東京上野・不忍池の由来とは?「しのばず」の意味や琵琶湖との関連を解説

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あきみず
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東京・上野にはオアシスがあります。1年を通して何種類もの鳥たちが遊び、夏には一面に美しい蓮の花が咲く。そしてその一角では大きな大きな白鳥が人々を乗せてのんびりと泳ぎます。

そこは不忍池(しのばずのいけ)、と呼ばれる場所。上野公園の南西端に位置する、周囲約1400メートル、東西約300メートル、南北約450メートル、面積約10万3700平方メートルの広い池です。
現在、池は3つに分けられ、北は上野動物園分園の水上動物園、南は蓮の池、西はボート池となって人々を楽しませています。

ところで、ふと思うのです。しのばず、ってどういう意味なんだろう? そこで、地名の由来を調べてみました!

不忍池の名前の由来とは?

不忍で「しのばず」、中学・高校の漢文の授業をちょっと思い出してしまうのですが、まあそれはそれとして。

不忍池の命名の由来については、どうやらいくつも説があるよう。その中でも有名な説を2つご紹介します。

1、忍ヶ岡(忍ヶ丘)に由来する説

寛永2(1625)年、上野に東叡山寛永寺(とうえいざんかんえいじ)が建立されました。その際、寛永寺を比叡山延暦寺に、この不忍池を琵琶湖に見立て、竹生島(ちくぶしま)を模倣した小島を築いて弁財天を祀り、京都のような配置を再現しました。

上野が忍ヶ岡(しのぶがおか)と呼ばれていたのに対して、ここを「不忍池」と命名した、とするのが第1の説。現在最も有力な説とされています。

寛永寺が建立されたことで不忍池は江戸の名所となり、春の桜、夏の蓮見、秋の月見、冬の雪見など、四季折々に江戸の人々を楽しませる憩いの場となりました。
また、明治・大正時代には湖畔が博覧会場・競馬場などとして利用され、大勢の人で賑わいました。

2、池だけがはっきり見えたから説

もう1つが、池の状態を表していたという説。

昔、この辺りには茅やススキが生い茂っており、道の境すらよく分からないのに池だけがはっきり見えたため、「忍ぶことができない」という意味で名付けられたのだといいます。

もともとの由来は現在も不明なのですが、湖畔には水上音楽堂・台東区立下町風俗資料館があって、近くにはホテルや飲食店・アメ横商店街なども軒を連ねる現在の池付近は、こちらの「忍べない」という表現がよく似合う場所になっていますね。

不忍池は海だった!?

今の上野の町からはあまり想像できないのですが、不忍池は昔、海でした。東京湾の入江だったものが次第に後退して陸地化し、池として残ったのだそう。
池が形成された時期は平安時代ごろとも室町時代とも言われています。

現在、不忍池には藍染川(あいそめがわ)が流入し、忍川(しのぶがわ)が流出しています。

アイキャッチ画像:歌川広重『江戸名所 上野不忍の池』メトロポリタン美術館所蔵

参考文献:
・『日本国語大辞典』小学館
・『日本大百科全書(ニッポニカ)』小学館
・『世界大百科事典』平凡社
・『デジタル大辞泉』小学館
・『国史大辞典』吉川弘文館
・『日本歴史地名大系』平凡社

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