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東京・上野の歴史を183歳の曽々々祖父に解説してもらった!歩いて体験する上野エリアの今昔

ライター
安藤整
関連タグ
上野 奥上野 歴史

どうも生まれも育ちも尾張国の者です。地方出身者なのに、前回は東京・谷根千エリアの紹介をさせてもらいました。ただ、実は私の先祖は江戸の人でして、「御家人(ごけにん)」と呼ばれる幕府直臣の武士でした。

今回は、前回紹介しきれなかった上野周辺エリアを、私のご先祖様に紹介してもらおうと思います。

安藤正路(まさみち):どうも! うちの子孫がいつもお世話になっております!

我が家に伝わる肖像

私:ひいひいひいおじいちゃん、はじめまして。子孫です。お元気そうで何よりです。きょうはよろしくお願いします。

正路:あいよ!

私:うわあ、元気。まずは簡単に自己紹介をお願いできますか?

正路:安藤傳十郎正路(でんじゅうろうまさみち)、天保9(1838)年3月15日生まれの183歳! 

私:人類史を軽々と塗り替えてくるね。

正路:17歳からご一新(明治維新のこと)があった29歳まで「小普請組」(江戸幕府の中で「御家人」が担う役職の一つ)のお役を仕っておりました。家は新宿牛込でござる。

私:結構良いところに住んでたんだね。

正路:あのあたりには、わしら御家人の下級武士が多く住んでおったのだ。

私:きょうは上野エリアを皆さんに紹介することになって。おじいちゃんは、あの辺のこと知ってますか?

正路:うむ、よく知っておる。

私:では案内をお願いします。

どうして「しのばずのいけ」なの?

私:着きました。上野公園です。

正路:上野はその名の通り、ここだけ高い台地のようになった場所なのだ。武蔵野台地全体でいえば、突端部にあたり、昔は根津なども入り江になっておったと聞いたことがある。谷中もかつては「入砂の岡」と呼ばれたり、いまでも「谷中三崎町」だとか、海にちなんだ地名がチラホラあるのもそのためだな。

国土地理院地図を改変

私:たしかに、江戸後期の『望海毎談』(1857~1863年)に

武蔵野国にて今の上野を忍の岡と言ひ、湯島天神の台を向ふの岡と言ひ、谷中の方を入り砂の岡と言ひ、昔は芝浦の海の潮此所迄入来る入江の続にて斯く三つの岡の打続くを以て谷中の岡に三崎と言地名有。

とありますね。

正路:江戸後期の書物と言えば古く感じるかもしれぬが、その本よりわしのほうが古いからな。……いや先祖に向かって古いとは何事か!!

私:(ノリツッコミ……)

正路:で、あっちの蓮に覆われているのが不忍池(しのばずのいけ)だ。

私:上野公園からみると、たしかに標高差がよく分かりますね。なんで「不忍池」って言うんですか?

正路:江戸の町人たちは、男と女が人目を忍んで会いに来るからと申しておったな。

私:だけど『江戸名所記』(1662年)には

「むかし此辺萱すゝき生茂りて道のさかひもわけざるに此池ばかりあらはれ見えたるゆへしのぶ事あたはずの心にて不忍といふ」

とあったり、その他の書物には

「上野の下忍の岡のふもとなればかくよぶにや」(『増補江戸惣鹿子名所大全』)

と書いてあったりしますよ。

正路:え、左様か? ならばそうなのかもしれぬな。

私:(結構適当な人だ……)

大名クラスのパワーがあった寛永寺

私:上野公園ってむちゃくちゃ広いけど、ここにはもともと何があったんですか。

正路:寛永寺だ。寛永2(1625)年に竣工した東叡山寛永寺は徳川家の菩提寺でもあった。

江戸初期から末期の寛永寺境内地の変遷 玉林晴朗 『下谷と上野』(東台社、1932年)より(国立国会図書館デジタルコレクション)

私:地図を見ると、いまの上野公園全部ですね。いま噴水広場になっているところも全部寛永寺の境内地。

正路:東京国立博物館がある場所もそうだ。本坊があった。今ある同館の庭園ももとは寛永寺の庭園として小堀遠州殿らが手掛けたものだと聞く。最大で約30万5千坪の敷地と、1万2千石もの寺領があったのだから、格式も規模も日の本一と言ってよい。
ちなみに、かつて大仏もあったが、わしが19歳のときに「安政の大地震」があって、その前の大火からせっかく再建した大仏様の首が再び落ちてしまった。後に大仏殿も取り壊されたな。

歌川広重「東都名所 上野東叡山全図」(国立国会図書館デジタルコレクション)


私:1万2千石ってどれほどのものですか。

正路:わしのお禄が20石4人扶持。お前の感覚でいうと年収100万円ほどだ。

私:寛永寺の600分の1か。寛永寺は大名クラスだったわけですね。というか、幕臣の下級武士の給料って結構安い……?

正路:口を慎め。「小普請組」は基本的に無役(常勤ではない)なのだ。

私:失礼しました。

明治30年頃の上野の様子

正路:とにかく上野は名高い場所であった。広重も不忍池をいくつも描いておる。

歌川広重「名所江戸百景 上野清水堂不忍ノ池」(国立国会図書館デジタルコレクション)

私:昔から人気スポットだったんですね。

正路:この清水堂は、もとは摺鉢山の上に建てられたが、その摺鉢山は古墳であった。おそらく当時は先人の墓であるとは知らなかったのであろう。元禄7(1694)年にこの錦絵にも描かれた今の場所に移されたのだが、京都・清水寺の舞台を模したここからの眺めは、今も昔も変わらぬな。

私:錦絵にも参詣者がたくさん描かれていますね。

正路:上野は桜の名所でもあったからな。わしが60歳頃(1898年頃)はこんな感じであった。

『日本之名勝』(1901)より(国立国会図書館デジタルコレクション)

(同上)

正路:こっちは上野広小路。

(同上)

私:にぎわってますね。

正路:明治になってこの時すでに30年経っておるからな。わしはご一新の時、上様(徳川慶喜)が駿府で謹慎あそばされることに伴って、家族で駿府に移ったゆえ、明治の後の東京のことはよく知らぬ。

私:明治20(1887)年まで静岡にいたんですよね。

正路:ついていったは良いものの、お禄(給料)はないし、大変だった。親戚を頼って戻ってきたときには江戸ではなく「東京」になっておった。「試衛館」(新選組の主要な面々が通っていた天然理心流の道場。安藤正路は同流派の免許「中極位目録」を得た記録がある)の先輩だった近藤殿や土方殿も亡くなってしまわれたし、侍というだけでは飯が食えず大変な時代だった。ただ、新選組とは形が違うが、わしも上様に義を尽くしたつもりだ。

私:ご苦労くださり、ありがとうございました。おかげで子々孫々、平和な暮らしをさせてもらっております。

正路:うむ。

激戦の地だった上野

私:上野も戊辰戦争の戦場になってますよね。

さくら坊芳盛『本能寺合戦之図』(1869)(国立国会図書館デジタルコレクション)

正路:彰義隊だな。江戸城の無血開城に納得のゆかぬ旧幕臣の面々が主となって結成したものだ。徳川直臣として黙っておるわけにはいかなかったのであろう。頭取の渋沢成一郎殿は、後に大出世した渋沢栄一殿の従兄弟で、家格はあちらのほうがはるかに上だが、お名前は存じ上げておった。

そもそも上様が鳥羽・伏見の戦いの後で最初に謹慎なされたのも、寛永寺大慈院だった。大慈院は現在の「寛永寺」がある場所だ。徳川家に仕える志士たちがここを本拠としたのも道理だろう。
本能寺の変になぞらえて「本能寺合戦」などと書いた錦絵もたくさん出たが、自らも戦った小川興郷(おきさと)殿が画家に描かせた下の絵が一番詳しいと言われておる。

玉林晴朗 『下谷と上野』(東台社、1932年)より(国立国会図書館デジタルコレクション)

私:まさに激戦の様相ですね。奥に見えるのは門ですか。

正路:この戦のときまでは寛永寺の門があった。皆「黒門」と呼んでおったな。地図もある。このへんだな。

(同上)


私:さっき通ったところじゃん。まさかこんなところで激戦が行われていたとは。

玉林晴朗 『下谷と上野』(東台社、1932年)より(国立国会図書館デジタルコレクション)

正路:慶応4(1868)年5月のことだ。わしは30歳であった。彰義隊結成時には3千人ほどいたらしいが、寄せ集めだったために戦が始まって逃げ出す者も多かったと聞く。

それでも1千人ほどが薩長(新政府軍)と戦った。見てきたように上野は高台になっていて、門もあるからな。城のような構えにしたのであろう。敵は広小路方面に大砲を置いてそこから上野の山を狙ったが、不忍池の対岸に佐賀藩が構えたアームストロング砲の威力が凄まじかったらしい。彰義隊は266人が命を落とし、散り散りになってここでの戦は終わった。


私:それで西郷さんの銅像の後ろに、隊士の墓碑があるんですか。

正路:この墓塔を建立したのも、先に述べた小川興郷殿だった。いまは「彰義隊」と呼んでも差し支えなかろうが、この墓塔が建てられた当時は新政府軍に逆らった「賊軍」であるとして、その名を掲げることがはばかられた。よってここには「戦死之墓」としか刻まれておらぬ。


正路:書は同じく幕臣だった山岡鉄舟殿による。堂々と彼らの名を刻んでやれなかった無念さが、この4字から感じられるようにわしは思うのだ。隊士は南千住の曹洞宗円通寺に葬られ、黒門も同寺にいまもある。

私:その後、寛永寺の境内地が公園になったわけですね。

正路:公園となったのは明治6(1873)年のことだ。その後も官有地だったが、大正13(1924)年に宮内省を経て東京市にご下賜くだされたので、正式には「上野恩賜公園」という。動物園も同じだ。正しくは「恩賜上野動物公園」という。

私:よくわかりました。ちなみに、現代の我々の暮らしを見て、昔とどっちがいいと思いますか。

正路:わからぬな。お前の暮らしは便利のように見えるが、その一方で失っているものも多いように思う。いずれにせよ、その平和な暮らしが先人たちの血と汗と涙で成り立っていることを忘れぬようにせよ。

私:わかりました。肝に銘じておきます。あの、すぐそこの「藝大アートプラザ」でちょっと休みませんか? NoM Cafeのコーヒーがすごくおいしくて……あれ? おじいちゃん? どこ行った? ひいひいひいおじいちゃーーーーん!!!!

……という夢を見ました。

夢の話に参考文献は不要ですが、ご先祖様のお話には結構あやふやな部分もあったので、以下に示しておきます。
・玉林晴朗 『下谷と上野』(東台社、1932)
・山崎有信『彰義隊戦史』(隆文館、1910)
・菊池寛『維新戦争物語』(新日本社、1937)

・東叡山寛永寺公式HP
・台東区立下町風俗資料館

※本記事は「和樂web」の転載です。

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