文豪にゆかりありすぎ!文学ファンが上野・谷根千エリアを歩いてみた

ライター
安藤整
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どうもわたくし、生まれも育ちも尾張国です。産湯は木曽川の水を使いました。

いきなりですが、今日は世間に漂うこんな説を持ってきました。

それがこちら。

「首都圏の地理、日本人ならみんな知ってて当然説」

たとえば、全国ネットのニュース番組やバラエティ番組で、「表参道に新しいカフェがオープンしました!」とか「都内を走る〇〇線に新駅開業です!」とかよく言うじゃないですか。

いや、日本国民の90%が東京都以外に住んでること忘れてない? 

表参道が東京のどの辺にあるのか知らんし。

そもそも都内の新駅開業って、全国ネットの話題なん?

この記事を読んでくれている人だって、ほとんどが東京以外の人かもしれないですよね。

ということで、本日は歴史・文学好きには非常に面白い地域「上野・谷根千エリア」の魅力をお伝えしますが、

今回はあくまで、地方出身者の!

地方出身者による!!

地方出身者のための!!!

というテイストでお送りいたします。

文豪にゆかりありすぎエリア

はい、ここ。東京都ですね(これはやりすぎ)。

東京都は23区に分かれていまして、本日ご紹介するのは、

この辺のことになります。
山手線で言うと赤く囲った辺り。

東京駅で山手線「内回り」に乗って4駅の上野駅から西側、東京メトロ千代田線「根津駅」「千駄木駅」があるエリアです。

ここは、「台東区」と「文京区」の境目です。

地図で見ると上野公園のデカさがわかりますね。

ちなみに、このエリアを地形図で見てみると、こんなふうになっています。

国土地理院地図を改変して使用

上野公園だけポコンと周囲の平地から盛り上がっていますよね。
この地形、戊辰戦争で上野が戦場になったこととも非常に深く関連しています。

それは一旦縦おき、いや横において、

この上野公園の北側に「谷中(やなか)」というエリアがあります。

先ほどの地形図で、まさに「谷」になっているところですね。

また、その西隣の文京区に「根津(ねづ)」と「千駄木(せんだぎ)」というエリアもありまして。

この三つのエリアは、頭文字を取って「谷・根・千」=「やねせん」とざっくり呼ばれているわけです。

このエリアは、東京大空襲などの戦災の影響を免れた建物が比較的多く、また戦後も大規模な開発を逃れたために、一昔前の面影が街並みの中に残っています。

では、このエリアがなぜおもしろいのかというと……。

ずばり「文豪にゆかりありすぎエリア」だからです!

明治30年代に漱石を出待ちするならココ

谷根千にゆかりある文豪の一人目は、この人。

国立国会図書館デジタルコレクション「近代日本人の肖像」より

夏目漱石の存在なくして日本の近代文学は語れません。
漱石は明治33(1900)年に英国留学を命じられ、3年後に帰国します。
帰国後に住んだのが「本郷区駒込千駄木町57番地」。当時この千駄木は文京区ではなく本郷区でした。

地図でいうと、ここ。

国土地理院地図を改変して使用

上野駅の「公園口」からだと徒歩20分ほど。東京メトロ千代田線の「千駄木」駅が最寄りです。
今回は上野公園を通って行ってみましょう。

公園口改札を出て公園内を進むと・・・
出ました、西郷どん。頭が大きすぎるなどと言われますが、この像をつくったのは日本を代表する彫刻家・高村光雲。覚えておいてくださいね。

その横を抜けて、さらに噴水前の一番大きな広場の突き当りには、東京国立博物館がそびえます。

東京国立博物館を正面に見ながら左に曲がると、両手は東京藝術大学のキャンパスです。

左手には立派な門構えの建物が。

ここは東京藝術大学の「藝大アートプラザ」。

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さ、先は長いので進みましょう。というか割愛します。
こんなルートで進んでいきます。

国土地理院地図を改変して使用

藝大アートプラザ前の道を左折し、不忍池(しのばずのいけ)へと続く不忍通りに合流して、西に折れたところにあるのが、根津神社。

こちらは裏門。

根津神社は宝永3(1706)年、五代将軍・徳川綱吉の兄、徳川綱重の屋敷跡に建てられました。六代将軍・家宣は綱重の子で、後に根津神社の境内となるこの場所で生まれたのだそう。
綱吉は嗣子とした家宣の生家でもあるこの地に、華麗な神社を建てさせました。

この根津神社の境内には「文豪憩いの石」なるものがあり、多くの文豪が腰を掛けて作品の構想を練ったとか練らなかったとか。

この神社は漱石の作品にも「根津権現」としてしばしば登場します。たとえば、漱石の代表作の一つ『道草』の冒頭はこんなふうに始まります。

健三が遠い所から帰って来て駒込の奥に世帯を持ったのは東京を出てから何年目になるだろう。彼は故郷の土を踏む珍らしさのうちに一種の淋味みさえ感じた。
(中略)
 彼はこうした気分を有った人にありがちな落付のない態度で、千駄木から追分へ出る通りを日に二返ずつ規則のように往来した。
 ある日小雨が降った。その時彼は外套も雨具も着けずに、ただ傘を差しただけで、何時もの通りを本郷の方へ例刻に歩いて行った。すると車屋の少しさきで思い懸けない人にはたりと出会った。その人は根津権現の裏門の坂を上がって、彼と反対に北へ向いて歩いて来たものと見えて……

この「根津権現の裏門の坂」がこちら。


ここは昭和40(1965)年まで根津西須賀町と呼ばれており、さらに昔は「駒込追分」と呼ばれていました。

右手に見える日本医科大学附属病院を右手に曲がると・・・・・・

千駄木1丁目。ここに、夏目漱石旧居の碑が立っています。

漱石はここに明治36(1903)年から3年間居を構え、『吾輩は猫である』『坊っちゃん』『草枕』などを発表しました。

根津神社からは目と鼻の先。そう思って『道草』の冒頭を読み返すと、この作品が漱石の自伝的小説と呼ばれるのがよくわかります。
「健三=漱石」はあの坂を毎日往復していたんですね。

まさに漱石の出発点とも言えるのがこの千駄木であり、漱石が自分の生活圏を舞台にして作品を描いたことがよくわかります。

明治30年代にこのあたりをブラブラしていたら、おそらくかなりの高確率で漱石とすれ違っていたはず。漱石の出待ちポイントは、根津権現です。

かつては千駄木から海が見えた

漱石が千駄木で住んでいた旧居には、実は彼より先に住んでいた人物がいました。
それが、森鴎外。

国立国会図書館デジタルコレクション「近代日本人の肖像」より

鴎外が手放した家に住んだのが、漱石だったのでした。

なので、明治村では「森鴎外・夏目漱石旧居」として保存されています。

では、鴎外はその後どこに住んでいたかというと、

歩いて北に数分の場所。
ここに鴎外は自宅を建て、明治25(1892)年から亡くなる大正11(1922)年までこの千駄木で過ごしました。

自宅には彼が付けた愛称があります。それが「観潮楼」。

「潮」を観る楼閣。なんと当時はこの2階から遠く東に東京湾が見えたのだそう。現在はもちろん見ることができませんが、先ほどの地形図だと、観潮楼があるのはここ。

国土地理院地図を改変して使用

高台の崖っぷちに当たり、見晴らしがよく上野の山の向こうに海が見えたであろうことが想像できます。

現在、ここは文京区立森鴎外記念館となっています。

やたら文学作品に出てくる「団子坂」

この記念館の目の前の通りが、通称「団子坂」。坂を東に向かって下っていくと谷中霊園に突き当たります。

「潮見坂」「千駄木坂」「七面坂」などとも呼ばれ、この名前の由来は坂近くに団子屋があったからとも、悪路のため転ぶと団子にようになるからとも言われているそうです。

当然、鴎外の作品にもこの地は登場します。

「僕はここで失敬するが、道は分かるかね」
「ここはさっき通った処だ」
「それじゃあ、いずれその内」
「左様なら」
 瀬戸は団子坂の方へ、純一は根津権現の方へ、ここで袂を分かった。
(『青年』)

また、幕末から明治末期にかけてはここに菊人形を売る小屋が並んでいました。
明治34(1900)年に刊行された『日本之名勝』には、このような説明があります。

国立国会図書館デジタルコレクション『日本之名勝』より

本郷の高地に登る坂を千駄木坂といふ。俗称の団子坂を以て其名世に高し(中略)特に、秋にいたりては、各園競ふて意匠をこらし、菊花を集めて名優美人の衣装を作り、附するに、奇巧なる似顔を以てし、歌舞伎の模様を模したる舞台を構えて、争ふて観客を誘ふ

この当時の賑わいは文学作品にもしきりに描かれていて、たとえば言文一致で書かれた日本で最初の近代文学、二葉亭四迷の『浮雲』には、

国立国会図書館デジタルコレクション「近代日本人の肖像」より

午後はチト風が出たがますます上天気、殊には日曜と云うので団子坂近傍は花観る人が道去り敢えぬばかり。
(中略)
さてまた団子坂の景況は、例の招牌(かんばん)から釣込む植木屋は家々の招きの旗幟を翩翻(へんぽん)と金風(あきかぜ)に飄(ひるがえ)し、木戸々々で客を呼ぶ声はかれこれからみ合て乱合って、入我我入(にゅうががにゅう)でメッチャラコ……

と登場します。

さらに漱石の大親友であった正岡子規は

国立国会図書館デジタルコレクション「近代日本人の肖像」より

「自雷也も がまも枯れたり 団子坂」

と詠んでいます。

鴎外は亡くなるまでこの地に住んだこともあって、「観潮楼」を訪れた面々はまさに文豪のオンパレード。

永井荷風、芥川龍之介、伊藤左千夫、石川啄木、斎藤茂吉……などなど。文人たちの社交場(サロン)となっていたそうです。

芥川が身の回りのことを綴ったエッセー「身のまはり」では、

僕の青磁の硯屏(けんびょう)は団子坂の骨董屋で買つたものである。

とあります。「文の京(みやこ)」との名前がつくほど、多くの文士たちがこの地で交友を深め、街にも文化的な要素が増え、そこを舞台にしてさまざまな作品が生みだされていく——まさに文芸・アートの街となっていったことがわかります。

アートということで言えば、この方も。

国立国会図書館デジタルコレクション「近代日本人の肖像」より

彫刻家・高村光雲。先ほど登場した上野の西郷隆盛像を作った人です。彼も親子で千駄木に住んでいました。
長男である高村光太郎の旧居跡も示されています。

谷中霊園に関東ナンバー1の塔があった

さあ、ガンガン行きましょう。

団子坂を東に下っていくと、突き当たるのが谷中霊園です。

ここは面積約10haにもおよぶ広大な墓地で、約7,000基のお墓の中には十五代将軍徳川慶喜や、

2021年の大河ドラマの主人公にもなった渋沢栄一

などなど、著名な方々の墓地が多数あります。

が、文学好きの私がここでご紹介したいのは、こちら。

ただの空き地に見えますが、ここにかつて五重塔が立っていました。
この谷中霊園は都立霊園ですが、徳川家の菩提寺で有名な寛永寺の墓地でもあり、さらに天王寺の墓地でもあります。

もと日蓮宗で江戸期に天台宗に改宗した天王寺には、寛永21(1644)年に建立された五重塔がありました(現在上野動物園内にある五重塔は旧寛永寺のもの)。
安永元(1772)年の「目黒行人坂の大火」で一度消失しますが、後に再建され、明治時代まで関東一円で最も高い塔だったといいます。

この五重塔をモデルにしたのが、幸田露伴の小説『五重塔』。

明治30(1897)年頃の様子が残っています。

国立国会図書館デジタルコレクション『日本之名勝』より

当時とほぼ同じ場所から見た現在がこれ。

完全に消失したのは、昭和32(1957)年のこと。不倫関係にあり心中を図った男女が放火したとされ、燃え盛る五重塔の様子は、NHKアーカイブスのウェブサイトで動画で見ることができます。

この谷中霊園の南側に寛永寺があり、

寛永寺の西側はもうスタート地点の東京藝術大学です。

つまりこれでぐるっと谷根千エリアを回ったことになります。

Apple Watchを見ると、この日歩いた距離16.8km、歩数21,227歩。消費カロリーは驚愕の1,073kcalでした。

いやあ、疲れた!!!

まとめ | 谷根千エリアはまだまだ奥が深い

しかしここで紹介したのは、まだまだごく一部。

このほかにも、幕末期に幕府の兵器の近代化を目指した高島秋帆の墓や、川端康成の旧居跡などまだまだ掘りたくなるようなスポットがたくさん。

なにより、上野の歴史にまだ何も触れていません。

戊辰戦争の時、寛永寺がどのような役割を果たしたか。なぜ上野が戦場になったのか。

ぜひご紹介したいのですが、今日はちょっと疲れたので、一旦名古屋に帰って出直してこようと思います。

1日で回る必要は全くありませんが、東京にお越しの際は、ぜひ谷根千エリアにお立ち寄り下さいね。

※本記事は「和樂web」の転載です。

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