今回は、東京藝術大学上野キャンパスがある上野恩賜公園周辺を描いた浮世絵を見ながら、江戸時代&明治時代の上野恩賜公園周辺がどんな様子だったのか、見てみたいと思います!
まず、上野バーチャルツアー出発の前に、江戸時代の上野公園周辺の地図をご覧ください。赤い丸の数字の場所がこれからご紹介する場所です。
真ん中に描かれているお堂などの建物が寛永寺。その左手にある水の部分が不忍池です。現在JR上野駅がある場所は、寛永寺の右側、「普門院」「常照院」などの子院が並んでいるところです。藝大の美術学部があるのは、左上の「護國院」のあたりで、音楽学部があるのは、「等覚院」などのあたり。東京国立博物館がある場所は、地図の右上、寛永寺の「御本坊」があった場所です。このように、江戸時代の上野公園一帯は寛永寺とその子院の土地でした。
江戸時代の上野を見てみよう!
それでは、江戸時代の上野を描いた浮世絵を見ていきましょう!
ここは、下谷広小路。先ほどの地図の①のところです。江戸初期に起こった明暦の大火の後、道幅を拡張してつくられた火除け地で、道の両側には飲食店や土産物屋が軒を連ね、寛永寺の門前町として賑わっていました。(現代で言うと、中央通りの「ABAB」から「松坂屋」あたりまで)絵の右手前に描かれているお店は、名古屋の呉服商伊藤屋が買収した呉服店「松坂屋」。絵の奥の方向が寛永寺の方向です。
こちらは地図の②の場所です。着飾った女性や若い侍の後ろには橋があり、その向こうには江戸随一の花見スポットだった寛永寺の桜が見えています。この橋は、「三橋」と呼ばれ、当時、不忍池を水源とする忍川が上野広小路と寛永寺の間に流れており、その上に3つの橋が架かっていました。上野で花見を楽しむ文化は今も昔も同じ、みなさん楽しそうですね!
さて、こちらが寛永寺。現在の東京国立博物館前の大噴水のあたりで、地図の③の場所から見た景色です。こちらの絵も桜の時期で、境内は大賑わい! 法華堂(右)と常行堂(左)を繋ぐ渡殿の先には立派な根本中堂が見えています。
寛永2年(1625)に天台宗の高僧・天海が徳川家の助力を得て建立した寛永寺。後に四代将軍・家綱の霊廟が造営され、将軍家の菩提寺も兼ねるようになり、現在の上野公園全域(約30万坪)におよぶ広大な寺域を持つ大寺院として隆盛を極めました。
この寛永寺は、平安京の鬼門を守る比叡山に倣い、「江戸の比叡山」として創建されたもので、この創建時のテーマにちなみ、境内には京都や滋賀の有名寺院になぞらえた堂舎を次々と建立。現代のテーマパークさながら、関東で関西旅行気分が味わえるスポットとして大変人気がありました。
そんな江戸時代の寛永寺の人気観光スポットを描いた浮世絵を見てみましょう!
まずは、不忍池(地図④)。不忍池は昔の東京湾の入り江の一部が残って池になったものと言われていますが、池の中にある中島は、寛永寺建立の際に不忍池を琵琶湖に見立てて竹生島を模して築かれたもの。島内には、竹生島から弁才天を勧請して弁天堂が建立されました。江戸時代後期には、この絵のように、弁天堂をぐるりと取り囲むように茶屋が建てられ、茶屋では名物の蓮飯(蓮の葉を細かく刻んだものと塩を少し入れて炊いたご飯など諸説あり)が売られていました。
水面に描かれている丸いものは、蓮の葉です。現在同様、不忍池は蓮の名所として知られていて、春は花見、夏は納涼、秋は月見といった具合に、四季折々の景観が楽しめる江戸の人びとの憩いの場でした。
次は、清水観音堂(地図⑤)。一目瞭然、京都の清水寺の舞台をマネしたものです。ここは不忍池や向こう岸の大名屋敷が一望できる絶景スポットでした。左側に描かれている、くるんとした松は、枝を丸くして月の形をかたどった松で、その名も「月の松」。この松は他の浮世絵にも登場していて、今でいう、「インスタ映え」スポット的な存在だったのかもしれません。
江戸時代の上野公園周辺の楽しそうな雰囲気が伝わりましたでしょうか…?
上野戦争勃発!寛永寺が焼け野原になった幕末の上野
江戸時代、徳川家の菩提寺としてこれほどまでに繁栄していた寛永寺。しかし、江戸から明治に時代が移る際に、その敷地の大部分が失われてしまう事件が起こりました。その事件を描いた浮世絵がこちらです!
右上を見ると、「春永本能寺合戦」というタイトルが付けられていますが、これはカムフラージュ。実際は慶応4(1868)年5月15日に起きた、旧幕府軍VS新政府軍による上野戦争を描いたものです。幕末の戊辰戦争では、旧幕臣が編成した反政府軍・彰義隊が寛永寺一帯にたてこもり、ここが上野戦争の戦場となりました。本図には激戦地となった寛永寺の黒門が描かれており、右手側から攻めている黒い服の人たちが新政府軍、左側が彰義隊です(地図⑥)。画面右奥では、現在は西郷隆盛像がある山王台が燃えています。この事件によって、寛永寺の大部分が焼け、上野公園周辺は焼け野原となりました。
内国勧業博覧会に競馬!?華やかな明治時代の上野公園
最後に、明治時代の上野公園を描いた浮世絵も見てみましょう!
明治維新後、官有地となったこの地は、芝・浅草・深川・飛鳥山とともに、日本で初めて公園に指定され、明治9(1876)年、明治天皇行幸のもと、「上野公園」が開園されました。以降、上野公園は明治政府の文明開化・殖産興業をアピールする場所となり、1877年(明治10年)には、「第1回内国勧業博覧会」が開催されました。
本図は、河鍋暁斎が描いた、第一回内国勧業博覧会開催時の上野公園の様子です。内国勧業博覧会は、明治政府が殖産興業政策の一環として開催。約10万㎡の会場に、美術本館、農業館、機械館、園芸館、動物館が建てられ、全国から集められた農産物、工芸品、機械などが展示されました。この博覧会は、明治14(1881)年の第2回、明治23(1890)年の第3回まで、上野公園で開催され、いずれも当時の最先端の技術が動員され、多くの来場者が会場を訪れました。
一方、こちらは、明治17年(1884)から明治26年(1893)までの約10年間、不忍池の周りに設置されていた競馬場を描いた絵。
「競馬」と言ってもギャンブルの要素はなく、天皇や皇族、華族、各国公使など、上流階級の人びとの社交の場として用いられ、鹿鳴館同様、日本の近代化・西洋化を象徴する場所でした。この絵は明治17年の第1回の競馬の様子。馬主ごとにデザインの異なる色とりどりのユニフォームを着た騎手が乗った馬がコースを走り、空には花火が打ち上げられているようです。画面右側のスタンドには、女官たちに囲まれた明治天皇の姿が描かれています。
さて、浮世絵で巡る江戸時代と明治時代の上野の旅はいかがでしたでしょうか……? 現在、藝大の校舎がある上野公園周辺は美術館、博物館、動物園があり、週末には多くの人で賑わっていますが、江戸時代、明治時代の上野も今と同じようにたくさんの人が集まる注目スポットだったんですね。みなさまも上野公園を訪れた際は、江戸から続く歴史の痕跡を探してみてはいかがでしょうか。