東京藝術大学を理解したい! との思いで、始まったこのシリーズ。今回紹介する本の著者は、藝大美術学部卒業生と共に、「誰もが短期間で絵を描ける講座」などを主宰している方です。藝大生や卒業生と深く関わる中で、先行き不透明な時代に、藝大生の唯一無二の思考は貴重だと確信したのだとか! 究極の思考を知ることは、東京藝大の神髄に近づくことかも! わくわくしながら、ページをめくりました。
第3回 『東京藝大美術学部 究極の思考』 増村岳史著 クロスメディア・パブリッシング
そもそも著者は、どうしてアートの講座を?
著者の増村岳史(ますむらたけし)は、代々アートに関わる家系の生まれで、父も画家でした。アートの道には進みませんでしたが、趣味で展覧会やギャラリーの鑑賞を、続けていたのだそうです。ある時、ウェブサイトで見た作品に心惹かれて作家名を調べると、15年以上会っていなかった親戚(はとこ)と知ります。当時、彼女は東京藝術大学大学院の美術研究科工芸専攻の修士課程を修了したばかりでした。この久しぶりの再会がきっかけとなって、他の藝大生とも関わるようになり、彼らの思考やユニークさに驚き、感銘を受けたそうです。増村は、彼らの持つ思考こそが日本でビジネスを持つ人に必要なのでは? と考えるようになり、ビジネスパーソン向けのデッサンのスキルを伝授するプログラムを考案。その後、企業向けにアートやデザインの講座を提供する会社を立ち上げて、現在にいたります。
えっ、超難関入試会場が動物園?
これまで300人以上の現役の藝大生や卒業生と接してきた増村は、1人1人がとても個性的でユニークだと述べます。続けて、このような特徴があるのは、出身高校の偏差値が40から70までが集う日本で唯一の最高学府だからではないかと、中々斬新な切り口で解説しています。東京藝大が超難関なのは、誰もが認めるところで、1浪、2浪は当たり前、美術学部の現役合格率※1は、わずか22.5%。この狭き門を突破しようと受験生は挑みますが、明らかな傾向が全くないため、対策の立てようがないのだそうです。この特殊な受験方法が、偏差値では測れない才能を見つけ出す要因とも言えます。
現在画家として活躍している、小左(おさ)誠一郎の受験突破のエピソードが面白いです。1浪で挑んだ小左は、1次試験のデッサンで、2000人から絞られた500人の中に無事に入ります。続く2次試験の会場は、驚いたことに上野動物園で、課題は「園内にいる動物を1匹以上書け」。貸し切りではないので、来園者と話すと失格。受験に遭遇した人は、テレビのバラエティ番組の収録と勘違いしたことでしょう。この3日間にわたる入試の最終日に、思わぬアクシデントが訪れました。暴風が吹き荒れて、嵐になってしまったのです。小左は高校時代に運動部で身体を鍛えていたので、すぐに屋根のある場所に移動して、作品を守ることができました。またカバを描き、カバの上に絵具で固めた亀のフィギアを作って載せるアイデアで絵を完成させ、見事に合格したそうです。合格者はわずか55人だったので、運と度胸、そして冷静な判断力の勝利ですね。
ひたすら見守る教育方針
予測不可能な入試で選ばれた藝大生たちは、どんな授業を受けるのでしょう? 大学を卒業するには単位を取得しなければいけませんが、美術系大学の多くは、実技単位が中心となります。その中でも東京藝大は、必修の実技科目の割合は、7割以上を占めます。つまり、ほぼ作品制作に明けくれる訳です。特に油画専攻※2の生徒は、ある一定の技術は習得していると見なされるため、先生たちから細かく指導は受けません。常に自分で考えて作品を制作することを求められます。そして、学期・学年ごとの作品提出時に、「講評会」が行われて、先生や生徒の前で批評を受けるのです。
かつて美術学部教授を務め、現在は、東北生活文化大学学長の佐藤一郎のコメントが印象的です。「藝大の教育スタンスは、学生たちがどういう風に育っていくかを見守ることにあります」。時には作品を制作しない破天荒な課題で、生徒を追い込むこともあるようで。ある課題では、受講生20人が集められて、かばんごと持ち物全てを没収される。財布もスマホも取り上げられた生徒は、この状態で、「明日の朝までに展覧会を開催せよ」という、とんでもない課題をクリアすることを求められます。自由な時間だけを与えられた生徒たちは、東京中を歩いて回り、街ゆく人に声を掛けて、受講生たちの集合写真をスマホで撮影してもらい、ハッシュタグをつけてツイッターに投稿してもらうことを、お願いしたそうです。こうして、ツイッター上に、展覧会が開催されて、課題をクリアしたのでした。ちなみに、テレビクルーが隠れて撮影する「はじめてのおつかい」さながらに、先生や助手たちは見張り役となって、何かあったら対応できるようにと、変装して尾行したそうです。あくまでも自主性にまかせて、見守る方針を貫く本気度を感じます。
藝大での学びをビジネスに生かす
入試でも、入学してからも、ひたすら自分で考える事を求められる藝大生。この本では、思考することを鍛えられた卒業生たちのその後を語るインタビュー記事があって、とても興味深いです。アートとは異分野で活躍している卒業生の姿は、この本のテーマとなっている、デザイン思考やアート思考をビジネスで生かす実際の例として理解することができます。
ある卒業生は、在学中は学園祭のプロデュースや、他の美術系大学を巻き込んだ企画展に没頭する日々だったとか。卒業後は、IT業界で才能を発揮し、現在はテクノロジーとアートを融合させたIT企業の経営者となっています。学生時代に異なる者同士をつなぎ合わせて、何かを生み出すことを自主的に行っていたのが強みとなっているようです。
またある卒業生は、彫刻家として活動していた時に、父が急病で倒れたので、やむなく家業を手伝うことを決心します。この時に実家に莫大な借金があったことから、返済のために生命保険会社に入社し、トップセールスマンに上りつめます。「アーティストにとって、仕事の純度を上げていくのが何よりも重要。これが身についているので、何をやっても一緒です」との言葉が心に残りました。会社のマニュアルに書いてあっても、客のためにならないと思えば、一切販売しない。自分が信じていることをやって、人のために役立つことが何よりも大切。この考えは何があっても揺るがないのだそう。「彫刻のノミが保険証券に変わっただけ」の思考力は、アートを経験した人の強みなのでしょう。
見習いたい、ブレない究極の思考力
増村は、この本を執筆するために藝大卒業生たちに話を聞いて、皆に共通する考え方があることに 気づきます。まず第1は、実践してやり切る力があること。これは講評会の経験から、作品を制作し、プレゼンテーションして意思を明確に伝える力が備わっているのだろうと推測しています。第2は、さまざまな視点から物事を見る力があること。例えばデッサンを描くのにも、観察力が必要です。観察して、今まで見えていなかったことを発見する力は、物事を一方向しか見ない人とは真逆の、柔軟性を育むのだろう。第3は、論理と感性を融合させる力です。作品を制作しようと思うと、論理的思考と、感性の両方が不可欠。だから自然と、この両方を絶妙なバランスで身につけているのだと語っています。
例えばりんごなど、何か静物をじっくり見ながら描いてみる。美術館やギャラリーに出かけて、作品を見ながら、作者の思いを想像してみる。こんな小さな一歩からでも、ひょっとしたら新たな視点が身につくかもしれない。この本を読んで、そんな気分になりました。
◆藝大書籍探検隊シリーズ
・藝大書籍探検隊!『最後の秘境 東京藝大-天才たちのカオスな日常-』を読んでみた
・藝大書籍探検隊!伝説の漫画家・一ノ関圭の『鼻紙写楽』を読んでみた