猫美術史概説―「藝大の猫展」に寄せて―

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藝大アートプラザ
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ふさふさの毛にしなやかな体、気高く美しく、人間なんか相手にしないと思わせておきながら、ときに甘えてきて人々を虜にする猫。ペットとして飼うことにとどまらず、猫と触れ合える猫カフェ、猫専門の書店、猫モチーフのグッズがあふれる雑貨店なども珍しくなく、猫と人間の接点は増す一方である。「藝大の猫展」も、そんな猫の人気を受けて企画されたものだ。この小稿では、イエネコの起源から、日本人と猫の関わりの歴史、江戸時代から近代に描かれた猫の作品を駆け足で紹介する。今回の展覧会を楽しむ際の一助になれば幸いである。

日本人と猫の関わり

猫と人間は約1万年前には一緒に暮らしていたと言われている。新石器時代のキプロス島のシロウロカンボス遺跡では、埋葬された人骨のそばから猫の化石が見つかっている。イエネコ(野生ではない、家畜化された猫)は、エジプトからメソポタミアにかけて生息していたリビアヤマネコを、長い年月をかけながら家畜化して誕生した。人間が農耕をはじめると穀物を狙ってネズミが集り、ネズミを食べたい猫が集まり、ネズミの被害を減らしたい人間と猫の希望が合致。猫と人間は親しくなった。

日本には、奈良時代後期、遣唐使船で経典が運ばれてくる際、ネズミの被害から経典を守るために猫もやって来た、というのが定説となっている。だが、近年、壱岐島のカラカミ遺跡から弥生時代中期の猫の骨が発見された。また、姫路市の見野古墳から発掘されたやきものにも猫らしき足跡が付いており、奈良時代よりも前から日本に猫は生息していたようだ。

猫と日本人との関係が資料に記録されるのは平安時代に入ってからである。当時、舶来の猫は「唐猫」と呼ばれて珍しがられ、首に紐をつけ、高貴な人のペットになっていた。たとえば、一条天皇(在位986〜1011)は、飼い猫に「命婦(身分ある女性の称号)のおとど」という名前をつけ、出産したら、産養(子供の将来の多幸と産婦の無病息災を祈る儀式)をし、乳母を付けるほど、溺愛していた。一方、猫を怪しい存在と見なす向きも昔からある。『古今著聞集』には、夜に背中が光る不思議な猫がいると記され、『明月記』には、人々を襲う「猫また」という獣が登場する。ペットとしてかわいがられる一方、怪猫の話もバリエーションを増やしながら語り継がれていった。

安土桃山時代から江戸時代初期、猫の生活が一変する。ネズミの害から人々の生活を守るため、お触れによって、猫を放し飼いにすることが奨励されたのだ。自由に行き来するようになって数も増加。庶民のペットとして人々の生活に溶け込んだ。

江戸時代以前に日本で描かれた猫

日本美術史上最古の猫は、12世紀、『信貴山縁起絵巻』「尼君の巻」(朝護孫子寺蔵)に登場する。家の中でうずくまっている、赤い首輪をつけられた黒ぶちの猫である。ほかにも12〜13世紀『鳥獣人物戯画』甲巻、14世紀の『春日権現験記絵』、『石山寺縁起絵巻』など、国宝級の数多くの絵巻に描かれている。擬人化した姿で表される『鳥獣人物戯画』は別として、多くは人間の生活の一部にいる姿であって、絵の主役になることはなかった。室町時代には、東福寺の画僧・明兆が「大涅槃図」のなかに、釈迦の死を嘆き悲しむ猫の姿を描いたほか、関東で活躍した画僧・雪村が「猫に薔薇図」のような、中国絵画の影響を受けた、猫の一枚絵を描いている。

そのような中国由来の猫の絵では、猫と牡丹、あるいは蝶が組み合わされることが多い。中国の読み方で、「猫」は70歳を意味する「耄(もう)」と音が通じ、蝶は80歳を意味する「耋(てつ)」に通じ、牡丹(芙蓉)は富貴を意味するため、長寿を願う吉祥画としての意味がこめられている。この伝統は現代まで続いており、藝大美術学部の教授を務めた日本画家の加山又造(1927〜2004/1944年日本画科入学)は、シャム猫と牡丹や蝶を組み合わせた作品を残している。猫絵を見る際は、蝶や牡丹と組み合わされていないか注目して欲しい。

江戸時代中期に入ると、円山応挙の弟子の長沢芦雪が、和歌山・無量寺の襖絵「薔薇図」等に猫を描き、徐々に猫を主とする絵画は増え、江戸時代後期の歌川国芳の登場によって、猫絵ブームが巻き起こる。美人と一緒にいる猫、擬人化した猫、化け猫など、現実から空想にいたるまで、猫を主役にした浮世絵をかなりの数、残している。また、浮世絵以外にも、養蚕家や一般家庭の室内に貼ってネズミよけにする、実用目的の絵画や御札にも猫は描かれた。江戸時代は、現代に負けず劣らず、猫の絵であふれていたようだ。

近代に描かれた猫―藝大と猫

さて、近代以降はどうなるのだろうか。この文章は「藝大の猫展」に際して書いたものであるので、藝大に関連する作品に注目したい。実際、作品群を残したことで著名な作家に、東京美術学校(東京藝術大学の前身)出身者の占める割合は高い。今回は4名に絞って、それぞれの作家がどのような作品を残したか紹介・分析してみたい。

菱田春草(1874-1911/1890年東京美術学校普通科入学)

東京美術学校で、橋本雅邦に師事し、日本画を学んだ菱田春草。最も有名な作品の一つ「黒き猫」(永青文庫蔵)は、1910年に開かれた第4回文展のために描かれた作品である。繊細な暈しでふわっとした毛の質感を表した写実的な黒猫と、輪郭線を用い金泥で平面的に塗った装飾的な柏の樹との対比の妙によって、高い評価を得た。しかし、黒猫自体は瞳孔を細めて、「キッ」とこちらを見据え、これ以上近づいたら逃げてしまいそうなほど、緊張しているように見える。お世辞にもかわいいとは言えない。

それもそのはずで、じつは、春草は猫が好きではなかった。「その狎昵(こうじつ/なれなれしくすること)の媚態が多いのは獣類の中でもイヤなものである」と言ったほどだった1。家で猫を飼ったこともなかったし、「黒き猫」のモデルの黒猫も息子の春夫に頼み、近所の焼き芋屋から借りていた。しかも、何度借りても逃げてしまうため息子は苦労していたらしい2。そんな良好とはいえない猫との関係がそのまま表れているようだ。

しかし、春草は、絵のテーマとしては猫を好んでいた。在学中、日本美術院創設に関わった頃、五浦に移り住んだとき、そして晩年にかけて、あらゆる時期に猫を描いている。とくに注目したいのは、春草が嘱託教諭として東京美術学校に務める直前(1896年11月)に学校に納めた中国絵画の模本のうちの一つ、「猫図」である。これは、北宋の第8代皇帝・徽宗(在位1100~25年)が描いたと伝わる徳川家旧蔵品の模写をさらに描き写したもので、初学者向けの手本として描かれたものだと推測されている3。春草は同時期に、岡倉天心主導の、古画の模写事業に従事しており、古画を学習することの重要性を肌で感じていたことであろう。「猫図」を見せながら、学生を指導していた春草の姿が偲ばれる。

また、美術評論家の勅使河原純が指摘していることだが、個人蔵の「春日」、春草会所蔵の「白き猫」など、一連の白猫シリーズに登場する、頭頂部と尾の先だけが黒い特徴的な猫は、東京美術学校に納めたのとは別の伝徽宗「猫図」(水戸徳川家旧蔵)の猫の柄と一致する。細かな毛描きを多用したリアルな描写、神秘的で崇高な雰囲気なども徽宗皇帝の猫のそれを受け継いでいる。このような古画の研究をベースに、単純化した樹木の描写を組み合わせ、新しい境地をつくりだしている。

熊谷守一(1880-1977/1900年東京美術学校西洋画科入学)

熊谷守一は、動植物や景色などを、美しい色彩と単純化されたかたちで描く洋画家である。「白猫」「白仔猫」「猫」(いずれも愛知県美術館蔵)など、多くの猫の絵を残している。一見、誰にでも描けそうにも見えるが、輪郭線一本をとっても、対象を丹念に観察しなければ引けないものである。猫が寝そべったときに肉がたれて、背骨が浮き出てゴツゴツするかんじ、たるんだ腹のかんじなどがよく表されている。

守一の子供の回想によると、一時期を除いて、家に猫がいないときはなかったという。野良猫と飼い猫の区別もなく、ゆきずりに住み着いた猫も多く、猫を飼っているというよりかは「そこに猫がいる」というかんじだった4

守一自身、「猫にくらべて犬は人間の言うことに気をつかうので、それほど好きではありません」と述べているとおり5、猫が人間に気を使わず勝手気ままに生きている様子が好きだった。そんな猫の生活を邪魔しないために、雨戸の隅に穴を空けたり、障子の紙にも穴を空け、猫が通り抜けられるようにしていた。スケッチするときも、膝にのせるのではなく、猫が自らのってきた時に描いていた6。ペットを自分の管理下に置いて、思い通りにしようとするのではなく、猫には猫の生活があることを理解し、それを尊重しようとしていたことが伺える。実際守一の描く猫をみてみると、眠っているものや、正面を向いていても顔が描かれていないことも多く、人間に関して我関せずな様子がよく表れている。「そこに猫がいる」という守一と猫の関係性が見えてくるようだ。

朝倉文夫(1883-1964/1903年東京美術学校彫刻科入学)

『墓守』『大隈重信像』などの人物像や肖像で知られ、「東洋のロダン」とも称される彫塑家・朝倉文夫。そんな朝倉がライフワークとして取り組んだのが猫である。多いときには一度に19匹もの猫を飼い、「猫博士」とも呼ばれていた7。朝倉にとって猫は、外部からの注文を受けてつくる肖像とは違い、制約なく、自由にのびのびと打ち込める分野だった。

いつしか朝倉は、1964年の東京オリンピックに合わせ、「猫百態」と題した展覧会を開催し、訪日外国人に日本の彫塑の成果を衆知したいと考えるようになる。残念ながら病に臥したため、展覧会は実現しなかったが、モデルの猫をかき集め準備にあたり、生涯のうちで50点ほどの猫の彫塑を残した。

東京藝術大学大学美術館が所蔵する、1909年作の「つるされた猫」は、朝倉が猫に取り組んだ初期作。人間の手が、猫の後頭部をつかんで吊り上げている様子を表した作品で、手を肘から上の部分だけでトリミングしている構図も斬新である。猫はあきらめたかのように、手足をだらりとのばし、宙に浮かせている。引っ張られた皮や筋肉、それによって表される猫の量感が見事である。「産後の猫」は、子猫を産んだ直後の猫が、「お産の疲れと、その喜びとが混然となってその姿態を形づくっている」ことを感じ、すぐに制作した作品である8。ややうつむき気味で、ぼーっと先を見つめ、疲れた様子が伝わる。

ほかにも複数の子猫が寄り添う様子、子猫に乳を与える様子、獲物を狙って身構える様子、ネズミを捕らえた様子、背伸びをする様子、丸まって眠る様子、餌を食べる様子など、「猫百態」と名付けただけあって、一匹から群像まで、ポーズのバリエーションが豊かである。朝倉は「自然主義的写実」(あるがままの姿をそのままつくる)ことを重んじており、どの作品も、猫と暮らす上で遭遇した自然な一瞬が切り取られている。いつも膝の上の猫(お気に入りの猫しか膝にのることを許さなかった)を触って、骨格の様子や筋肉の付き方を探っていた。そのように、猫の形を手に覚えさせ熟知していたからこそ、猫の自然な動きを再現できたのだろう。

藤田嗣治(1886-1968/1905年東京美術学校西洋画科入学)

藤田嗣治も猫のイメージが強い画家である。東京美術学校を卒業後、1913年に渡仏し、1919年にサロン・ドートンヌに出品した6点がすべて入選。透き通るような白い肌の表現が「すばらしき乳白色」と称賛された。藤田の作品に猫が登場するのは、1921年頃からである。盛り場から夜遅くに帰っているときに足にからみつく猫がいて、不憫に思った藤田は、その猫を連れて帰り、家で飼い始め、モデルが来ない暇な時間に描き始めた9

藤田は猫と女性の存在を重ね合わせている。ニューヨークで記者に、女性と猫の関係を尋ねられた際、「女はまったく猫と同じだからだ。可愛がればおとなしくしているが、そうでなければ引っ掻いたりする。御覧なさい、女にヒゲとシッポを附ければ、そのまま猫になるぢゃないですか」と述べている10。マネが「オランピア」で、裸婦の横に尻を高く上げた黒猫を描いて物議を醸したのと同じように、藤田も裸婦像の足元に小道具のように猫を座らせ、女性の怪しげな雰囲気を演出している。一方、自画像に登場する猫は、藤田に密着しているものが多く、親しげなペットとして描かれる。「猫十態」という版画集では、さまざまなポーズでくつろぐ静かな猫を単独で描く。東京国立近代美術館が所蔵する「争闘(猫)」では、猫同士が闘争心をむき出しにして取っ組み合いのけんかをする様子を描き、戦後は擬人化した猫にも取り組んだ。藤田は「(猫は)ひどく温柔(おとなしや)かな一面、あべこべに猛々しいところがあり、二通りの性格に描けるので面白いと思いました」と言っている11。人間の友としての静かな猫と、獣としての猫、その両面を、単なる写実だけでなく空想を交えながら描いている。

菱田春草の描くような人馴れしていない猫、守一の描くような人間に我関せずな猫、朝倉文夫の自然な姿の飼い猫や、藤田嗣治のペットとしての猫と猛々しい猫。4名あげただけでも、猫との距離感、猫をどうとらえているかさまざまである。「藝大の猫展」に出品する作家には、猫好きも猫嫌いもいるだろう。猫を飼っている作家も飼っていない作家もいて、表現もさまざまだろう。4名の例を参考に、作家と猫がどのような関係にあるのか、どのような思いを猫に抱いているか想像しながら、ぜひ展覧会を楽しんでいただきたい。


文/藤田麻希 (美術ライター/ 藝大アートプラザのインタビューページなどを担当)

参考文献
朝倉文夫『美の成果』國文社 1942年
藤田嗣治『巴里の晝と夜』世界の日本社 1948年
斎藤隆三『芸苑今昔』創元社 1948年
『彫塑朝倉文夫』平凡社 1966年
下伊那教育会菱田春草研究委員会編『菱田春草総合年譜』下伊那教育会 1974年
勅使河原純『菱田春草とその時代』六藝書房 1982年
『メトロポリタン美術館の猫たち』誠文堂新光社 1983年
藤田嗣治『藤田嗣治画文集 猫の本』講談社 2003年
『作家の猫』平凡社 2006年
『猫の絵画館』平凡社 2008年
田中圭子「当館所蔵 菱田春草の古画模本について」『東京藝術大学大学美術館年報』2009年度
中村研一記念小金井市立はけの森美術館『朝倉文夫の猫たち』図録 2011年
招き猫亭 監修・文『猫まみれ : 招き猫亭コレクション』求龍堂 2011年
東京国立近代美術館『菱田春草展』図録 2014年
『史料としての猫絵』山川出版社 2014年
藤田嗣治『地を泳ぐ』平凡社 2014年
『別冊太陽 日本のこころ222 菱田春草』平凡社 2014年
松濤美術館『ねこ・猫・ネコ』図録 2014年
名古屋市博物館『いつだって猫展』図録 2015年
招き猫亭 監修・文『猫まみれ : 招き猫亭コレクション2』求龍堂 2015年
『猫づくし日本史』河出書房新社 2017年
台東区芸術文化財団朝倉彫塑館『朝倉文夫 猫の本』図録 2017年
『不思議な猫世界 ニッポン 猫と人の文化史』NHK出版 2018年
ひろしま美術館『ねこがいっぱい ねこアート』 2018年
デズモンド・モリス、柏倉美穂訳『ネコの美術史』エクスナレッジ 2018年

1斎藤隆三『芸苑今昔』創元社 1948年
2菱田春夫「父春草の想い出」『ゆうびん』1951年10月/『菱田春草総合年譜』所収
3田中圭子「当館所蔵 菱田春草の古画模本について」『東京藝術大学大学美術館年報』2009年度
4熊谷榧「そこに猫がいる」『作家の猫』平凡社 2006年
5熊谷守一「茫々記」『噂』1973年10月号/『熊谷守一の猫』所収
6熊谷榧「そこに猫がいる」『作家の猫』平凡社 2006年
7朝倉文夫『美の成果』國文社 1942年
8「朝倉文夫先生に想い出話を聴く聽く(回顧展に寄せて)」『彫塑』21号 1955年1月
9藤田嗣治『巴里の晝と夜』世界の日本社 1948年
10藤田嗣治『巴里の晝と夜』世界の日本社 1948年
11藤田嗣治『巴里の晝と夜』世界の日本社 1948年

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