大吉原展を詳細にレポート。「吉原」という場所で何が生まれ残されてきたのか

ライター
森聖加
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コラム

藝大アートプラザのある台東区上野公園から北東方向に30分ほど歩いた場所に、「吉原大門(おおもん)跡」(現在の台東区千束4丁目)があります。江戸の昔、堀と塀に囲まれていた一帯は「新吉原」として知られた江戸幕府公認の遊廓でした。移転前の元吉原を含め、広く「吉原」(※1)で育まれた文化を紹介しながら、総合的に同地を検証する初の試みとなる特別展「大吉原展」が東京藝術大学大学美術館で開催されています。

※1 元和4(1618)年に日本橋葺屋(ふきや)町(現在の中央区日本橋人形町あたり)に開設された遊廓は「元吉原」、明暦3(1657)年の明暦の大火後に江戸城からより離れた浅草寺の北、日本堤に強制移転させられてからは「新吉原」と呼ばれた。本展では総称して「吉原」を使用している。

福田美蘭《大吉原展》 2024 年 作家蔵/本展のキーヴィジュアルは、現代美術家で東京藝術大学美術学部絵画科油画専攻卒、同大学院美術研究科修士課程修了の福田美蘭さんによるもの。展示される浮世絵の絵柄をそのまま借用して構成し、吉原が発信する華やかで力強いエネルギーを表現

「吉原」の二面性を直視する、初の大規模展覧会

吉原はこれまで浮世絵展の中で取り上げられてきたものの、町全体をテーマにした展覧会は今回が初の試みとなる、と展覧会に先立つ報道内覧会で本展学術顧問、法政大学名誉教授の田中優子氏は説明しました。「これまで実現されなかった理由は、吉原を支えた経済基盤が売春だったからです。吉原は女性たちが家族のために前借金をして働かされていた、二度とこの世に存在してはならない場所です」。一方で、芝居の舞台のような非日常空間で、遊女と浮世絵師、版元、文人らが交流し、新しい日本の文化を生み出してきたことも事実であり、展覧会では両方を直視してほしい、と話しました。

夜桜見物でにぎわう仲之町。画面右手に描かれた大門から町へと入り、吉原の探訪をはじめましょう。歌川豊春《新吉原春景図屏風》 天明後期~寛政前期 個人蔵

展示には章立てはなく、計4室で構成され、地下2階が入門編と歴史編、3階に上がると吉原の町並みが再現された展示空間となり、最後の小さな1室に妓楼(ぎろう)の様子を立体化した模型が並びます。順路に従って作品を鑑賞することで、吉原の町の構造とともに四季折々の年中行事を体験させる仕掛けです。ここからは注目作品を中心に展示の内容を紹介します。

浮世絵、油絵、工芸……さまざまな角度から吉原を紹介

太鼓持ちの一蝶が見た吉原
17世紀後半、遊廓が新吉原に移転したのち、菱川師宣(ひしかわ もろのぶ)といった絵師たちが吉原を描き始めました。なかでも風俗画を得意とした英一蝶(はなぶさ いっちょう)の《吉原風俗図巻》は、元禄時代の吉原を描いた絵巻形式の優品であるばかりでなく、内側から吉原をよく知る存在が絵を描いた珍しい作品だと、本展担当学芸員の東京藝術大学大学美術館 古田亮教授はいいます。なんと、一蝶は幇間(ほうかん)という別の顔をもっていました。

太鼓持ちや男芸者とも呼ばれる幇間は、宴席を盛り上げ、取り仕切った存在。ただし、調子に乗り過ぎた(?)一蝶は、吉原で武家の人間を遊ばせたり、遊女の見受けを促したりした理由で島流しになります。この絵巻は流された三宅島で描きました。女性たちの装いとともに元禄の風俗を伝える希少な作品です。

英一蝶《吉原風俗図巻》(部分)元禄16年(1703)頃 サントリー美術館 ※場面替えあり

美人画の名手、歌麿による最大級の肉筆画
喜多川歌麿(きたがわ うたまろ)による大画面の肉筆画は、《深川の雪》(岡田美術館蔵)《品川の月》(フリーア美術館蔵)とともに〈雪月花三部作〉として知られています。吉原に生まれ、吉原を愛し、出版の世界で吉原を発信し続けた版元、蔦屋重三郎(つたや じゅうざぶろう)のプロデュースにより、歌麿が美人大首絵を描くことで浮世絵に革命を起こした時期の大作です。

男装の者を含め登場人物はすべて女性で、空想のシーンを描いたもの。室内にろうそくが灯されていることから、場面は夜であることが分かります。吉原では18世紀ごろから旧暦3月(現在の4月初旬ごろ)にだけメインストリート、仲之町に桜を植えて、花の宴を楽しみました(桜は時期が終われば撤去します)。会場では、千鳥柄や菖蒲柄の衣装をまとう花魁(おいらん)を筆頭に、建物内部の建具に至るまで、丁寧に描き込まれた画面を間近に眺められるのがうれしいかぎり。

個人的には2階の奥で三味線を演奏する芸者がバチを弾かんとする、力感ある手の表現にくぎ付け。室町時代の風俗画では、三味線自体、あるいはその演奏シーンは意外とおざなりに描かれていることも多いので、歌麿の女性たちへの深いまなざしに感心します。

芸者衆の背後にかかる布袋と唐子の図は、先に紹介した英一蝶の作と芸が細かい!遊女たちの1日を描いた《青楼十二時(せいろうじゅうにとき)》の展示も見逃さずに/喜多川歌麿《吉原の花》寛政5年(1793)頃 ワズワース・アテネウム美術館

早世の花魁を悼んだ年中行事
非日常を演出し最上級の遊興の提供を旨とした吉原では、独特の年中行事が発展しました。正月や花見、俄(にわか=即興芝居)などと並んで大切にされたのが、玉菊燈籠(たまぎくとうろう)です。玉菊とは18世紀前半に実在した中万字屋の花魁で、才色兼備、諸芸に秀いで、遊客だけでなく吉原の多くの人から愛されました。しかし、彼女は25歳で早世。死を悼んで3回忌の盂蘭盆会から、吉原では追善の句を記した燈籠を軒先に吊るすようになり、年中行事として定着。6月晦日(新暦では7月)からの1カ月間は、江戸市中からも多くの見物客が訪れました。

玉菊が愛用した三味線は小ぶりで棹が細く、古風な作風。全長約96㎝。そばに置かれた細いバチも玉菊の可憐な姿を想像させます。

俳人の岡野知十、荻江露友などが所有。露友は荻江節5世宗家で、日本画家前田青邨の夫人/《伝 玉菊使用三味線》 江戸時代 18世紀 早稲田大学演劇博物館

下級遊女に対する絵師のまなざし
吉原を描く作品では建物の中の人物をドラマチックに描くものが多い中で、この《北国五色墨(ほっこくごしきずみ)》(※北国とは吉原の俗称)の5枚シリーズは、1枚に吉原の女性を1人ずつ描いています。なかでも「切見世(きりみせ)」と呼ばれた下級の遊女を捉えたものは極めてまれ。

吉原の東西周辺部には、お歯黒どぶに沿って長屋が並び、「切見世」は2畳ほどの狭い空間で、時間制で客の相手をしました。年季が明けても行くあてがない、あるいは江戸市中で摘発された女性が働いたそうです。「浮世絵師のまなざしは絢爛豪華な花魁だけでなく、さまざまなランクの遊女に注がれていたのです」と古田教授は強調します。

歌川国貞《北国五色墨》文化12年(1815) 静嘉堂文庫美術館 前期展示

油絵でリアルに過ぎた⁉ 花魁
リアリズムの画家といわれる高橋由一が、花魁を油絵で写実的に描いた初めてのもの。モデルは当時の全盛花魁、稲本楼に属した四代小稲。1972年に重要文化財指定を受けた作品は、本展開催の動機のひとつだったと古田教授は言います。経年の変化で黄色くなっていた表面のワニス層を除去、本展覧会が修復後初公開です。

「顔の色つや、目の輝き、暗いところが明るくなり、質感までわかるようになりました。表情を観ると硬い所があって喜んでモデルになったとは言い難い」と古田教授。江戸時代の浮世絵のように類型化された女性像とはまるで異なっていたことから、小稲は「わたしはこんな顔じゃありません」と泣いた逸話も伝えられています。

抑圧された女性の人間性を捉えた作品として高い評価を受ける/高橋由一《花魁》[重要文化財]明治5年(1872)東京藝術大学

すみずみにまで凝らされた細工に注目
記事の冒頭に述べたように、吉原(新吉原)は東京藝術大学のある台東区にありました。展覧会では区内の複数施設と連携して展示を行っています。3m四方、2階建ての大規模な妓楼(ぎろう)の模型は、台東区立下町風俗資料館の所蔵で、文化・文政期(1804~30年頃)の浮世絵を参考にして制作されました。

人形制作の辻村寿三郎氏は自らが置屋の料理屋で生まれ育ったことから、女性たちへの思い入れはいっそう強く、彼女たちへのはなむけとなるよう、悲しくつくるよりも絢爛に楽しくつくった、という言葉を残しています。

辻村寿三郎 三浦宏 服部一郎《江戸風俗人形》昭和56年(1981) 台東区立下町風俗資料館

前期・後期合わせて約230点という膨大な資料から浮かび上がる女性たちの姿から、改めて吉原の歴史を知り、深く学ぶきっかけとなることでしょう。

展覧会情報

特別展「大吉原展」
東京藝術大学大学美術館
東京都台東区上野公園12-8
会期:2024年3月26日(火)~5月19日(日)
開館時間:10:00〜17:00(入館は16:30まで)
休館日:月曜日、5月7日(火) ※ただし、4/29(月・祝)、5/6(月・振休)は開館
※会期中展示替えがあります。

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