の飼料集めに奔走します。進駐軍やデパートの食堂、大学の学生食堂の残飯を提供してもらったほか、食糧倉庫の火事で焼け残りの雑穀があるなどと聞けば、すかさずリヤカーや大八車で受け取りに行き、都内の公園の緑地を借りてジャガイモ、サツマイモ、大麦、小麦などの栽培も行いました。
 このような苦しい状況の中、当時の園長古賀忠道は名案を思い付きます。それは、「カボチャの種1合、乾草200匁、青草1貫匁を持参した方は入場無料、さらに入場券1枚プレゼント」というもの。この苦肉の策は大反響を呼び、開園直後からカボチャの種を持った子どもたちで大賑わい。受付となった案内所は夕方にはかぼちゃの種で足の踏み場もなくなるほどで、飼料不足の大きな助けとなったそうです。
 このように、地道な努力で運営体制を整えていった上野動物園。同時に、戦後の子どもたちに少しでも楽しみを提供しようと、さまざまな新しい試みも始めました。園内映画館「かもしか館」の設置、子どもが小動物と触れ合える「子供動物園」、動物の生態や飼育について学べる「サマースクール」、サルがミニ電車の車掌に扮する「おさる電車」などの企画は、荒廃した時代の親子に暫しの安らぎや喜びを与えたことでしょう。

「子供動物園」内で始められた「子供乗馬」の様子。 提供:(公財)東京動物園協会

 戦後4年が経った昭和24(1949)年には、園地の拡大と戦後初となるアメリカの動物園からの動物の受け入れ(ライオン、ピューマ、コヨーテ、スカンクなど)が行われています。また、この年の6月にはインドのネール首相のもとへ、日本の子どもたちの「ゾウをください」という手紙800通以上が届けられ、この想いを受け止めたネール印首相の取り計らいによって、同年9月、15歳のメスのインドゾウの「インディラ」が上野動物園に贈られました。同時期に、タイからも2歳半のメスのインドゾウ「ガチャ子(日本名:はな子)」が届けられ、この2頭のゾウの来日に、日本の子どもたちは歓喜しました。

インドから来たゾウのインディラとタイから来たゾウのはな子の対面。 提供:(公財)東京動物園協会

  昭和27(1952)年には、「創立70周年記念祭」という83日間に及ぶ大規模なイベントが開催されています。「鳥と飛行機展」「世界動物園展」「動物史展」などのさまざまな展示、野外大ステージで行われるライオンショー、小劇場ではアシカやチンパンジーの曲芸……。戦災からの復活を告げるかのような、華やかで見どころ満載の記念祭は大好評を博しました。

高度経済成長期、そして、平成・令和の発展

 以降、高度経済成長期を経て現在にいたるまで、上野動物園は常にバージョンアップを繰り返しています。
 その変化の一部を見てみましょう。施設面では、昭和32(1957)年には園内モノレールが開通、昭和34(1959)年には着工から約6年間かかり「アフリカ生態園」が完成、昭和43(1968)年からは約10年間に渡る大規模な改造計画が進められました。東京藝術大学建築学科も改造案を提出するなど、このプロジェクトに参加しています。

東京藝術大学建築学科が制作した動物園の改造計画模型。 提供:(公財)東京動物園協会

 平成に入ると、「ゴリラ・トラの住む森」「ゾウのすむ森」「クマたちの丘」「ホッキョクグマとアザラシの海」など、動物たちの福祉に配慮した、より広く自然の状態に近い飼育施設がオープンしました。
 この時期に上野動物園にやってきた動物も見てみましょう。「70周年祭」と同じ年には、ケニアからカバ、クロサイ、シマウマ、キリンなど、アフリカの動物たちが来園しています。そして、上野動物園のシンボル的存在とも言えるパンダの初来園は昭和47(1972)年。日中国交回復の証として、中国からジャイアントパンダの「カンカン」と「ランラン」が来日、入園者数は急増し、700万人を越えました。

ジャイアントパンダ初公開に押しよせた人びと。 提供:(公財)東京動物園協会

 そのほかにもコウテイペンギン、ワラビー、ウォンバット、オランウータン、ガラパゴスゾウガメなどさまざまな動物が海外からやってきました。また、昭和の終わり頃から、上野動物園は希少動物の種の保存に力を注いでおり、アイアイ、ジャイアントパンダ、スマトラトラなど、数多くの動物を日本で初めての繁殖に成功させています。
 日本初の動物園として明治時代に誕生し、今日まで日本の動物園のパイオニアとして常に新たな挑戦を続けてきた上野動物園。時代時代の「よりよい動物園のあり方」を模索し、変貌を遂げてきたその姿は、まるで動物園そのものが留まることを知らない生命体のようにすら感じられます。来たるべき未来、上野動物園は、果たしてどのような姿を私たちに見せてくれるのでしょうか…?

令和2年にオープンした飼育展示施設「パンダのもり」。ジャイアントパンダの生息地である中国四川省の自然に近い環境が再現されている。 提供:(公財)東京動物園協会

現在の上野動物園の園内マップ。 提供:(公財)東京動物園協会

 

東京都恩賜上野動物園概要

住所:東京都台東区上野公園9-83
開館時間:9:30-17:00(入園および入園券の販売は16時まで)
休館日:月曜日(月曜日が国民の祝日や振替休日、都民の日の場合はその翌日が休園日)、
年末年始(12月29日~翌年1月1日)
アクセス:【東園 正門へ】JR上野駅「公園口」から徒歩5分、京成電鉄上野駅から徒歩10分、東京メトロ銀座線・日比谷線上野駅から徒歩12分
【西園 弁天門へ】JR上野駅「不忍口」から徒歩5分、京成電鉄上野駅から徒歩4分、東京メトロ銀座線・日比谷線上野駅から徒歩8分
【西園 池之端門へ】東京メトロ根津駅から徒歩5分
入園料:一般600円、65歳以上300円、中学生200円
公式webサイト:https://www.tokyo-zoo.net/zoo/ueno/
公式Twitter:https://twitter.com/UenoZooGardens

参考文献:東京都編集・発行『上野動物園百年史』
(『上野動物園百年史』は公益財団法人東京動物園協会により、インターネット上で公開されています。 URL:https://www.tokyo-zoo.net/ebooks/ueno100/index.html

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