日本の美術界に警鐘。アーネスト・フェノロサの功績や岡倉天心との関係を紹介

ライター
米田茉衣子
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東京藝術大学美術学部の前身は、明治20年(1887)に開校された東京美術学校です。明治維新以降、日本では急激な欧米文化の流入が起き、日本の伝統的な美術や工芸は急速に価値を軽視され、まさに風前の灯火といった状況でした。そこで、設立されたのが学校制度の中で日本画や日本工芸を教授し、その技術を受け継いでいく国立の美術学校、東京美術学校です。この東京美術学校設立のための運動を主導した人物が二人います。一人は当時東京大学の教授として来日していたアーネスト・フェノロサ。そして、もう一人はフェノロサの弟子で、後に東京美術学校で初期の校長を勤めた岡倉天心(覚三)。今回は、東京美術学校創立に貢献した米国人・アーネスト・フェノロサの生涯について、クローズアップします。

海を渡り、創立翌年の東京大学に赴任

アーネスト・フェノロサは1853年にアメリカ合衆国マサチューセッツ州セーラム市で、スペインから移民した音楽家の父とその教え子のイギリス系アメリカ人の母のもとに生まれました。大学は、アメリカ最古の歴史をもつ名門校、ハーヴァード大学に入学します。哲学を専攻し、大学および大学院を優秀な成績で卒業。卒業後は、当時新設されたボストン美術館付属の絵画学校に入り、油絵の技術や絵画理論を学びました。

その後、東京大学初代理学部教授を務めていたエドワード・モースの推薦によって、設立2年目の東京大学の法理文学部教授に就任、明治11(1878)年に来日しました。大学では政治学、理財学(経済学)、哲学などの授業を担当する傍ら、日本美術に関心を示し、日本画の蒐集と研究を開始。次第に日本美術の世界に没頭するようになり、来日した翌年には狩野派の総帥、狩野永悳(えいとく)について、日本と中国の絵画の鑑定法を学び始めました。

そんな折、フェノロサは東京大学で一人の学生と出会います。

岡倉天心肖像(茨城県天心記念五浦美術館蔵)

それがこちら、岡倉天心(覚三)。天心は明治10(1877)年、東京大学開校時に森鴎外らとともに文学部一期生となり、大学二年生の時に教授として来日したフェノロサと出会いました。

この出会いが天心の人生に方向性を与え、同時にフェノロサの人生と近代以降の日本美術史をも変貌させることになります。

西洋美術に傾倒していた日本の美術界に警鐘

横浜の貿易商の子であった岡倉天心は幼いころから外国人と関わる機会が多く、10歳前後から外国人居留地に開校されていたアメリカ人宣教師の英語塾に通い、東京外国語学校、開成学校に進学、東京大学でも群を抜いて英語力に秀でていたそうです。語学に長けた天心とフェノロサは自然と親睦を深め、次第に天心はフェノロサの右腕となり、通訳兼助手の役割を担うようになりました。フェノロサは来日2年目の明治13(1880)年、天心を通訳にして、奈良の正倉院、法隆寺、唐招提寺、京都の東福寺、大徳寺などを巡り文化財の研究調査を行っています。この時、二人は当時廃仏毀釈で危機に瀕していた日本の仏教美術を実際に目の当たりにして、その素晴らしさに衝撃を受けたのでした。

天心は東京大学卒業後、文部省に入省。このころ、フェノロサは来日以来取り組んできた日本美術の研究を通じて、西洋美術に圧迫されて衰退の一途を辿る日本美術の状況を憂い、日本美術再興の必要性を唱え、美術研究家としての活動を活発に行うようになります。明治15(1882)年には、日本の伝統美術保存を目的に、明治政府の官僚を筆頭メンバーとして結成した美術団体「龍池会」で講演を行い、日本ではじめて「日本画(Japanese painting)」という言葉を用いて、「油絵(oil painting)」と比較して、日本画の優位な点を論じ、西洋文化に傾倒していた日本美術界に警鐘を鳴らしました。そして、この講演は書籍『美術真説』として和訳出版されました。「日本人が思っているより、西洋画と比べても日本画には多くの美点があるが、このまま廃れてしまっていいのか?」というフェノロサの問いかけは、日本の美術界や政府関係者を中心に大きな波紋を広げ、明治政府の方針が急激な欧化政策に対する揺り戻しの時期を迎えていたという時流も受け、日本美術再興の機運が一気に高まっていきました。

明治15年に龍池会が『美術真説』というタイトルで売り出した書籍は爆発的な売れ行きを見せた。「日本画」(「Japanese painting」の翻訳語)という言葉の初出と言われる。 (出典:国立国会図書館デジタルコレクション)

フェノロサはこの講演によって一躍有名になり、日本美術振興の指導者的な立ち位置に至ったのでした。

岡倉天心とともに、東京美術学校創立に奔走

明治17(1884)年には、フェノロサは岡倉天心らとともに新しい美術団体「鑑画会」を発足。当初は、刀剣商・町田平吉が会主となり、狩野永悳やフェノロサが持ち込まれた古画の鑑定をしたり、フェノロサら外国人コレクターの蒐集した絵画を展示したり、といった活動内容でしたが、町田が退会し、フェノロサが会の中心人物になると、「鑑画会」は西洋画の要素も取り入れた新時代の日本画家の養成と作品発表の場へと変化しました。後に東京美術学校の日本画教育の礎を築いた狩野芳崖、橋本雅邦らも作品の創作や出展に励み、この団体の活動が東京美術学校創立の母体となりました。

橋本雅邦『秋景山水図』明治20(1887)年。「鑑画会」の活動を行っていた時期の橋本雅邦による実験的な作品。漢画の表現法を基盤にしながら、奥行きを感じさせる三次元的な空間表現が追求されている。(愛知県美術館所蔵)

「鑑画会」発足と同じ年、文部省内では岡倉天心の働きかけによって「図画調査会」が設置されます。これには、鑑画会メンバーも委員として名を連ね、後にフェノロサも委員に任命されました。「図画調査会」では、公立学校における日本式美術教育の採用が決定され、翌明治18(1885)年には、東京美術学校設立のための組織として、「図画取調掛」に組織変更されます。

フェノロサは、岡倉天心、狩野芳崖らとともに「図画取調掛」の委員になり、東京大学を退職。正式に文部省に雇い替えとなり、同時に宮内省の博物館美術事業も兼任する行政官となりました。以後、天心とともに東京美術学校の開校に向けて準備に奔走します。『ハーヴァード大学ホートン・ライブラリー蔵 アーネスト・F・フェノロサ資料』(村形明子編訳)には、このころのものと見られるフェノロサの手紙の草稿や学校構想のメモが遺されており、美術学校設立のため政府要人との交渉にあたり、学校の組織や校舎、予算などを構想するフェノロサの姿が見て取れます。明治22年(1889)、念願の東京美術学校開校が実現すると、フェノロサは幹事事務取扱に任命され、教育カリキュラムの作成や「画格」「美学及び美術史」などの科目を担当しました。

明治時代の東京美術学校日本画家教室の様子(明治36年頃) (小川一真出版部『東京風景』 出典:国立国会図書館デジタルコレクション)

また、明治20(1886)年には、フェノロサと天心は、宮内省の九鬼隆一、内務省の丸岡莞爾、文部省の浜尾新らとともに、大規模な関西古社寺文化財調査を行っています。この調査の後、フェノロサは膨大な調査報告と文化財保護政策に対する提言を行い、これが今日の日本の国宝・重要文化財指定制度を含む文化財保護行政へと繋がっていきました。

しかし、東京美術学校が開校した翌年には、フェノロサの文部省との契約期間が終了。フェノロサは東京美術学校と帝国博物館を退職し、明治23(1889)年、12年間に及ぶ日本での生活にピリオドを打って、母国アメリカへと帰国しました。この年、政府はフェノロサに勲三等瑞宝章を贈っています。

帰国後、ボストン美術館の東洋部初代部長に就任

日本を離れたフェノロサは、アメリカでボストン美術館に新設された東洋部の初代部長に就任。このボストン美術館には、フェノロサが日本滞在中に蒐集した日本画のほか、フェノロサを東京大学に推薦したエドワード・モース、フェノロサと親しかったアメリカ人医師で日本美術コレクターのウィリアム・ビゲローのコレクションも寄託され、日本国外随一の日本美術コレクションを収蔵していました。フェノロサはキュレーターとして、これらの膨大なコレクションの整理と陳列を受け持ち、また全米各地で日本美術に関する講演を行いました。

5年間のボストン美術館との契約を終え退職したフェノロサは、その後も日本美術の研究を続けながら、日本に二度滞在しており、生前日本への永住を希望していたと言われています。しかし、明治41(1908)年、ヨーロッパ渡航中にロンドンで急死。遺体はロンドンで火葬され、遺骨は本人の希望に沿い、フェノロサが受戒を受けた滋賀県大津市の園城寺(三井寺)法明院に運ばれ、埋葬されました。

参考文献:栗原信一著・倉田文作監修『フェノロサと明治文化』、山口静一著『フェノロサ-日本文化の宣揚に捧げた一生』、村形明子編訳『ハーヴァード大学ホートン・ライブラリー蔵 アーネスト・F・フェノロサ資料』、東京芸術大学百年史編集委員会編『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇』

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