東京藝術大学には「正木門」と呼ばれる門があり、そこにはひそかに「正木おじさん」と呼ばれている(?)木製の像があります。
この人、正木直彦という人物。藝大の学長を30年以上務めた人物ですが、実はこの方、東京大学予備門予科で夏目漱石や正岡子規と同級生でした。
漱石は後年、正木のことをこう書いています。
何とか彼(か)んとかして予備門へ入るには入ったが、惰(なま)けて居るのは甚(はなは)だ好きで少しも勉強なんかしなかった。水野錬太郎、今美術学校の校長をして居る正木直彦、芳賀矢一なども同じ級(クラス)だったが、是等は皆な勉強家で、自(おのず)から僕等の怠け者の仲間とは違って居て……
(夏目漱石「落第」『筑摩全集類聚版 夏目漱石全集 10』所収)
なまけてばっかりの漱石に対し、正木は勉強家だったらしい。
僕等の様な怠け者の連中は駄目な奴等だと軽蔑して居たろうと思うが、此方(こちら)でも亦(また)試験の点許ばかり取りたがって居る様な連中は共に談ずるに足らずと観じて、僕等は唯遊んで居るのを豪(えら)いことの如く思って怠けて居たものである……(前掲書)
現代語訳:正木は僕らを軽蔑してたかもしれないけど、テストのことばっか考えているやつなんかこっちも軽蔑してたから、しゃべりたくもねーよと思って、遊んでばかりいた。
いや、開き直ってんじゃないよ。あなたも勉強しなさい!なんて言っていたら、そのとおり漱石は明治19(1886)年、腹膜炎のため進級試験を受けられず成績も悪かったため予備門予科を落第します。
彼にとって落第はかなりのショックだったよう。正木たちは「先へ進んで行って了(しま)った」(同書)として、これを機に漱石は猛勉強します。
こんな風に落第を機としていろんな改革をして勉強したのであるが、僕の一身にとって此落第は非常に薬になった様に思われる。若(も)し其時落第せず、唯誤魔化ごまかして許(ばか)り通って来たら今頃は何(ど)んな者になって居たか知れないと思う。(前掲書)
自分の反省を機に心を入れ替えるところが、後に偉人と呼ばれる人になる所以でしょうか。
ところで、こんなふうにして、東京藝大や上野の地にまつわる文学作品はいくつもあります。普段はあまり取り上げられることのない作家・作品からご紹介します。
永井荷風が語る「上野と文学作品」
東京藝大がある上野とその周辺は、文豪にとてもゆかりのあるエリアでもあります。
明治から昭和にかけて多くの作品を発表した作家・永井荷風は上野と文学作品の関係を詳しく紹介しています。
1927(昭和2)年6月に彼が書いた「上野」という小品から追ってみましょう。この年は、関東大震災(大正12年)から4年後に当たります。
震災の後上野の公園も日に日に旧観を改めつつある。まず山王台東側の崖に繁っていた樹木の悉(ことごと)く焼き払われた後、崖も亦(また)その麓をめぐる道路の取ひろげに削り去られ、セメントを以て固められたので、広小路のこなたから眺望する時、公園入口の趣は今までとは全く異るようになった。池の端仲町の池に臨んだ裏通も亦柳の並木の一株も残らず燬(や)かれてしまった後、池と道路との間に在った溝渠は埋められて、新に広い街路が開通せられた。
(永井荷風「日和下駄 一名 東京散策記」1999年、講談社)
関東大震災からの復興を目指す中で、この上野エリアもさまざまな再開発が進められたようです。
また、
上野の桜は都下の桜花の中最早く花をつけるものだと言われている。(中略)桜花は上野の山内のみならず其の隣接する谷中の諸寺院をはじめ、根津権現の社地にも古来都人の眺賞した名木が多くある
のだそう。幕末から明治初期の蘭学者で、東京図書館長(当時)などを歴任した箕作秋坪(みつくりしゅうへい)の「東台ノ一山処トシテ桜樹ナラザルハ無シ」などの言葉を引きながら、この地が長く桜の名所とされてきたことを説明しています。
かつて根津に花開いた遊郭
ところで、気になるのが上野の北西・根津エリアには遊郭があったというお話。遊郭の存在は、森鴎外のエッセーにも登場します。
私の家の向いは崖で、根津へ続く低地に接しているので、その崖の上には世に謂(い)う猫の額程の平地しか無かった。そこに、根津が遊郭であった時代に、八幡楼(やはたろう)の隠居のいる小さい寮があった。
森鴎外「二人の友」(「新潮日本文学1 森鴎外集」所収)
いまではそのような雰囲気はありませんが、江戸時代中期、根津神社の社殿新造のため集まった大工や左官ら職人相手の居酒屋ができ、女性に接客させるようになったのが始まりだと言われます。
『小説神髄』などで知られる文豪・坪内逍遥は、この根津で出会った遊女・花紫のもとに3年間通い続け、晴れて結婚。世間からの厳しい風当たりをものともせず、生涯彼女だけを愛し続けたと言います。
もっとも、明治21年には撤去されたようで、永井荷風が先の文章を書いた昭和2年にはすでにこの遊郭はありませんでした。
荷風はこの遊郭を「著者不明」な一冊の書物からひもときます(この辺が荷風っぽい)。
わたくしは先年坊間の一書肆に於て饒歌余譚と題した一冊の写本を獲たことがある。作者は苔城松子雁戯稿となせるのみで、何人なるやを詳にしない。
(中略)
松子雁曰く、(中略)根津と称する地藩は東西二丁に充たず(中略)昔日は即根津権現の社内にして而(しか)も久古の柳巷(いろざと)なり。卒(つい)に天保の改革に当つて永く廃斥せらる。然(しか)れども猶有縁(ゆかり)の地たるをもつて、吉原回禄の災に罹る毎に、権(しばら)く爰(ここ)に仮肆(かりたく)を設けて一時の栄を取ること也最(また)数回なり…….
(カタカナ表記はひらがなに改めた)
吉原に火事などが起こって営業が続けられなくなったとき、ほど近い根津の遊郭に皆一時的に移ってきたりしたことがあったようです。
そして、明治21年に撤去されて後も、
娼家の跡は商舗または下宿屋の如きものとなったが、独(ひとり)八幡楼の跡のみ、其の庭園の向ヶ岡の阻崖に面して頗(すこぶる)幽邃(ゆうすい)の趣をなしていたので、娼楼の建物をその儘に之を温泉旅館となして営業をなすものがあった。
と荷風は説明します。
森鴎外も書いた根津の「温泉旅館」
ワイセツすぎるとして発表後に大批判を浴びた森鴎外の問題作『ヰタ・セクスアリス』(明治42年発表、題名はラテン語で「性欲生活」のこと)にも、この根津の温泉旅館の話が出てきます。
その白足袋(引用者註:ここでは「性欲的に軟派」な人のことを指している)の足はどこへ向くか。芝、浅草の楊弓店、根津、吉原、品川などの悪所である。不断紺足袋で外出しても、軟派は好く町湯に行ったものだ。(中略)軟派は二階を当(あて)にして行く。二階には必ず女がいた。その頃の書生には、こういう湯屋の女と夫婦約束をした人もあった。下宿屋の娘なんぞよりは、無論一層下った貨物(しろもの)なのである。
(中略)
「今日は根津へ探検に行くのだが、一しょに行くかい」
「一しょに帰るなら、行っても好い」
「そりゃあ帰る」
それから古賀が歩きながら探険の目的を話した。安達が根津の八幡楼(やわたろう)という内のお職と大変な関係になった。女が立て引いて呼ぶので、安達は殆ど学課を全廃した。女の処には安達の寝巻や何ぞが備え附けてある。(中略)古賀がどんなに引き留めても、女の磁石力が強くて、安達はふらふらと八幡楼へ引き寄せられて行く。
遊郭がなくなってからもなかなかにディープな場所だったことがよくわかります。
歌舞伎の演目にも
現代ではデートスポットでもある上野には、なかなかディープな世界が広がっていました。
しかしこれは文芸作品だけに限った話ではありません。歌舞伎の世界でも繰り広げられていました。
たとえば河竹黙阿弥(かわたけもくあみ)作の『霜夜鐘十字辻筮』(しもよのかねじゅうじのつじうら)。
明治13年に初演され全5幕から成るこの歌舞伎は、非常に長いため現代ではほとんど上演されないようですが、物語は上野を舞台に展開していきます。
あらすじ:かつて大義のために師を討ち、維新で零落した士族六浦(むつら)正三郎は、妻に死なれ、乳飲み子を抱えての貧窮から眼病となる。そのとき彼を救ってくれたのが巡査・杉田薫(かおる)だったが、杉田は六浦が討った師の息子だった。六浦は自ら仇(あだ)を討たれようと迫るが、杉田に諭されて、仏門に入ることを決意する。
この物語に、演説師の楠石斎(くすのきせきさい)と妻おむら、按摩(あんま)の盗賊宗庵(そうあん)、悪党・讃岐の金助がからむ、明治期を背景とした世話物、いわゆる「散切物(ざんぎりもの)」と呼ばれる歌舞伎です。
黙阿弥は6つのテーマを5幕に織り込んで構成し、初演時は、
楠石斎:九代目市川團十郎
六浦正三郎:中村宗十郎
杉田薫:五代目尾上菊五郎
天狗小僧 讃岐の金助:初代市川左團次
おむら:八代目岩井半四郎
按摩の宗庵、薫の母なぎ(二役):三代目中村仲蔵
という当時の超オールスターで上演されたそう。
これらが、「不忍新土手の場」「根岸芋坂の場」「上野三枚橋の場」など、上野エリアを中心に展開されていきます。
この上野三枚橋とは、不忍池から流れていた忍川に架かっていた橋で、大正時代には川が暗渠化されたため、いまでは見ることができませんが、明治30年代にはこのような雰囲気だったそうです。
作家・劇作家の久保田万太郎によれば、「上野三枚橋の場」のト書きには、
「本舞台正面三枚橋上下駒寄せ、黒塗りに白く広小路と記せし用水桶、日覆より雲のかゝりし月をおろし、総て上野三枚橋夜更の体、時の鐘、水の音、犬の声にて道具留る」
とあり、彼は「ト書が簡単ながらよく明治の初年のそのあたりの色彩と気もちとを感じさせる」と書いています(久保田万太郎「上野界隈」1929年『日本の名随筆9 町』所収)。
今では水の音や犬の声が聞こえる場所ではなくなってしまいましたが、当時はそのような雰囲気が上野には漂っていたのでしょう。河竹黙阿弥はこのほかにも複数の作品を上野を舞台にして描いています。
文学作品にまだまだ登場
かつては文豪が多く住み、エッセーなどでもたびたび登場していた上野。最近でも、柳美里『JR上野駅公園口』が全米図書賞受賞をするなど、この地が舞台になる作品は現代でも多く生み出されています。
数々のドラマを生んできたこの地には、人を惹きつけ、物語を生み出す「なにか」があるのかもしれません。