1万円札の肖像画と同じ?日本洋画界の重鎮、和田英作の人物像と作品

ライター
山見美穂子
関連タグ
藝大の偉人

長らく1万円札の顔として親しまれてきた福澤諭吉、お財布に入っていると安心するあの顔にそっくりの肖像画が、慶應義塾大学に残されています。
1万円札の福沢諭吉と同じ写真を元にしたと思われるその絵を描いたのは、明治・大正・昭和にかけて活躍した洋画家の和田英作(わだえいさく)。
堅実な画風と、藝大の前身である東京美術学校の校長をつとめた経歴の持ち主で、日本洋画界の重鎮のひとりに数えられる人物です。

黒田清輝に師事し、白馬会の創立メンバーに

和田英作は明治7(1874)年生まれ。鹿児島県の出身で、幼いときに一家で東京に移り住みました。父親は慶應義塾大学などで英語を学び、英語教師として働いたのち、牧師となっています。慶應義塾大学の創設者である福沢諭吉の肖像画を描いたのは、縁あってのことかもしれません。

13歳のときに明治学院に入学。同級生にはともに洋画を学んでいくことになる三宅克己が、2年先輩には詩人・小説家となる島崎藤村がいました。
在学中に絵の道を志し、17歳で明治学院を中退。洋画家の曽山幸彦、原田直次郎らのもとで指導を受けています。

フランス留学から帰国したばかりの黒田清輝、久米佳一郎らが開いた天真道場に入門したのは20歳のとき。外光派といわれる新しい画風で日本の洋画界に革命を起こした白馬会には、創立メンバーとして参加しました。

和田英作筆『H夫人肖像』出典:ColBase

東京美術学校の助教授を辞めて、学生として入学

黒田清輝の片腕となり、順風満帆に洋画界で出世をしたといわれる和田英作。絵は「堅実な技法」「手堅い写実」といった言葉で評価されています。その手腕は努力によって磨かれたものでした。

東京美術学校に西洋画科が設立されたのは明治29(1896)年。和田英作は同校で教授をつとめることになった黒田清輝の推薦で、22歳にして助教授に任命されます。しかし翌年に「いきなり指導者になるのは心苦しい」と辞任、西洋画科の4年生に入学するのです。卒業制作として代表作のひとつとなる「渡頭(ととう)の夕暮」を提出すると、ひとりきりの第1期卒業生となりました。

卒業後は無給の助手をつとめながら留学の機会を待ち、明治33(1900)年に文部省留学生に。フランスへ渡り黒田清輝の師でもあるラファエル・コランに学びます。
そして帰国後の明治36(1903)年に、満を持して東京美術学校の教授に就任しました。

留学中にルーブル美術館でボッティチェリの絵『ヴィーナスと三美神から贈り物を授かる若い婦人』を部分模写した作品
和田英作摸『二女図』出典:ColBase

画家としてはじめて東京美術学校の校長になる

和田英作は農作業を終えて川を渡ろうと渡し舟を待つ一家を描いた「渡頭の夕暮」や、こうもり傘を杖にして歩く老婆を描いた「おうな」など、人々の生活を切り取ったような絵で高い評価を得たほか、風景画や肖像画を数多く手がけています。新一万円札の顔である渋沢栄一とも親交があり肖像画を描きました。また、帝国劇場の天井画・壁画、東京駅の壁画などの制作にも携わりました。

東京美術学校での後進の指導も続け、昭和7(1932)年に画家としてはじめて、東京美術学校の校長に抜擢されます。
岡倉天心が校長を辞めることになった「美術学校騒動」の後、美術行政官として30年以上も校長をつとめた正木直彦は、卒業生が校長になったことで在職中の目標が叶ったと喜びました。

今度和田先生が学校長になられたと云ふことは、最早学校のことは学校出身の者でやっていくことが出来る、世の中の美術のことも大体学校の卒業生でやって行けるという実例を示したものであります。
『東京藝術大学百年史 東京美術学校篇 第三巻』より

洋画科出身の校長だったため、日本画の横山大観からは攻撃も受けました。しかし和田英作自身は内示を受けて「美術家としては大犠牲だが、推挙されたからには受ける」と答えたと正木直彦の日記に残されており、筆を捨てる覚悟でした。

実技家、しかも洋画から校長を出したことについては、いろいろの批判もあろうが不束ながら校長の椅子に就いた以上は私には日本画もなければ洋画もない。もちろん今後は絵筆を捨てて一校長として死ぬまで奉公する決心だ(中略)そして役人としてではなく、おやじとして学生と心の結びをつけようと考えている。
『東京藝術大学百年史 東京美術学校篇 第三巻』より

代表作は「渡頭の夕暮」「思郷」「こだま」など

黒田清輝や正木直彦から信頼厚い教育者でもあった和田英作は、日本洋画界の巨匠あるいは長老と呼ばれることもあります。
代表作は東京美術学校の卒業制作である「渡頭の夕暮」、フランス留学中の作品である「思郷」、「こだま」など。また本人が好んで描き続けたモチーフに薔薇と富士山があります。

昭和11(1936)年に東京美術学校の校長を辞任し名誉教授に就任した後は、法隆寺の壁画の模写にも没頭しました。朽ちていく壁画を保存するために文部省が日本画家に依頼した事業でしたが「壁画の模写には油絵具が適している」と自費で参加し、冬でもストーブを使わずに懐炉をかかえて壁画の前に座り続けていたそうです。

和田英作筆『法隆寺金堂壁画摸写』出典:ColBase

晩年は静岡県の景勝地である三保松原の近くに移住して絵を描き続け、富士山を望む風景画を絶筆に昭和34(1959)年、85歳で亡くなりました。

アイキャッチ:『和田英作《福澤諭吉全身肖像画》(復元制作)』制作者:角南 松生、近馬 勘五 出典:Keio Object Hub

【参考文献】
『日本大百科全書(ニッポニカ)』(小学館)
『国史大辞典』(吉川弘文館)
『東京藝術大学百年史 東京美術学校篇』(財団法人芸術研究振興財団/東京芸術大学百年史刊行委員会)
『アサヒグラフ別冊 美術特集 日本編81 和田英作』(朝日新聞社)
『美と真実 近代日本の美術とキリスト教』(新教出版社)
『近代日本の美術』(大日本インキ化学工業株式会社)

おすすめの記事