高橋由一は、文政11(1828)年生まれの洋画家です。本格的な西洋の油絵技法を習得し、多くの作品を描いた「日本で最初の洋画家」と言われます。
その代表作の一つが、教科書にもよく載っている『鮭』(重要文化財)。年末の定番の贈り物、サケをなぜ彼は描いたのか。そして、武士であった由一がなぜ洋画家となったのか、詳しく解説します。
刀から筆にチェンジ
高橋由一は、現在の栃木県佐野市にあたる佐野藩の藩士として江戸時代後期に生まれました。家系は代々藩の中で剣術指南を務める生粋の武士の一族。そんな中で由一は幼い頃から絵がうまく、剣術修行のかたわら、狩野派の絵師に絵画の技術も学んでいたそうです。彼の絵の腕前を知った祖父からの許しを得て、由一は画学の道に進むことを許されます。
由一が20代の頃の日本は、開国を求める外国の圧力にまさにさらされ始めていた時代でした。そうした時代の中で由一が目にしたのが、西洋で印刷された「石版画」。その緻密かつ真に迫る描写に圧倒された由一は、西洋画の研究を志すように。そして文久2(1862)年、数え34歳の由一は幕府の「蕃書調所(ばんしょしらべしょ)」の「画学局(ががくきょく)」に入局して、同い年の画家・川上冬崖(かわかみとうがい)らとともに洋画の技法を学びます。
そこで彼らが参考にしたのが、当時横浜などの外国人居留地で発行されていた風刺漫画『ジャパン・パンチ』でした。由一は、この漫画雑誌を発行し自らイラストも描いていたチャールズ・ワーグマンに師事し、彼のもとで西洋画の技法を直接学び、1867年のパリ万博に由一も絵を出品します。
近代化のための洋画技法
由一が洋画を学んだ「蕃書調所」は、ペリー来航によって洋学研究の必要に迫られた幕府が安政2(1855)年に、従来の「天文台蛮書和解御用掛(てんもんだいばんしょわげごようがかり)」を拡充する形で開講した、いわば西洋研究所。語学だけでなく、「精錬学」「器械学」「物産学(今で言う経済学)」「数学」などの各部門が設けられ、それらと並び設置されたのが「絵図調方(えずしらべかた)」、後の「画学」部門でした。
画学部門が設けられたのは、一つには西洋の文物を記録しておくため。さらにモノだけでなく、戦争時には敵の軍勢や陣地、地形などをリアルにスケッチする人材が求められたのでした。また、蒸気機関や近代的建築物、あるいは武器などを分析し、自国で生産できるようにするためには、緻密な製図に起こす必要があります。
蕃書調所では、こうしたことから画学部門を設け、絵の得意な若者を諸国から集め「西洋の遠近法にもとづいた描写法」などを学ばせました。蕃書調所は後に「開成所」と改められ、さらに「大学南校」となり、それが現在の東京大学、さらには東京外国語大学などの前身となりました。
中でも画学局はその後、明治9(1876)年に設置された日本初の美術学校である「工部美術学校」へとつながっていきますが、その目的は殖産技術への貢献を主とし、工部省(現在の経済産業省)が管轄していました。
このように日本における西洋画の歴史は、純粋な芸術表現の発露としてではなく、「殖産興業を推進するための近代化技術の一つ」として始まっているという点に、注意する必要があります。
サケを描いた理由「みんな知ってるから」
由一は「鮭」をいくつか描いています。現在、東京藝術大学美術館が所蔵している『鮭』は、彼が50代になって描いたもの。時代はすでに江戸幕府が崩壊し、明治に入っていました。
大学南校で画学教官などを務めていた由一は、その後明治6(1873)年に官職を辞して日本橋浜町に画塾「天絵社」を創設し、淡島椿岳や原田直次郎、実子の高橋源吉、荒木寛畝ら多くの弟子を養成します。
それでもこの時代、まだ西洋画は日本の文化の中では浸透しておらず、その重要性や意義を知らしめる必要があったのでしょう。「こんなにも正確に描ける」「まるで本物のように見える」ということを鑑賞者に伝えるためには、鑑賞者が実際のモノを知っている必要があります。誰も見たことのない西洋の文物や人物を描いても、その「正確さ」は伝わりにくいからです。
そこで由一が選んだ題材が「鮭」でした。サケならば誰もが見たことがあります。藝大美術館蔵の『鮭』を見ると、荒縄や切れた赤身の質感、乾燥した皮の手触りなど、サケのさまざまな部分をそれぞれ非常にリアルに描いています。この画題を通じて、由一は自身の芸術感を披露しようとしたのではなく、西洋画の技法の精密性、そしてそれが日本の近代化にとって重要な要素であることを伝え、そこから洋画の普及を試みたのでした。
近代化への熱い思い
このほかにも彼は、代表作の一つである『花魁』(重要文化財)や、招聘されて赴いた山形県の各地、さらには大久保利通の肖像などを描いています。そのいずれにも、狩野派で学んだのであろう東洋画の技法と西洋画の技法との折衷が見られます。
そして何より、西洋画の普及によって日本の近代化を目指そうとした由一の志の跡が、垣間見られるのです。