紙の町から生まれる現代美術。今立現代美術紙展が問うものとは?対話企画 長者町岬『日本美術 近代化の蹉跌』

ライター
長者町 岬
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コラム

 「ART PLAZA TIMES」では、小説家・長者町岬氏による対話企画「近代美術を『もう一度やり直せたら』 日本美術 近代化の蹉跌」をスタートします。長者町氏は東京藝術大学を卒業後、東京国立近代美術館の研究員として数々の展覧会を企画した後、東京都庭園美術館の館長などを歴任し、その後小説家に転身した異色の経歴の持ち主。
 タイトルにある「蹉跌(さてつ)」とは、「物事がうまく進まず、しくじること」や「挫折」を意味する言葉で、日本美術には近代化によってもたらされた大きな「蹉跌」があったと、氏は考えています。
 第5回では、画家の増田頼保氏と対話します。

増田頼保(ますだ・よりやす)
一九五六年、今立に生まれる。画家。
今立で活動していた画家の河合勇に師事する。一九七九年、青年団の仲間とともに、今立現代美術紙展を創設する。同展は現在も名称をIMADATE ART FIELDと変更して活動を継続している。IMADATE ART FIELDを主宰する。
一九八一年、スペインへ私費遊学する。スペインを代表する彫刻家で、バレンシア工科大学教授のラモン・デ・ソト(Ramón de Soto)博士に師事する。一年目で初個展開催。一九八六年にはソト博士の推薦で、十四世紀から続くバレンシア王立芸術家協会で、外国人として初めての展覧会を開催する。
帰国後は、風力発電型モニュメントの制作を開始する。全国に七十基以上設置の実績がある。二〇一〇年、eco japan cup 2010のカルチャー部門、エコアートカテゴリーで、『風力発電型モニュメント スパイラル・エンジェル』が準グランプリを受賞。
個展として『Yoriyasu Masuda』(バレンシア州立文化芸術財団主催)が開催され、スペインの地方都市美術館三ヶ所を巡回する(バレンシアのMuseo de la Ciudad(バレンシア都市美術館)、カスティリョンのCentro Cultural de la Merce(メルセ文化センター)、アリカンテのLa Ronja de Pescado(ラ・ロンハ・デ・ペスカド))。このほか個展やグループ展など多数。
著書として『図説 神と紙の未来学』(共著)、晃洋書房、二〇一九年と、『21世紀の田舎学-遊ぶことと作ること』(共著)、世界思想社、二〇〇九年などがある。

杉本 博(すぎもと・ひろし)
一九五六年、今立に生まれる。越前市を拠点に制作活動をしている。ロックバンドのブラックジャックのギタリストとして活動中。河合勇に出会って現代美術をはじめた。今立現代美術紙展に当初から参加し、公募展になった第三、四回展の実行委員長に就任。大作「紙波」を出品して大賞、北陸中日展でも石川テレビ賞受賞。その後、福祉関係の仕事をはじめたことで、紙展活動から離れる。定年退職後、再び紙展活動に参加し、二〇二三年には卯立の工芸館で個展をおこなう。翌年、Book Café Godouでも個展を開き、二〇二五年アイオワ・アート・フィールドの招待を受け紙展代表として展覧会に参加。翌年三月に卯立の工芸館で個展「和紙Paper Works」を開催し、アイオワでの展覧会報告をおこなった。

若泉 征三(わかいずみ・せいぞう)
一九四五年、福井県今立郡今立町(現越前市横住町)に生まれる。中央大学経済学部産業経済学科卒業。一九八三年、三十七歳で今立町長選挙に出馬し、当選した(当時全国最年少の町長)。町長を四期十六年務める。二〇〇三年の衆議院選挙に民主党公認で福井二区から出馬し、比例区で初当選した。二〇〇九年の衆議院選挙では比例区単独で出馬し、当選。四年ぶりに国政に復帰した。二〇一二年に野田再改造内閣で財務大臣政務官・復興大臣政務官兼任辞令を受ける。二〇二五年、スパイ防止法制定促進シンポジウムに実行委員長として参加する。
町長時代には、一九八九年にIMADATE展開催。一九九〇年建設省と自治省の助成で「和紙の里通り」をつくり、三年後の「道の駅事業」の発案者となった。一九九一年に「いまだて芸術館」を建設、開館させる。同館は今立現代美術紙展の主会場となった。

今立現代美術紙展(いまだて・げんだいびじゅつ・かみてん)
今立現代美術紙展(以下、紙展)の誕生には、ひとりの先駆的な芸術家と、専門的な美術教育を受けていない地域の青年たちとの出会いがあった。一九七六年、今立町の分校跡に、ニューヨークから帰国した前衛芸術家の河合勇が移り住んできた。河合は創作活動のかたわら、地元の人々に絵画や陶芸を指導した。集まったのは十人ほどで、二十から四十歳代の青年たちだった。河合はある日、町の焼却場に山積みにされている和紙の損紙を目にし、「これで何かできないか」と青年たちに問いかけた。この言葉が、和紙とモダン・アートを結びつけるきっかけとなった。
一九七九年、病床にあった河合を元気づけるために、青年たちは和紙を使って、ささやかな美術展を開催する。これが後に紙展となった。翌年、河合は四十八歳で早世する。
当初は青年たちだけの作品展に過ぎなかったが、一九八三年の三回展からは、現代美術作家の李禹煥と、美術評論家のたにあらたを審査員に迎え、本格的な全国公募展となった。その後、審査員は美術史家の難波英夫と樋田豊次郎に引き継がれた。また紙展には一九九〇年の十回展から、実験展(無審査による作家の滞在制作)が併設された。
一九九五年に実行委員会の名称をIMADATE ART FIELDに変え、紙展はコロナ禍の影響もあって、招待作家と地元アーティストによるアーティスト・イン・レジデンスとして、Imadate Art Campに継承されている。同展は、二〇二二年からアメリカのアイオワ大学などと国際交流プロジェクトを開始するが、近年は福井県の助成金削減により、行政頼みから、海外の作家も含めて、参加者自身の助成金獲得による、自費参加型の展示企画へと変容している。

第三の方法――今立現代美術紙展の選択

1 紙漉きの町――今立

長者町 僕が今立に最初に来たのはいつだっけ? 一九九三年だったかな。

増田 多分もっと前に来てると思う。

長者町 今立現代美術紙展(以下、紙展)の審査員に呼んでもらったんですよね。

増田 いや、最初は審査員になる前でしたよ。

長者町 そういえば思いだした。東京で現代美術の画廊をやってた寺下信夫さんに連れてきてもらったんだ。当時、東京から郷里の福井に戻っていた寺下さんを訪ねたとき、武生から入った今立という町で、変わった現代美術展をやってる人たちがいるというので、連れてきてもらったんだ。それにしても三十五、六年前の話だね。彼はいまでも福井で画廊をやってるのかな?

増田 いや、また東京に出ていって、銀座で画廊を開いたという話だけど、その後は音信不通になっちゃったんで、分かんない。

長者町 そう。音信不通になってから何年ぐらい?

増田 十年くらい。

長者町 じゃあ分かんないね。でも、その寺下さんが僕を紙展の実行委員会のみなさんに繋いでくれたんだね。あのときから二十年間近く審査員に呼んでもらったんだ。長いね。

増田 ええ、まあ。はじめて紙展を観たときは、どんな感じでした?

長者町 トイレットペーパーを何ロールも使った作品のあったことが記憶に残っている。銀座の画廊に並ぶいわゆる現代美術とは、大きくちがっていた。泥臭いとか拙いというんじゃなくて、今立の紙展に全国から送られてきた作品には、銀座の現代美術にひそんでいる欧米美術崇拝が微塵もないように感じた。

増田 欧米崇拝がないって?

長者町 欧米美術を学んで咀嚼する気が、ハナからないような感じだった。今立は日本中のどこにでもあるような、山の際に迫った人口がすくない町でしょう。地場産業に和紙と漆器と織物があったからなんだろうけど、そういうところで青年団が集まって紙展を思い立ち、その熱気に呼応して全国各地から紙のオブジェが集まってきているところがおもしろかった。日本の田舎には、いまでもなんかはじめたいと思って悶々としている人たちがいることでしょう。そういう人たちにとって、今立の紙展は先行例として参考になるんじゃないかな。それで今回あらためて、紙展をはじめたときの目論見とか、その後の明暗を訊いてみようと思い立ったんです。

2 近所の川が遊泳禁止になる

増田 目論見はなかったですね。なんか大それたことをしてやろうとか、そんなことは思ってなくて、ただ素材としての和紙がそこにあって。ちょうど時代的にも高度経済成長期にさしかかっていたので、紙の大量生産と大量廃棄が起こっていたときだったんです。
そのころ、自分が小さいときから泳いでいた町の川が、だんだんと遊泳禁止とかっていう風になってきた経験がありました。これはなんかおかしいなって思ってたら、機械で紙を漉く大きな工場から出てくる廃液が、この地域の川を汚していたんです。それで遊泳禁止になっちゃったっていう現実があって、そういうのが背景としてありました。
紙展をはじめたきっかけには、やっぱり、そういうのをなんとかしなければという気持ちがあって、それでスタートできたと思います。でも、いまそれを度外視すると、紙というのはなんか面白い素材だなっていう単純な思いもあって、紙でどんなことができるのかチャレンジしてみようという気持ちでもありました。

長者町 川が汚染された話は、はじめて聞きました。遊泳禁止になったのはどこの川でした?

増田 月尾川っていう川。この辺からちょっと池田方面に向かって遡って行ったところ。

長者町 じゃあ、増田さんの家の方だったの? あの辺には、泳げるほど深い川はなさそうだけど。

増田 そんな深くないんですけど、子供が泳ぐぶんにはちょうどいい深さでした。

長者町 遊泳禁止になったのは、なにか有害物質が流れてきたから?

増田 有害な化学物質が検出されたという話ではなくて。単純に川が赤くなったんです。染料が流れてきて。

長者町 川が赤く染まったわけだ。

増田 機械漉きの工場では、和紙を赤く着色することもあるから。赤だけではなく、川が黄色に染まったこともあった。それを見て、もうこれはいかんなって。そのうち、だんだんヘドロも溜まっていくような感じになっていった。

長者町 いまでもそこにはヘドロが溜まっているの?

増田 いや、もうヘドロは流れてこなくなった。その機械漉き工場はなくなったんで。

長者町 じゃあ、泳げるようになったんだ。

増田 いや、泳げない。それ以降は生活排水が流れ込んでいるので。それにいまは、各小学校にプールができているから川では泳がなくなった。でも人口が減ったんで、いまではそのプールも使われなくなってしまったけど。

長者町 以前に溜まったヘドロは取れたの?

増田 あんまり取れてない。

長者町 もっとも高度経済成長の時代は、日本のあちこちでそういう公害が顕在化したよね。とくに川が汚れたっていうのは、よくある話だった。九州の遠賀川の水が石炭鉱害で黒くなったとか、新潟の阿賀野川が水銀に汚染されて第二水俣病が発症したとか。僕自身の経験でも、東京の隅田川で船のスクリューが跳ね飛ばす水しぶきが黒く見えたんで、驚いたことがあった。でもそのことと、現代美術紙展をはじめることとは、どう繋がっていたの?

3 アップサイクル――賛成の気持ちを秘めた攻撃

増田 なんか物事が起きた場合にですね、反対するとか、そういうことをしたくないんですよ、僕は。なんかこう、賛成したいっていう気持ちがあるので、逆方向の賛成をするにはどうしたらいいかなっていうことを思った。それで、廃棄されるものを使って、アップサイクルできないかと考えたんです。アップサイクルって、リサイクルとかリユースとはちがって、廃棄予定の不要品に新しい発想で付加価値をもたせて、次元の高い製品に生まれ変わらせるという意味です。
 そのときにはじめて、廃棄される紙を使って展覧会をしようっていうことになったんです。そうすることによって、攻撃するんじゃなくて、それがいい方向に向けばいいなっていう気持ちでスタートしました。いつでも僕は、「第三の道」を選んできたんです。

長者町 機械漉きの工場の反応はどうでした。廃棄する紙でつくった芸術作品を見て、じゃあ川をきれいにしようと、すこしは思ってもらえたんでしょうか?

増田 直接的にそう思ったかは分かんないけど、だんだん社会情勢が変わってきて、へドロを出さないようにするために、ヘドロのもとを集めて、それを燃やすところができた。

長者町 リサイクルのひとつとして?

増田 そう。当時、河合勇さんとつくった八ッ杉焼という焼き物もやってたので、陶磁器の釉薬に使ってみた。

長者町 行政とか機械漉き工場は安堵していた?

増田 そんなに大げさにはいわなかったので、たいした反響もなかった。ちょっと実験的にやっただけですから。なんにしても、誰かをこう攻撃すればいいっていう気持ちにはなれなかった。

長者町 機械漉き工場は、紙の廃材をタダでくれたんですか?

増田 そうですね、それは。廃棄されるかどうかは、その業者さんによって変わりますけども、僕らがもらいにいけば快く出してくれるところが結構ありまして、トラックに何台ももらいにいきました。要するに廃棄物としての紙が入手可能だったんで、それを使って芸術作品をつくってみたいと思ったんです。

長者町 作品の素材として、紙の廃棄物が入手しやすかったというより、廃棄物で作品を制作すること、つまりアップサイクル自体に意味があったんでしょうね。

増田 そうですね。

長者町 仮にね、増田さんの実家が大金持ちで、親が「紙ならいくらでも金を出すから新品を買ってくればいい」といってくれても、それだとダメだったんでしょうね。川を汚す前の廃棄物をもらってきて、それを使って美術作品をつくることに意味があったからね。その行為を、「賛成の気持ちを秘めた攻撃」と呼ぶかどうかは別として。
ところで増田さんたちがはじめた今立現代美術紙展には、「現代」というひとつの価値観が入っているけど。あれはどうして?

増田 現代を加えたのは、いまある現状のいろんな問題点にたいして、どう答えを示していくかっていうことに、私たちの意識が向かっていたからだと思う。その現状の問題が解決してしまえば、またちがう新しい問題っていうのが浮上してくるんだろうと思いますけど。それにたいして、またどうアクションを起こしていくかっていう。

長者町 結局、いまの問題にどう答えていくかってことだね。その答え方に「現代性」が現れるんだ。

3 オペラをつくって上演した

増田 そうですね。当時、「大いなる愛と自由の夜明け」っていうミュージカルをつくったことがあるんですよ。夜明っていうくらいですから、あのころは自由もないし、愛もないというような時代だったのかなと思うんです。いまでも愛があるとは思いませんけど。いろんな戦争が起きてますし。

長者町 増田さんが脚本を書いたの?

増田 いや、河合勇さんのもと、(いまでいうブレイン・ストーミング方式で)みんなで書いた。

長者町 実際に上演もしたの? どこで?

増田 僕が参加したときはもと県民会館っていうところですね。実行委員の杉本博さんも参加している。

杉本博 もうひとつの上演場所は、武生のBook Café Godouっていう喫茶店。

長者町 お客さん来ました?

増田 お客さんより出演者の方が多かった。

長者町 それにしても、とつぜん高尚な話題になりましたね。川が赤く染まったことから、愛と自由の夜明けにジャンプした。話がどう繋がっているの?

増田 同じだと思いますよ。愛がないから、川が汚染されるって。

長者町 じゃあ、夜明けの方は?

増田 夜明けってのは、ないところからあるようにもっていくためのストーリーというかプロセスなわけです。

長者町 そのとき、「自由」の方も、あるようにしようと思ったわけか。

増田 やっぱり社会が安定してないと、自由な気持ちっていうのは生まれない。

長者町 今立という小さな町に生きてて、どんなときに自由がないって感じたの?

増田 ここはけっこう田舎ですから。誰がなにをしているかっていうのは、みんなよく分かってる。言わなくても、どこどこの誰々は、誰々のことをどう思っていてと、もう延々とつづく話題が蔓延してる土地柄なんです。

長者町 都会以外は、日本中そうでしょう。

増田 でも、管理されてるような感じになっているっていうか。

長者町 自分のことを、人からとやかく言われたくないってことかな。

増田 そこまで知っていなくてもいいんじゃないのって思うぐらい、よく知ってる人たちがいる。

長者町 村落共同体って、そういうもんだったんだろうね。でも、増田さんの場合はとくに個人主義がつよかったのかな。たとえばよくあるパターンとして、そういう人は村を出て、東京へ行って自由な新天地で生きるということはあったよね。とくに明治以降。でもそっちには向かわなかったんだね。

増田 僕は今立が好きですから、都会に行きたいとは思わなかったっていうだけで。都会に行けばおもしろいことがいっぱいあるとは思わなくて、今立におもしろいことがないんなら、ここでおもしろいことをつくればいいっていう、そういう発想。

長者町 それが現代美術紙展だったということか。それで、やってみてどうでした。

増田 最初やってみて、うん、こりゃおもしろいって思ったんです。それはいまでも思います。わりと幸せ。現代美術というものが、人間の解放に繋がってる。

長者町 なるほどね。スタートした紙展には解放感とかユートピアがあって、これをやっていけば自分が自由になれるって思えたわけだ。それは貴重な体験でしたね。一方、はじめてみて想像していたこととはちがうなんてことはありませんでしたか?

増田 それはありますね。僕はその後スペインに五年間ほど留学するんですが、そのあいだに紙展は公募展形式で開催されるようになりました。公募展は、僕としてはなんかちょっと違うんじゃないかなって思いました。同じ実行委員会のメンバーであっても、いろんな方向性をもった人が集まってくるわけですから、それぞれの思いがあって当然だし、いろいろやってみるっていうのもひとつのチャレンジでしたが。とはいえその結果、紙展の知名度がぐっと上がったっていうのもありました。

長者町 増田さんの後、実行委員長のバトンを受けてくれたのは杉本博さんでしたね。その杉本さんが会場にいらっしゃるから語りづらいところもあるかもしれないけど、その公募展のどこに違和感があったんですか?

増田 それまでの紙展は、実験展っていってたんだけど、そのころは紙という素材をどう使えるかっていう実験的なところが特色でした。それを公募展にしたわけですけども、そういうことになるとですね、同じ紙を扱うんですけど、もう完成されたというか出来上がった作品が、全国からあるいは世界から集まってくるというかたちになったわけです。
僕はむしろ完成作品じゃなくて、今立で現地制作するときの途中経過がおもしろいと思っていた。そういう試行錯誤をしているときの、ワクワク感の方が、自分としては興味があるというか、引きつけられるんです。

4 公募展か実験展か

長者町 公募展か実験展かということを聞いて、二つ思うことがあるんだけど。
ひとつ目はね、公募展になれば、僕がそうだったように、審査員という存在が登場するでしょ。展覧会の運営は青年団がやるにしても、誰かが審査員という立場に立たなければならない。とくに東京から呼んでくると、その人たちはとうぜん背中に、新しい西洋的な芸術思想をしょってくる。東京で広まった芸術思想を持ち込んでくる。
そうなると、増田さんたちが好むと好まざるとにかかわらず、東京や欧米で優勢な美術の考え方が今立に持ち込まれてくる。東京から呼んだ審査員たちに会ってみて、どうでしたか。

増田 うーん、当時としてはですね、「もの派」という大きな流れがあって、その先駆者の李禹煥さんとか、それを評価していたたにあらたさんとかに、この紙展の審査員になってもらったわけですよね。僕はちょうどいなかったもんですから、外から見ていて、なんかちがうなっていう違和感があったことは事実です。

長者町 審査員という仕組みに付随する構造的な問題もあるんだけど、それよりももっと本質的なところで、彼らが持ち込んできたもの派の、木、石、鉄、紙といった素材から文化的要素を剥ぎ取ってしまい、それらをニュートラルな物質に還元してしまうという芸術思想を目の当たりにして、どう思いましたか?

増田 それはちょっと分かんない。日本の枯山水のように、自然のものを配置するっていう考え方と通じているのかもしれませんけど。そういう一般の人にもわかる考え方との接点が見つからなかった。

長者町 枯山水とどう繋がるんだろう? 自然石を持ち込んで仮設展示をするとか……。
李禹煥やたにあらたが、枯山水という言葉を使ったかどうかはともかく、増田さんたちが中学や高校の美術の時間に習った近代美術とはちがう美術の考え方を尺度にして、彼らは紙展を審査しはじめたわけだ。いわば今立で流通していた美術の考え方とはまったく関係ないものが新しい価値として町に入ってきて、自分たちの活動がその評価の対象になっていったわけでしょう。
そのとき、自分たちもその新しい美術に合わせようとしたのか、反対に、これは今立には合わない、なにも今立はミニ東京になる必要はない、だからこれを排除しようと感じたのか、どうでしたか。

増田 そういう既存の「知」を西洋哲学から学んだ人たちのつくる、現代美術のメインストリームっていうのはあるわけですよね。それは学校教育からずっと積み上げてきて、そこにはすごいヒエラルキーがあって。でも、私たちはそういうアカデミックな教育を受けてこなかったこともあって、どっちかっていうと野生っぽいというか、そういう私たちが現代美術をやれば、それはそれでまたいろんな可能性が増えてくるだろうなと思って。

長者町 実行委員会の人たちは、町も変わらないと時代に取り残されるという愛郷心で、外部審査員の持ち込む外来美術が、たとえ東京の現代美術という権威をまとっているにしても、受け容れたんだろうか。もっとも増田さんの場合は個人主義がつよかったので、それで外来美術を抵抗なく受け容れることができたんじゃないかなと僕は思うんだけども。振り返ってどうですか。

増田 権威っていうことにかんしては反対していたというところもあって。なんていうかね、この道筋をたどっていけば評価されますよっていうようなことを、あえてそんなことはしたくないっていう気持ちがあるのかもしれませんけどね。そんなことを思ってやってたことがありますので、メインストリームに乗っからないといけないとかっていう気持ちはまったくないし、今立なりの文化っていうか、そんなのが生まれてくるんではないかなっていう期待感をもってずっとつづけてきたっていうのがありますね。

長者町 それは増田さんのもって生まれた反骨心? それともあとで学習した考え方?

増田 学習して身につくようなものじゃないでしょう。

長者町 こういう路線の対立について、実行委員会で話し合ったことありました? 高名な評論家のアドバイスに乗れば、自分の作品が世に出る助けになると考える人がいても不思議ではない。

増田 もう完全にそれには反発してました。でもやっぱりどうしても、長いものには巻かれろっていうのもあって、権威のある人にたいしては、そういう気持ちになる人も多いですね。

長者町 それは西洋美術を移植してきた日本近代美術の構造だし、それどころか人間社会の宿命なのかもしれないね。

増田 同じ実行委員のメンバーのなかでも、多分僕ぐらいなもんで、権威にはすごく反発しました。実行委員会のなかにいて、なにかできないかって模索して、結局、実験展を復活させました。それには東京の審査員は関与しませんから。公募展のほうも、全国から百四十人以上の作品が応募されてきて、そっちのほうもつづけてきました。

5 実験展の魅力

長者町 さっき「公募展か、実験展か」という話を聞いて、二つのことを思ったといったけど、二つ目のほうに話を移しますね。増田さんが現地制作のほうが重要だと考えたのは、ひとことで言うとどうして?

増田 予想外の自分に出会えるから。作者が自分の制作計画を審査されて、その通りにつくるんじゃなくて、現地制作では自分でも思わぬ方向に展開することがあるんで、それがおもしろい。

長者町 今立で制作すると、そんなに予想外の展開をするものなんですか。

増田 うん、いろんな人に会ったり、いろんな素材を手に入れることになったり、いろんな出来事やお祭りがあったり、そのときの空気感が作者に作用する。今立でこういうものをつくりますよっていうスケッチを持ってきてくれたりするけど、実際につくってみるとぜんぜん違うものができちゃうってことが結構多い。

長者町 今立には、そんなに影響力があるんだ。

増田 どうでしょうね。僕はそのなかにいるから分からないんですけど。でも実験展をやってると、また呼んでくださいという人も何人もいるし。いままでの自分とは違った自分に出会うことで、なんか活性化されるっていうかね。気づかなかった自分に気づくようです。

長者町 公募展のほうでも、書類審査に通ったうえで、今立に来てからつくるって人もいたけど、そういう人たちは今立の土地に感化されることはあまりなかったですか?

増田 つくる体制からしてぜんぜん違いますよね。

長者町 具体的にいうと?

増田 素材はこっちで用意しておきますから。廃棄されるような紙をもらってきておくんです。つぎに、「じゃあ、今日からスターしますよ」っていうと、それぞれが自分の場所を確保するんだけど、ほかの人がどんな紙を使ってるかとか、なにをしてるかっていうのを横目で見ながら気にかけだすんです。そういうことが、いろんな作用になっていくのかなって思います。

長者町 ほかの人を気にするわけだ。

増田 ほかの人のことは、自分の家では想像してなかったでしょうけど、こっちに来たら、家で考えてたことがぜんぶ吹っ飛んじゃうことになるわけです。

長者町 現代美術って、政治や社会の理念を作者の思想として表現することもあるでしょ。僕なんか小説を書くとき、それが第一のテーマになるんだけど、そういう思想さえも今立の空気感によって変わっていくことがあるんですか? 増田さんはそういう思想の形成も含めて、作者の生き方が今立に来ると変わるといってるのかな。

増田 その場合は絵を描く人に限定されるのかなと思いますけど。立体作家の場合は、思想だけじゃなくて、造形的なものっていう展開系があるので。でも生き方まで変わるとはいえないかもしれませんね。造形的には変わるかもしれませんけど。

長者町 やっぱり増田さんの目には、実験展に参加する作家は、今立住民の不思議なエネルギーに影響されて、彼ら彼女らの芸術が根こそぎ変わっていくと映っているんだ。今立にはなにかすごい力があるのかしら。

増田 たとえば、ここで火を焚きたいと求められるときがあるんです。そうすると、それができるように、こちらは地域の人にお願いして、そういう了解を取りながら、その人の作品ができるように配慮していくということをやっているので、どこに行っても火を焚けないということがない状況なんです。

長者町 作者が今立を歩いていると、その人が町の誰かと出会って、その偶然から想像以上の刺激を受けるってこともあるかもしれませんね。それが作品づくりを変えてしまうことがあればいいなとは僕も思う。そんなことがもしほんとうに起きるとすれば、明治このかた西洋に追随してきた日本の美術が、もう西洋に依存しなくてもいいようになるかもしれない。そう思って、僕も今立をひとりで歩き回ってみるかな。

増田 ほんとうですね。欧米の作家たちも実験展には来るんですが、だいたい皆さん自分の制作プロセスを再構築しています。

長者町 一例でもいいから、こういう作家がいたという具体例を挙げてくれる?

増田 たとえば岩堀葉さん。蔵で展示したいっていうから、いちばん大きい蔵を選んで、ここを使ってくださいっていうことで制作がはじまったんですけど、そこに松をどこからか切ってきて置きだしたんです。見るとしょぼいっていうか、枝ぶりのよくない松を持ってきたもんですから、これは見るに堪えないということで、僕の友達の庭師に、「なんとか手に入らんかな」っていったら、五、六本持ってきてくれたんです。
そのなかから、いちばん自分のいいと思う松を選んでもらって展示に使った。そうしたら雲泥の差というか、どの松を選ぶかは作家の自由ですけど、そのときの松は会場にぴったりハマったっていう経験がある。多分、葉さん自身もそう思ったんじゃないかな。

長者町 その松が展示によい影響を与えたっていうのは分かるんだけど、増田さんたちの協力をえた松選びがきっかけとなって、岩堀さんの芸術観が変わったのだろうか? たとえば、芸術とは自分の信念を表出することだけじゃなくて、周囲の環境との関係を築くことでもあるんだと、岩堀さんが考えはじめたとか。

増田 そこまで劇的に考え方が変わったとは思いませんが、素材になにを選ぶかっていうことには、意識が変わったのかなと思ったんです。

6 職人魂へのオマージュ

長者町 最後にひとつ訊きたいんだけど、増田さんは最近の自作に、「紙漉き名人へのオマージュ」というタイトルをつけているでしょ。あれはこれまでの腕のいい紙漉き職人の仕事に、増田さんが共鳴しているように思えるんだけど、それってさっき話していた東京の美術評論家の言説にたいするアンチテーゼでもあるんでしょうね。

増田 それは、そう。都会の理論にたいして、こちらの理論というか、職人さんの生きざまっていうかね、そんなのを地方からっていったら変ですけど、今立の一種の哲学としてみんなに知ってもらいたいという気持ちで、去年の作品をつくったんです。僕はいろんな職人さんに接しているけど、そのなかでもすでに亡くなった五人の職人さんとは深くかかわってきました。その人たちの生きざまを知ってもらいたかったんです。

長者町 それはどんな哲学なんですか?

増田 職人魂っていうと変ですけど、それは西洋の哲学とはちがうものなんです。日本美術のメインストリームである美術館にいる学芸員さんたちは、みんな西洋哲学を勉強されているけど、逆に日本の職人の生きざまというかね、思想性というっていうのを、もういちど習い直してほしいんです。それを紙展を通じて知ってもらいたい、という気持ちがあります。

長者町 紙漉き職人の魂を顧みるってことは、西洋文化を絶対視しないで、日本と西洋との文化を冷静に見比べるってことでしょ。

増田 ええ、そうですね。

長者町 そうすることによって、どんなことが期待できるの。つまり、ただたんに彼我の違いを比較しているだけだったら、それで終わってしまう。比較の先になにがある?

増田 職人の道一筋でやってきた人たちの生きざまには、西洋哲学として確立されたような生きざまよりもさらに高い次元の精神性があると思います。その精神的な高みを理解することが、和紙っていうものの存在価値を再発見してもらえるきっかけになるんではないかなって思っている。

長者町 増田さんのいう精神的な高みってどういうこと? 具体例でいうと、最近の日本の工芸家たちは、西洋で評価されることを喜んでいる。たとえば、ロンドンの大英博物館やヴィクトリア・アンド・アルバート博物館で、日本の工芸展覧会が開かれ、作品収集がおこなわれると、すごく喜ぶわけ。「工芸」のことを「CRAFT」って訳さずに、ローマ字で「KOGEI」って表記している。これこそグローバル化なんだと。この現象は、日本の職人の高い精神性が西洋人に認められたことの証明といえるでしょうか。
 仮に日本の工芸家がそう思っているとしても、それは劣等意識を裏返しにした、日本人の自己承認要求だと思います。というのも、欧米はいつだって非西洋美術を移植して、自分たちの美術を時代に合わせて変革してきたからです。欧米における最近の日本工芸ブームは、ネオ・オリエンタリズム(現代版の異国趣味)だと見るべきです。
だからさっきの話につなげると、日本の職人の高い精神性が、ようやく西洋人にも分かってもらえたんだというのは、日本人の希望的観測だと思います。

増田 それこそ、ローマ字で書いたKOGEIっていう展覧会をされてる方がいました。金沢と福井で。難しいですね、これは。これはやっぱりすぐれた紙漉き職人さんと接したことがないとなかなか伝わらない。

長者町 増田さんはそういう職人さんたちに会ったときのことを覚えている?

増田 もちろん鮮明に覚えていますけど。

長者町 だったら、そこを語ってもらえないかな。

増田 やっぱり人間的な幅が広い、僕が知ってる職人さんっていうのは。雁皮を素材にした最高級の奉書用和紙、こちらでは鳥の子紙っていうんですけども、その鳥の子紙を漉いていた名人の梅田太士さんは、ただ紙を漉くだけじゃなくて、その紙の使われかたも全部研究していて、若い人がやったことのない和綴本とかも講座をつくって教えてもらいました。
それから三代岩野平三郎さん。一〇〇枚の和紙をドイツに贈って、和紙の魅力を知ってもらう岩野プロジェクトをやってました。初代平三郎さんは横山大観をはじめとして、著名な日本画家の依頼に応じて、彼らの作風に合う紙を開発してきた歴史がある。
造幣局が発注したお札用の和紙、それを局紙というんですが、それをつくりつづけている職人さんで、その局紙でエッチング用の版画紙を開発した人もいます。

長者町 たしかに今立の紙漉き職人たちは、活動の幅が広いね。それは、日本社会が時代とともにいろんな種類の和紙を求めてきたからでしょう。そして職人たちの側にも、それに応じられるだけの技術開発能力があったということなんだと思う。江戸時代に藩札用の紙製造が求められたり、新政府の印刷局がお札用の局紙を必要としたり、日本画家が自分好みの画仙紙を依頼してきたりというように、外部からの発注と、それに応える技術発展が、今立の職人たちを育てたんです。要するに、社会的要請があっての職人成長だったと思う。
 この歴史と較べると、おもしろいことに、増田さんたちがはじめた紙展はその逆だったんだね。つまり、かつては紙幣や絵画の変革という社会要請が、和紙の技術進歩を促したのに、戦後になると逆転して、和紙の技術進歩が、芸術創造の変革という社会要請へと若者たちを促したんだから。
しかも戦後の和紙の技術進歩とは、正確にいえば、手漉きから機械漉きへと移っていく技術退化だった。この退化が、「社会要請」対「和紙」の関係を逆転させる鍵を握ったんだろう。そういう意味では、川の汚染という公害が、若者たちの芸術心に火をつけたということになるね。

増田 紙漉き職人さんたちには遊び心もありましたね。素材の使い方を考えるときには、遊びの精神が発動していた。人間国宝の岩野市兵衛さんは紙展に出品しているんですけど、円筒にした紙を切り抜いて穴を開けるときなんか、自由奔放でした。

長者町 増田さんは「紙漉き名人へのオマージュ」という作品では、和紙職人が開発してきた技術進歩を、現代美術に時空を超えて直結させようとしているの?

増田 そうですね。なんていうか、素材というものを還元して原料に戻していって、それがまた素材になってくるっていうような、一種の循環的な思考性っていうか、それがもちろん職人さんにもあって、新しい楮や三椏や麻だけで紙を漉くよりも、そこに古い紙を混ぜた方が馴染みがいいという経験知があるんです。僕はそういうことを習ったことがあります。
それで自分の作品としては、いろんな技術よりも、結局、素材の原点というか、もともと楮なり三椏の樹皮が紙になってきたっていうような素材から紙へ、そして紙から素材へと戻る循環思想っていうんですかね、そういうのが非常に僕としてはいま興味のあることなんです。宗教的な輪廻転生とはちがいます。紙の物質的な循環なんです。

長者町 ベネチアビエンナーレでも、環境問題をテーマにしている作品はよく見かけるけど、でも増田さんの場合はパフォーマンスで終わらないように気をつけてほしいな。

増田 僕自身は、廃棄されようとしているものを自分の生活のなかで使ってきたっていう意識はありますね。友達に庭師さんがいるんですけど、最近は庭木を植えるんじゃなくて、庭木を切る依頼が非常に多いというんで、その切った庭木をうちに持ってきてもらうんです。うちには薪ストーブがあって、そこで燃やして料理をつくったり、暖房にしてます。ここ何十年って、そういう生活をしているんです。

長者町 これからの芸術が、廃材としての紙から生まれてくれば、僕は職人魂っていうのがいまも生きている証になると思う。というのも、増田さんたちは廃材を使うことによって、現代社会の消費文化を告発しているわけではなく、かといって、今立に東京の先進的な美術が流れ込んでくることに反発しているわけでもない。
増田さんたちは淡々として、紙の廃材に囲まれているという自分たちの現実を受け容れている。それがどこか不気味でもあるんだけど、でも芯のつよい芸術創造を予感させる。そのスタンスは、日本各地の町で鬱々としている芸術家を勇気づけるにちがいない。いや日本の芸術家だけではなく、かつては植民地だった非西洋に生きる芸術家たちを鼓舞する論理になるかもしれない。

増田 その意欲は大いにあります。紙展をつづけた結果、今立が変わってもいいんです。ともかく紙展をやってると、今立にいろんなアーティストが来てくれる、あるいは住んでくれる。

長者町 今立が変わるか。でもその変化は望ましいことばかりじゃないかもしれない。

増田 うん。それでいいんです。福井県にはもうすでに五千人、日系ブラジルの人がいるんですよ。今立にも住みはじめていますし。日系といっても、彼らはそれなりの文化をもって日本に来ているわけですから。彼らとも仲良くやっていくことが大切なのです。
僕は彼らに期待します。紙展でも、去年はフランスとイギリスのアーティストに来てもらっていますし。その前はアメリカの人でした。いろいろアプローチはしてるんですけど、でも言葉の壁っていうのはやっぱりあって難しい。

7 機械漉き工場が町にデザイナーを呼び込んだ

長者町 実行委員会の皆さんにうかがいますが、ここまでの私たちの話で抜け落ちていた出来事はなかったでしょうか? 

杉本 ニューヨークから日本に帰ってきて、一九七六年に今立の廃校に住みはじめた河合勇さんが中心になって、この町に芸術を持ち込みました。さっきオペラの話がでていましたが、僕たちはあの人の芸術に自由を感じたし、愛も感じたという思いがあります。その河合さんが亡くなった次の年、僕たちはやっぱり美術をはじめました。それは陶芸であったり、ガラスもやったし、油絵もやった。女の子も加わった。
やってよかったのか悪かったのか、それは分からない。でもやったからこそ、さっき長者町さんがいわれた西洋的な考え方が入ってきたことは間違いない。ひとつには、それを積極的に受けようっていう流れがあったと思います。
長者町さんが審査員で来られるころには、僕は紙展を抜けていました。それから三十何年間、障害者介護の仕事をしたんです。そのなかには障害者アートの仕事もありました。あの人たちは美術の教育を受けていませんが、それでも自分のもっているものを表現するってことが、いまの世のなかで求められていると感じています。でも、あそこに指導者がかかわってくると、また西洋化という流れがきっとでるんだろうなって思ってて、だから障害者アートに専門家がかかわったらあかんっていうのが僕の正直な意見です。
最後にもうひとつ。昔は紙を漉いているだけで紙が売れたんだけど、いまはそれではダメなんで、機械漉きの工場はデザイナーを呼んできて、クラフト関係の入れ物をつくったりしています。でも、それも流れかなと。

長者町 和紙の工場生産が、今立にデザイナーを引き込んでいるって話は印象的です。地場産業がデザイナーを都会から呼んでくると、たいていはうまくいかない。今立ではどうでしょう。産地を知らないデザイナーが、大学の研究室や、自分の事務所で考案したデザインを商品化すると、だいたいは失敗する。ここではどうですか?

杉本 どれくらい売れているのか、僕にはわかりませんが。

長者町 デザイナーが考案した製品は、アンテナショップに置いているんですか?

杉本 一時期そうだったけど、いまはあんまりデザイナーの話は聞きません。

若泉 グローバル化したい! そういう考えをもって私は町づくりを進めてきました。町会議員のころから、紙展にいろいろかかわらせてもらったんです。町長になってからは、いまだて芸術館をつくりましたが、最終的には美術館をつくりたかったんです。
さっき岩野平三郎さんの話がでてましたが、三代目が亡くなったとき、家には横山大観をはじめとするたくさんの日本画があったそうです。先代の没後に娘さんはそれを知ったんですが、相続税のことを考えて、仕方なく一一〇点の画を福井県立美術館に寄贈したそうです。今立には残らなかったけど、でもいいことだったと私は思っています。今立の和紙を使った絵画が高く評価されたわけですから。その評価をさらに高めたのが、紙展の開催だったのではないでしょうか。

長者町 紙展の開催で、町はどう変わりましたか? デザイナーが入ってきて、産地を掻き回したという負の面もあったと思うんですが、差し引き天秤にかけて、どうですか?

若泉 町民の方々から、和紙ばっかりお客さんに宣伝してるけど、町には織物産業もあるじゃないかといわれたことがありました。でも、そんなに大きなマイナスはなかった。

長者町 町に人がおおぜい来て、人情は変わりましたか?

若泉 町のパピルス館で、若泉敬さんとキッシンジャーが紙を漉いている写真を展示していたんですけど、いつのまにか見なくなりましたね。燃やされたということはないと思うけど。でもこういうことは、人情の変化というもんじゃなくて、日本人の和紙にたいする考え方が、だんだん変わってきたからでしょう。
そういえば、IMADATE展(註参照)のときに和紙でつくった世界一の雑誌も、いつの間にかなくなってしまった。「紙漉きおすまさん」という今立の人がつくった童話です。残念に思って人に訊いたら、和紙まつりのときに貸し出したら、雨ざらしになって全部ダメになったそうです。あれね、七百万円かったんです。大日本印刷で印刷してもらって。あれがなくなったのも、人情の変化というより、紙にたいする町民の意識変化のなせるわざでしょうね。私が町長をやっていた一九九〇年代とは時代が変わってしまったんでしょうね。寂しい気持ち。

長者町 町民が紙に、たんなる物質を超えた価値があるとは考えなくなったということでしょうか。大袈裟にいえば、今立の人にとって紙は物神崇拝(フェティシズム)の対象ではなくなったんですね。

参加者 いまだて芸術館に保存しておいたはずの紙の芸術作品も、なくなってしまったらしい。やっぱり行政の担当者が変わると、ちゃんと引き継がれなくなるのかもしれない。価値観の違う職員が入ってきてから、適当に処分されたという話を聞いた。

若泉 長者町さんがおっしゃったように、和紙を特別な素材と見る目が失われつつあるのかもしれませんね。

長者町 和紙の価値が変わったにしても、紙展が町の人たちにうながしてきた連帯感はまだ失われていないと、外部の私の目には見えますけどね。

(二〇二六年五月三一日 越前市の和紙の里通り(旧今立町)Kギャラリー)

註 IMADATE展
一九八九年(四月一五日〜五月五日)に、今立郡今立町(現在の越前市)で開催。当時の若泉征三町長が発案した。今立町に交付された「ふるさと創生一億円」を元手に、千年以上の歴史をもつ「越前和紙」をテーマにした芸術・文化イベントを企画。和紙の伝統的な価値と、現代美術を融合させた作品の展示やイベントが町内各所で実施された。平成大紙を作成し、 ハビエル・マリスカル、ロバート・クシナー、勅使河原三郎、元永定正、堀尾正治などが絵を描いて参加した。

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