「決着の地」東京・上野で刻まれる新たな一村像。悲願の大回顧展「田中一村展 奄美の光 魂の絵画」

ライター
森聖加

南国・奄美大島の太陽の光や海のさざめき、鳥たちの鳴き声までを、色鮮やかな画面で伝えた画家・田中一村(たなか いっそん/1908-1977)。彼の生涯にわたる画業を、300点以上の作品や資料で紹介する展覧会が上野の東京都美術館で開催されています。近年発見され、初公開となる作品も数多く並ぶ本展は、これまでの一村像を新たなステージへと導く画期、となることでしょう。

トップ画像は一村芸術の到達点の1作品「不喰芋と蘇鐵」(くわずいもとそてつ)昭和48(1973)年以前 個人蔵

東京美術学校を2カ月で退学。困難のなかも情熱を失わず描き続けた画業を約300点で展望

数え8歳の作。「紅葉にるりかけす/雀 短冊」大正4(1915)年 栃木県立美術館蔵

展覧会は「紅葉にるりかけす/雀 短冊」という小品からはじまります。ほほえましくも、しっかりとした筆致で描かれた短冊の裏には「八歳 米村」と記され、驚くなかれ、満年齢でいえば6~7歳頃、一村作品のもっともはやい時期の1点です。だれもがその実力を認め、幼年期から神童と称された人物は大正15(1926)年、ストレートで東京藝術大学の前身、東京美術学校日本画科に入学。しかし、わずか2カ月後の6月に退学しています。記録には家事都合の退学と残されています。

※「米村(邨)」は彫刻家の父、稲邨が与えた当時の号

第1章「若き南画家 『田中米邨』東京時代」には、栃木に生まれ東京で暮らした10代頃の作品を中心に展示。写真は当時、日本で人気を博した中国・清朝末期の芸術家、呉昌碩(ごしょうせき)の作に学んだ、左「白梅図」大正13(1924)年元旦、右「藤図」大正13(1924)年春 ともに栃木県立美術館蔵

公募展では落選が続き、生前その名が世に知られることがなかったという事実がもはや信じられないほどの力量を、鑑賞者は初っ端から目の当たりにすることに。本展は東京での幼年期から青年期、「一村」誕生となる千葉時代、そして終焉の地、奄美大島での最晩年、と時系列に画家の全貌を紹介していきます。

23歳頃の作。左隻が空白のままの理由は謎。「椿図屏風」昭和6(1931)年 千葉市美術館蔵

新発見や初出品作が数多く並ぶ本展覧会で、特に昭和初期、20代初め頃の活動は注目したいパートです。従来は、後年の手紙に残されたように「自分が本道と信じた新画風が支援者の賛同を得られず義絶した」ため、「南画と訣別」した、寡作で空白の時代とみられていました。それが、近年発見された「椿図屏風」や「鶏頭図」をはじめとする作品群、複数の水墨画風スケッチなどにより、新しい展開を模索した画家のたゆまぬ努力の足跡が明らかにされています。

「いつか東京で決着をつけたい」。画家の意志を継ぎ実現された大規模展

人々の営みや穏やかな景色を描いた、千葉寺風景 連作の一部

家族の不幸が重なり、昭和10(1935)年、一村が27歳のときに父も亡くなります。そうして戦時を挟んで約20年間、母方の親戚を頼って暮らしたのが千葉市千葉寺町です。畑で野菜を育て、庭では鳥を飼い、内職をこなしながら一村は創作を続けていました。残された作品の多くは千葉を中心としたさまざまな関係者、支援者に向けて描かれたものです。風景画から木彫、仏画、節句掛などの作品が並び、展覧会の出品作とは異なる画家の創作に対する心構えを見て取ることができます。

戦時中、徴用工時代に乏しい資材を費やして、南画的な表現の観音や羅漢を描いていた。昭和10年代~20年代にかけての作品

戦後まもない昭和22(1947)年、号を「柳一村(やなぎ いっそん)」と画号を改め、川端龍子(かわばた りゅうし)主宰の第19回青龍展に「白い花」を出品、初入選を果たしました。続く年の出品時に「田中一村」と名乗り始めます。しかし、その後も精力的に公募展に応募を続けるも、作品が再び入選する機会は訪れませんでした。

果たして、一村が応募した公募展(日展、院展)が開かれていたのが、今回の大回顧展会場である東京都美術館(前・東京府美術館)です。一村が東京美術学校に入学したのと同じ年に開館した同館に、生前、彼の作品が陳列されることはありませんでした。東京美術学校を退学せざるを得ず、また、華々しい作品展示の叶わなかった土地、東京・上野。「いつか東京で決着をつけたい」。厳しい生活、度重なる挫折にも決して諦めることがなかった画家の意気を思うとき、作品の味わいもまた変わり、強く心が揺さぶられます。

右が青龍展の入選作「白い花」(昭和22[1947]年 田中一村記念美術館蔵)。左は翌年の同展出品作「秋晴」(昭和23[1948]年 田中一村記念美術館蔵)。満を持しての本作が落選し、参考出品作が入選する納得のいかない結果に、その入選を辞退します

「孤高」でも「孤独」ではなかった。多くの人に支えられ、結実した奄美の作品群

昭和30(1955)年6月、九州、四国、紀州へ旅に出た。旅を支援してくれた人々に贈られた「旅土産の色紙」(一部)

一村が奄美大島へ移住をしたのは、50歳、昭和33(1958)年のことでした。一度も訪れたことのない奄美を選んだのは、移住の3年前の九州、四国、紀州への旅が影響をしたのではないか、と言われています。そこで見た光、ゆったりと流れる時間や開放的な空気が、新天地での新しい創作の可能性を告げたのかもしれません。

展示には、九州などへの旅を支援してくれた人物へあてた旅土産の色紙、丹念にデッサンを重ねた痕が知れるスケッチブック、光や構図を意識して撮影された写真などが並び目を引きます。奄美行きを後押しした支援者の依頼で描いた襖絵一式も実際の空間を模した形で展示されています。

没後、奄美に残されたスケッチブック10冊のうち「スケッチブック(6)」

奄美行きを支援する一環で依頼された襖絵一式のうち「白梅図」(裏面:四季花譜図)襖 (昭和33[1958]年)と「紅梅図」襖(昭和35[1960]年)ともに個人蔵

「孤高の画家」という言葉でこれまで表現されてきた一村ですが、その制作においては多くの人々の支援が生涯にわたって続いており、決して「孤独」であったわけではない、と展覧会関係者は強調します。19年に及んだ奄美での暮らしでも、一村の生活は人々との交流に支えられていました。奇しくも展覧会開催前日、一村の生前に画題となる熱帯魚を提供し交流のあった鮮魚店の女性が100歳で天寿をまっとうした、と田中一村記念美術館学芸専門員の上原直哉さんは伝えました。今後、明らかにされていく一村の真実からも目が離せない展覧会です。

赤翡翠(アカショウビン)は一村を代表するモチーフのひとつでカワセミの仲間。「初夏の海に赤翡翠」昭和37(1962)年頃 田中一村記念美術館

最晩年の作品、「海老と熱帯魚」昭和51(1976)年以前 田中一村記念美術館

展覧会情報

「田中一村展 奄美の光 魂の絵画」
東京都美術館
会期:2024年9月19日(木)〜12月1日(日)
開室時間:9:30~17:30 ※金曜日は20:00まで ※入室は閉室の30分前まで
休室日:月曜日、9月24日(火)、10月15日(火)、11月5日(火)(ただし9月23日[月・休]、10月14日[月・祝]、11月4日[月・休]は開室)
※土曜・日曜・祝日及び11月26日(火)以降は日時指定予約制(当日空きがあれば入場可)
※11月22日(金)までの平日は日時指定予約不要
展覧会公式サイト

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