「初めに日本画ありき」…東京藝術大学美術学部の前身である東京美術学校は、日本画から始まったと言っても過言ではないでしょう。西洋の列強諸国に追いつく必要があった明治維新直後の日本の社会は狩野派や浮世絵といったそれまでの日本美術から目を背け、仏教美術を排斥する廃仏毀釈運動まで起きて、伝統美術は散々な目にあっていたのです。そんな中で、日本の伝統美術の素晴らしさに目を向けたのは、来日していた米国人哲学者のアーネスト・フェノロサと思想家の岡倉天心でした。そして、彼らの日本美術再発見からつながる形で、1889年(明治22年)に東京美術学校が開校します。日本美術無視への反動として生まれたので開校当初の同校には西洋画科がなく、日本画科と工芸系の学科だけでした。「日本画」という言葉も、その流れの中で生まれ、単に岩絵具などの伝統的な素材を使って描かれたということだけではなく、対「西洋画」という概念的な意味合いを帯びました。そして近代の「日本画」は夜明けを迎えたのです。
さて今日は、開校を控えた東京美術学校の教員就任の打診を受けていた狩野派の画家、狩野芳崖(1828〜88年)、そして、明治時代の日本画革新の動きの中で最も重要な役割を果たした同校出身の日本画家、菱田春草(1874〜1911年)の絵を見ながらの鑑賞トークを介して、明治時代の日本画の空気を大まかに探ります。というのは、浮世離れマスターズのつあおとまいこは、東京藝術大学大学美術館の「藝大コレクション展 2022 春の名品探訪 天平の誘惑」(2022年5月8日で終了)でたまたまこの4月に狩野芳崖と菱田春草の名品を見る機会を得たからです。才能が結実した二つの作品を前にして、2人は目をらんらんと輝かせ始めました。
えっ? つあおとまいこって誰だって? 美術記者歴◯△年のつあおこと小川敦生がぶっ飛び系アートラバーで美術家の応援に熱心なまいここと菊池麻衣子と美術作品を見ながら話しているうちに悦楽のゆるふわトークに目覚め、「浮世離れマスターズ」を結成。さまざまなアートを見て他愛のないおしゃべりに興じてきました。さて今日はどんなトークが展開するのでしょうか。
明治に入って失職した狩野芳崖
つあお:幕末から明治初期にかけて活躍した日本画家、狩野芳崖、畢生の名作『悲母観音』の登場です!
まいこ:とにかく黄金! まぶしいです!
つあお:これはやっぱり、天の上の世界がきんきらきんっていうことなんだろうなぁ。
まいこ:観音様の衣も雲もみんな金なんですね。
つあお:しかも、金箔貼りとは違って、金の肌合いが場所によって微妙に濃さを変えて表現されているところには、何だか天上の現場のようなリアリティーを感じます。
まいこ:背景は金の霞のようですね。
つあお:下にいる赤ん坊みたいな童子像も、なかなか神々しい!
まいこ:本当だ! なぜシャボン玉の中に入っているのでしょう?
つあお:シチュエーションはよくわからないんですが、この赤ん坊は、観音様から生命を付与されているんじゃないかな。
まいこ:赤ちゃんは観音様を見上げていて、観音様は右手に持った入れ物から何かを赤ちゃんの上に注いでいますね。
つあお:おお、きっとそれが「命の水」なんだ!
まいこ:「命の水」って?
つあお:やはりそれがあるからこそ、人間も動物も生を得ているんだと思いますよ。
まいこ:おいしいのかな?
つあお:きっとね。ところで、この絵って実はあんまり狩野芳崖っぽくない感じもするんですよね。
まいこ:へー。狩野芳崖っぽさって、そもそもどんなものなのですか?
つあお:芳崖には、何か空間をすごい力でえぐり取るような力強い表現が多いんです。
まいこ:なるほどー。こちらの絵には、むしろ穏やかな空気が流れてますね。
つあお:おそらく、芳崖は力強い絵をたくさん描いてきた末の人生の一つの結論として『悲母観音』を描いたんじゃないかなぁ。たわくし(=「私」を意味するつあお語)の勝手な想像ですけどね。
まいこ:ということは、えぐるような画法の後にこういったスタイルが出てきたのでしょうか?
つあお:おそらくそうです。狩野芳崖は実は明治に入ってすぐ、失職したんです。
まいこ:えっ!
つあお:それまでは狩野派は幕府や大名に雇用された御用絵師だったけど、明治になって武士という後ろ盾を失って食べられなくなっちゃった。芳崖は東京にいたのに、仕方なく郷里の山口に帰って、奥さんに食べさせてもらっていたと聞いています。
まいこ:狩野派受難の時代!
つあお:そうなんです。でも芳崖はとてもすぐれた画家だったので、来日していた米国人哲学者のアーネスト・フェノロサが見出して、その後、開校を控えていた東京美術学校の先生になることが内定してたんです。
まいこ:へー! でも、東京美術学校で教えたなんて聞いたことがありません!
つあお:そう。残念ながら、東京美術学校が開校する前の年に亡くなってしまったんですよ。
まいこ:わー、なんということ! 非業の死ですね。
つあお:でもね、『悲母観音』はおそらくフェノロサなんかと一緒に、明治初期の廃仏毀釈などで廃れていた日本の仏教絵画の魅力に目覚めて、いっぱいいっぱい研究した成果としてできたものだから、芳崖はあの世で仏様に救われているんじゃないですかね。
まいこ:きっと、『悲母観音』の観音様のように黄金に包まれてますね!
つあお:そしてまさに、この「観音開き」の素晴らしい作品が生まれたというわけです。存在感の大きさといい、丁寧な筆致といい、まばゆいばかりの輝きといい、この作品は、明治に入って一度廃れた日本美術復活の象徴だと思うんです。
ミステリーに満ちた菱田春草
つあお:菱田春草の『水鏡』は、重要文化財の『黒き猫』や『落葉』ほど有名ではありませんが、なかなか深い意味を持った作品だとたわくしは思っています。
まいこ:まず、水面の映り込みにはっとさせられますね!
つあお:描かれている女性はおそらく天女で、すごく上品に麗しい線で落ち着いた色彩のもとに表現されている。とにかく、素晴らしい技術と表現力です。なんだけど、水に写っているのは下半身の一部だけっていうのが、ちょっとミステリアスかな?
まいこ:水辺に立って覗き込むということは、まず自分の顔を見たいんじゃないでしょうか? なのに、絵には描かれていない?!
つあお:そうなんですよ。一体どんな風に見えたのかは、もう想像するしかない。
まいこ:そこを鑑賞者に託しているとは、憎いですね!
つあお:しかもこの絵は結構大きいから、何となく見ているほうも画面の中に入っていきそうな感じがしちゃうんです。
まいこ:そうですね!見上げると、絵が自分の2倍位の大きさに見えました。
つあお:確かに、まさに見上げる感じで展示されていますね。
まいこ:つあおさんは、なぜこの絵にそんなに詳しいんですか?
つあお:実はね、たわくしにも大学生だった時代がありまして、授業のレポートでこの絵のことを書いたことがあるんですよ。
まいこ:大学生の時に!!
つあお:その授業をなさっていたのは、東京藝大で専任教員をされていたイタリア美術がご専門の若桑みどり先生でした。たわくしの通っていた大学の非常勤講師として教えていたんです。テーマはイコノロジー(図像解釈学)でした。
まいこ:へぇ! 東京藝大の先生が! 「図像」を「解釈」する授業だったんですね!
つあお:そう。イコノロジーでは普通は描かれた図像を解釈するのですが、たわくしは確か、描かれていない、水に映ったほうの顔を勝手に解釈するレポートを書いたので、面白がってくださった記憶があります。
まいこ:水面に顔が写ってないところに注目したのですね!
つあお:ミステリー好きだったんです。
まいこ:学生時代のつあおさんがどんな天女ミステリーを創作したのか知りたい!
つあお:当時のレポートは、もはや雲散霧消しています(笑)。
まいこ:彼女の顔のようにミステリー(笑)。
つあお:それで、菱田春草はこの絵では線をしっかり使った伝統的な描き方で表現している。そこが本当に見事。伝統的な技法にのっとった名作なんですよ! 色遣いが抑えめで、極めて優美。太過ぎも細過ぎもしない線で描かれた天女が本当に美しい。
まいこ:紫陽花の花とも調和してる! それにしても、つあおさんはこの天女にぞっこんですね!
つあお:ふふふ。ところがね、実はこの翌年あたりから、今度は線がなくなるんです。「線の消滅」…ミステリー小説になってたりして。
まいこ:消滅は事件!
つあお:日本の伝統絵画では、線は輪郭以上のもの、たとえば感情や個性や空気を表現するとても大切な役割を担ってきたので、それをなくすということは、ある意味、伝統を大きく破壊する行為だったんですよ。日本画壇の明治は冒険の時代でもありました。
まいこ:菱田春草、大胆!
つあお:そこで生まれたのが、輪郭線をほぼなくした『寒林』(1898年)や『菊慈童』(1900年)などの作品でした。特に『菊慈童』のような作品は当時は「朦朧体(もうろうたい)」という言葉で揶揄(やゆ)されたりもしました。でも、たわくしは、春草のそんな朦朧とした表現も、すごく愛しています。
まいこ:へぇ。
つあお:春草は東京美術学校の校長だった岡倉天心や1年先輩だった横山大観、下村観山らと一緒に活動してました。たわくしは特に春草に惚れ込んでいるので、どの絵もホント素晴らしく見えちゃうんですよ。ちなみに春草は見目も麗しく、なかなかの美男子だったようですよ!
まいこ:えっ!! 美男子!!
つあお:残念ながら、36歳で亡くなってしまいました。
まいこ:美男薄命! ますます美化されちゃいそう。でも、ナルシスのように自分を映して惚れるということはなかったのでしょうか?
つあお:それは不明です(笑)。でもひょっとすると、『水鏡』には実はそんな意味も託されていたりするのかもしれませんね。
日本画の流れ(明治時代)
日本画の基礎知識
明治時代の日本画壇を俯瞰する図を作成しました。明治以降、日本画の潮流の中心地は東京でしたが、長い伝統を持つ京都でも途絶えずに先達のDNAを受け継ぐ画家たちが活動をしていました。もっとも、「日本画」という呼称自体は、西洋絵画の流入への反動として、明治中期に東京美術学校創立の頃に生まれたものです。
東京では、哲学者のアーネスト・フェノロサや岡倉天心が日本の伝統絵画のよさに着目して横山大観や菱田春草らの画家を育て、西洋画法を取り入れながら新時代の表現を目指して大きな流れを作ります。その一方で、菊池容斎のような狩野派からつながる別の流れも独自の展開を見せ、近年注目されている渡辺省亭や梶田半古らの才能の輩出につながりました。
京都では、主に江戸時代から続く円山四条派の流れの中で、竹内栖鳳や木島櫻谷らの逸材の輩出が続きました。土田麦僊や村上華岳、甲斐庄楠音などによる革新が始まるのは、大正時代に入ってからです。
大阪については、京都に近いということでこれまであまり注目されてきませんでしたが、泉屋博古館やこのほど開館した大阪中之島美術館などによる顕彰がこれから進むのではないかと思われます。
なお、画家とは貪欲なもので、たとえば河鍋暁斎は最初浮世絵師の歌川国芳に、菊池容斎は京都に行って円山四条派の画法も学んでいるなど特に近代は一つの流派にとらわれない学びの中に身をおいており、実は単純な系譜の図で流れを表すのは困難です。だからこそ、多様で独創的な表現が花開いたのです。(byつあお)
(出典=和樂web「桜真っ盛りの六本木で東京・京都・大阪の日本画を見比べる【泉屋博古館東京】」)
つあおのラクガキ
浮世離れマスターズは、Gyoemon(つあおの雅号)が作品からインスピレーションを得たラクガキを載せることで、さらなる浮世離れを図っております。
朦朧とした世界の向こうには、愛に満ちた世界があるはず! 混沌とした世界を生きる中でそんな確信を得た黒猫の子どもは、自分でも世界を愛で満たそうと決心したのです。