いつの時代もスキャンダルは存在します。中でも人々の関心が高ければ高いほど、その内容は拡散され、騒ぎは大きく広がっていくようです。明治時代に、美術学校騒動と呼ばれる出来事がありました。近代的な教育機関としてスタートした東京美術学校を舞台に、繰り広げられた騒動とは、いったいどんなものだったのでしょうか。
ことの発端は?
明治31(1898)年、九鬼隆一(くきりゅういち)※1の帝国博物館館長更迭の噂が、世間に広まります。すると岡倉天心(おかくらてんしん)※2と不仲になっていた東京美術学校※3の図案科教師である福地復一(ふくちふくいち)は、岡倉の就いていた帝国博物館美術部長の地位と引き換えに、九鬼の留任運動の働きかけを行ないます。博物館の運営方針や、プライベートな問題で岡倉との関係がよくなかった九鬼は、福地と結託。そこから周囲の人間を巻き込んだ騒動へと、発展していったのです。
岡倉天心の失脚
岡倉はついに、帝国博物館美術部長の任を解かれます。岡倉の縁によって博物館に勤務していた、橋本雅邦(はしもとがほう)※4らも解任となってしまいます。しかし、騒ぎはこれだけでは収まらなかったのです。新聞紙上に『美術界波瀾の真相』という記事が掲載されると大騒ぎに。内容は、岡倉と九鬼の妻の不倫関係を暴露したセンセーショナルなものでした。その後も、事実ではないことも織り交ぜた怪文書が出回り、岡倉の立場を脅かします。
当時の文部省をはじめ各方面は、この怪文書を見過ごさなかったことから、岡倉は東京美術学校長の辞職を決意。教職員に、「諸君は後任の校長と共に生徒の教育に尽力して欲しい」と告別の演説を行い、校外に去ります。
功労者の追放に憤った東京美術学校の教師陣は、黒田清輝(くろだせいき)らが所属する西洋画科を除き全教師が一斉辞職を決議。当時の一大事変として、世の中の人を驚かせました。しかし、新校長の任を受けた高嶺秀夫(たかみねひでお)※5らの教授陣に対する留任運動が行なわれ、その結果、一部の教授は留任することとなります。岡倉らの辞職発表後、学生たちは校内に集まり、岡倉・橋本の復職を希望し議論する動きもありました。
やがて、岡倉の友人でもある高嶺の新校長就任が発表され、教授陣の復職についても高嶺が一任するとしたため、騒ぎは収まります。一時は授業をするどころではなかった、美術学校始まって以来の騒動は、こうして終結したのです。橋本や、横山大観(よこやまたいかん)※6ら17名は、慰留に応じることなく、去っていきました。
その後の展開
岡倉は心血を注いだ東京美術学校を去ると、帝国博物館も、文部省との関係も全て清算されてしまいます。唯一古社寺保存の活動は、終生途切れることなく、続けました。また、肩書きを失ったにも関わらす、慕って行動を共にしてくれる教え子や同士の存在がありました。
ほどなくして、橋本、横山らと共に、美術団体・日本美術院を創設します。日本画家、彫刻家、工芸家らが集い、研究所を設けて美術研究と、院展と呼ぶ展覧会を開催しました。在野派として明治末期の美術界に、著しい業績を上げました。
本当の原因は、何だったのか?
醜聞として世間に広められた、九鬼の妻・九鬼波津子(くきはつこ)と岡倉と九鬼との三角関係。元々九鬼は、岡倉の美術研究の支援者で、共にタッグを組んで数々の功績を成し遂げた間柄でした。渡米中の九鬼の代わりに、体調を崩した波津子の面倒を岡倉が引き受けたことから、恋愛関係に発展していったようです。騒動は、このスキャンダルだけが原因だったのでしょうか?
岡倉失脚の首謀者だと言われる福地は、岡倉から目をかけられる存在でした。けれども、やがてそのことで傲慢になって、身勝手な行動をとるようになります。見かねた橋本が進言したことから、岡倉は態度を変えます。そのことを、福地は逆恨みしたのだろうと伝えられています。
日本の美術の発展を願い、導いた岡倉は、誰もが認める天才でした。ただ天才であるが故、周囲に気を配るのは苦手だったのではないでしょうか? 恩人とも言える人物の妻との不倫。そして一度は目をかけた教師を、手のひらを返したように、冷たく対応する。自ら火種を作って、天才に対する嫉妬心を刺激したことが、騒動に発展したのかもしれません。
参考書籍:『日本美術史ハンドブック』(新書館)、『岡倉天心』斎藤隆三著(吉川弘文館)、『岡倉天心』大岡信著(朝日新聞社)、『岡倉天心アルバム』茨城大学五浦美術文化研究所監修 中村愿編(中央公論美術出版)、『日本大百科全集』(小学館)