「ちょうちょ~ちょうちょ~
菜の葉にとまれ~♪
菜の葉に飽いたら 桜にとまれ~♪」
日本人なら誰もが知っている「ちょうちょう」。実はこの歌、明治時代に日本で最初に作られた小学唱歌(小学生が歌を学ぶための歌)だということを知っていますか?
私の娘が最初に覚えた歌もこの「ちょうちょう」だったのですが、たどたどしい日本語でそれはもう楽しそうに「なのはにあいたらーさくらにとまれー」と熱唱していました。日本で最初に作られた唱歌が今なお日本の子どもたちの音楽の扉になっているなんて、なんだか感慨深いですよね。
今回は、唱歌「ちょうちょう」の生みの親で、東京藝術大学の前身、東京音楽学校の創立者でもある、教育家・伊澤修二の生涯を追ってみたいと思います。
東京音楽学校をつくった、伊澤修二の生涯
勉強熱心だった、若き日の伊澤修二
伊澤修二は江戸時代後期、嘉永4年(1851)に信濃国高遠藩(現在の長野県伊那市)で下級武士の家の長男として生まれました。幼いころから勉強熱心で、リーダーシップがあった伊澤。高遠城内の藩校に入学すると、蔵書のありとあらゆる和漢籍や翻訳本を徹底的に読み込み、学問に没頭しました。また、寮長に選ばれ、オランダ式鼓笛隊の太鼓役も勤めたそうです。
その後、明治維新を経て、自らの希望により上京。20歳の時に洋学教育を行う大学南校(現・東京大学)に高遠藩の貢進生として入学し、南校でも英語の最優秀クラスに在籍していました。これは、現代ではどんな感じかと言うと、「県立トップ校を首席で卒業、東大英文科でトップクラスの成績を修める」といったところでしょうか……。
その後、明治5年(1872)には、前年に設置されたばかりの文部省に入省。若干24歳で愛知師範学校(現・愛知教育大学)の初代校長に任命され、教育家としての第一歩を歩み始めました。
教育の現場で新しい時代の教育を模索
明治初頭の日本の教育界はまさに激動の時代。近代国家形成の基盤として、西洋の教育システムを手本に近代学校制度を構築するべく、日進月歩の日々でした。このような混沌とした状況の中、伊澤は持ち前の開拓精神を発揮し、西洋の教育書を参考に、近代的な教師のための手引書『教授真法(初編)』を編集し、出版。また、教育手法の実践の場として、師範学校に幼稚園のような組織を作り、西洋の教育メソッドを学んで自ら考案した唱歌や遊戯を児童たちに教え、都度文部省に報告を行っていました。
実は、冒頭で出てきた「ちょうちょう」の歌詞の原型もこの時代に、伊澤が国学者の野村秋足(のむらあきたり)に依頼し、地域の民謡をもとに作成されたもので、当時は、別のメロディーがついていたようです。
今日の保育園や幼稚園では、「歌にあわせて体を動かす」といったことが日常的に行われていますが、伊澤の実験は日本におけるその先駆けだったのです。この試みに注目したのが、文部省の教育アドバイザーとして来日していたアメリカ人、デイヴィッド・マレーでした。マレーは伊澤の唱歌遊戯の教育実践を高く評価し、彼の推挙によって、伊澤は明治8年(1875)に文部省の師範学校教育調査のため、国の代表としてアメリカへ留学することになりました。
ほろ苦い、西洋の近代音楽教育との出合い
伊澤の留学先は、アメリカ北東部マサチューセッツ州にある、ブリッジ・ウォーター師範学校(現・ブリッジウォーター州立大学)でした。同校は、アメリカ全土で最初にできた師範学校の一つで、アメリカを代表する教師養成機関でした。伊澤はここで現地の学生たちに混ざり、2年間の教師養成プログラムを履修します。優秀で勤勉だった伊澤は、このプログラムのほとんどの科目を難なくこなすことができたそうです。
しかし、留学中の伊澤にとって最も苦手な科目、それがなんと……、伊澤が特に力を入れていた「唱歌」の授業でした。これには原因があり、日本と西洋では音階が異なるため、伊澤はどうしてもその音階(ドレミファソラシド)を身に付けることができなかったのです。そこで、師範学校の校長が唱歌の科目の免除を提案しましたが、伊澤はそれを断固として拒否。「国の代表として、アメリカの教育を学びに来ている」という責任感もありましたし、唱歌は伊澤の実現したい教育構想の大きな要素だったためでしょう。
音楽教育家ルーサー・W・メーソンの個人レッスン
困り果てていた伊澤に手を差し伸べた人物が、後に東京音楽学校の創立に尽力した音楽教育家、ルーサー・W・メーソンでした。メーソンは初等音楽教育の専門家で、アメリカの小学校で使用される音楽教育の教材を多く手掛けていました。伊澤は留学生仲間を介してメーソンと知り合い、週末になると、ボストンにあるメーソンの家へ通って歌の個人レッスンを受け、ついに西洋の七音による音階「ドレミファソラシド」をマスターすることができました。
また、メーソンと一緒に日本人向けの音楽教材の作成にも取り組みました。その過程で、「西洋の歌に日本語の歌詞を付ける」という作業が行われ、メーソンが提案したのがアメリカで「Lightly row(軽やかに漕ごう)」の歌詞で歌われていた楽曲(元はドイツ民謡)でした。この曲に、伊澤が愛知師範学校時代に作成した「ちょうちょう」の歌詞を当てはめ、今日も日本で歌われている唱歌「ちょうちょう」が誕生したのです。
また、アメリカで伊澤はもう一人の重要人物にも出会っています。それが電話の発明家として有名な音声生理学者、グレアム・ベルです。伊澤はフィラデルフィア博覧会の会場で、ベルの作成した聴覚障がい者のための発音記号を記した「視話法」の表を見て、自分の英語の発音も矯正してもらいたいとベルに依頼し、ベルから発音矯正と視話法のメソッドを教授してもらいました。このことは、伊澤が晩年に力を注いだ吃音矯正事業に生かされました。
ブリッジ・ウォーター師範学校卒業後、伊澤はさらに1年間の留学継続を申し出て、西洋の最先端の科学を学ぶべく、今度はボストンのハーバード大学ローレンス科学校(現・ハーバード大学理学部)に入学。物理学、化学、生物学、植物学、地質学などを学びます。
留学中の明治11年には、留学生監督・目賀田種太郎(めがたたねたろう)と連名で文部大輔にあてて、「学校唱歌ニ用フベキ音楽取調ノ事業ニ着手スベキ、在米国目賀田種太郎、伊沢修二見込書」、つまり、「日本の学校教育で歌う歌のための音楽を調査するべき」との意見書を提出し、その翌月伊澤は3年間に及んだアメリカ留学を終え、日本に帰国しました。
帰国後、体操伝習所で学校体育の基盤を作る
日本に帰国した伊澤は、アメリカで最先端の教育法を学んできた貴重な人物として、文部省の推進する教育改革の主要メンバーとなります。この時期の伊澤の役職を見てみると、文部省学務課、東京師範学校校長、体操伝習所主幹などのポストに就任しており、日本に近代的な学校教育を構築するため、先頭に立って奮闘していたことが分かります。
「体操伝習所」というのは、文部省直轄の体育教師の養成機関で、アメリカからジョージ・アダムス・リーランド(医学博士。アマースト大学、ハーバード大学医学部卒)を招聘し明治11年(1878)に設立されました。
それまで、明治政府の教育方針を定めた学制では欧米にならって、「体術(体育)」の科目が設定されていたものの、その教授方法はまだ確立されておらず、実施は各学校の裁量に任されているといった状態でした。ちなみに、これは「唱歌(音楽)」の科目も同様で、簡単に言うと、明治政府は明治5年(1872)に学制を発布以降、「欧米の例を見ても、日本の学校でも勉強だけではなく、音楽と体育も実施した方がよさそうだ。でも、肝心の教え方が分からない!」といった状況だったわけです。
そこで、その両科目の実現化の指揮を執ったのが伊澤でした。この役割は、「学校教育では、知育・徳育・体育が必要である」という自身の理念にも合致したものでした。伊澤は体操伝習所主幹を任され、リーランドと協力しながら、体操伝習所開学までのプロットを作成し、日本人に合った学校体育の基盤づくりを行いました。
念願の東京音楽学校(現・東京藝術大学音楽学部)を開校
体操伝習所主幹を任じられた1年後、明治12年(1879)には、今度は自ら留学中に文部省に提案していた「音楽取調掛」が設置され、伊澤はここに配属されました。伊澤は就任してすぐに、アメリカで音楽教育の手ほどきをしてくれたメーソンを日本に招聘。メーソンとともに、日本の学校教育に本格的に音楽を導入するため、音楽取調掛で伝習生(生徒)を募集して音楽教師・音楽家の養成を行い、学校教育で歌うための歌「唱歌」の作成にも取り掛かりました。
明治14年(1881)には、日本で最初の『小学唱歌集』を出版。この中には、伊澤とメーソンがアメリカで作成した「ちょうちょう」や現代では大晦日に歌われている「蛍の光」も含まれています。その後、明治16年と17年に第2編と第3編も刊行し、この教本は小学校だけではなく、中学校や師範学校の唱歌教育にも用いられ、幅広く普及しました。こうして、日本の近代学校教育における「唱歌(音楽)」の授業がスタートしたのです。
明治15(1882)には、メーソンが任期満了でアメリカに帰国しますが、明治19年(1886)には伊澤が森有礼文部大臣に音楽学校設立の建議を行い、明治20年(1887)、ついに、「音楽取調掛」は「東京音楽学校」に改称され、日本初の国立の音楽学校が開校しました。伊澤はこの東京音楽学校の初代校長となり、初期の音楽学校の運営を行いました。
その後の伊澤修二の人生
東京音楽学校の設立後も伊澤は文部省編輯局長として、その後の日本の国語教科書の基礎となった検定教科書『読書入門』『尋常小学読本』の編纂事業に携わり、また、東京盲唖学校長にも就任するなど、日本の学校教育の充実に力を尽くしていましたが、明治24年(1891)、文部省内での意見の食い違いによる口論がきっかけとなり、文部省に辞表を出します。
文部省を離れた伊澤は、辞任の前年に自ら中心となって創立した、国家教育を推進する教育団体「国家教育社」の活動に力を注ぎます。また、日清戦争の後には、当時日本の領土となった台湾に赴任し、台湾総督府学務部長として日本語教育と近代教育制度の導入の基盤を築きました。
明治36年(1903)、53歳の時には、アメリカ留学や台湾での日本語教育などの経験を生かして、日本初の吃音矯正機関「楽石社」を創業し、以降、日本の吃音矯正・治療の分野の発展に貢献しました。
日本の学校教育への音楽・体育の導入、唱歌の作成、東京音楽学校の設立、国家教育推進、台湾の植民地教育、日本初の吃音矯正機関の設立……、私たちは伊澤の手がけた仕事のあまりの幅広さに驚かされます。しかし、その一方で、愛知師範学校時代から晩年にいたるまで、ジャンルを超越しながらも、生涯教育者であり続けた伊澤の一貫性も同時に見て取ることができます。そして、幼少期を日本で過ごした人びとの多くは、幼い頃に歌った「ちょうちょう」の影に、汗を流して取り組んだ体育授業の影に、校舎に響き渡る子どもたちの歌声の影に、伊澤修二が日本に残した教育の痕跡を感じることができるのではないでしょうか。
参考文献:上沼八郎『人物叢書 伊澤修二』(吉川弘文館)、奥中康人『国家と音楽 伊澤修二がめざした日本近代』(春秋社)、東京芸術大学百年史編集委員会『東京芸術大学百年史 東京音楽学校篇 第1巻』(音楽之友社)