脳と目と体感を総動員したアート体験を。あらゆる可能性を追求する【アートフロントギャラリー】

ライター
森聖加
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さまざまな特色を発揮しながら運営されている各地のアートギャラリーや画廊をめぐり、ギャラリストたちの多彩な視点をアーカイブしていく特集企画「ギャラリー・ライブラリー」。

今回は、1984年より東京・代官山ヒルサイドテラスに構える「アートフロントギャラリー」を訪ねました。当地に留まらず、「大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレ」や「瀬戸内国際芸術祭」などの芸術祭に携わりながら、現代アート界をけん引するギャラリーのひとつ。社長の奥野惠さんとギャラリーマネージャーの庄司秀行さんに話を聞きました。

ギャラリーマネージャーの庄司秀行さん(左)と社長の奥野惠さん。

ギャラリーを作る目的でスタートをしていない!?

――「アートフロントギャラリー」のルーツは、1971年に東京藝術大学の学生・卒業生を中心に発足された「ゆりあ・ぺむぺる工房」と伺いました。立ち上げの経緯をお聞かせください。

奥野:私が藝大に入学した当時、1969年は大学紛争の真っ盛り。翌70年に闘争が激化し、全共闘運動があって、その波が藝大にも押し寄せていました。私は絵画科油画専攻の1年生で、弊社の主宰、現会長の北川フラムは2年生(注・仏教彫刻史専攻)。学内では音楽科の学生と油画専攻のなかでも割と問題意識のある人たちが集まって、北川をリーダーに藝大の闘争グループができたんです。なかには坂本龍一さんもいました。学園紛争という形で藝大を解放させようと、学長室を占拠したり、いろいろと活動をしました。建築科の先輩らがバリ封(バリケード封鎖)を椅子で積み上げて。それが私にはかっこよかった。

――すごい時代ですね。

奥野:そのうち大学にいる意味がなくなり、渋谷・桜ヶ丘のマンションの一室に「ゆりあ・ぺむぺる工房」を設けます。私たちの勉強をしたり働く場所であり、絵を描いたり、出版をしたり、音楽のコンサートを開催したり、現在と変わらない活動がはじまりました。

1977年、桜ヶ丘にあった現代版画センターとのおつきあいがはじまり、私たちも版画を扱うようになりました。メンバーは多くが貧乏学生でしたので、作家活動と同時に稼がなくてはならない。そうして同センターから菅井汲(すがい くみ)さん、難波田龍起(なんばた たつおき)さん、具体美術の元永定正さん、彫刻家の関根伸夫さんなどを供給していただき、当時日本の最先端の現代美術作家の版画の販売をはじめます。ギャラリーを作る目的でスタートをしてないのが、我が社の大いなる特色かもしれません。

――ええ!?

奥野:作家活動と食べて行くことに加えて、表現を社会化することを考えるようになって、興味がある人間が残りました。北川はディレクターとして社会に打って出る道を選択。私は入学時から自分に才能があると思ってはおらず、ただ、美術の面白さには惹かれていましたから仕事として携わる道を選びました。79年に版画企画ギャラリー「アートフロント」を設立し82年に株式会社化しますが、並行して「現代美術のパイオニア展」や「ガウディ展」、「アパルトヘイト否! 国際美術展」など草の根の展覧会活動も行っていた。その後独自にアーティストへ声をかけるようになり、幅広いジャンルの作品を扱うようになりました。

ギャラリーは3室あり、2023年4月21日~5月28日までは大岩オスカールさんの個展が開かれた。

あらゆる形で「暮らしにアート」を提案する

奥野:ヒルサイドテラスに入ってから現代美術ギャラリーとしての活動が本格化します。ギャラリー発展の大きなきっかけはBankART1929の池田修さん(2022年逝去)にディレクションをしていただいたこと。今では現代美術の大御所である柳幸典さん、岡崎乾二郎さんなど、彼らが20代~30代の頃にお付き合いがはじまりました。

ヒルサイドテラスへの入居は1984年で、その年に川俣正さんの『工事中』プロジェクトを行いました。建物屋外を覆うインスタレーションのために、来訪者がヒルサイドテラスが本当に工事中だと思って建物の中に入らなくなり、テナントから反対が起こったことがニュースになって街が一気に有名になった。代官山は今では多くの商業施設や住宅がありますが、そのころは「ハリウッドランチマーケット」がポツンとあったぐらい。本当にここでギャラリーをするのかと思いながら40年、続けてきました。

――代官山は、1980年代のバブル経済の時期にようやく情報誌で話題になったようですね。当時、現代美術に対する一般の人々の意識はどうだったのでしょう?

奥野:ギャラリーを立ち上げたのは良いのですが、出発が出発でダイレクトに富裕層にアプローチできる環境ではなかった。どうしたら絵が売れるかと試行錯誤した結果が、建物や都市開発空間に壁画やモニュメントなどを提案する〈アートワーク〉の事業です。工事現場の看板を見ては設計事務所やゼネコンにアートを売り込む。そこから弊社の現代美術の販売がはじまりました。

アートの社会化の考えは、一般の家庭に飾るアートを広めることが出発点。版画ギャラリーでのアプローチも「暮らしに版画を」がポリシーでした。例えば、住宅を建てた人が新居のための絵を1枚買う。そのときに建築家やハウスメーカーの方々を通じて弊社の存在を広めてもらう。その延長に「都市」や「地域」にアートを展開する動きへとつながっていきました。

街に、地域に、飛び出すアート

――先ほど話が出た、川俣正さんの『工事中』はギャラリーからアートが街に出た一例ですね。

奥野:川俣さんは日本の先駆的なインスタレーションのアーティストです。インスタレーションの概念は、クリストが1980年代にプロジェクトをはじめたころに登場して、91年に茨城とカリフォルニアで行った『アンブレラ』プロジェクトにはアートフロントギャラリーも関わりました。タブローや彫刻という「モノ」の概念は終わった、と既存の美術のありようからはみ出して「仮設」で勝負するアーティストがたくさん日本にも出てきたけれど、現在も世界的に活躍されているのが川俣さんです。

川俣正『「工事中」再開』2017 Photo by Gen Inoue/1984年の『工事中』は会期中に中止になってしまった。30年後に展示を「再開」した。

――ギャラリー内に留まらず街に開いた活動が、全国各所での芸術祭につながっていったのでしょうか?

奥野:アートワーク事業(パブリックアート)では「ファーレ立川」での仕事が転換期になりました。それが94年。ファーレ立川を見た行政関係者から北川に依頼があり、新潟県の広域での地域づくり「ニューにいがた里創プラン 越後妻有アートネックレス整備事業」構想に関わりました。それが「大地の芸術祭」へと続きます。芸術祭の企画は1996年頃にスタートして、ようやく2000年に第1回が開かれました。

イリヤ&エミリア・カバコフ『棚田』2000 大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレ Photo by Osamu Nakamura/伝統的な稲作の情景を詠みこんだテキストがかつての農作業の風景と重なる。

「大地の芸術祭」の第一の目的は、そこに住むお年寄りの笑顔を増やすこと。深刻な過疎化が進む地域で新しい観光の創造と地域の活性化がアートを媒介として、どのようにできるのかが最大の課題でした。北川が提案したものの、周りは前例がないとはじめは大反対にあった。数回で終わることも覚悟したけれど、これまで8回、20年と続いています。都会のギャラリー、再開発、地域とそれぞれでテーマは違えど、「アートは人と街を結びつける」「アートで人と地域を結びつける」という本質のテーマはすべて同じ。パブリックアートでやってきたことと、各地で行ってきた草の根の美術展、この両方がなければ地域の芸術祭という発想はなかったでしょう。

アーティストの新しい可能性を引き出す実験場

――「アートフロントギャラリー」での最近の活動を教えてください。

庄司:実は2010年ごろから意識的にラインナップを変え、2014年にスペースの改修工事を行い、現在のギャラリーの姿になりました。それ以前は版画ショップを併設していたんです。さまざまな変遷があり一般のギャラリーとは違いが大きいですが、芸術祭に関わる組織として、ギャラリーはプロジェクトスペースであることに重点を置いています。作家が自分たちの持つ力を発揮し、代表作になるような作品創作のための実験場。若手の優れた作家が次へのステップを踏むための作品をつくる場所です。「暮らしの中にアートを」という昔からの流れは引き継ぎつつも、芸術祭を通して繋がった世界的作家やコンテンポラリーの作家の作品をきちんと見せる中で、価値ある現代美術を美術館やコレクターの方にお渡しできるように企画画廊としてのシステムを整えている状況です。

代表的な作家は芸術祭で関係を築いたレアンドロ・エルリッヒさん、そして川俣正さん、日系ブラジル人作家の大岩オスカールさんなど。作家の仕事の多様性がアートフロントらしさで、本来は絵を描く作家が空間やインスタレーションを手掛ける。担当者がアーティストに今までとは異なる手法での制作をうながし、ひとつ殻を破るチャレンジを意識的に行っています。

大岩オスカール個展「My Ring」、展示風景。 photo by Hiroshi Noguchi

個展で展示された絵画作品を立体化する取り組みが今後行われる予定。

――同じものを繰り返しつくらせるのではなく、新しいものに挑め、と。

庄司:芸術祭に参加する作家は特に地域と協働したり、場所に合わせて新しい考えを巡らせないと作品をつくれません。ですから、同じものばかりつくっていては話にならない。作家と一緒にチャレンジすることがギャラリーの存在意義であり、実験室であることにもつながっていく。

奥野:すでに完成した作品から選んで展示するのではありませんから、毎回、展覧会には時間がかかります。私はギャラリストと呼ばれることが多いけれど、実際にはギャラリストでもなく、キュレーターでもなく、作家と一緒にものを作っていくのが仕事。そのあたりは社員にも踏襲してもらっていると思います。

金氏徹平『tower(SUZU)』2021 奥能登国際芸術祭2020+ Photo by Kichiro Okamura/2021年に開催された奥能登国際芸術祭に出品された金氏さんの作品は代官山での展示などを経て多様に発展した一例。

日本のアーティストは世界で通用するか

――現代日本のアートや作家に関して実感されている思いがあれば、教えてください。

庄司:日本の作家は繊細で技術が高く、手の中のサイズのものを操る技術力に長けており、その点では世界の中でも群を抜いていると思います。根付(ねつけ)のような日本の美術や工芸の歴史を受け継ぐ部分もあるからでしょう。平均的なレベルが高い。しかし、世界と同じ土俵に立ち、通常の制作規模を超える大きな仕事に対応できるかというと難しい。小さなものをそのままマクロ化はできませんから。川俣さんはそうした規模に対応できる数少ない日本人アーティストだと思います。若手で注目しているのは6月から7月にギャラリーで初個展を開く、東 弘一郎(あずま こういちろう)さん。自らの在住する取手市で自転車を集めて動く車輪を作品化し、地域の歴史や社会的問題を可視化してきました。現在、東京藝術大学大学院 博士課程に在学中です。

東弘一郎 『都市の半間』2023 半間(欅、桐)自転車、鉄h2000x4000x1450mm/展示風景

庄司:ギャラリーによっては完売する若い作家もたくさんいますが、それが世界に通用しているかは懐疑的にならざるを得ない。一部の熱狂的なファンの間での争奪戦ではないのか、と。短期的に売れる、売れないよりも、もっと面白くあってほしいという思いがギャラリーとして付き合いのある作家には求めていること。もちろん商業ギャラリーでもあるわけですから、作家が世界的に活躍し、価値を上げていくお手伝いをしたいと思っています。しかし、投機的なマネーゲームに付き合うつもりはありません。

それとアートを単なる情報にしたくない思いが強くあります。世の中に多くのアートがあふれるなか、一部の人々にとって作品はPCやスマホなどブラウザを通して見ただけで満足され、実物を見ずに過ごしてしまう。最近は作品の購入さえ実物を見ないで行われる風潮もありますね。しかし、アートは対峙し、出会ったことで生まれる化学反応が大事ではないでしょうか。

芸術祭ではその土地に根差した作品を多く扱うことにより、この事実が特に顕著に表れ、現場に行かなくてはならず、作品と出会うことがなければ何もはじまりません。脳と目と体感は全部連動していることが実験でも証明されています。芸術祭に限らずアートの経験もそうあってほしいと思います。ギャラリーは敷居が高い場所ではありません。みんなが普通に来て、アートに出会って体感し、帰ってほしい。その場で理解できなくても構わないのですから。

photo by 森聖加

Infomation

アートフロントギャラリー
住所:東京都渋谷区猿楽町29-18 ヒルサイドテラスA棟
電話番号:03-3476-4869
開館時間:水~金12:00~21:00、土、日11:00~17:00
休館日:月・火
公式サイト https://www.artfront.co.jp/jp/

展覧会 東弘一郎個展「HANMA」
期間:2023年6月9日~7月16日
https://artfrontgallery.com/exhibition/archive/2023_04/4801.html

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