会田誠氏と考えるサブカル芸術 対話企画 長者町岬『日本美術 近代化の蹉跌』

ライター
長者町 岬
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コラム

 「ART PLAZA TIMES」では、小説家・長者町岬氏による対話企画「近代美術を『もう一度やり直せたら』 日本美術 近代化の蹉跌」をスタートします。長者町氏は東京藝術大学を卒業後、東京国立近代美術館の研究員として数々の展覧会を企画した後、東京都庭園美術館の館長などを歴任し、その後小説家に転身した異色の経歴の持ち主。
 タイトルにある「蹉跌(さてつ)」とは、「物事がうまく進まず、しくじること」や「挫折」を意味する言葉で、日本美術には近代化によってもたらされた大きな「蹉跌」があったと、氏は考えています。
 第3回では、現代美術家の会田誠氏と対話します。

長者町岬(ちょうじゃまち みさき)
 1950年、東京幡ヶ谷生まれ。本名、樋田豊次郎。東京藝術大学で美術史を学び、展覧会企画および芸術研究の道に進む。東京国立近代美術館の研究員として数々の展覧会を企画し、意欲的な工芸論を展開。その後、秋田公立美術大学の学長・理事長、東京都庭園美術館の館長を歴任した後、小説家に転身。小説『アフリカの女』(現代企画室)、『台湾航路』(田畑書店)を上梓している。

会田誠(あいだ まこと)
 1965年、新潟県生まれ。現代美術家、アーティスト。絵画のみならず、写真、立体、パフォーマンス、インスタレーション、小説、漫画、都市計画を手掛けるなど表現領域は多岐にわたり、奇想天外な対比や痛烈な批評性を提示する作風で、幅広い世代から支持を得ている。国内外の展覧会に多数参加。1989年に東京藝術大学美術学部絵画油画専攻を卒業後、91年同大学院美術研究科修了(油画技法・材料研究室)。

1 一九八〇年代の美大受験生と美大生たち

長者町 十年くらい前に秋田でお会いして以来ですね。お久しぶりです。あのときは、私が勤めていた美術大学の活性化のために会田さんに特別授業をおこなっていただきましたが、今回は日本美術の活性化にたいする会田さんの戦略を伺いたく、対話をお願いしました。
 私は会田さんがデビューするのにあたって、「日本美術」というような大きな物語ではなく、かといって「伝統文化」というような大きな価値でもなく、目の前にある小さな現実とでもいうようなサブカルチャーを手がかりとしたことに興味をもち、また共感もしてきました。「ほんとに、それしかないよなー」といったところです。
 そこで、そういうサブカル的美術が、これからどこに向かうのか、五十年後の芸術になにを残すのかといったことについて、ぜひ対話してみたいと思ったわけです。

会田 はい、お願いします。

長者町 先日いただいた会田さんの小説、『げいさい』を読ませてもらいました。一浪中の美大受験生が、一九八〇年代中頃に多摩美の学園祭に遊びに行くという設定の物語でしたね。予備校に通う当時の美大受験生や、すでに合格していた美大生たちが、どういうネットワークをもっていたのか、そして彼ら彼女らが美術界をどう眺めていたのかが伝わってきてとても面白かった。そこで、最初にその『げいさい』の話から入ってもいいですか。

会田 はい、どうぞ。

長者町 会田さんが、――あっ、会田さんって呼んでもいいですよね――在学した東京藝術大学の油画科のことをとても克明に覚えているのに驚きました。それは、会田さんが学生時代を重要な過去だと思っているからなのでしょうね。実は私も東京藝大の、ただし実技の教員や学生にとってはほとんど役に立たない美学・美術史を専攻する芸術学科を出ているんですが、私の場合は学生時代がそんなに懐かしくないし、その後の自分のやってきた美術館や大学での仕事とはあんまり繋がってないというか、繋がらないようにしてきた気分があるんです。そんなわけで、断片的な思い出しか残っていません。
 だから、あれだけストレートに会田さんが東京藝大時代のいろんな出来事を回顧されているのを読んで、なぜかなって最初は思ったんです。要するに、理由がわからなかった。会田さんは他のエッセイでも、学生時代の出来事を話のモチーフにしていますけど、あれはやっぱり、当たり前かもしれませんが、その後の制作方針に繋がっているからなんでしょうね。
 きっと予備校時代からの経験を、それがなんであったのかを自分で確認したいんだろう、もうちょっといえば、確認だけじゃなくて、その後の作品制作に正統性を与える必要があって、それで若い時分のことを克明に書いているんだろうという感じを受けたんです。

会田 そうですね……たとえば『性と芸術』という本のなかの、僕の《犬》という絵の解説で書いたことですけれど、僕の認識によりますと、僕がデビューした一九九〇年代は、絵画は冬の時代でした。
 僕はレントゲン藝術研究所っていうところでデビューしたんですけれど、そこはもうメディア・アートの走りみたいなものが多かったんですよね。映像も多かったし、作品としても、金属溶接してネジ止めしてガシャガシャ動く作品とかが中心で。それが新しいといわれて、現代美術業界にはかなり衝撃を与えたギャラリーなんですけれど。僕にとってデビュー当時の周りの同僚や同世代のアーティストたちは、そういう感じでした。

 そのレントゲンが大森にあった時代に、絵画と呼べるようなものを展示したのは、僕の記憶だと僕と福田美蘭さんの二人ぐらいで。それにヴェネチア・ビエンナーレとかでも、どんどん巨大で派手なインスタレーションが出てきました。
つまり僕は、なんか時代遅れの絵描き、まだ絵なんて描いてるダサいやつというのに、なんなら開き直ってしまおう、そして東京藝大なんていう古臭いところ出ちゃった自分を自嘲的に売りにしようと考えたんです。当時僕は名刺の肩書きを「絵描き」としていたんですが、渡された相手は僕の目論見通り、大抵笑いました。九〇年代とはそんな時代でした。
 当時藝大油出身というのは、現代美術の世界では、胸を張って威張れるような経歴ではなかったんです。実際人に言われたことがありますよ、「あー、キミ藝大出身なんだ、じゃあきっと作品古臭いね」と。「いえ、僕は藝大だけど優等生じゃないんで、古臭くないです!」と反論したり。
 絵画が復権するのは、その後の二〇〇〇年代に入ってから、という印象があります。その頃に状況が変わったことを、今の若い人はよく理解できないでしょうけど。
 だから僕は初期、「なんちゃって擬似日本画」みたいなものを作ったり、「戦争画RETURNS」シリーズを作ったりと、明治から戦中の日本美術を題材にしました。日本画も戦争画も、研究者に比べたら浅く調べただけですが。「僕ならこの新しい時代に、日本画や戦争画をこう作り変えるよ」という提案でした。ニューヨークをゼロ戦が火の海にしているところを日本画タッチで描いた《紐育空爆之図》が典型ですが。僕のデビュー前後はそんな感じでした。

長者町 絵画の凋落と復権が、会田さんの学生時代から活動初期に重なっていたということですね。それで会田さんはあえて絵画でデビューして、そのことが後々までの作品制作に影響しつづけているので、会田さんは藝大での出来事を重視しているということなのですか。会田さんにとっての絵画の選択とそこからの逸脱は、後ほど話のテーマになるんでしょうが、多分……。その前に、なんだって自分は芸術なんかをやってるのか、自分は芸術になにを求めているのかという問い、若い美大生が誰しもいだくそんな惑いについて、一九九〇年代の藝大の美術学部は、学生にどんな答えを与えてくれる場だったのかな。この話を先にしませんか。

2 西洋と近代に対してアゲインストな態度をとってきた

長者町 というのも、会田さんはあちこちで、明治以来の日本の近代美術が西洋芸術を輸入してきたことに違和を表明しているけど、私もいつまでも西洋追随ばかりしていてどうするんだっていう気持ちでした。取るに足らない事例ですが、私は学生のとき芸術学科の研究室で日展の招待券をもらったことがあって、見ると今日が最終日だったので、迷った挙げ句、見に行かなかったことがありました。要するに、西洋風応接室にたたずむ裸婦とか、上高地のようなバタ臭い風景を描いた油絵や、彫刻室に林立している裸婦の群像を思い浮かべてパスしてしまったわけです。
 他方、日本美術には文化庁が主催する日本伝統工芸展のように、「伝統」を根拠にすれば間違いないという空気もあった。少なくとも、芸術学科の近代日本美術史はそんな二つに挟まれていた。それで私は「右も左も蹴っ飛ばせ」みたいな気分に追い込まれていったような記憶があるんです。油画科はどうでした? 西洋や近代を追う空気はもはやまったくなかったんでしょうか。もちろん日本画のように伝統を守る空気もなかったでしょうから、それで会田さんは、どこかに突破口を探していたように見えるんですが。

会田 なるほど……まずさっき絵画の復権みたいなのがあったといったのは、僕の話というよりは、美術業界、あるいは世界の状況をいいました。僕ではなく、奈良美智さんとかピーター・ドイグを指したつもりで。
 絵画が結局よく売れるってことで、絵画が復活するのなら、むしろ僕は絵画からまた離れようかなという気持ちになりました。ひねくれ者なので。それで僕の『スクラップブック』という最近の作品集では、絵画が少なくて、へんてこな活動が多かったと思うんですけれど。主に二〇〇〇年以降の活動をまとめたものなので。でも絵画を完全に捨てたわけでもなく。僕は何事も完全にどちらかに振り切るという決断をしないまま、ぐちゃぐちゃと中途半端なままあがく、というタイプです。

長者町 その中途半端さが、西洋でも近代でもなく、もちろん日本の伝統でもなく、目前の日本にあるサブカルチャーを会田さんに選ばせたんですかね。

会田 僕は明治から戦前にかけての日本の美術界、当然ながら長者町さんに比べて詳しいわけではなくて。やはり僕は基本、現代美術の畑にいます。でも使えそうな部分をちょっと調べて、独断と偏見で勝手に僕の美術史をこしらえて、自分の制作に利用するタイプです。長者町さんか小説『台湾航路』でテーマにしたのは、日本が西洋の油絵を吸収しようとしてなかなかうまくいかなかったとか、さらにそれが台湾に移植されたといった歴史でしたよね。僕はあまり深くそこらへんにコミットしてなくて。
 この前お会いしたときにチラッといったんですけど、僕は最近、岡倉天心について、二万五千字ぐらいのちょっと長めのエッセイを書きました。書かせられたというか。自分のためだけの雑な美術史にしたがうと、明治以降戦前までの時代は、洋画より日本画の方が良かったって、まずこうざっくりと決めちゃっていまして。そのエッセイでも洋画について酷い書き方をしたんですよ。
洋画家はヨーロッパに留学して、あっちでなにか成果を出すということもなく、無名のままだったのに、日本に帰ってきたら美術大学の教授のポストが与えられたりして、お山の大将になって、ワインの蘊蓄とかを垂れながら、なんか自由気ままにね描いてた、と。
 それにたいして日本画家たちは、日本というアイデンティティをどうやって絵画で表現するかという難問と格闘していて、日本画の方がいい、みたいな乱暴な書き方で。日本の油絵は高橋由一の『豆腐』が一番よくて、それで終わりぐらいに考えてます。今回『台湾航路』を読んで、少し反省したんですが。
 『台湾航路』のなかで、モダニズムとか近代っていう言葉をよく書かれていましたね。この間打ち合わせのときも、モダニズムって言葉が何度か出たんですけれど、多分、長者町さんのいうモダニズムと、僕や僕世代のアーティストがモダニズムで浮かべるものが少しずれてるような気がしました。どっちが定義的に正しいか……多分、長者町さんの方が正しいというか、ベーシックだと思うんですけど。

長者町 私は芸術のモダニズムというと、西洋の場合は二十世紀初頭のキュビスムからダダ、シュールレアリスムあたりを思い浮かべるし、日本だったら、明治末の白樺派から、大正の前衛主義絵画あたりを思い浮かべるけど、でもそんな美術動向による定義はどうでもいいんです。それより同時代的であろうとする精神がモダニズムだと思っている。だから、その本質は近代主義で、朝鮮半島から土器を輸入した弥生時代にも近代主義はあったと考えています。

会田 なるほど。まあ、僕ら世代にとってモダニズムというと、一言でいえば、グリーンバーグが推したアメリカの抽象表現主義です。八〇年代後半が僕の学生時代でしたけれど、そのころ銀座の現代美術系の画廊に行けば、日本流にローカライズされた日本版抽象表現主義のような抽象画が並んでいました。そういう方々は議論が好きで、絵画とはとか、空間とはとか議論してて。僕より十歳くらい年上の世代で、美大の助手や助教授をやってる人が多かったんじゃないでしょうか。「美術手帖」でもよくそういう方々が特集で組まれていました。僕がとりあえず超えなければならなかったのはそういう方々で、だから明治の洋画家とかは、眼中に入ってなかったというのが正直なところですね。
 

3 小岩のなんの特徴もない住宅街

 
長者町 近過去の美術界を美術史的に振り返っても、いまの若い人たちは退屈するんじゃないかと心配です。もうちょっと、なんていうかな、パーソナルな歴史というのかな、あの時の自分は何者だったのかということを話していって、で、最後に、絵画の復権や、岡倉天心の『茶の本』にいくといいかなと思うんです。年老いた評論家が昔の思い出を語り合うようなことになってもいけないので、気をつけないといけませんけどね。
 たとえば、さっきの抽象表現主義にしても、西洋を輸入してくる、それはその人によって深さの違いはあるにしても、所詮もってくるという、そういう東京美術学校の西洋画科の構造っていうのは、やっぱりフランスからラファエル・コランの官展風絵画をもち帰った黒田清輝のころから変わってないなって印象でしたか。少なくとも、私が学生だった一九七〇年代の彫刻科なんかには、現代イタリア彫刻をお手本とする傾向が顕著だった。

会田 そうですね、いちばん多いタイプは、具体的には国画会とか……日展ではないんですけれど、官展的なものから反発した団体展に所属している教授が多めで、その方々の多くは、抽象と具象の中間ぐらいな絵を描いていました。そういう教授に師事する同級生はいっぱいいましたが、僕はあんまり興味がなくて。なのでどうしても関係がある教授としたら、ただ一人、学部時代ですが、榎倉康二先生だったんですよね。
 狭い意味での現代美術をやってる教授は、当時は助教授だった榎倉さんただ一人でしたから。もの派と本人は呼ばれたくなかったかもしれませんが、大枠でいえばもの派の作家ですね。榎倉さんの言うことには他の教授よりは熱心に耳を傾けてたんですけれど、僕はクソ生意気な学生で、いちいち榎倉さんのいうことに反発がありました。
 多分、榎倉さんのいってることは、なにも間違ってはなかったはずなんですけれどね。空間とか時間とか物質とか、もの派がテーマにしたようなものを指導として喋るわけなんですけれど、なんていうんですかね、還元主義的っていうか。表面的で特殊なことじゃなく、普遍的で根源的なものに還元して考えろ、というようなことだったんですけれど。それでは表現が痩せていくじゃないか、というのが僕の若いときの反発で。だから僕は学生のころから、ヌードモデルを漫画の登場人物みたいに目がでっかい顔にしたりして、講評会にだして怒られるとか、そういう感じだったんですけれど。

 もっと現実の日本の社会はぐちゃぐちゃして、変な要素がいっぱいあるのに、還元とかやると、全部石置いたり重油を貯めたり、そういうことに行きついちゃって、袋小路じゃないかというような思いだったんです。
 この『台湾航路』を読んでて、主人公であるチェン・チェンポー(陳澄波)という実在の台湾の画家が、土着性って言葉をよく使うんですよね。おそらく本人がいったり書いたりした記録があるんでしょうけど。彼はその考えに基づいて、台湾の普通の人々が暮らしている風景を描きました。じゃあ僕にとって土着性ってなんだろうと考えて。一作だけ《あぜ道》はありますが、あまり風景画を描くって発想には向かわなかった。
 それで学生時代の試作を一つ思い出しました。当時僕は江戸川区の小岩に暮らしてたんですが、そういうなんの特徴もない住宅地の、普通のサラリーマン家族が住む街並みを写真で撮りまくる、みたいなことに一時期はまって。それがなんの表現になるのかわからず、うまくアウトプットできずに終わったんですが。それはもしかしたら、チェン・チェンポーさんの土着性の、一九八〇年代における僕の表れだったかもしれないんですが。
 そこで僕は風景ではなく、いわゆる広い意味でのサブカルチャーに着目したんだと思います。子供の頃から普通に漫画とかアニメを見てましたし、エッチな雑誌とかも思春期からはお世話になっておりました。そういう国際的には、ましてアートの世界では、こう……胸を張って見せられないものですね。いまサブカルはむしろ国を挙げてのプライドにしようとしていますけれど。八〇年代はやっぱり日陰者でした。まだお前まだ漫画なんか読んでんのっていう風潮でした。
 そういう低いレベルの庶民の娯楽物に、僕にとってリアルな土着性を感じたんだと思いました。それを作品に取り込めないか、それによって、尊敬もして好きでもあったんですが、榎倉康二的美術を越えるきっかけになるんじゃないかということで、学生時代は失敗作や駄作をうにゃうにゃ作っていました。一応の達成である《巨大フジ隊員vsキングギドラ》まで数年を要しましたが。

4 オールド・モダニスト:野見山暁治

長者町 僕はもちろん習ったことなんかまったくないですけど、野見山暁治が当時まだ藝大にいましたよね。それともすでに辞職していました?

会田 野見山さんは、僕の時代はもうすでに客員教授で、お見かけするのは年に二回ぐらいでした。作品の講評をされたことありますけど、すごい飄々とした方でしたね。僕が学部三年時、最初に日本画風な絵にトライしたのが、ゴキブリを和紙に、一応没骨法で描いた《御器嚙絵巻》っていうものなんですが、それを見せました。野見山さんはニコニコ笑いなが「ゴキブリっていうのは、この髭のところを指で押さえると逃げられなくなるのかな」とか、重要なのかどうなのかわかんないコメントして去っていきました。

長者町 後になって私が勝手につくりあげたイメージかもしれませんが、野見山さんって、オールド・モダニストのような画家だったという印象がありました。西洋一辺倒でない、多少は西洋を日本の土着に落とし込んでいる、しかし西洋のエスプリは失っていない、東京藝大が明治以来営々として積み重ねてきた西洋絵画受容の集大成のような感じを、野見山さんの絵から受けました。だから、西洋と近代に対してアゲインストな会田さんにとっても、許容範囲の人かなと思ったんです。
 野見山さんは百歳を超えてから、自分の絵を各地の公立美術館に、自分から割り振って寄贈を申し込んでいるんです。だからあちこちの購入委員会に行くと、野見山さんの寄贈申し込みの話が出てきました。面白かったのは、野見山さんが美術館の運営方針をよく見て、自分の手持ちの絵を、いわゆるモダンな絵と、最晩年のそれを絵と呼んでいいのかどうかわからないような子供の自由画のような絵に大別していたことです。きっと、日本の公立美術館の変遷をよく観察していたんでしょうね。そしてその変遷とパラレルな関係にあって、西洋絵画の受容を変化させてきた自分の絵の到達点も、よく認識していたのではないかと思いました。そういう意味で、私は野見山さんをオールド・モダニストと呼んだんです。
 榎倉さんほど、現代美術の先端にいたわけでもないし、かといって、帝展風のアカデミズムでもない。そのどっちともいえないところが、当時の穏健な藝大生には人気があったのかなとも思いましたが、その中途半端さを会田さんは嫌ったんでしょうね。

会田 そうですねえ……野見山さんは、もちろん嫌いではなかったですけど。野見山さんは僕らにとって、どんな存在だったんですかねえ……いや、でも、藝大の油になにかいいものがあるとしたら、それは野見山イズムみたいなもののような気はなんとなくしてました。あの日本の、藝大油絵科特有の自由とでもいうんでしょうか……。でも、やっぱり野見山さんの仕事は僕とは、やっぱりあまり接点はないままですね。

5 サブカル

長者町 いやはや、ほんとうに学生時代を克明に記憶されてる。それにきちんと分析していますね。それにくらべて、私なんか穏健といえば聞こえはいいけど、学生時代をぼーっと過ごしてきました。
 さっきね、榎倉康二さんのストイックなものの見方に関連して、もっと世のなかはぐちゃぐちゃしているとおっしゃっていたけど、あれって整序された、いわば理想的現実よりも、サブカル的現実の方に関心があったってこと? 小岩の街並みにしてもそうだけど、ああいう自然増殖したような街区のほうが、都市計画に基づいて再開発された街区よりも、性に合っていたっていうことなんでしょうね。
 私の学生時代は一九七〇年代でしたけど、そのころの世間には、いまよりももっともっと、そのぐじゃぐじゃって感じが残ってました。でもそれは、どっかね、触ってはいけない、あえていえばなんらかの禁忌と繋がってるような感じもしたんですね。もう戦後もだいぶ経っていたから、戦前からの社会的規範が残存していたわけでもないんでしょうが、だからこれは私個人の問題なのか、時代のせいなのかよくわかりませんけど、でも合理的に割り切って解釈してはいけないなにかが、世間には潜んでいるような感じがあったんです。

 そこに近代の光を当てて、そのぐじゃぐじゃを味見したり、消費したのが、ちょうどあのころからはじまったテレビの「新日本紀行」だったように思う。まだ少しは残っていた、日本人のメンタリティーが育んだ奇祭や禁忌を、一生懸命見つけ出そうとするような雰囲気があったんです。だから同級生には、新日本紀行が好きだという人もいました。私はそのわざとらしさが、人の情緒に訴えてくるような感じがして、あまり好きになれなかったんですけども。
 人がそっと守っている禁忌を近代の合理主義に照らして解釈するのは、ちょっと畏れ多いという気分がしたんです。NHKだからそこは穏やかで、むしろノスタルジーを掻き立てる調子だったけど、普通に生きてるおじさんやおばさんがなにかをあえて曖昧にしている姿は、そっとしておきたいなという気分がありました。多分そういう思いは、私の精神的な弱さで、だから私は表現者になれなくて研究者の道を選んだんでしょうけど。
 会田さんの場合は、そうしたぐじゃぐじゃを正面から見据えて、作品化しているようなので、そのきっぱりとした姿勢が羨ましくもありました。

会田 いま聞いて僕が「新日本紀行」から連想した美術は、山下菊二とか菊畑茂久馬とか中村宏とかです。おどろおどろしい村の掟みたいな雰囲気のザ・土着、それと社会問題を絡めたルポルタージュとか、ああいう方々の仕事です。主に六〇年代に花開いたイメージがありますが。
 で、勝手に名前挙げちゃいますが、村上隆さんとか僕とか、九〇年代の、抽象表現主義やもの派とは違うものをやりたいと思ってた人たちは、キッチュと呼ばれたり、ポップと呼ばれたりしました。あれはそういう六〇年代キッチュ、ポップのリバイバルという面もあったと思います。何十年周期とかで、美術の流行も繰り返すという説もありますけれど。その間の期間、七〇、八〇年代にあったのが、すごく抽象度を高めて、なんかこう簡潔にした美術、ミニマル的な作品で。その反動としての、ぐちゃぐちゃ、ぐちゃぐちゃドロドロ系だったと思うんですけれど。でもやっぱり僕には、村の掟みたいな、古い日本社会の連続性は断絶していて、せいぜい映画の「八つ墓村」とかでエンタメとして消費するだけの世代です。
 だから、目の前にあるキッチュというと、やっぱりマス・コミュニケーションに乗る大衆文化となります。なんならここ、小学館とかじゃなくて、同じ神保町のそこらにある弱小出版社がつくる、戦後のカストリ雑誌の流れをくむ、三流ジャーナリズムみたいな。八〇年代はエロ雑誌のひとつの黄金期だったんですよね。ああいうものに、ハイティーンの人格形成の一翼を手伝っていただいて出来上がった人格なので。「新日本紀行」は子供のころ見てたけど、直接は悲しいかな関係ない。やっぱり高度経済成長からバブルにかけて、必然的に途切れちゃったものはあると思うんですよね。

6 制度内改革

長者町 それをキッチュと呼ぶにしろポップと呼ぶにしろ、わずかに戦前から残っていた公序良俗のようなものから解放されて、軽々とそれらを乗り越えていく会田さんの作品が、私にはまぶしく見えていました。そんな公序良俗なんかしゃれのめしちまえというような根性は、私にはなくて、だから私は美術館という公的組織に勤めてしまったわけです。でも、実証的な美術史に身を潜めたままでいいのかっていう思いは消えなくて、ずっと鬱々とした気持ちを引きずっていたんです。
 今回も会田さんが自分を回顧する本を読んでみて、私の場合どうだったのかなとあらためて思ったんですけどね。古い言い方ですけど、私は制度内改革しかできないんじゃないかなと思いました。一人になって、孤立してでもやれることをやるというよりは、場を与えられて、制度のなかで、しかしそれを内側から蚕食していこうとしてきたんです。だから、ものごとの全否定とか根本否定じゃない。部分的に否定していくっていう感じがあったんです。
だいぶ年を取って、もうほんと数年前ですけど、それがすごく嫌になって、で、名前も変えて、そんな改革ぶったような美術史の書き換えをしても、結局はそんなことしてても、またつぎの誰かが上書きしていくだけだろうから、何も残らない。だったらもう小説にして、思ったことを少しでも今のうちに吐き出して人に伝えてしまいたいという、そういう長い間の自分の人生の反省の気持ちがあるんですね。

会田 制度内改革はもちろん、そういうことができる方がやっていただかないと。その言葉は久しぶりに聞いたんですけれど、前に聞いたのは千住博さんです。ニューヨークに半年滞在してた時に、一度いっしょに食事させていただいて。その時「会田くんはそうやってね暴れてていいな。でも僕は日本画という制度のなかにいて、制度内改革をやるんだ」というようなことをおっしゃってて。僕はやっぱり、街のチンピラとしてやるしかなく、ちゃんとした肩書きのある人間にはなれないので。そこは棲み分けでいいと思います。でも長者町さんがその肩書きを捨てて、小説家になったのは理解できますし、素晴らしいことだと思います。

長者町 こういう風にいうと会田さん怒って帰っちゃうかもしれないけど、会田さんの仕事にも体制内改革みたいなとこないですか?

会田 さて……どうなんですかね。ほんとは別に近づかなくたっていい日本画という固いところに、なんちゃってだとしても、わざわざこっちから近づいていったあたりはそうなんでしょうか。日本画って大雑把にいって体制側ですからね。

長者町 それもあるんだけど、何年ころからかな、主に社会的なテーマを、政治的とまではいわないけど、社会的なテーマを選んで、それを自分なりに解釈して面白く表現してきたじゃないですか。
たとえば森美術館で開催された個展のとき、私はそんな印象をつよくもったんです。あのときですよね、私たちがはじめて会ったのは。当時、私は秋田の美術大学にいて、会田さんに秋田で集中講義やってくれませんかってお願いしましたよね。

会田 そうでした。

長者町 会田さんに秋田に来てもらって、生真面目な雰囲気の美術大学を掻き回してもらおうと思ったんです。あのときの個展を見て、会田さんが本気で世のなかを変えちゃおうと思っていると感じた人はいないと思いますよ。あれに刺激されて、社会改革家になろうと思った人もいないでしょう。観客は知的遊戯を感じたと思うんですが。会田さんはそこまでで表現を止めて、あっち側に行って、戻れなくなってしまう直前のところで、表現を抑えていたように思います。

会田 そんなふうに森美術館の個展は見えましたか。

長者町 会田さんの真意は別としても、あのころ以降の会田さんの作品は、制度内改革という役割を担っていると、世間で誤解されてきたような気がする。

会田 そうですね、社会とか、社会ネタとかが、二〇〇〇年以降は多いような気がしますけれど。それは父親からの先天的、後天的な遺伝だと思うんです。たとえば、抽象画を描くある種の人は、なんなら数学的な、幾何学的な興味から入る人もいるでしょうけど、僕はそういう脳みそはほとんどなくて。そういう喜びは全然ない。父親がソフトな左寄りの社会学の研究者だったんですけれど、その父親に反発して、父親のようにはなりたくない、だからこちらは芸術家になるんだという、思春期の反発からこうなったんですけれど、でも、やっぱり活動はじめてみたら、カエルの子はカエル的な感じで。社会的なニュースとか歴史とか、とくに自分にとって切実な日本社会の題材は、活き活きと反応しちゃうんですよね。いまでもツイッターで、別に絵とか芸術のことだけツイートしてりゃいいのに、社会ネタなんか書いたりリツイートしたりしちゃいます。
 染みついた左翼根性がありまして。でも社会派アーティストになるぞとかいう感じではなく、あくまでもダメ息子として、ふざけて屈折した感じはキープしたくて。アーティストっていうのは不真面目な態度でいいと思ってるんです。マジな政治家とかジャーナリストにはなりたくない。そこをちょっと笑いに変換したりとか、そういう感じでいまに至っています。

長者町 私が美術館に勤めだしてしばらくしたころ、さっき話されていたもの派が下火になって、そのあともの派に似た現象が工芸の分野でも起きてたんです。アメリカ渡来のクレイワークとかメタルワークなんて言葉があって、つまり、土や鉄の塊だけで作品にしてしまうものだったけど、それが流行した根っこには、材料には人間が馴致することのできない、飼い慣らすことができない力が備わっているという信仰があったんです。天然の材料には、人智を超えるすごい力があって、それを掴めれば作品も人智を超えたものになるはずだという期待があったんですね。「素材の領分」っていう展覧会でした。
 これが、私の考えた舌足らずな制度内改革でした。なぜ舌足らずだったかといえば、だってそこで展示を依頼した作品は、結局、画廊で売買されるときのステムとか、なんらかの賞候補になるときとか、マスコミに取り上げられるようなときには、従来の形式と同じで、なにも変えているわけじゃないんですから。展示作品が芸術作品として社会から認知される態様にまで、私が切り込んでいなかったということは、突き詰めれば、私が近代芸術を成り立たせてきた根底を、いわば「近代芸術の守護神」を信じつづけていたということです。

7 芸術には守護神がついているという信仰

長者町 私の気持ちにそんな信心が残っていたことは、「素材の領分」展でユン・ヒチャンという作家が、既存の細長い展示ケースを使っておこなった仮設展示を見て実感しました。そのケースは横幅が七メートルくらいあり、工芸品を展示するために台座の部分が腰の高さまで持ち上げられているんですが、そのときはなにも展示品を入れずに、その代わりにユンさんが陶器でつくった仕切り板だけを二、三カ所置いたんです。中年女性のお客さんが通りがかったので、反応を見ていたら、「今回はここには何も置いてないんだわ」と話し合って帰っていきました。
 彼女たちは螺鈿がきらびやかに輝く漆の手箱を期待していたんだろうなと、そのとき私は思ったのですが、でも後で気がつきました。私も彼女たちと同じように、美術館の展示ケースには芸術の守護神が宿ると、無意識に信じていたのです。だからなにも置いていない空間があっても、美術館はその機能を奪われないと考えていたんでしょう。
 ですから今回、会田さんが『カリコリせんとや生まれけむ』というエッセイ集で、「行くならキッパリ行く、行かないならキッパリ行かない」って言い切っているのを読んで、はっとさせられたのです。

会田 いやー、偉そうに書きすぎました。

長者町 西洋とか近代にたいしてアゲインストである度胸に拍手喝采すると同時にね、じゃあその先はどこに向かうんだということに、私は興味を引かれました。そして、それは将来の芸術になにを残すんだということも気になりました。そんなことを考えても答えが見えず、私が学生だった七〇年代、同級生にはインドに行って放浪してくる人もいましたが。

会田 藤原新也さんとか。

長者町 あの人くらいになると本格的ですけどね。私もアムステルダムのダム広場に行ったとき、そこで大勢たむろしていた白い貫頭着のような服を着たったヒッピーから、泊まるとこがないんだったら、あっちの建物に来ないかと誘われたときは、それもいいかなと迷いました。ここでも私は決断力がなかったんですけどね……。

会田 いやでも僕も、自分の人生はだいたい失敗、みたいに感じてますよ。最初にいったように、なんかあれこれ迷って、いろいろ失敗を繰り返して、どっかひとつの方向性を決めないまま、一生ぐじゃぐじゃしたまま終わると思うんです。
 またツイッターみたいな話をしちゃうんですけど、昨晩だったかな、「国際的な現代美術を僕は疑ってる」みたいなツイートをしたんですよね。「北欧のアーティストはちょっと嫌いだ」とか。「アメリカとかドイツとかイギリスっていう国は、平等とか正義とかいうけれど、けっこう偽善的だ」という人のツイートに反応して「それって現代美術が盛んなところのところと一致しますね」みたいな。そんなふうに現代美術を下げてみたりするのに、状況によって、現代美術があまりに悪くいわれてるところを目にすると、現代美術を上げねばと思って、すごく擁護してみたり。
 象徴的だった例が、二〇一九年の愛知トリエンナーレで津田大介さんが芸術監督をやったときの「表現の不自由展」。その後の騒動のときですけど、僕は基本的になにも関係ない。なんなら津田さんがほんとうはそこの展覧会に僕を推薦したのに、左翼系でフェミニストの実行委員のメンバーが「会田なんか入れない」って断わられた。むしろ僕はその不自由展実行委員会と敵対関係なのに、「不自由展側はなにも悪くない、現代美術ではこんなのは世界的に常識」みたいな弁護を、誰にも頼まれてないのにしたり。本当に「オマエはどっちなんだよ」って感じです。

 「西洋、近代、ことあるごとにアゲインスト」っていうのは、確かに嘘ではないんですが、でもやっぱり同時に、長者町さんだってそうで『台湾航路』にもそういうような描写がありますけれど、西洋近代は侮れなくて、手ごわい相手ですよね。ちょっとやそっとでびくともしない。実際残ってる作品がすごいですから。こんな現代の日本人である僕がちょっとひっくり返してやろうとしたって、全然無理。だから悪あがきであることをわかっててやってるようなもので。悪あがきのみっともない姿を見せることにも、なんか意義があるんじゃないかと思ってやってます。

8 芸術には「戦略」が必要

長者町 会田さんを秋田の美術大学にお招きしたのは、なんとかして地方の生真面目な学校を揺さぶってもらいたいという気持ちがあったんですが、私なりにも制度内改革を目指して、アーツ&ルーツというコースをつくったんです。ウイリアム・モリスがはじめたアーツ&クラフツ運動をもじったんですが、そこには現代芸術をその根っこから再生させる(この言い方も制度内改革的だけど)という意味を込めました。
 私がこのコースの名前を発案したときは、さんざん批判されましたが、でも学生にコース分けを募ったときは、一番人気でした。いま考えてみると、アーツ&ルーツというコースは特定の造形的方向性を指示しているわけではないので、結局は「戦略」を掲げていたんでしょうね。戦略自体をアートと見なしたんです。だからこそ、審議する有識者たちには理解されなかったけど、でも学生たちはそこに感応したのだと思います。私が秋田の美大を去ってからですが、アーツ&ルーツ所属の教員たちの作品がヴェネチア・ビエンナーレの日本館に招かれていました。その作品は、大地震で海中から陸に打ち上げられた地震石を題材にしてましたから、まさにあのコースの設置は、日本芸術の「戦略」を取り戻させたのではないでしょうか。
 さっき私は、「会田さんの作品は制度内改革だと誤解されかねない」なんて失礼なことをいってしまいましたが、でも会田さんがサブカルを選んだのが「戦略」だという点では、西洋芸術との距離感をどう取るかということに苦悩していた明治以来の日本芸術に、自発的な戦略の必要性を思い出させてくれたんじゃないでしょうか。

会田 僕はヴェネチアに届くような戦略はなかなか練れず、苦戦の連続ですが……まあ諦めずに、今後もいろいろトライしたいと思ってます。

9 美少女

長者町 ところで会田さんといえば、「美少女」にも言及しとかなければなりませんね。

会田 ああ、はあ……。

長者町 旧来の少女漫画に出てくる美少女は、いかにも夢見るような瞳の女の子でしたけど、会田さんの美少女はなまめかしかった。ああいう少女たちは、その後どんな風に育って、大人になって、どんな女性になることになっていたんですか?

会田 質問されたので答えなければいけませんが……たぶん直接には答えられないと思いますけれど。まず、少女っていうのは、僕も確かにそういう記号性を扱いましたけど、もちろん僕の発明ではなくて、それならばまだ秋元康の方が発明者に近いし、秋元康だけが発明者だったわけでもなくて。あれは六〇年代ぐらいからじわじわはじまった、元々は、フランスのなんていうんですか……。

長者町 バルチュスですか。

会田 違います、歌手の話です。「夢見るシャンソン人形」を歌った元祖・美少女アイドルみたいな人。ああいうのがフランスでは下火になったのに、日本はアイドル文化がそのあとどんどん肥大化していって、秋元康のAKBにまでいくんですけれど。
 ただ僕が少女を使ってるときも、これはひとつの日本の特徴であり象徴たりうるなと思ったけれど、そのときからして、これは素晴らしい文化で、国粋的に、日本の優位性だからぜひ使おう、みたいではないんです。僕の場合だいたい、いい面と悪い面とがフィフティーフィフティー、自分の好きも嫌いもフィフティーフィフティーってときに「この題材使おう」と思うんです。
 僕がハイティーンのときは、ただの「お客さん」としてお世話にはなってましたが、さすがに美術家としてデビューしたころは「日本のアイドル文化は素敵」とだけ思ってたわけじゃなく、「ここにはなんか病理があるな」とか「狂ってるな」という思いもあって扱うわけです。アイドルといったって、もう二十代半ばだったりもするのに、いつまでもヒラヒラな衣装着て、世界的に見たら十四歳とかみたいな雰囲気を振りまき続けたり、本人の精神的な内容もそんなんだったりする。大人になってまで、ずっと幼児的であるっていうのは、「ネオテニー」なんていう言葉もあったりするらしいですけど。変な国だと思ってます。その変な国が僕の題材です。答えになってない?

長者町 ネオテニーって、大人になっても幼体(子供)の特徴を残してるっていう現象のことでしょ。美少女は記号だったといわれてしまえば、それまでですが、しかしいまの風潮では、女性に向かって記号だなんていうと、どんなしっぺ返しを食うかわからない。それで、女性にたいしては人間として尊重しなくてはいけないと、私のような気の弱い元教育者は思ってしまうんです。こんな話をしてもしょうがないんですが、昔の美少女が大人になった女性を、どんな風に考え、どんな風に愛せばよいのかがわからなくなるんです。美少女たちは大人になって、なにかを発信する存在になるんでしょうか?

会田 ちょっとお答えしにくい。そのお答えはノーコメントにさせてもらっていいですか。そういうことは興味があって、場合によってはそういうものを作品に反映させるかもしれませんが。

10 美術館にも戦略が必要

長者町 会田さんの、『あぜ道』という作品があるじゃないですか。田舎の農道に、セーラー服姿の少女の頭髪の分け目が繋がってる絵。

会田 豊田市美術館に入った。

長者町 そう、あのとき私、購入委員でいたんです。

会田 ありがとうございます。一票を投じていただいたんですね。

長者町 それでね、私は当時まだ若く、年齢的には下っ端でしたが、年上の委員の人たちが、どういう風にこの案件を処理したらいいかって、悩んでいました。たいした意見も出なかった。出たのは、このような九〇年代に登場してきた若い芸術家の作品を、どういうふうに豊田市美術館が位置づけていくかべきか。そこがまだないから、判断に困るというような、よくありがちな、まさに評論家の物言いでした。
 美少女つながりであの絵を思い出したんですけど、あれから三十五年近く経つのに、日本の公立美術館は、西洋絵画のエスプリを感じさせる日本的洋画以外の絵を、どのように評価していけばいいのかという戦略が描けないでいるように思います。
 それは言い換えれば、美術館が会田さんたちの戦略を見抜けてないということではないでしょうか。たとえばメディアという言葉ひとつをとっても、会田さんはメディアという言葉を新しい意味で解釈している。これまでメディアといえば、それは絵画、漫画、映像のような表現を伝達する手段あるいはジャンルを示していたけど、会田さんのツイッターによる作品を見ていると、それ自体が新しい表現である実体になっているように思う。表現の決定権者が作者ではなく、メディアになってしまったみたいな……。
 もちろん、会田さんの絵も含めて、大きくいえばネオ・ポップと呼ばれる人たちの絵も徐々には美術館に収蔵されているんですが、でもそれは蒐集とはどうあるべきかという「あるべき論」の結果ではなく、現状を遅ればせながら追認していく「いまこうなってる論」の結果であるように思います。

会田 僕は追認でもいいと思います。僕の絵にかぎらず、今後はどんどん買うべきですよ。モチーフはもちろん少女だけにかぎりませんけれど、やはり漫画、アニメが日本文化に残した良かれ悪しかれの爪痕は決定的で、もう幼稚園児が最初にクレヨンで描く絵もそういう漫画顔になってますから。いま若いペインターが描くのは、いわゆる「キャラクター絵画」と呼ばれたりしてますけど、それはこんなに多く描かれてるんだから、いますぐとはいわなくても、そのなかの突出したものは美術館が購入してくべきですよ。なんなら、日本が変な時代だったことを記憶するためにでも。

長者町 そうですね。そうならないのは、近代美術を専門にしている研究者、評論家、学芸員の思考が停滞しているからだと感じているんです。それもあって、私はもう美術史なんかやりたくないという気持ちなんです。
 美術の歴史っていうと、一見、体系的なようですが、実際には作品が生まれてきた順番を追っているところがあり、その順番に因果律を探す場合は、外来文化の影響や、政治的・社会的思想の変遷を応用して説明しているといったところなんです。その証拠に美術の歴史を現代から遡っていくと、そうなると外発的影響を援用できなくなるから、美術作品の変遷が説明できなくなるのです。そういう状況ですよ、いま。

会田 ただ、やっぱりこれは素敵なニュースとかいい未来ではなく、むしろ不気味な前兆ですけれど、そういう西洋が良かれ悪しかれのお手本だった、民主主義や人権などを代表とする「欧米的なるもの」が、だんだん崩れていっているようなニュースを最近よく耳にします。そしたら西洋近代芸術の流れの先にある現代美術という業界も、変わっていかざるをえないんだろうなと思っていて。大きな変化が起きるのは僕の死後かもしれませんけれどね。なんなら僕が思った通り「ほら、やっぱりそんなに西洋は万能じゃなかったし、最終的な答えでもなかった。僕の思った通りじゃない」となるかもしれない。でもそれを喜べない僕もいる。
 さっきいったことですが、アートっていうものが良いものなのか悪いものなのか、上げてみたり下げてみたりが、一日の間でも何回もコロコロ変わりつづける。

長者町 日本の美術館にも、正確にいえば戦略がなかったわけではなく、文部省の立てた文化のグローバリズムのような戦略があったんです。でも、それを各美術館やひとり一人の学芸員が、親方日の丸式に前提としていたので、批判するどころか補強してきた。それに美術団体にしたって、官展系であろうと在野系であろうと、集団としての戦略は大なり小なりもっていたはずなんだけど、それをアンタッチャブルにしてしまう風潮が日本にはあるんでしょう。
 さらにいえば「親方日の丸」の戦略だって、「親方西洋近代」の戦略だって、物差しを拠り所にして芸術の行く末を案じていたということに変わりはない。開国以来、西洋留学して西洋絵画を学習してきた経験で、探せばどこかにお手本があるという思考法が身についてしまったんです。

11 それでも、自分を裁くのは自分だ

長者町 私はアートが変じゃなく行って欲しいと思ってるんですけども。五十年とか百年後に、いわば明治から現代を見るような気分ですけどね、そのとき、少しでもあのときのサブカル的芸術がこういう形で残ったんだ、影響をしてるんだと思えるようにあってほしいと、正直思ってます。もっとも、こういう願望をもつこと自体が、実存よりも、本質を探求しているみたいで、自分でも嫌な気分がしますが。
 これを別の言い方にすると、どんなに現実に譲歩して、現実のなかで突破口を探すにしても、それでも最後はね、自分のことは自分で裁きたい、自分で立てた戦略を誰かが裁くのはいやだという気持ちは残りますね。近代的な個人主義の洗礼を受けた人間の性(さが)なのかもしれませんが。

会田 なるほど。僕はどうしても個人作家なので、日本の美術全体の行く末とかは、なかなか考えられないですね。僕が考えてもしょうがないですし。僕ができることは、せいぜいよい作品を作って残すことだけ。長者町さんは、小説読ませていただいても「このままでいいのか!」という、にじみ出る熱いパッションがあって、それはやっぱり学生運動の熱が残っていた七〇年に学生をはじめた影響があるのかなって思います。羨ましさを感じますし、僕はやっぱりしらけ世代だなと思っちゃいます。

12 岡倉天心の『茶の本』

編集者 ひとつだけ、ちょっと会田さんにお伺いしたかったんですけど、最初のほうで会田さんは岡倉天心について話されていましたけど、会田さんのなかで岡倉天心ってどういう位置づけでいらっしゃるんですか?

会田 大学の二年生ぐらいにはじめてその存在を知ったぐらいです。その前まで日本画っていうジャンルに全然興味なかったんですけど、注目しないとダメかなと思った人でして。そういうことを二万五千字で書いたんですけれど、さて……なかなか一言でいえませんね。
 天心の『茶の本』の新訳の解説として書いた文章なので、基本的には褒めなきゃいけないから褒めました。九割方は「すごい人だ」とべた褒めですが、一割ぐらいは批判を書きました。まずはやっぱりアジアとの関係ですね。もちろんアジアに詳しくてアジアを愛してた天心だけれど、それでも『Asia is one (アジアはひとつ)』という言葉には、現代の目からすると問題もあるな、と思ったので書きました。

編集者 あの時代に岡倉天心が日本画を通じてやろうとしたことっていうのは、会田さんがゴキブリ絵巻でやろうとした、土着性って言葉が正しいかどうかわからないんですけど、そういうのと少し通じるところはあるみたいで。

会田 そうですね……でも土着性はどうなんでしょう。天心の理想はもっと綺麗で、そしてあんまり庶民的ではないかもしれない。やっぱエリートだし。理想主義者として素晴らしいと思うんですけど、僕はあんまり理想主義者じゃない。だから褒めてはいるけど、自分と近いとは思わない。むしろ天心って人物的には僕からすごく遠いですね。

編集者 さっきの長者町さんのお話でも、アーツ&ルーツっていう、ルーツって話が出てきたと思うんですけど、岡倉天心にとっては多分、崇高な日本的なるものが、多分彼にとってのルーツだったのでしょうか。

会田 天心は、とはいえ、そんなにシリアスな国粋主義者ではないと思うんですよね。結局、唐とか宋の時代の中国が、なんなら一番最高だったみたいな、要約すればそんな言い方をしてて。もちろんインドにもすごくリスペクトがある。日本も法隆寺とか、理想が主に古い時代に向かっている。浮世絵とか認めていたでしょうけど、そんなにべた褒めしてない感じがします。だから江戸の町人文化とかの、庶民性は少ない人だと感じました。
 秘密にする必要もないんでしょうけど、その本はすごく小さな出版社から来年初めぐらいに出るんです。たぶん想像するに、著作権が切れて、青空文庫的になったからなんじゃないかと思います。

編集者 アートプラザって、われわれが運営してる施設でも、『茶の本』を自費出版したんです。英語版と日本語版。

会田 じゃあ、そこでしか手に入らない。

編集者 会田さんの『茶の本』が出版されたら、ぜひ藝大アートプラザに置かせてもらいたいです。

長者町 でも、その出版社はよく会田さんに目をつけて、解説を依頼しましたよね。

会田 その編集者は以前Chim↑Pomの本を編集した人で、もともと現代美術寄りの人です。

長者町 会田さんは小説『げいさい』で、岡倉天心のことをすでに書いてらっしゃるから、それを読んだ編集者がひらめいて依頼したのかと思いました。でも、いざ書くとなると、天心って大変だったんじゃないですか。

会田 こんな大変な文章ははじめてでした。いままでいかに自分は楽な文章ばっかり書いてきたか。エッセイって要するに自分のことなので、楽に決まってますね。実在の人物で、もうすでにいっぱいの人が書いてるのに、さらに書き加えるって、こんなにストレスかかるのかって痛感しました。

長者町 でも、出版編集者からすれば、そういう会田さんの解説を世間の人が面白がってくれるだろうっていう期待があったんでしょうね。

会田 僕らしい視点で書けたところなんて一割くらいです。

長者町 さっきおっしゃってた、中国でいえば唐とか宋だったり、あの辺りが文化の頂点っていいますかね、一番面白いところだっていう話ですが、それはだいたい美術史の方でもいわれているところですけど。でもそれって、あのころ御雇外国人として日本に来ていたフェノロサがそういう風に最初にいってるから、だから天心はその影響を受けたのかもしれない。それに、いまの中国はもしかしたらあそこを頂点と思ってないかもしれない。

会田 僕もそう思うんです。普通どの国でも、近いところだっていいと思うもので。清朝だってよかったと思う中国人は多いんじゃないでしょうか。

長者町 それと、中国って王朝が交代しているでしょう。王朝だけでなく、民族もね。ある民族が自分と異なる民族の文化のほうがいいって、思うかどうかですね。

会田 多くの中国人の気持ちとしては、いまが一番なんじゃないですか。

長者町 やっぱりそうでしょう。中国からの留学生たちを見ていると、彼らは母国では途絶えた漆器や陶器の古い技術を修得するために日本に来ていますが、その技術を応用してつくる作品は現代アートです。彼らは日本の琳派を取り入れるにしても独自に消化する。彼らは自分の国の古い文化を題材にしますが、でもその目的はあくまでも「現代」の理解にありますから。

会田 わざわざ日本に留学して参考にすべきものは、やっぱり琳派とか浮世絵とか、比較的新しいものになるでしょうね。中国にはなくて日本にあるものって数えると、割と狭くなりますよね。

長者町 天心は日本美術という偉大な物語をつくろうとした人ですから、かえって天心の排除したサブカルが、いま面白いと思われてると思うんですね。そういう意味では、同時代にもし生きてたら、天心は会田さんの絵を、これは芸術じゃないって思ったかもしれない。

会田 それはそうですよ、確実に。

長者町 しかしあの人、どうしていつまでも生き残ってくんですかね、天心。不思議ですね。東京美術学校にとってみれば、実質的な創立者ですから、恩人という位置づけはあるだろうけど、世間から見るとどうなんですかね。

会田 まあ変な人で、エピソードは面白いですよね。あと、やっぱり『茶の本』が、実際読み物として面白いのは大きいんじゃないでしょうか。

長者町 東京美術学校の校長が、ずっと天心だったらどうだったかなと思いますけどね。つまり、日本画が多分、いまの油画科みたいになってたのかしら、みたいな。そうなってたら、日本画って凄みのある芸術になっていたでしょうね。

会田 まあでも、日本の国立美術学校にいつまでも西洋画科を設置しないというのは無理だったでしょうね。ちょっと調べたら、結局は諦めたっていうか、西洋画科のトップになる黒田清輝は岡倉天心が選んで呼んだ、と書いてありました。だから、天心は西洋画科の設置に最後まで抵抗したわけではなさそうですね。

長者町 東京美術学校が設置される前の明治一〇年代って、廃仏毀釈が全盛で、欧化主義一辺倒の時代だったからね。

会田 なんせ最初の美術学校(工部美術学校)は実利優先で、理系みたいなもんでしたからね。さすがにそのままというわけにはいかない。

長者町 じゃあ天心は、文部省の役人でありながら、日本文化を欧化主義から国粋主義へと舵を切らせた、体制内改革者だったということになるのかな。
 
(二〇二五年十二月十七日 小学館本社会議室)

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