誕生から140年。上野駅の歴史と、構内で見られるアート作品

ライター
ふじまるあやか
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コラム

明治時代に建設されてから、東京の「北の玄関口」と呼ばれ、交通の要所として大きな役割を果たしてきた上野駅。

歌の歌詞などにも数多く登場し、特に東北、北陸、北海道といった北日本の人々に親しまれ、心のよりどころにもなってきました。

東北生まれ、東北在住ライターの私も、子どもの頃に初めて東北新幹線に乗った時の発着駅がまだ東京駅ではなく上野駅だったことを思い出します。

上野駅の歴史を調べてみると、今まで知らなかったたくさんの発見がありました。

上野駅の15番線ホーム付近にある石川啄木の歌の歌碑。「停車場」は駅のことで、故郷の訛りが懐かしく、啄木の故郷である岩手県をはじめ多くの東北人たちがごった返す駅の人ごみの中に訛りを聞きにゆく、という歌。

上野駅の歴史

さっそく上野駅の歴史をたどっていきたいと思います。

上野駅の誕生

上野に駅ができたのは1883(明治16)年7月28日のこと。木造の仮駅舎として開業しました。

午前6時、「善光号」と名付けられた蒸気機関車にけん引された上野発、熊谷行きの一番列車が発車しました。大勢の人々が見にやってきたといいます。一編成の列車で、一日2往復だけの運行でした。当時の上野はモダンな盛り場で、上野の山には公園や動物園もでき駅前には広場がありました。

西南戦争後の明治政府には財源が乏しかったことから、民間の手でお金を集めて鉄道を敷設し、これが東京府(ふ)の中心地、上野を起点にした「高崎線」です。翌年の1884(明治17)年6月に明治天皇や皇族方が招かれ、高崎線の開業式が盛大に行われました。

1885(明治18)年7月に煉瓦造りの駅舎が完成し、大宮駅から宇都宮駅に至る区間が利根川渡河区域を除いて開通すると、上野駅がターミナルとして繁盛します。

明治時代の上野駅構内 出典:東京都立図書館デジタルアーカイブ

鉄道建設は青森に向かって延長し、1891(明治24)年に青森まで26時間の線路が開通します。

1906(明治39)年11月、これまで私鉄であった日本鉄道が国有化され、1909(明治42)年10月に秋葉原-上野-青森間が東北本線と定められました。

上野駅から発車した山の手線

高崎線が赤羽から分岐し、品川までの20.8㎞が開通したのは1885(明治18)年のことでした。

その途中に、当時は東京府郡部の丘陵地帯であった目白、新宿、渋谷、目黒に4つの停車場が設けられ、これを「品川線」と呼んでいました。品川線には煙の出ないポール式の電車が運転され、当時は蒸気機関車しか見たことがなかった明治の人々に驚きを与えました。

さらに池袋停車場ができ、品川線の池袋と高崎線の田端との間に鉄道が開通すると、これは「豊島線」と名付けられ、間には巣鴨と大塚の停車場も開設されます。ポール式の電車が、品川発赤羽行きと、池袋から分岐して豊島線に乗り入れ、田端へ行く電車が蒸気列車と交互に運転していました。

1910(明治43)年になると、烏森というところに新橋停車場ができ、旧江戸城の濠に沿って線路が延び、有楽町、呉服橋にも停車場が開設。この電車は上野駅を始発とする東京府郡部の山の手を大きく回る経路で往復運転され、これが現在の山手線となりました。

上野山付近を走る山手線電車 出典:東京都立図書館デジタルアーカイブ

関東大震災と復興

1923(大正12)年9月1日の関東大震災で、上野駅は駅舎が焼失してしまいます。

この日、上野駅の構内には発車寸前の列車2本に300名ほどの乗客がいましたが、建物の天井が音を立てて崩れ、すさまじい土埃が舞う中をいっせいに玄関に向かって駆け出しました。駅前の広場には、慌てて避難してきた近隣の人々も多くいました。

そこへ日暮里方面から2本の列車が到着します。日暮里と上野間の線路に異常がないことが判明したので、上野駅ではやや間をおいて赤羽行きの列車を出発させてホームに残っている乗客を少しでも減らそうとしました。

関東大震災発生直後に上野駅へ殺到する避難者 出典:東京都立図書館デジタルアーカイブ

地震発生時刻が昼食支度の時間帯だったため、煮炊きしていた七輪やガスが倒れて大規模な火災があちこちで起こります。

家財道具を背にして、あるいは荷車に積み込んで来た人々が、上野駅の広場に逃げ込んで、広場もいっぱいとなり、ホームまで人が溢れます。

家を焼かれて逃げ場を失った人々は上野駅を安全だと思っていたのか、あるいは上野駅ならば郷里にいつでも帰れるという安堵感を誰もが抱いていたのかもしれません。

刻々と増え続ける避難者を赤羽や田端に移送するも、やがて線路まで人が溢れて機関車の運転ができなくなってしまいました。

深川や浅草方面で燃え上がっていた炎は、風向きが変わって上野駅構内に燃え移り、9月2日午後5時30分、ついに駅舎とホームが焼け落ちてしまいました。

消失直後の上野駅 出典:東京都立図書館デジタルアーカイブ

上野公園は市中からの防火がうまくいったために周辺で焼け出された人が多く集まり、避難所となります。

即席のバラック小屋が建てられ、上野駅も震災から2週間後の9月23日に仮駅舎で営業を再開。同時に、焼け出された人たちが東北の郷里に帰れるように無賃乗車扱いを8日間にわたって実施し、3万3千人以上を輸送したといいます。

震災後の1925(大正14)年9月、上野駅南口の駅前に地下鉄工事が始まり、同年の11月には上野-東京間の東北本線電車線(現・京浜東北線)、高架旅客線が開業しました。

地下鉄が浅草まで開通したのは2年後の1927(昭和2)年12月のことで、これが東京地下鉄道(現・東京メトロ銀座線)で、日本で初めて開通した地下鉄となりました。

開通した地下鉄駅の様子。写真には「東洋唯一」と記載がある。出典:東京都立図書館デジタルアーカイブ

新駅舎の完成

1932(昭和7)年4月、かねてより建設中だった鉄筋コンクリート造りの上野駅舎が完成します。仮駅舎のバラック造りから、北の玄関口にふさわしい豪華な駅舎に生まれ変わりました。

1932(昭和7)年に完成した新駅舎。改修を重ね、現在もこの建物を使用しているところがある。 出典:東京都立図書館デジタルアーカイブ

旧博物館動物園駅

ところで、上野駅から徒歩15分ほどの場所に「旧博物館動物園駅」があります。

この駅は1933(昭和8)年に開業し、京成電鉄本線の京成上野駅から日暮里駅間の地下駅として、帝室博物館(現・東京国立博物館)や上野動物園の最寄り駅として利用されてきました。

しかし乗降客の減少などにより1997(平成9)年に営業を停止し、2004(平成16)年に廃止。現在は出入口にあたる建物を見ることができます。

代々、皇室で引き継がれてきた「世伝(せいでん)御料地」に建てられたことから、西洋風の荘厳な造りとなったそうです。

旧博物館動物園駅出入口

2018(平成30)年に鉄道施設として初めて「東京都選定歴史建造物」に選ばれ、駅舎もリニューアルされました。この時、新設された出入り口の扉は東京藝術大学美術学部長である日比野克彦氏のデザインによるもので、上野エリアの新たな名所となっています。

戦争と上野駅

軍国色の風潮が高まる1940年(昭和15)年2月、軍事輸送が強化され、上野から宇都宮、水戸、渋川、軽井沢方面など近距離の旅行が制限されました。旅行は戦勝祈願の神社参拝だけが許されたといいます。

第二次世界大戦下では、政府は兵員輸送などの軍事輸送を無賃で輸送し、さらに運賃収入の12%を軍事協力の名目で納入させました。

空襲の危機にさらされ、約750万人が疎開しました。その大半は上野駅を利用し、東北方面に向かったといいます。

上野駅は戦災から免れたものの、終戦直後に入線する列車は窓が割れ、座席の布はずたずたに敗れている状態でした。他の駅舎や線路、車両が爆撃を受けたため鉄道事情は非常に悪く、上野駅でも乗客が客車にあふれ、乗れない者はデッキや客車の屋根によじ登り、乗れれば運がよいと思うほどの混雑ぶりだったとか。

上野駅の地下道には、浮浪児と呼ばれた戦災によって親を失った多くの子供たちが生活していました。その様子が映画の『鐘の鳴る丘』や『君の名は』などに戦後風俗史として描かれています。

集団就職列車

戦後の混乱を乗り越え、日本は神武景気といわれる好況が続き、各企業が人手を求めるようになります。中学を卒業したばかりの若者が「金の卵」ともてはやされ、東北地方などへ企業の採用係が出向きました。

求人は学校単位で大きく決められ、集団で就職する方法が各地で用いられたので、彼らが上京するために貸切られた汽車は「集団就職列車」というネーミングで呼ばれるようになります。東北各地から本格的に臨時列車が走るようになったのは1954(昭和29)年頃からでした。

こうして東京で社会人生活が始まった人が多かった昭和30年頃には、望郷をテーマにした歌が数多く流行します。

集団就職で東京にきた少年の上野駅への思いを唄った「ああ上野駅」(作詞:関口義明、作曲:荒井英一、歌:井沢八郎)の歌碑が上野駅不忍口のガード下に残る。

時代の変遷とともに、集団就職列車が廃止されたのは1975(昭和50)年3月のことでした。

1999(平成11)年9月11日には、集団就職列車で使われていた上野駅18番線が廃止され、「就職列車が着いたホームが廃止」と感傷的に報道されています。それだけ上野駅に思い出を持つ人が多かったということでしょう。

新幹線と上野新駅の完成

上野駅といえば、新幹線のイメージが強いという方も多いのではないでしょうか。しかし当初は上野駅に新幹線駅を建設する予定はなかったようです。

東北新幹線の駅が建設されることが決定したのは1977(昭和52)年11月のこと。
東北、上越新幹線の始発駅をめぐり、上野がある台東区が早くから誘致運動を積極的に行っていたにも関わらず、国鉄による両新幹線の建設計画は「上野駅の地下ルートを通過する」のみでした。

ところが、住民の中でくじけずに誘致運動を再開しようという気運が高まり、数々の建設請願の署名運動や政治活動の末に「新幹線の東京駅集中は防犯上好ましくないので、地下鉄駅を建設して上野駅をターミナル駅とする」案が採用されたのでした。

地下駅となった上野新駅は1985(昭和60)年3月14日に東北新幹線の上野駅として開業します。はじめはその2年後の予定でしたが、東北新幹線が東京駅まで延伸したのが1991(平成3)年6月20日のこと。

さらに北陸新幹線が開業して、「かがやき」・「はくたか」が上野駅に一部停車するようになったのは2015(平成27)年3月14日でした。

明治期以来、日本の歴史とともにあった上野駅は、時代の流れに沿ってさまざまな変化を遂げ、現在も私たちを出迎え、見送り続けています。

みなさんも上野周辺に出かけた際には、上野駅の歴史にも思いを馳せてみてはいかかがでしょうか。

上野駅で見られるアートの歴史

深い歴史を刻む上野駅構内には、時代ごとに数々のアート作品が飾られています。最後に上野駅で楽しむことができるアート作品をいくつかご紹介したいと思います。

猪熊弦一郎作『自由』

1951(昭和26)年、上野駅中央改札口に洋画家の猪熊弦一郎(いのくまげんいちろう)氏が制作した『自由』が架けられました。

『自由』猪熊弦一郎作

朝倉文夫作『三相』・『翼の像』

1958(昭和33)年の上野駅開設75周年を記念し、「東洋のロダン」と呼ばれた彫刻家、朝倉文夫(あさくらふみお)氏の『三相』が建てられました。これは智・情・意のそれぞれの相を表した三体の女性像で、中央改札口で見ることができます。またグランドコンコースには、同氏による『翼の像』があります。

平山郁夫作 ステンドグラス『昭和六十年春 ふる里・日本の華』

1985(昭和60)年 3月、上野駅3階新幹線コンコースに日本画家の平山郁夫(ひらやまいくお)氏のステンドグラス作品『昭和六十年春 ふる里・日本の華』が設置されました。2002(平成14)年に焼きを改修した際に、現在の中央改札外コンコースに移設されています。

宮田亮平作 ステンドグラス『上野今昔物語』

2009(平成21)年2月に開業した銀座線上野駅に駅チカ商業施設「エチカフィット上野」が2017年12月にリニューアルオープンしました。これを記念し、日本を代表する金工作家の宮田亮平(みやたりょうへい)氏の原画によるステンドグラス『上野今昔物語』が地下1階改札外コンコース(9番出口付近)に設置されました。 

『上野今昔物語』原画・監修:宮田亮平  画像提供:公益財団法人 日本交通文化協会

上野駅で見られるアートがほかにもたくさんありますので、ぜひ探してみてください。

参考:
・新幹線大上野駅(株式会社 日本文芸社)
・鉄道ピクトリアル№782【特集】ターミナルシリーズ上野(株式会社 電気車研究会)

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