ディープな奈良の仏像巡り・東京藝術大学教員同行ツアーを密着取材!その1

ライター
瓦谷登貴子
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仏像ブームが続いています。寺を巡ってお姿を愛でる女性たちを「仏女(ぶつじょ)」と呼ぶ現象も出て来ました。そんな人気の仏像巡りに、東京藝術大学教員が同行してガイドをしてくれる夢のようなツアーが登場! 古都・奈良での特別拝観の仏像や、地元民も知らない仏像との出合いなどを密着取材しました。充実の2日間を紹介します。

古美研って何?

今回のツアー名は、「おとなの古美研(こびけん)第1回~大和に伝わる珠玉の御仏を訪ねて」ですが、古美研とは、どういう意味なんでしょう? 1日目の旅に同行して下さった古美術研究施設助教・荒木泰恵先生にお聞きしました。「古美研とは『古美術研究旅行』の通称です。東京藝術大学美術学部で約120年続いている伝統的な科目で、第2次世界大戦で中断しただけでずっと続けてきました。それが、新型コロナウイルス感染拡大のために、2年間は開催できなかったのです」。中断の期間はオンラインと関東周辺を回る旅行で切り抜けましたが、「このままではノウハウが途切れてしまう」と、令和4(2022)年は感染対策を徹底して開催したそうです。

写真提供:やまとびとツアーズ

明治29(1896)年に校長を務めていた岡倉天心※1が、制作のために古典を学ぶことを重要視していた為、奈良・京都の社寺に伝わる仏像など古美術作品の現地研修をカリキュラムに組み入れたことが始まりです。「昔は東京から夜汽車に乗って現地入りして、時間をかけて歩いて回ったと聞きます。お寺の宿坊に泊まったこともあったようです」。美術学部の必修科目で、大学院美術研究科と、音楽学部の一部でも実施しています。

岡倉天心 国立国会図書館「近代日本人の肖像」https://www.ndl.go.jp/portrait/

今回のツアーの生みの親である美術学部先端芸術表現科教授の八谷和彦先生は、「古美研のカリキュラムを一般の方にも知ってもらいたいと思い、発案しました。豊富な知識のある先生方に気軽に質問できる旅は中々無いですし、年齢を重ねた大人だからこそ、より深く感じ取れることもあるんじゃないでしょうか」

※1 美術行政家、美術界の指導者、美術史家、思想家、東京美術学校(東京藝術大学の前身)の設立に関わり、明治23(1890)年に校長に就任。

古美研についての詳しい内容は、こちらの記事をお読み下さい▼
藝大生の修学旅行?謎のイベント「古美研」ってなんだ?

室生寺・金堂の仏像と対面

専用バスに乗って、まず向かったのは室生寺。「女人高野」として知られていますが、このように呼ばれるまでには、長い歴史があったようで、到着すると荒木先生のレクチャーが始まりました。「元々は奈良時代の終わり頃に、山部親王(やまべしんのう、後の桓武天皇(かんむてんのう))の病気平癒のために、興福寺のお坊さんたちがこの場所へ来て祈ったことが始まりなんです。祈りの甲斐あって病が治ったことから、この場所に興福寺の別院を建立。その後真言宗に変わり、当時は高野山は女人禁制だったけれど、室生寺は許したので女人高野と呼ばれるようになったのです」

写真提供:やまとびとツアーズ

仁王門をくぐり石段を登っていくと、弥勒堂(みろくどう)と金堂(こんどう)が見えて来ました。弥勒堂の「弥勒菩薩立像」は一木造りの仏像。「弥勒菩薩は右足が少し前に出ていて、未来をイメージさせますね。未来に現れて人々を救うと言われる仏像なのです」。この仏像が造られた平安時代後期は、末法思想※2で人々は不安な気持ちを抱えていたとか。解説を聞いてから対峙すると、何だか寄り添ってくれているような気分になりました。荒木先生の専門は東洋美術史で、インドから中国、日本を含む仏教美術の研究をされています。時間ができると、中国などへ1人旅するのが趣味なのだそうです。

金堂  写真提供:やまとびとツアーズ

続く国宝の金堂は、五間の単層寄棟(たんそうよせむね)造りです。特別拝観ということで、緊張しながら建物の中へ。外陣(げじん)から拝む仏像は、間近で迫力がありました。中央の「中尊 釈迦如来立像」は平安時代前期を代表する一木像で、堂々としたお姿。「朱色の衣が流れるようなひだになっていますね。これは漣波式(れんぱしき)と呼ばれる独特の衣文(えもん)です。大きな波の間に、2つの小さな波があるのが特徴で、室生寺様とも呼びます」。仏像の光背(こうはい)※3には、ヒノキの板に美しい模様が描かれていて、色彩がくっきりと残っていて驚きました。両隣には「薬師如来立像」と「文殊菩薩立像」。薬師如来の従者と言われる「十二神将立像」の内6像が、背後の仏像を守るかのように前面に安置されていました。

金堂仏像 写真提供:室生寺
※2 仏教の歴史観で、末法に入ると仏教が衰えるとする思想。日本では平安時代後期から鎌倉時代にかけて流行。
※3 仏像の背後についている、仏身から放射される光明を象徴的に表す荘厳具(しょうごんぐ)。

森林に映える美しい五重塔

金堂の脇を山に沿って登っていくと、国宝・五重塔が出現。秋晴れの晴天で、木々と塔とのコントラストが際立ちます。「塔の上の部分に注目してください」と荒木先生。少し小高い場所に参加者と集まって、凝視してみると……。確かに、何かある! 「最上部の九輪(くりん)の上には、通常は水煙(すいえん)と呼ばれる火焔(かえん)の形の飾りがありますが、この塔には宝瓶(ほうびょう)が取り付けてありますね」。ある僧が竜神を瓶の中に閉じ込めたからという伝説が残っているとか。山の斜面を利用して造られた塔は、平安時代初期の建立で、屋外に立つ五重塔の中で国内最小なのだそうです。

最後は、寶物殿(ほうもつでん)に祀られている仏像を拝観しました。「国宝・釈迦如来坐像」は、どっしりとして安定感があります。もと金堂安置の「国宝 十一面観音菩薩立像」はつつましく上品な表情が美しく、同じく「地蔵菩薩立像」の板光背には、金堂本尊像の板光背とよく似た華麗な文様が描かれていました。これらの仏像は、どれも一木造り。前面に立つ「十二神将立像」の中に、立ったまま頬杖をついて物思いにふけるユーモラスな像が。この十二神将立像は造形が優れていて、この形を真似て造られた像が多くあるそうです。

「向って右側の釈迦坐像は、平安時代前期のものですが、衣文に注目して下さい。大きいひだと小さなひだが交互にありますね。波がひるがえるのを表していて、翻波式(ほんぱしき)と呼ばれます。漣波式と一緒に是非覚えて帰ってください」。衣の表現の違いなど、今まで全く気づかなかったので、とても興味深いです。翻波式の方がエッジが効いていて、漣波式は繊細な波の印象です。

「平安時代に造られた奥の仏像と、鎌倉時代に造られた十二神将立像の違いも感じて欲しいですね。平安時代の貴族文化が、仏像にも現れています。十一面観音菩薩は頬がふっくらとしていますが、体つきはきゅっと締まっていますね。また台座が華やかで、平安時代前期の様式を伝えています」。仏教美術に詳しい荒木先生のよどみない解説が魅力的で、仏像の沼にはまりそうになってきました。

ここで荒木先生から「地蔵菩薩と、その後ろの光背で何か気づくことはありませんか?」との質問が。確かに、地蔵菩薩と、光背とのサイズが合っていないような……。「違和感がありますよね。光背の頭光部分は後頭部に合わせるのが通常ですが、頭の上に光背がきています。光背の大きさに比べて像が小さいですね」。この後に拝観する安産寺で謎が解けるそうで、何だかドキドキ。

地域で守られる安産寺の地蔵菩薩

安産寺は近鉄三本松駅から徒歩約7分ほどの、小高い場所にありました。常駐の住職はおらず、地元の自治会で管理されているのだそう。畳敷きのお堂で世話役の方たちからお茶を頂くと、くつろいだ気分になりました。奥へ進むと、地蔵菩薩が安置されている収蔵庫が。「宇陀川が増水した時に、このお地蔵様が流れ着きまして。安置する場所を探して運んでいる時に、ここから動かなくなってしまいました。これは何かのご縁と思い、それからお堂を建ててお祀りすることになったそうです」。村に伝わる話を世話役の方が話してくれました。

写真提供:やまとびとツアーズ

収蔵庫のスペースは狭いので、至近距離で拝むことができます。目は切れ長で鼻が高く、とても美しいお姿に、心を打たれました。「恐らく江戸時代ぐらいに、何らかの理由で室生寺からこちらの方に移ってこられたようです」と荒木先生。この地蔵菩薩の衣も、流れるような漣波式の衣紋です。ぐるっと回って拝観すると、左手の袖に衣が幾重にも重なっていて、それが後ろへなびくようになっているのが見られました。

帰りがけに、「また、来て下さいね」と声を掛けて頂きました。毎月9日に開帳されているそうです。重要文化財の地蔵菩薩が地元で管理されていることに驚きましたが、とても大切にされていることも伝わってきました。室生寺にある光背と、ここの地蔵菩薩を合わせると、ぴったりくることは、既に奈良国立博物館で特別展示もされて立証済みなんだとか。なぜ移ってこられたのかは、わからないそうですが、この地で愛されるお姿も、また味わい深いと思いました。

なら歴史芸術文化村で、学芸員からレクチャー

安産寺を後にして向ったのは、「なら歴史芸術文化村」。全国初の本格的な文化財修復と展示が見学できる施設として、令和4(2022)年3月にオープンしました。産直野菜売り場や伝統工芸品の展示販売など、多様な施設もあり、道の駅として登録されているのも特徴です。

文化財修復展示棟の1階には、土器や埴輪などを復元する工房と、歴史的建造物の修理を行う工房があり、見学者はガラス越しに作業工程を見ることができます。神社を解体してこの場所へ運び、数年がかりで修復作業を行ったりするそうです。

続いて学芸員の竹下繭子さん・萩谷みどりさんの案内で、地下の絵画や書跡などを修復する工房を、ガラス越しに見学しました。「掛軸などは、裏打ちが硬くなると剥落が始まるので、大体50年から100年に1度修復します」。巻き伸ばしを柔軟に行うために、裏打ちには接着力の弱い、10年以上寝かせたのりを使うと聞いて驚きました。

次に入ったのは、仏像を中心とした木造彫刻の修理工房。ニホンミツバチが巣をつくったと話題になった、當麻寺(たいまでら)の仁王像の修理中でした。「阿形像の口からミツバチが入ったので頭を解体して、ミツバチを移す作業を行いました。損傷が激しかった頭部と比べて、胴体部分は膠が効いていたので、しっかりしていましたね」。仏像の修復は「美術院国宝修理所」が担当しています。岡倉天心が明治31(1898)年に創設した「日本美術院」が起源と聞くと、立ち寄るのにふさわしい場所だと思いました。

『室生寺板光背』講座を堪能

学芸員からのレクチャーの後には、別室で特別講座を受講。通常のツアーでは、ここまでは中々無いと思うのですが、これぞ「おとなの古美研」という感じです。講師は、古美術研究施設・非常勤講師の和田圭子先生です。スライドを使いながら、室生寺の仏像や板光背についてのお話で、実物を見てきたところなので、スーッと理解できて学生時代に戻ったかのような気分に。

写真提供:やまとびとツアーズ

中でも板光背についての解説は興味深いものでした。「板光背は数材の板を中央で矧ぎ合わせ、その板状の表面に文様や化仏を彩画であらわす光背で、奈良地方を中心に各地に平安時代の遺品が見られます。特に室生寺像の板光背は彩画や文様が華麗で、周縁部に描かれた唐草文様の葉先がゆらめく焔(ほのお)の様に表現されています。また、赤・橙・緑・青を組み合わせた繧繝彩色(うんげんざいしき)が用いられています。これは色の濃淡の変化を同系色の色帯を数段並べることであらわす彩色法で、文様に立体感を与え、華やかさを出す効果があります。この彩色法は中国から日本に伝わり、奈良時代の正倉院御物の工芸品などに用いられています。ただ奈良時代には繧繝(うんげん)による文様の輪郭を赤で描くのが通常ですが、室生寺像では白を輪郭に施しています。この輪郭の色の変化は、日本では9世紀後半頃から一般的となり、平安時代後期へと引き継がれて行きます」。板光背から広がるディープな世界に、興奮しました。

こうして、怒濤のおとなの古美研ツアーの1日目は終了。何だか普段あまり使っていない脳を刺激したからか、この日は中々寝つけませんでした。続く2日目も、驚きがいっぱい! 次回に続きますので、乞うご期待。

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