日本画に興味のある人なら、下村観山(しもむらかんざん)という画家の名前を耳にすることは多いと思います。
しかし、のこされた数多くの色彩豊かで精緻な作品に反し、その功績や人物像はあまり知られていないのではないでしょうか。
今回は、下村観山の生涯を作品とともにご紹介し、足跡をたどってみたいと思います。
下村観山の生涯
下村観山は、明治から昭和にかけて活躍した日本画家です。
狩野芳崖(かのうほうがい)、橋本雅邦(はしもとがほう)といった画家に師事したのち、東京美術学校、現在の東京藝術大学の第一期生として入学し、卒業後は同校で教員として後進の指導にもあたりました。
学友で共に切磋琢磨した日本画家には横山大観(よこやまたいかん)、菱田春草(ひしだしゅんそう)などがいます。
生い立ちと卓越した画才
まずは観山の生い立ちから見ていきましょう。
下村観山は1873(明治6)年に和歌山市に生まれ、本名を晴三郎といいました。生家は紀州徳川家に仕えた能の小鼓の家系でしたが、観山が8歳の時に一家で東京に移住し、父は篆刻や輸出象牙彫刻を生業とします。
観山は祖父の友人だった藤島常興(ふじしまつねおき)という人に絵の手ほどきを受けますが、常興は狩野派の画家、狩野芳崖の父の門人だったことから、観山は芳崖に託されます。
その後、芳崖が制作で忙しくなったため、1886(明治19)年にその親友である橋本雅邦に紹介され、師事することになりました。
観山はこの頃からすでに画才を発揮し、アーネスト・フェノロサらが主宰する「鑑画会」の出品時には、「年齢十三歳、橋本氏の門弟なるが、その揮毫の雪景の山水はあたかも老練家の筆に成りたるが如く、実に後世恐るべしとて、見る人の舌を振へり」と、新聞で絶賛されたといいます。
東京美術学校時代
1889(明治22)年、観山16歳の時に東京美術学校(現・東京藝術大学)に第一期生として入学します。
ちなみに「観山」の雅号は学生の頃から使い始めますが、「人あり、来つて塵世の事を問へば笑つて対えず、起つて山を観る」という詩からとられたもので、観山の性格をよく表しているといわれています。
1894(明治27)年、東京美術学校卒業と同時に21歳で同校の助教授となり、画家人生の順調なスタートを切った観山でしたが、1898(明治31)年、いわゆる「美校騒動」と呼ばれる事件が起こります。
東京美術学校の生みの親であり、校長であった岡倉天心(おかくらてんしん)に私怨を抱いた教授らによって怪文書が出回り、これにより天心が辞職。観山もこの時に橋本雅邦、横山大観、菱田春草らと共に同校を辞職しますが、後に日本美術院正員のまま教授として復帰しています。
同じ年の7月、天心らによって「日本美術院」が東京、谷中に創設され、その活動は日本画の世界に新たな刺激を与えることになりました。
イギリス留学と帰国後の観山
1903(明治36)年、観山30歳の時、文部省派遣留学生としてイギリスに2年間渡ります。
留学の目的は西洋絵画の色彩を勉強することで、水彩は日本画の画材に似ていることから、日本画の短所を補うために水彩画を研究することでした。
そのほとんどをロンドンで過ごしたのち、フランス、ドイツ、イタリアなども回ります。大英美術館やウフィツィ美術館などでラファエロの作品を模写しており、油彩で描かれた柔らかな明暗を、紙や絹に水彩絵の具で鮮やかに写し取っています。
観山が留学している間も、日本美術院では横山大観や菱田春草らが意欲的な作品を発表し続けていましたが、「空気」を描く方法として大胆な没線描写による作品を発表すると、特に旧派側からは「朦朧体(もうろうたい)」として酷評され、苦しい時代が続きます。
1905年にイギリスから帰国した観山は、1906年に岡倉天心が日本美術院を茨城県北部の五浦海岸へ移すと、横山大観、菱田春草らと共に移住しますが、日本美術院の経営状態は非常に厳しいものだったといいます。
観山を支援した人々
いっぽう、この頃から観山は実業家などから支援を受けることに成功します。
1908(明治41)年に、観山と若い画家たちを支援するため、渋沢栄一(しぶさわえいいち)や教育家で政治家の高田早苗(たかださなえ)らによって「観山会」が創設。
1913(大正2)年には、岡倉天心の紹介で出会った実業家の原三渓(はらさんけい)に招かれて横浜本牧の和田山に移り住み、以降、三渓は生涯にわたり観山を支援し続けました。
再興美術院展と観山芸術の絶頂
観山が本牧に移った年の9月、イギリスでボストン美術館の収集活動をしていた岡倉天心は健康状態の悪化により帰国、逝去します。
ほとんど解散状態にあった日本美術院ですが、観山は横山大観をはじめ、木村武山(きむらぶざん)、安田靫彦(やすだゆきひこ)、今村紫紅(いまむらしこう)、洋画家の小杉未醒(こすぎみせい)らとともに、天心の一周忌に「日本美術院」の再興をはかり、第一回再興美術院展が開催されました。
観山は、この第一回再興院展に「白狐」を出展。第二回に重要文化財に指定された「弱法師図」、第三回には「春雨」と大作を発表し続け、自身の芸術のピークを迎えます。
1917(大正6)年、観山が44歳の時には、皇室により日本の優秀な美術家・工芸家の保護奨励を目的とした「帝室技芸員」に任命されました。
観山はこの栄誉がとても嬉しかったようで、この後しばらくの間、「帝室技芸員下村観山」の印章を用いています。
1923(大正12)年、関東大震災が起こり、一時、代々木初台に仮住まいをします。
2年後には和田山の画室が復旧して戻りますが、観山はこの頃から人を避けるようになり、晩年は特に古画の研究に打ち込んだようです。
1930(昭和5)年、病床でも絵筆を握り、お見舞いでもらった「竹の子」を描いた作品が絶筆となりました。57年の生涯でした。
観山の人柄と功績
観山は温厚な人柄で、俗事を避け、筆一本でコツコツと自身の芸術を追求した画家といわれています。酒豪であったとも伝えられ、どれだけお酒を飲んでも乱れず、礼儀正しい人だったとか。
周囲との交流
再興美術院では、積極的に周囲を引っ張る横山大観に対し、観山は女房役的な役割で組織を支え、同院での新人に対する熱心な指導も知られています。
また、長年の学友であった菱田春草は、技巧に長け、古典をじっくり学んだがゆえに観山の画には創意が足りないというような、盟友ならではの痛烈な批評をします(『美術新報』明治44年1月参照)。
しかし、その同じ年に菱田春草は36歳の若さで亡くなってしまい、翌年に開催された菱田春草追悼展では、観山は「鵜」を発表して亡き友の霊を送ります。
次第に遠ざかる一羽の鵜(春草)を見送る、岩頭でひときわ高く哀惜の叫びをあげる鵜(観山自身)。
すべては省略され、悲しみの絶叫だけが伝わるこの絵には、もはや技巧に走って描きすぎる観山はなく、親友の忠告に報いてこれほど鮮やかで新しい空間の創造があるだろうかと周囲を感嘆させました。
観山の目指した表現
観山の生きた大正期頃は、多くの西洋絵画が日本に入り、日本画檀も近代化の波に揺れていました。
多くの画家が、洋画に負けるまいと日本画の新しい表現を模索する中、観山は日本の伝統を尊重し、日本古来の技術の継承に大きな役割を果たしたといえます。
大観や春草とともに朦朧体の没線の研究を行った時期もありましたが、観山の絵は線の美しさにあるという人も多く、モチーフやその大胆な配置、金地や金泥の使用など、おそらく琳派などの日本の古典的な表現の影響を受けたとされる手法もよく用いています。
しかし、観山の目的はけして保守的なだけの表現ではなく、伝統的な画材を使った表現の方向性や可能性を突き止めたり、あるいは謡曲など作品の主題を情趣豊かに表すところにあったといいます。
さらに、観山の写実的表現には西洋絵画のような顕著な陰影表現は見られませんが、濃厚な油彩での表現に匹敵するような力強さは晩年の作品にまで表れ、留学中に行った西洋画の模写によって培われたものであるともいわれています。
観山作品を改めて見ると、その格調高く華やかな画面からは、自身の技術の高さに慢心することなく、多くの絵画技法の研究を地道に重ね、試行錯誤する観山の姿が見えてくるようです。
ぜひ、観山が生涯をかけて追及した美しい世界観をじっくりと鑑賞してみてはいかがでしょうか。
参考書籍:
近代日本の画家たち‐日本画・洋画 美の競演(平凡社)
近代の美術 第9号下村観山(至文堂)
日本美術史(美術出版社)