「ART PLAZA TIMES」では、小説家・長者町岬氏による対話企画「近代美術を『もう一度やり直せたら』 日本美術 近代化の蹉跌」をスタートします。長者町氏は東京藝術大学を卒業後、東京国立近代美術館の研究員として数々の展覧会を企画した後、東京都庭園美術館の館長などを歴任し、その後小説家に転身した異色の経歴の持ち主。
タイトルにある「蹉跌(さてつ)」とは、「物事がうまく進まず、しくじること」や「挫折」を意味する言葉で、日本美術には近代化によってもたらされた大きな「蹉跌」があったと、氏は考えています。
第6回では、美術史家の天野知香氏と対話します。
天野知香(あまの・ちか)
一九五九年生まれ。美術史家。東京大学文学部美術史学科、同大学院を経て、一九八七年から九一年までパリ第一大学芸術考古学研究所博士課程に留学。一九九四年に東京大学より博士(文学)取得。現在お茶の水女子大学名誉教授。専門は一九−二十世紀フランス美術史。特にアンリ・マティス研究、十九世紀から二十世紀初頭における装飾と芸術の関係、フェミニズム美術史など。
展覧会企画・監修として 『マティス プロセス/ヴァリエーション』(田中正之、天野知香、読売新聞東京本社文化 事業部編)国立西洋美術館、二〇〇四年。『アール・デコ 一九一〇−一九三九 きらめくモダンの夢』(監修)東京都美術館他、二〇〇五年。
主な著書、編著として 『装飾/芸術―一九−二十世紀フランスにおける「芸術」の位相』ブリュッケ、二〇〇一年。『装飾と「他者」– 両大戦間フランスを中心とした装飾の位相と「他者」表象』ブリュッ ケ、二〇一八年。『美術フォーラム21 特集「装飾」の潜在力』Vol.40、醍醐書房、二〇一九年。『マティス-「装飾」が芸術をひらく』平凡社 二〇二四年。『もっと知りたいアール・デコ』、東京美術、二〇二五年。など
欧米美術のパラダイムシフト――装飾の反乱
1 なぜ装飾は嫌われたのか
長者町 二十世紀になって、装飾は五、六十年のあいだに激しい毀誉褒貶を経験していますね。その経過には装飾の本質が暗示されているようで、ぼくはいま関心をもっています。それにしても建築家やデザイナーは、近代になって装飾を嫌悪しました。どうして、あんなに嫌わなきゃならなかったのか。実用に徹したニューヨークの摩天楼を思いだしてください。あのなかではいくらか装飾を残していたクライスラービルが、いまとなっては映画などでマンハッタンのランドマークとして映されているのは、皮肉な感じがしておもしろいですが……。
ところが第二次大戦後になると、様子が変わって装飾が復権してきますね。たとえばデザイナーのエットーレ・ソットサスは、一九八一年にメンフィスというデザイン集団を結成して、ポップアートやアール・デコを連想させるカラフルな家具類を発表します。それらは遊び心を取り戻していた。また建築家の磯崎新は、一九八三年に茨城県のつくば学園都市でセンタービルを設計します。そのビル群の外観は、豆腐を切ったようないわゆる国際様式だったけど、その要所々々には装飾、はっきりいえばアール・デコの造形が顔を出していました。
こうした毀誉褒貶は、「装飾」とその対極にあると思われがちな「実用」とが、実は二者択一の関係ではなく、共存関係にあったことを暗示しています。たとえば実用一辺倒なはずの原始的な道具にさえ、わたしたちはその形状に装飾を感じることがあります。こんな経験をすると、装飾とはいろんな造形物を加飾して、見る人に好悪の感情を引き起こさせる「機能」のことに他ならないという考えがでてくるでしょう。
だから同時代の精神が好ましいと思えば装飾は肯定され、嫌だと思えば装飾は排除されてきたわけです。装飾は花鳥風月のように記号化されて使われることも多いので、しばしば絵、彫刻、道具のような造形ジャンルと見なされることもありますが、その本質は造形物に好悪の印象を与える機能にあるといえそうです。
天野 つくばのセンタービルはまさにポストモダン建築なので、過去の引用を意図的に行いました。ちなみに摩天楼の一部は一九三〇年代のアール・デコの意匠を示しています。ポストモダンはモダニズムにおける装飾批判に対して装飾を復権させました。逆にいえば二十世紀の四分の三に当たる一九七〇年代くらいまで非常に影響力の大きかったモダニズム批評が装飾を否定してきたのに対して、ポストモダン以降様々な側面で装飾が蘇っているということだと思います。非常に現代的な側面においても、たとえば建築の表面につけたディスプレーやブランドのロゴといったものも文様や装飾として機能しているといってもよいかもしれません。それは、過去が蘇ったというよりは、装飾というものが意図的に抑圧された一時期があったものの、装飾の欲望は実際のところ常に生き続けていたのだと思います。
ソットサスのようなポストモダンのデザインを見ると、「機能」という意味が捉え直されたように感じます。つまりモダニズムにおける合理的で効率的であることだけが建築や道具の「機能」ではなく、人々に喜びや息をつける遊びをもたらすことも「機能」として捉えることによって、装飾の意義を示したのだと思います。
長者町 それなのに、たとえ一時期とはいえ、どうして抑圧されたんですか?
天野 西洋美術のなかで装飾が非常に否定的に語られる一時期があったのは事実です。とくにそれはモダニズムといわれる時期です。そもそも西洋でも、元々は職人さんや大工さんの仕事と、絵を描いたり彫刻したりする仕事はそれほど大きな区別はありませんでした。先ほどノートルダムの写真が出てきましたけれども、中世の教会装飾では、彫刻家だろうと壁画を描く人であろうと、石工や大工などと同様に、神の家を造り上げるために奉仕する、無名の職人として制作をおこなっていました。
ところが、ルネサンスに入りますと、古代の教養をもった人文主義者という人たちが出てきて、文学に準ずる形で造形に携わる人を個人として賞賛し、歴史画という、過去の偉大な歴史や文学、あるいは神話といったテキストの内容を造形で表現することこそが価値が高いとみなす、歴史画を中心にした造形美術観を打ち立てていきます。それによって造形は、古代人の教養であった文学と並ぶ高貴な営みとして高い位置を与えられます。歴史画を描くためには教養も必要ですから、画家は単にお金のために仕事をするのではない、君子として位置付けられてゆきます。画家や彫刻家は職人仕事と切り離され、組織の上でもアカデミーがつくられ、従来の職人のギルドから画家たちはそちらに移行していくことになります。
2 芸術と装飾の分離
長者町 画家と職人の分離はいつごろから?
天野 ルネサンスはひとつの大きな分岐点ですが、実際には近代において装飾と芸術の間のヒエラルキーはむしろ強調されることになったと思います。ルネサンス以降の造形芸術の概念は、造形をいわゆる職人的な手仕事と切り離しましたが、実際には画家や彫刻家が建築や室内を装飾する営み自体から完全に切り離されたわけではありませんでした。芸術を独創性や霊感、天才といった概念とともに特別な領域とみなす考え方は、十八世紀末から十九世紀の初めのロマン主義の時代にむしろ一層、強調されてゆきます。その歴史的な状況の説明は、長くなりますので省きますが、それによって芸術と職人的な手仕事との区別は一層広がっていったと言えるでしょう。
ところが一方で、十八世紀後半に産業革命が起こります。それによって産業製品に付加価値をつけてより競争力のある商品を生産する必要が生まれ、産業芸術の振興が叫ばれるようになります。十九世紀のイギリスではデザイン改良運動が起こって、当初芸術の領域とは異なる美学が展開されます。フランスでも芸術と産業の融合が求められ、芸術家と職人と労働者が協力してより安価でかつ良い趣味の製品を作る必要が論じられます。
こうした産業芸術振興運動はやがて、フランスでは産業の製造業者の視点から使い手の視点へと移行して、世紀末の装飾芸術振興運動になっていくわけです。産業芸術は装飾芸術(l’art décoratif)へと言い換えられてゆきますが、この言葉は、フランスでは十九世紀後半に一般化する新しい言葉です。それは生活と結びついた新しい美のあり方として主張され、装飾と芸術の融合が重視されてゆきます。それが世紀末のいわゆる「アール・ヌーヴォー」として花開くわけです。
しかし二十世紀に入るとこうした世紀末における装飾と芸術の融合の機運に対する反動として、改めて純粋芸術が標榜され、モダニズム批評のなかで装飾が否定されてゆくようになりました。
長者町 純粋芸術が装飾の与える視覚的印象を必要としなくなったので、装飾排除が決定づけられたということですね。
ところで話が混乱するといけないので、あらかじめ用語を交通整理しておきましょう。まず、絵画、彫刻、工芸、建築、デザインなどのさまざまな造形ジャンルを、「美術」という言葉で一括します。つぎに、美術のなかの高尚な教養に裏づけられた部分を「芸術」、そうでない部分を「職人仕事」と呼び分けます。そして最後に装飾とは、花札のようにそれ自体が独立した造形物である場合もありますが、多くの場合は造形物を加飾する機能にその本質があると規定しておきます。
さて、さっそくこうした交通整理を使って、装飾の成り立ちについて考えてみます。これは、天野さんがいましがた話されたルネサンス以後ではなく、それ以前の装飾について考えることでもあるのですが、そのとき装飾がどういう状態だったかといえば、ぼくは美術と装飾は仲のよい双子のように、一致協力していたと推測しています。相手がどのような美術であっても、装飾は分け隔てなく美術を加飾していたはずです。というのも、人類が美術と装飾を生みだした目的が同一だったからです。
その目的とは、人類の願いである生存の継続でした。人類はそれを祈るために神や神話を創造し、美術と装飾によって可視化してきたわけです。こういう美術と装飾の成り立ちからすれば、その後に生じた芸術と職人仕事との違いなんて、ささいな差異でしかなかったんです。ところが現代のわれわれは、両者を峻別しがちです。それを純粋芸術の登場が最後に決定づけたという天野さんの見方は、ぼくもその通りだと思います。
天野 二十世紀の初頭においては、もちろん趣味の変化もありますが、視覚的な印象というよりは、芸術のあり方の問題だと思います。今言われているような「芸術」という概念は、西洋において歴史的に形作られたある意味特殊な概念といえます。古くからあり続けている、ものを作り、あるいは飾る行為が、それぞれの社会や歴史の中で、どのような概念で捉えられ、位置付けられ、意味付けされてゆくかという問題です。本質論的に装飾や芸術の区別があるわけではありません。
「芸術」の概念はルネサンス以降実質的に形作られてゆく概念だといって良いと思いますが、近代の西欧の社会においては、芸術と装飾の間に区別やヒエラルキーが設けられ、それを二十世紀のモダニズムは助長して行きました。
長者町 たとえば、古代ギリシャの陶器の壺に描かれた絵や、金属の皿に鍛造された絵があるじゃないですか。現在われわれが理解している芸術と装飾の概念を当てはめると、主人公である王や王妃の絵が芸術で、まわりで揺らめいている蛸や海藻の打ち出し文様が装飾だということになるでしょう。でも、あれをつくった作者の心のなかには、自分が芸術を表現しているのか、装飾を表現しているのかといった葛藤はなかったでしょう。王と王妃、蛸と海草は一体となって、作者が属する集団の永続を願っていたはずだからです。
十八世紀になってから、美術には大芸術(絵画や彫刻)と、小芸術(工芸や文様)というパラダイムができたけれど、それはあくまでジャンルの序列をいっているだけで、美術家たちはそれ以前も以後も両者間を自由に行き来していました。以前パドヴァで「ガッタメラータ将軍騎馬像」の実物を見たときしみじみ感じたんですが、将軍の顔付き風采は、この傭兵隊長のずる賢い老獪さを容赦なく表していました。それは作者のドナテッロが芸術家であると同時に、金工細工師あがりの職人だったからです。彼は人間の崇高さと卑俗さとを区別しないで観察する目をもっていたのです。ところが二十世紀に入って、芸術は職人仕事から養分を吸い取れなくなり、「西洋の芸術観」も痩せ細りました。
天野 装飾や芸術は概念としてどう規定するかの問題ですので、時代や社会の前提を抜きにして装飾か芸術かを議論するのはあまり意味がありません。ものを作り、飾ることにはその時代や社会における多様な人々の様々な必要や欲望があったと思います。二十世紀のモダニズム批評が、そうしたものの一部に対してある種の抑圧的な構造を持っていたことは事実です。
長者町 キリスト教についてぼくは無学なもんで、こんなことは的外れな質問かもしれませんが、ルネサンス以後に芸術と装飾が分離していく背景にはキリスト教の、とくにカトリックの教義が作用していたのではないでしょうか。具体的にはカトリックの一元主義、厳格主義、普遍主義、人間中心主義――これらは長らく「西洋の芸術観」の根幹をなしてきましたが――こういった教義は、いかなる造形物をも加飾するという装飾の放恣無軌道な機能とは相容れなかったと思うのです。そのため装飾は、崇高な芸術を無知な民衆に授けるときの賑やかしという地位に甘んじることになっていったのではないかと……。
天野 「芸術」の概念の形成の契機となったルネサンスは、むしろキリスト教の支配した中世を乗り越えて、改めて古典古代の知に開かれた時代でした。キリスト教を相対化する古代の知識が再発見されたことで人間中心主義がもたらされたわけで、キリスト教の理念が芸術と装飾のヒエラルキーを作ったとはいえないと思います。むしろキリスト教が支配していた中世には、画家や彫刻家は無名の職人として共に教会装飾に携わっていました。
装飾という言葉は難しいですね。フランス語でデコラシオンというと飾るという行為やその総体を意味します。一方同じように装飾と訳される、オーナメント(オルヌマン)は、総体としての装飾の部分をなす要素、文様を指します。装飾自体は様式を規定しません。さらにいえばどのような絵画や彫刻もある意味では室内の装飾の要素に他ならないともいえます。タブロー画は優れて近代的な媒体だと言われますが、あれは持ち運び可能で、置く場所を選ばない自律した芸術形態だからです。それは装飾から切り離されやすい。しかしラファエッロもミケランジェロも壁画を描いています。それは特定の場を装飾する、建築の装飾に他なりません。つまり機能としては装飾だといえるのです。しかしルネサンスにおいてはそうした絵画や彫刻の営みを、単なる職人仕事ではなく、より精神的な営為として捉えるようになったということです。
長者町 ほんらい芸術は、視覚的な効果を演出するために装飾を必要としてきました。こういう話をするとき、ぼくは中世のゴシック教会の内陣を埋め尽くす植物や動物の過剰な高浮き彫りを思い浮かべてしまいます。
にもかかわらず、芸術にとって装飾が邪魔になったのは、精神的な営為を追求するようになった芸術が、夾雑物を排するというような意味での潔癖性に突き進んでいったからではないでしょうか。そこにはカトリックを台座とする「西洋の芸術観」が働いていたと考えないと、説明がつかないのです。
天野 キリスト教は必ずしも芸術と装飾の分離を直接もたらしたわけではありません。西洋の芸術の根幹をなす古典主義は装飾文様を制御し、抑制しました。西洋において古典古代からキリスト教の支配した中世をへてルネサンスへと続く思想の流れの中で精神的な営為が重視されたということは、「単なる」装飾と、芸術を区別する原因となったでしょう。そのことが十九世紀に議論される大芸術と小芸術、精神的な芸術と機械的な手仕事という区別とヒエラルキーをもたらしました。実際世紀末の装飾芸術運動においてさえ、ガレなどの作品もそうですが、文学など大芸術の要素を積極的に取り入れることによって精神性を担保し、それによって装飾を芸術の領域へと引き上げようとしたのです。
長者町 芸術家たちが職人たちと袂を分かったという職能集団の分離が、装飾が逆境を迎える序章となったということですね。
天野 ある意味そうかもしれません。組織的に、芸術家はアカデミーという新たな組織をつくって、それまでのギルドという職人の組織から出ていくことになります。アカデミーは歴史画を中心とした制作や教育の体系を作り上げてゆきます。
アカデミーはイタリアでは十六世紀にできます。ただアカデミーの形成でもって、芸術家と装飾が完全に一〇〇パーセント切れたわけではありませんでした。たとえばフランスのアカデミーの重鎮でかつ王の首席画家が、王立のゴブラン製作所のタピスリーの製作をスーパーバイズするといったことはありましたし、ベルサイユのように総合的な宮殿の装飾にも携わっています。先にも述べましたようにむしろロマン主義以降、芸術の特権的なあり方が強調されるようになり、その一方で、産業芸術が問題になることによって、芸術と装飾のヒエラルキーや区別の問題が顕在化したということだと思います。それに対してウィリアム・モリスのような人がレッサーアートと大芸術の議論を展開して職人仕事を擁護しますし、フランスでも産業・装飾芸術振興運動の中で芸術と装飾、職人仕事との融合が議論されます。
長者町 視点を換えていえば、芸術と装飾との分離を決定づけたのは、ブルジョワ(市民階級)の経済活動だったということでしょう。十九世紀以降の装飾とは、ブルジョワの自己表現だったんですから。
天野 ブルジョワは十九世紀において芸術を支える層として新たに浮上します。ただし彼らは産業の中心ですから産業芸術の振興を支えたのもブルジョワです。したがって彼らが芸術と装飾を分離させたと言うのは少し違うと思います。ここでいうブルジョワというのは産業革命で富を得た産業ブルジョワたちです。彼らが十九世紀以降、革命で力を失った貴族や教会勢力に代わって芸術の担い手になるのです。だからこそボードレールは十九世紀半ばのサロン評の中でブルジョワに呼びかけました。そして世紀末の装飾芸術運動を支えたのも確かにブルジョワでした。ガウディなどのパトロンになったのは産業ブルジョワに他なりません。
一方でブルジョワはモダン・アートの担い手でもありました。実際、産業芸術振興運動とモダン・アートは連動して十九世紀に展開していました。特に第二帝政期には国の美術行政はまさにマネが画壇で注目される一八六三年に勅令を出して、旧来の古典主義的な美学を相対化すべくアカデミー改革をしますが、その狙いの一端には芸術による産業への助力を促すこともありました。国にとって産業芸術の振興は国の威信と共に、良質の製品を通して輸出額を増やすという経済の問題として重要だったのです。
それにたいして、もちろんアカデミー側から反発が起きてくる。そういうなかで議論が顕在化して行ったのです。
長者町 それでもゴヤの活動にたいして、彼の絵はいいけど、彼のタピスリーの原画はよくないという批評は聞いたことがない。だから、十九世紀までにおける芸術と装飾の対立と、二十世紀になってモダニズムの時期に沸騰した装飾排除には、異質さがあるのではないでしょうか。
天野 世紀末の装飾と芸術の融合という議論は、二十世紀に入ると激しい反動をもたらします。一方では前衛的な芸術家たちが改めて純粋な芸術の形態を求めて装飾を否定しますし、装飾芸術運動の中からも、付加的な装飾を否定し、富裕層向けの一点制作の芸術的な装飾品ではなく、より民主的で、大量生産に応じた機能主義的な方向が主張されてゆきます。とはいえそれでは二十世紀の芸術家は一斉に装飾から手を引いたかというと必ずしもそうではありませんでしたし、装飾芸術振興運動も継続していました。組織の上でも一九〇一年に装飾芸術家協会ができますし、一九〇三年に創設されたサロン・ドートンヌは最初から諸芸術の融合を唱えて装飾芸術の展示を積極的に行っていました。こうした流れの中に一九二五年のアール・デコ博があります。その中で例えば一九一二年にはサロン・ドートンヌでキュビストが絵画を提供し、建築や暖炉の構成にも携わった総合的な室内装飾展示である「メゾン・キュビスト」の展示も行われましたし、実現はしなかったもののピカソも早い時期に装飾の仕事を受けています。バレエ・リュス(ロシア・バレエ)の舞台装飾にもピカソやマティスなど多くの前衛芸術家が携わっています。ただし、言説の上では、前衛たちによる装飾否定の言説が重ねられてゆき、それがやがてアメリカを中心としたモダニズム批評と結びついてゆくことになります。
3 装飾排除の言説
長者町 いやはや。それにしても、ゴヤはタピスリーの原画をむしろ積極的に描いていますね。ゴヤは自分のタピスリー原画を、装飾とは思っていなかったのでしょう。たとえば四人の女性たちが大きな布を拡げて、等身大の藁人形をトランポリンのように跳ね上げて遊んでいる彼の絵には、人間の残酷な心底を覗き込むような、鋭くてシニカルな人間観察が表れています。
天野 西洋では基本的に絵画をタピスリーにする伝統がありましたので、たとえばラファエッロの絵をタピスリーにするといった方向の方が、むしろ主流でした。ルネッサンス以降においても、したがってタピスリーを貶めることはあまりないと思います。世紀末になると、これまでのようにタピスリーの下絵として絵画を用いるのではなく、タピスリー固有のデザインが必要だという議論が展開しますが。
いずれにせよ二十世紀に入って、まさにモダニズムの言説のなかでは、たとえばマティスに関して、彼はほぼ一貫して装飾を肯定しているのですが、モダニズム批評はあくまで造形として彼の絵画を評価します。マティスの装飾芸術の仕事は彼の仕事の中で一番よくないとグリーンバーグは言っているのです。
モダニズム批評はある意味、人文主義的な精神的営為としての芸術という理念を根強く保持し続けました。だからこそ、装飾や工芸的なものを意図的に貶めるようなことが顕在化してきます。
長者町 その偏執狂的な攻撃がおもしろい。
天野 装飾が非常に否定的にいわれたのは、建築の方でインターナショナル・スタイルが主流になっていた時代です。もちろん過度な装飾の否定や、素材や機能への誠実さといった議論はすでに世紀末の装飾芸術運動の中でも論じられています。ですから世紀末装飾は素材の木に色を塗らずその木の風合いをいかしたりしています。機能主義的な視点やあるいは民主的な観点から過剰で高価な一点制作の装飾品の批判もすでに存在していました。しかし二十世紀に入ると、特にモダニズム批評において装飾否定が突出してイデオロギー化されてゆくということだと思います。
長者町 そこの議論ね。この装飾研究会でもときどき間欠的に浮上してきました。それで今回も「モダニズムと装飾」について考えるというテーマが出てきたんです。
天野 芸術が精神的なもの、知的な探求として捉えられることによって、たんなる手仕事、たんに目に楽しいものとしての装飾が否定されていくことになります。装飾を否定するのは、機能主義的な、あるいは合理性の観念だけではなくて、モダニズム批評が人文主義から引き継いできた、ある種の精神的な意味をもった知的探求としての芸術というあり方を大事にしたという点は重要な論点だと思います。
長者町 だから、理念を追求しない装飾にたいして、一段低く見ていくという言説がでてくるっていうことですよね。われわれは、いまその延長上で生きているから、こういう話を聞くと割とすんなりと理解し、賛成できてしまいます。でもよく考えてみると、なんで理念を追求することが人間にとって価値のある精神活動であって、そうじゃない装飾は価値がないといえるのか、よく分からないところがあるような気もするんですね。
百歩譲って、さっき天野さんがいった十九世紀のアプライド・アートの時代、つまり世界中のいろんな装飾を工業製品に応用すれば、輸出貿易に資するというイギリス的な考え方ならば、モダニズムの建築家やデザイナーがそういう目的に低俗さを感じたことはぼくにも分かります。
天野 でも建築家やデザイナーである限り経済的な成功は必要だと思いますし、モダニズムの建築家やデザイナーはむしろ経済上の効率を重視したのだと思います。
それはともかく、アメリカのモダニズム批評に先立つ装飾否定の代表として語られるのは建築家のアドルフ・ロースだと言えるでしょう。彼は、非西洋の人、女性、それから下層階級の人たちが装飾をやるのは仕方ない、彼らのアイデンティティなのだから、と述べる一方、われわれには装飾は必要ない、と言います。われわれというのは誰をさしてるかというと、ロース自身を含む近代的な中産階級以上の白人男性に他なりません。
彼は装飾がないということは、精神的な強さの印だと主張します。彼はあからさまに人種的階級的ジェンダー的な「他者」に装飾を重ね合わせて否定する一方、白人中産階級男性である自分自身は、精神的な強さがあるから装飾は必要ないと述べているのです。これはほぼまるまるル・コルビュジェに踏襲されていく考え方です。装飾否定がジェンダー的民族的な「他者」を抑圧することと結びついていたことは非常に重要な論点です。
長者町 アドルフ・ロースって、あの人はジャーナリストでしょ。だからそういう言説を上手に話すのは分かりやすいんだけれども、踏襲したはずのル・コルビュジェが「建築をめざして」っていう論文集を出しますね、一九二三年に。住宅は住む機械であると宣言しますが、彼がパリで住んでたアパートに行くと、そんな感じはあんまりしないんですね。居間の壁には、絵とも壁飾りともつかないような紙が貼ってありました。要するに、言説と生活とをコルビュジェも無理に統合しようとは考えていなかったようです。
天野 ル・コルビュジェは、建築と道具と芸術があれば良い。装飾芸術は必要ない、と言っています。だから家のなかに芸術が飾ってあるのはいいんです。タブロー画とか彫刻とかが置いてあるのは良い。ただ、彼はある時点から壁画を描きだしますよね。晩年少し変わっていく側面はあるかもしれません。ただ、だからといって、装飾を肯定したかというとそうはいえないと思います。
彼は普遍的で、万人向けのスタンダードとしての、規格化された家具を用います。住むための機械というのは、まさに住むための機能性をもっている、誰にでも普遍的に適用できる家という意味ですよね。そういう考え方というのはアメリカの一九三〇年代以降の国際様式につながる、モダニズム的な建築の原理だと思います。ただ、実際の行為のなかではいろいろ矛盾もありますけれども。
長者町 「建築をめざして」っていう論文集を読むと、コルビュジェは外洋航路に就航する豪華客船は許容しているんですね。ずいぶんたくさんの写真が掲載されています。私が小説の舞台にしたノルマンディー号の写真は出てこないんですけどね。
天野 外洋客船の外観はいいんです。Style paquebot (大型客船様式)というのは、当時のモダンな建築の様式でもあります。ただ、その内部の装飾を念頭に置いているわけではないと思います。
長者町 どうして船の外観はよくて、内側はダメなんだろう。
天野 船の外観は機能的で合理的な造形だからでしょうね。アドルフ・ロースも建築家で、彼は装飾を否定しているんですけど、素材として色大理石のような、ちょっと模様があるような素材を使ったりして、あれは装飾ではないのか、とは言えるかもしれません。ミースもそうですけれども。おそらく素材自体なので良いということなのでしょう。現実のレベルでは多少矛盾もあるかもしれませんが、装飾否定は、理念の問題ですから。
長者町 ここでね、装飾を攻撃した人たちの矛盾を指摘してもなにか得るものがあるわけではないので矛を収めますが、ただね、あまりにも外洋客船の写真がコルビュジェの本に出てくるんで……。あの船に乗っているのはブルジョワですよ。ブルジュワが商売目的でアメリカに行き、植民地に行って富を収奪してくるわけです。だからコルビュジェたちの論説ってのは、自分たちの考えてるモダニズムを世間に浸透させていく方法で、彼らは言葉巧みだったという感じはするんですが、じゃあそれを超えて、それこそ古代から美術と装飾が協働してきた歴史にたいして、新しい視点を投げかけようとしてるのかっていうと、ぼくはそこはよく分からなかったんです。
4 二つのパリ国際博覧会――一九二五年と一九三七年
天野 よくわからないとは?
長者町 はっきりいえば、モダニズムによる装飾攻撃は、哲学のレベルに達するものではなく、しょせん「西洋人の芸術観」というコップのなかでの主導権争いをめぐる嵐だったと思うんです。
天野 もちろんそうです。モダニズムの世界のなかの話ですからね。ただ、モダニズム建築やモダニズム批評の観点というのは、実はいまの日本でもそうですけど、実践や美術史観として強力に生き残っていて、今なおグローバルに影響力は強いと思います。だからコップのなかの嵐ではありますが、モダニズムの見方はグローバルに力をもったというところはありますね。
長者町 そのコップとはなにかっていうと、西洋中心の普遍的で人間中心的な価値観ですね。そのなかでの争いというのは、モダニズムと装飾のどっちがマウントを取るかっていう問題でした。
天野 多分、装飾はそんなにマウントを取りたいわけではないというか。ただルネサンス以降の西洋の芸術観の背景に、おっしゃる通り普遍的な人間中心の観念があったことは事実です。ただその「普遍的」というのが実際には白人中産階級以上の男性に限定されていた、ということが一九七〇年代以降議論の的になってゆくのです。それがポストコロニアリズムやジェンダーの議論と結びつきます。
装飾は、抑圧されてきましたが、一方で、欲望と結びついています。様々な人たちの様々な欲望が絡み合いながら出てきて一枚岩ではない現象として、時代の流れの中にあるのだと思います。その流れはずっと実は二十世紀にも続いているわけです。だからこそ二十世紀に入っても装飾芸術の運動は続いて一九二五年のアール・デコ博に至るわけですし、三七年万博も装飾芸術を否定しているわけではありません。ただ三七年は当初考えられていたアール・デコの十年後の催しではなく、当時の状況の中で総合的な万博として開催されたということです。
確かに、一九三〇年代に入ってくると趣味が変わってくるということはあります。フランスでは装飾芸術家協会が二九年に分裂して、現代芸術家協会(UAM)という新しい組織ができ、ここにシャルロット・ペリアンとかジャン・プルーヴェとか、それこそピエール・シャローとかといったいろんな人がかかわってきますね。別にUAMが統一的な方針をとったということはないのですが、参加者たちはたいてい産業的な素材による、付加的な装飾のない方向に結果的に向かいます。そして、UAMが三七年の博覧会では多くのパビリオンにかかわっていきます。
長者町 そうですね。ペリアンやシャローの好んだ幾何形体は、バウハウスの思想的影響というよりも、趣味の変化と考えるほうが分かりやすい。
天野 もうひとつは、三〇年代以降の古典主義の高まりですね。経済が二九年の大恐慌で悪くなる。その影響は三〇年代にヨーロッパに及びます。保守的な傾向が高まってきて、古典主義が強くなってゆく。装飾芸術の方でも、もともとアール・デコにも古典主義的な要素は少なからずありましたけれど、それが強調されていくようになります。一見付加的な装飾が非常に抑制的になったように見えるということもあって、その両方の理由で三七年万博ではなんとなく装飾性が否定されたような感じがするんですが、なくなったわけではなかったと思います。
先ほど長者町さんがシャイヨー宮を映していましたけども、まさにあのシャイヨー宮は一九三七年に造られた古典的な様式と近代建築の要素を組み合わせた大建築物ですよね。わずかにレリーフなどはありますが、そこでは装飾が非常に抑制的です。一方で五十人以上に発注して、たくさんの彫刻が置かれるわけです。
長者町 ギリシャ、ローマまがいの彫刻がね。
天野 だから、まさに芸術と建築なのです、あれは。しかも、建築の表面になにをしたかというと、詩ですね、ポール・ヴァレリーの非常に詩的な芸術にかんする言葉をそこに付与します。つまり文学という西洋芸術の根幹を伴う古典主義的な美術観を反映した建物になっています。こうしたある種の趣味の問題みたいなものが三七年にはあったと思います。
5 三七年の博覧会は「生活」をテーマに掲げた
長者町 そもそも二五年のアール・デコ博っていうのは、第一次大戦の前にほんとうは開くつもりだったんですよね。それが大戦があったんで、博覧会どころじゃないということになって。フランスは、第一次大戰で勝ったんだっけ? 負けたんだっけ?
天野 いちおう、アメリカの参戦のおかげもあって勝っています。
長者町 そうでしたね。第一次大戦後のフランスは国力が落ちてしまって、共和政治も力がなくなってしまうんだけど、そんななかで装飾にフィーチャーした祝祭をやって、ヨーロッパの国々にフランスの威信を示そうとしたのがあの博覧会でしたね。
天野 確かにフランスにとって自国の装飾芸術のアピールの場となりました。実際敗戦国だったドイツのバウハウスも、準備不足と言って辞退したアメリカも参加していません。そうです、フランスの装飾芸術を誇示するという意味があったと思います。
ただし第一次世界大戦後、ドイツの植民地をみんなで分け合って、フランスは実は植民地を増やしていて、国民の植民地政策に対する支持も高まります。
アール・デコ博には百貨店がいくつかパヴィリオンを出していて、実際問題として百貨店は装飾芸術をある程度手の届くところに広めたわけですね。実際には大衆化があの時代には非常に進んでいた。世紀末に見られたような一点制作の豪華な装飾芸術というのは、展示はされますが博覧会を頂点に批判の対象になって行きます。世紀末の装飾芸術を支えたのは確かに産業ブルジョワだったと思いますが、アール・デコはかなり裾野が広がって、階級の概念を超えた大衆の手の届くアイテムになっていったからこそあれだけ世界中に広まったんだと思うんですね。だから流行としてはある程度存在感をもっていたし、たんにフランスの古臭い装飾芸術を誇示したというだけにとどまらない意味があったと思います。
長者町 第一次大戦後に、すこしずつ世界経済が活況を呈してくるなかで、フランスは国力を他のヨーロッパ諸国に誇示する方法は、装飾以外にないと腹を括ったんじゃないでしょうか。だいたい博覧会の名前に「装飾」を付けていますから。
とはいえ当時のフランス美術を装飾という言葉で理解しようとしても、どうにもしっくりこないのは、美術史という学問が政治や経済の概念で芸術を捉える方法論をもっていないからでしょう。そもそもアール・デコって、おもちゃ箱をひっくり返したような美術ですから、あれを造形や様式だけで語ってもなにも分析できない。ブルジョワの人生観や、資本主義で説明したとき、はじめて二十世紀の装飾というものが見えてくる。
天野 美術史が政治や経済の視点で芸術を捉える方法論を持っていないというのは違うと思います。まさに様式中心だったモダニズム美術史に対する批判のなかで、美術史の方法論としても、七〇年代以降、T.J.クラークに代表される芸術の社会史という視点が出てきますし、そもそもワールブルクのイコノロジーは時代の文脈の中で社会や経済を含め多様な視点から芸術を捉える視点です。もっとも日本ではT.J.クラークの翻訳は一冊もでておらず、多分日本の美術史がこうした方法論をあまり重視していないとは言えるかもしれませんが。英米圏の美術史では、社会のなかで美を見るというのは当然の視点になっています。
ところでアール・デコ博は元々十九世紀以来の装飾芸術振興運動の一端として企画されたもので、だから装飾芸術という名称がついているのです。確かにフランスの装飾芸術を誇示しようとはしましたが、フランス美術やフランスの国力を装飾という言葉で括ろうとしたわけではありません。これまでの総合的な万博ともそもそも発想が異なります。
また、アール・デコの時代を支えたのはもはや階級としてのブルジョワではなく、階級を超えた、専門知を持とうとせず文明の恩恵を散漫に受容する層として概念化される大衆の登場が重要だったと思います。
長者町 たしかに、あのとき大衆が登場しましたね。ところで二五年のときは、それでもまだ政治や経済を手がかりにして、フランスの装飾を問えた。それが三七年になると博覧会の名前に「生活」って言葉がでてきて、正確には「近代の生活」だけど、ようすが変わってくる。生活をキータームにして、フランスは自分たちの芸術観の再点検をしはじめたんです。
この写真を見てください。エッフェル塔に登って撮った写真です。いまね、オーバーツーリズムでエッフェル塔に登るのは大変です。あのあと一週間くらい体を壊したんだけど。あの塔から北を見ると、正面がトロカデロで、さっき天野さんが話したシャイヨー宮が見えます。そのもっと向こうには、ニューヨークみたいな高層建築群が見えるでしょ。デファンス地区っていうんですが、この写真では分かりにくいけど、シャンゼリゼ大通りから凱旋門をくぐって、まっすぐ進んだところです。あそこだけ高層ビルの建築が許されているんですね。
こういう都市づくりが計画されて、シャイヨー宮で三七年の博覧会が開かれた。もっともその周囲は、いま出来のギリシャ彫刻が……、
天野 ある意味古典芸術の模倣とも言える。
長者町 そう、バッタもんがたくさん。
天野 いまではほとんど名前も知られてない彫刻家の彫刻が山のようにあります。
長者町 撤去されたかっていうと、されてないんですね。まだ残っている。それでもシャイヨー宮はメモリアルな建築物でした。二五年の博覧会のときは、国力を誇示したいという目的があったのにもかかわらず、実はシャイヨー宮のような壮大な建築物は建てられていないからです。二五年のときは既存の建築、たとえば一九〇〇年のパリ万博用に建てられたグラン・パレを使っているんですね。
天野 二五年と三七年では、先ほど言いましたとおり博覧会の性格が全く違っていたと思います。
長者町 その間になにが起きたんでしょう?
6 装飾のレジリエンス(回復力)
天野 一九三七年の時は、不況や全体主義の台頭を背景に、人民戦線内閣によって、一般の人たちの生活に目を向けた総合的な万博として企画されました。あのとき多くの芸術家に壁画などを発注したのは、芸術家の経済的な支援という意味がありました。
長者町 そうですね。三七年の博覧会の公式報告書を見ると、都会の地下街や、電気、ガス、水道のような社会インフラとか、それから当時はテレビはまだないんだけど、ラジオや放送局のような、大衆の生活を誘導していくような分野に、博覧会自体がシフトしていたことが浮かび上がってくる。
それから、有名なカッサンドルの「ノルマンディー号」のポスター。この博覧会で発表されているんだけど、あれどこで展示されていたと思います?
天野 広告館ですね。
長者町 そうそう。当時ポスターは、社会的なコミュニケーション・ツールと位置づけられていた。その後いつの間にか、芸術になっているけど。
天野 あれはポスターとして製作されているわけですから、広告なんです。広告のパヴィリオンが設けられたというのは、たしかにそういう社会的、商業的なコミュニケーションというのが重視される時代になったということがあると思います。そこにまさにUAMのアーティストもいっぱいかかわっていますし。それから三七年万博では、写真壁画が出てくるんですよね。手描きの壁画もありますけど、写真という相対的に新しいメディアを壁画にするという方向性もでてきます。
長者町 三七年万博の目的が現代生活にシフトしたことで、大衆でごった返す都会の地下街、そしてラジオ、ポスター、写真などというコミュニケーション・ツールが脚光を浴びたけど、これらの先に待っていたのが、一九八〇年代のメンフィス・デザインだったということになる。ソットサスの家具類は、みなさんも見ればこれのことかってすぐに分かるピンク、イエロー、ブルーなどの原色が視覚に飛び込んでくる心地よさ本位(反禁欲的)なデザイン。バラの花を透明アクリルのなかに鋳込んだアームチェアで有名な倉俣史朗も、メンフィスに影響を受けていました。
それはあたかも、モダニズムによって逆境に置かれていた装飾が、反乱を起こしたかのようだった。装飾にそんな回復力があったのは、「本質的には人間は装飾なしには生きられないからだ」という天野さんの意見に賛成ですが、もうちょっと現実的に考えると、人間が装飾に求める役割が変化したからじゃないかという気もする。人間が装飾を無用の長物としないために、その役割を変えてしまったと理解することはできないだろうかということなんだけど、これはぼくの仮説です。まだ立証できるほどの、分厚い本は書けていませんが。
天野 その役割はどう変わる?
長者町 古いコップ(西洋の芸術観)をお払い箱にして、新しいコップを創るというのが新しい役割。一九七〇年代までは、モダニズムにたいするアンチ・モダニズムという役割が装飾には期待されていた。機能主義を振りかざしても、そう簡単にはいかないぞっていうような揺り戻しを装飾は担っていた。でも八〇年代以降になると、そういう修正主義を超えて、もうコップ自体が時代遅れだと装飾に主張させることができると、西洋人は気づいたんじゃないかな。
天野 それがまさにポストモダンです。西洋における普遍的な価値観を体現したのがまさにモダニズムやモダニズム建築であって、だからこそ一九七〇年代にポストモダンがでてくる。ポストモダンには遊戯的な過去の引用といった側面もありますが、一方で根本的にモダニズムの抑圧的な構造を批判し、捉え直す視点も登場します。この時期にはそもそも人文主義的な哲学の伝統そのものも、ポスト構造主義という形で問い直されますし、モダニズムや人文主義の普遍的な人間観というのが実はマイノリティを排除していたことも指摘されるようになります。一九六〇〜七〇年代というのは学生運動や五月革命も含めて、社会全般にわたる大きな知のパラダイムシフトだったのは事実です。
7 アテネに学べ
長者町 ただ、どうですか。僕はソットサスのデザインや磯崎新の建築を買い被りすぎてはいけないと思う。彼らは西洋の、ギリシャ以来の芸術の根幹を揺るがそうとまでは、狙っていなかったんじゃないか。
天野 ギリシャをどう捉えるかにもよりますが。
長者町 正確にいえば、ギリシャの後に、ルネッサンスにいたって確立された、まさに天野さんのいう「西洋の芸術概念」を、ソットサスは全否定してはいなかった。
天野 どうでしょう?
長者町 そういう構造をめぐる象徴的な企画展示が、九年前(二〇一七年)のカッセルのドクメンタでありました。そのときの全体テーマが「アテネに学ぶ Learning from Athens」だった。十万冊の発禁本でつくられた実物大のパルテノン神殿が建てられていました。作者はアルゼンチン人のマルタ・ミヌヒン。彼女の父はユダヤ人、母はスペイン系なんだけど、そんな背景があって、彼女は一九三〇~四〇年代のナチスによる焚書を批判したわけです。
天野 あのときの「アテネに学ぶ」っていうのはどういう意味だったんでしょう?
長者町 ぼくの実際に見た印象としてはね、ひとつは民主主義や西洋文明の源流である古代アテネと対比することによって、西洋人は自分たちが築いてきた西洋芸術の根幹を本気で疑いだし、その行き詰まり(表現の自由の危機など)を告発しているようだった。もうひとつは、それでもまだ芸術制作の環境が守られている現代の北ヨーロッパと、経済危機や難民問題に直面する南ヨーロッパとを対比させることで、西洋人は西洋芸術の正当性を問い直しているようだった。彼らは西洋芸術を、その原点から考えてみないといけないと考えたんだろう。ルネッサンス以降にできた「西洋の芸術観」をあれこれいじってみても、抜本的問い直しにはならないと。
そうつよく感じた背景には、そのときドクメンタで展示されていた作品のかなり多くの部分が、当時シリアからヨーロッパに逃れてきた難民たちをテーマにしていたことがあった。ああいうのを見ると、西洋人は自分たちが築いてきた文化とか芸術がいま危機に瀕していると、壊れていきそうだと、つまり自分たちの文化や芸術を相対化して意識しだしているとぼくは思ったんです。
天野 難民のテーマと西洋の崩壊を結びつけるというのは、西洋側から見た視点だと思いますが、確かに様々な政治的社会的な問題が顕在化したドクメンタではあったと思います。西洋の特質があるとすれば、おっしゃる通り、西洋というのは、つねに自己を問い直している。芸術の問題も同様です。芸術とはなにか、装飾とはなにか、つねに議論して、問い直している。もちろんドクメンタは国際的にアーティストが参加しています。そうしたアーティストたちの多くは現在の文脈でアートに関わる以上、芸術自体を問い直していると思います。だからそういう問い直しとしてドクメンタがあるっていうのはそうだと思います。
長者町 ぼくはフランスで普通に教育を受けた人たちが、ギリシャ文明をどう思っているのかが気になって、フランスに行ったときに訊いてみるんです。そうすると、自分たちの西洋文明は古代ギリシャに由来すると小中学校の授業で教え込まれてきた、という答えが返ってくる。要するに教育の問題なんですね。
天野 ただそれもある程度の世代までで、もうラテン語、ギリシャ語教えなくなりましたよね、いま。だからどんどん変わっている。
長者町 それから、パリに造幣局ってあるでしょ。そこに行って、メダルの主任デザイナーに会ったとき、自分の最新作だといって見せてくれたのが、アレクサンダー大王の故事にちなむメダルでした。若いときの大王が、自分の影に怯えているブケファロスという荒馬を御したエピソードを題材にしていたんだけど、古代ギリシャのこんな細部までがフランス人の教養に浸透していることを知って驚きました。
天野 それはあると思います。とりわけメダルというものが、そもそもローマ時代などの古銭を踏まえて、ずっとその伝統を継承してつくってきているものなので、その伝統をつよく意識すると思います。
長者町 なるほど。
天野 そう。でも、それはもちろん、西洋文化の基本が古典古代だっていうのは、すごくそうだと思います。それはその通りだと。
長者町 ぼくはなにを言おうとしていたんだっけ。そうそう、西洋ではルネッサンス以降の西洋文明に、その正統性を本気で疑う言説が、いつのころからか登場してきていたという話でした。
アテネからは話がそれるけど、それを取り上げた学問的批判として、エドワード・サイードのオリエンタリズムがありますね。あれもやっぱり一九八〇年ころにでている。正確には七八年だけど。サイードはエルサレムで生まれ育ち、ハーバード大学で博士号を取ったパレスチナ系アメリカ人でした。彼は西洋の帝国主義や植民地主義を批判して、ポストコロニアリズムの論理を打ち立てた。天野さんがおっしゃるように、西洋人は自分たち自身を問いつづけるんだけど、そのうねりのなかから、西洋芸術の継続性を疑うだけじゃなく、そもそも理念を追求する近代西洋の芸術に意味があるのかという疑念が出てきたとぼくは思うんですね。
天野 七〇年代っていうのが、やっぱりいろんな意味で転換点だったと思うんです。たとえば六八年の五月革命があって、あの周辺からフーコーとか、ポスト構造主義なんかも出てきます。哲学そのものもそうですし、先ほどいいましたポストモダンも出てくるし、装飾の復権も出てくるしという、もういろんなことがすべて七〇年代っていうある種の転換点で出てきます。そこでサイードが視点を開いたポストコロニアリズムも出てくるし、フェミニズムも出てくる。
8 コップのなかの争いを止めて、コップ自体を新しくする
長者町 そうですね。フェミニズムも重要だと思うけど、ちょっと待ってください。いまそこに入ると道に迷うので。
さっきからいってるコップのなかの嵐じゃなくて、コップ自体をつくり直すべきじゃないかという考え方。この考えが西洋に浮上した背景には、影響力を回復した装飾の存在があったんじゃないかとぼくは思いたい。
天野 西洋が七〇年代に自己を問い直したというのはその通りだと思います。その中で、抑圧されていた装飾も影響力を回復したのではないかと思います。それで、なんで七〇年代かっていうと、この時期先進国でスチューデント・パワーが吹き荒れた時代でもありますよね。アメリカでは公民権運動やベトナム反戦運動が起きて、社会に戦後世代が台頭してきた時代だと思います。この七〇年代と装飾っていうことを考えると、アメリカではパターン・アンド・デコレーションという運動が登場しますよね。これはまさに装飾を前面に押し出す運動として登場しています。
ただしこの運動は、なんとなくアメリカのモダン・アートの正史から消されていく運動なんですよね。七〇年代に出てきて、八〇年代半ばぐらいまで活動するんですけど、八〇年代にはすでに消されていく。その後もあんまり顧みられず、二〇一九年にロサンジェルスで大展覧会があって、その前後ぐらいから、わずかながら、展覧会などでは復活してはいるんですが、復活したといっても、その展覧会があった後もあんまり大きな反響はないという感じで、いまひとつ認識されないんです。それは装飾を前面に押し出した運動だったせいかもしれません。
この運動の精神的な支柱になったエミー・ゴールディンという批評家は、まさにこれまでの頭でっかちな、精神的なものとしての芸術という西洋の芸術観そのものを正面から批判しているのです。そしてもっと無名の普通の人がやっている手仕事みたいなものが大事でしょ、と言うのです。パターンとグリッドの楽しみとゴールディンがいうのは、要するに文様とか装飾のことなんですが、それはほとんどの西洋人が好まない自己主張にたいする無関心を要求する、とエミー・ゴールディンは言っています。つまり、まさに自己主張とか精神性とか自己表現といった、西洋のこれまでの芸術の根幹にあったものと対極にあるものが装飾や文様なのだと。
織物とか編み物って基本的な法則がありますよね。その通りにやっていかなきゃいけない、だから創造性がないんだといわれてきたけれども、こういう法則と、創造性を対極的なもの、真逆なものだと思うのは私たちの文明の屁理屈だという風に彼女は言っているんです。だから卑小な無名の作り手たちがやる手仕事だったり、ヴァナキュラー・アートだったり、そういうものに注目する。そして、われわれはこうしたものについて考えはじめたばかりだ、と述べることで、いままでの西洋的な芸術観やモダニズム的な価値観というのを、こう根底から完全に覆すような批評っていうのをやっていて、大変興味深い存在なのです。
長者町 パターン・アンド・デコレーションに直接参加していなくても、あれに影響された画家はいまでも活動していますね。庭園美術館でも展示したことがありました。でもどうして、日本では話題にならないのかな。いまのアメリカには影響が残っていますか?
天野 いや影響はどうでしょう。なぜかこの運動はその後の美術史ではあまり語られません。そのこと自体が装飾やこの運動の視点に対する芸術界の姿勢を物語っているようにも思えます。
パターン・アンド・デコレーションの活動のひとつだった展覧会で配られたパンフレットを見ると、否定するものと肯定するものが羅列されています。否定するものには純粋なものやピュリスト、ピューリタン、ミニマリスト等々とずっとつづくんですけど、肯定する方は、付加的、主観的、ロマンチック、創造的、個人的、自伝的、気まぐれ、物語的、装飾的という、なんでもありの世界になっていて、さらには温かいとか、開かれたとか、怪物的とか、淫らだとか、ゴテゴテしているとか、とにかく本当になんでもありで、快楽を否定しない価値観というのを展開しています。
エミー・ゴールディンという人は、オレグ・グラバーというイスラム美術の専門家に学んでいて、イスラム美術のような非西洋の美術にもたいへん興味のある人で、現代美術の批評家として活躍していました。七〇年代にはこうした、まさにモダニズム批判と結びついたかたちでの装飾を前面に押し出した芸術運動というのもあったわけです。
長者町 パターン・アンド・デコレーションの運動には全米的な広がりがあったようだけど、あれは白人の運動だったんじゃないですか?
天野 ただたとえばこの運動の中で制作された作品の中にはクレージー・キルトに似たものもあります。アメリカではある種のキルトも黒人女性の手仕事と結びついていました。その作者は黒人ではなかったかもしれませんが、そうした手仕事の伝統を取り上げた作品があったのは事実です。確かに当時においてこの運動が白人中心の運動だったことは事実ですが、多くの芸術運動が男性中心だったのに対して、女性の参加者が多かったことも知られています。また二〇一九年の展覧会では、作品の上での関連で、黒人のアーティストも何人か含まれています。
9 アナツイの彫刻/装飾
長者町 ヨーロッパという舞台で、第三世界から出てきて、芸術のコップ自体を新しくすることを求めた活動には、アフリカの黒人芸術家がいましたね。
天野 ただ西洋のオルタナティヴを非西洋と結びつけるのは、これはひとつの「プリミティヴィズム」というか、西洋中心主義的な見方だと思うんですね、やっぱり。つまり、非西洋っていうのをまるごと全部一緒くたにして、西洋とは異なる要素を全部付与するっていうのは、結局はアドルフ・ロースが非西洋の人と装飾を結びつけたのとあまり変わらない見方になってしまう。そこはちょっと気をつけていかないといけないかなという気はしています。アフリカ出身やディアスポラの芸術家の一部がこれまでと違う価値観を出してきたっていうのはその通りだと思いますが。
長者町 ここでね、装飾という言葉を一九二〇年ころからの概念を引きずりながら使ってしまうと、おっしゃる通り、装飾は弱者の芸術だということになるんでしょうけど、装飾が人間の要求の変化につれて変化してきたと仮定することができるならば、装飾をつくる黒人芸術家たちの理由がちがって見えてくるんじゃないでしょうか。
具体的にいえば、黒人芸術家が装飾をつくっている目的が、西洋人とはちがう彼ら彼女らの生き方を表現するためだとしたら、そしてここが重要なのですが、非西洋の芸術家がつくる装飾が、ほかならぬ西洋の美術マーケットで高値がつきだしているのだとしたら、それは現代美術における地殻変動を意味しているのではないでしょうか。これがぼくのいいたい仮説なんです。
天野 旧来の西洋のモダニズム的な芸術が行き詰まって、女性や非西洋の人たちの芸術がマーケットで注目されてきたのは事実です。ただ装飾が変化したというふうに捉えるのはどうでしょうか? 言葉を恣意的に捉え直すのはある意味危険です。つまり、言葉というのは歴史があって、歴史的な文脈のなかで生まれた意味というのがあります。もちろんそれを新たに定義し直して議論のなかに使ってくるというのはできると思うんですけれども、それはそれなりの説明があったうえで使わないと危険だと思います。いずれにせよ黒人の芸術=装飾と括ることは実際問題としてできませんし、装飾を単純に非西洋の価値観と重ね合わせるのも先に述べた意味で危険です。装飾を弱者の芸術にしたのはモダニズム批評であり、西欧の主流の概念です。その枠組みを問題にすべきであって、装飾自体が変化するわけではありません。
長者町 八〇年代以降に世界のなかで登場してくる、アフリカの黒人を中心とする芸術家の美術を、ひとまず「装飾」と言い切ってみましょう。その論理構築が不十分だというのは認めますが、それをやってみようと思っているところなんです。
最初にね、これは皆さんに見てもらって判断してもらいたいと思うんだけど、いま映っているエル・アナツイ(El Anatsui)の作品をどう思いますか。ご存知の人も多いでしょうけど、アナツイはガーナ生まれで、ナイジェリアで活動している八十代の黒人男性芸術家です。彼は八〇年代に世界の現代美術界で評判となり、作品は美術マーケットでも高値で取引されています。
この作品のタイトルは「1コボ」。一九八八年に制作されている。上の方に指の爪が見えます。その下にはつよい日射しや乾燥でひび割れした皮膚か、あるいは砂に描かれた呪術的な線のような文様が見えます。ちなみにコボ(Kobo)とは、ナイジェリアの通貨であるナイラの、百分の一の低い通貨単位です。さて、この作品は彫刻でしょうか? それとも装飾でしょうか? 誰にも判断できないかもしれませんが……。
アナツイはいまや世界的に有名になっていて、二〇一〇年には日本でも展覧会が開かれています。そのときのカタログには、とうぜん日本語で解説が付いているんですが、そこには「木を刻み、木を彫る」と書かれていました。考えてみれば、この作品が彫刻か装飾かという区分け自体が、無意味な問いなのかもしれません。彫刻や絵画とちがって、装飾は美術の「ジャンル」を意味する概念ではなく、作者が自分の美術に求める「機能」を意味する概念だからです。しかもそこで求められる機能とは、仏壇に蓮の花を活けた水瓶を置いて阿弥陀様を荘厳するようなことではなく、それ自体で、黒人芸術家の作品には西洋人の生き方とはちがう生き方があることを暗示させることです。
ピカソやモディリアーニの時代だったら、黒人芸術といえば宗教的な仮面や神像が定番で、芸術家は霊感源としてそれらを活用していましたが、百年近く後になると、はっきりしているのは、黒人の芸術家は自作を西洋芸術に奉仕させようなんて思っていないということです。彼らは自分たちが置かれてきた境遇や、そこから生じるメンタリティを表現しているだけなのです。彼らにそうした作品の制作を可能にさせている機能を、装飾と名づけたわけです。
ひとことでいえば、彼らは装飾の加飾という機能を使うときの目的を、限定しだしたということです。その目的とは、もちろん彼ら自身の生き方を呈示することでした。
10 アフリカ現代美術がもつ装飾性
天野 西洋の近代芸術家による非西洋の援用が一方的なものであったのはその通りですが、非西洋に装飾という概念を重ね合わせるのも一方的な見方だと思います。先にも言いましたとおり「芸術」という概念は西洋が歴史的に構築してきたある意味極めて恣意的な概念です。一方で「装飾」という概念をそうした歴史的社会的な文脈から切り離して西洋の「芸術」とは異なる、オルタナティヴなものと恣意的に言い換えてもあまり意味はないと思います。アナツイ自身は自作を木彫と認めちゃいけないんでしょうかっていうことが逆にあると思うんですね。つまり、彫刻といっちゃいけないのか。彫刻という概念だって二十世紀の初頭からブランクーシとか、いろんな人がその実際の在り方を変えてきたわけですよね。台座はなくてもいいとか、もう荒削りの石をそこに置いとけばいいんだとか、いろんなかたちで彫刻という概念自体を変えてきているわけですよね。装飾っていう言葉は、なにかを飾るという行為なので、そういう機能的な意味の言葉です。そこに西洋の芸術とは違う枠組みを見ることは可能ではあっても、実態と切り離された過剰な意味合いを一方的に付与することはあまり意味はありません。
長者町 そうですね。美術をジャンル分けする言葉としてではなく、美術に機能を与える言葉として装飾を考えたいんです。そしてその機能に特定の方向性をもたせたいんです。
天野 部屋に飾れば装飾としての機能をもつので、装飾としての特質をもつと思います。芸術というのはつねに装飾としての特質をもっていますから。
長者町 その考えをさらに進めると、われわれが現代の黒人芸術になにを見いだすかという問いがあるでしょう。さっきもいったように、二〇一〇年に日本で彼の巡回展がおこなわれているんだけど、作品を展示する機関の性格について彼は注文をつけました。最初の機関は大阪の国立民族学博物館だったけど、彼にはそれが不満だった。自分の作品を民俗学の資料として位置づけて欲しくないということなのです。つぎの巡回先は、神奈川県立近代美術館でした。こちらのほうは自分の作品が現代美術ということになるので、納得していたということです。
天野 それはそうだと思います。彼はアーティストとして活動していますから、アーティストの自覚があると思います。
長者町 ただね、黒人芸術を美術館に展示して、現代芸術として評価すれば、それで事足れりというわけでもないようです。その象徴的な事例は、ケ・ブランリー美術館に並んでいる黒人の造形物に、人類学的価値だけでなく、そこに「美」を発見したら、それはそれで批判を浴びているということです。美を発見するといっても、所詮は二〇〇六年のパリに設置された美術館という場で、西洋人が自分の目で美を感受したということですから。
ケ・ブランリーの展示品の多くは、もとをただせば、天野さんがおっしゃるフランスが第一次大戦後に領有した植民地の産物でした。一九三一年に開催された植民地博覧会のときの出品物です。あれ、パリのブーローニュの森でしたっけ。
天野 違います。ヴァンセンヌの森です。
長者町 そうそう。植民地博覧会の政府展示館だったポルト・ドレでは、その後も出品物を並べていたんだけど、評判悪くて、しょっちゅう出したり引っ込めたりしていましたよね。それがシラク大統領のときに、ケ・ブランリーという箱を造って、そこに管理換えして展示することになったわけだけど、これにたいする批判のなかでいちばんつよかったのは、かつての植民地政策を想起させるからというものじゃなくて、それらの展示物は非西洋の人たちにとっては宗教や生活の道具だったのに、西洋人はそういう用途を勝手に美に読み換えているというものだったと、ぼくには思えるんです。
天野 それはそうですが、エル・アナツイの作品と、ケ・ブランリーが展示しているもの――その一部は植民地で略奪してきたものでもあるわけですが――とはかなり性格が違うと思います。それを一緒くたに語るべきではないと思います。
たとえば、アナツイのいちばんよく知られている作品は、缶のキャップを集めてタピスリーにしています。つまり現代の消費社会、それは西洋が発祥の地ですが、その現代の消費社会というのがアフリカにも及んでいて、ある意味西洋と共通の問題として、もちろんそこにさらに加えて西洋による様々な意味での植民地化の歴史問題が絡みつつ、それをどう捉え直していくかっていうことを問いかけるような形でああいうタピスリーをつくっているわけですよね。もちろんアナツイが背負ってきた歴史的社会的な文脈は異なりますが、一方で、私たちと共通する問題意識でつくっている側面もあるわけです。だから作者がアフリカ出身だからといって一つに括り込むのはちょっと違う。作品ひとつひとつを丁寧に見て、やっぱりそれぞれの作品の文脈やあり方で違ってくるんじゃないかと。
さっき長者町さんが映していたエスター・マランガ(Esther Mahlangu)は、伝統の文様を重んじて、それを元にした作品を多く作っています。それはその地域の伝統というものと装飾文様が結びついているあり方を踏まえて、現代の造形として出してきているものですよね。それと、例えば現代の消費社会の問題をも問い直すような作品とはそれぞれ性格が違うわけです。エスターの方もいまはもう現代アーティストと受け取られていますよね。彼らの作品に「装飾性」を見ることは可能ですが、そのあり方は必ずしも同じではありません。いずれにせよ、アフリカだからということで一つに括るのは危険だと思います。それぞれの人の文脈で作品を見ていく必要があると思います。
長者町 天野さんにそう指摘されるだろうと覚悟はしていたんですけど。しかしアナツイの、潰した清涼飲料水の缶やビールの王冠といった廃棄物を銅線で繋いだタピスリーは、ほんとうに西洋の消費社会を告発しているんでしょうか? 彼のタピスリーには「大地の皮膚」とか「オゾン層」という題名がでてくるんですが、それらは彼の怒りよりも、植民地だったという過去を静かに受けとめ、それでいて他方では、現代美術の将来的なパラダイムシフトを狙っているように思えます。つまり静穏な作風のなかに、激情がひそんでいるようなのです。
廃物を美術作品に使うというと、先進国の人間は現代社会にたいする批判と解釈しがちで、それは日本人にとっても親和性の高い解釈ですが、しかしアナツイはもっと先の美術を見通しているのではないでしょうか。それはマランガのカラフルな幾何学文様も同じで、彼女は郷土主義を声高に唱えてはいません。アナツイやマランガたちに通底しているのは、自分たちの生き方は、普遍性、合理性、効率性を求める西洋人のそれとはちがうという意思表示じゃないかな。
天野 アナツイたちが植民地主義を踏まえて新たな現代美術のあり方を示したのはそうだと思います。日本人や西洋人がこれと同じものをつくるのと、アナツイがつくるのとでは、アナツイが背負っている歴史や社会が違いますから、当然まったく異なった意味を持ちます。彼にとっては、西洋の消費社会と植民地時代からつづいてくる歴史を切り離すことはできないと思います。
アフリカに西欧の資本が入ってくる状況と日本に西洋資本が入ってきた状況では当然それぞれちがう意識で捉えられるはずですし、その地域や社会で生きたそれぞれの個によって、その捉え方が違ってくるのはとうぜんです。さらにいえば、同じアフリカだからといって、ひとり一人の芸術家が同じ考え方でつくっているわけでもないのも事実です。彼らはポストコロニアリズムの文脈で捉えられる視点を持っていると思いますが、それは単純に西洋とは違う生き方を提示しているというようなことには留まらないと思います。
11 大地の魔術師展
長者町 西洋人が本腰を入れて非西洋の美術に学ぼうとした試みとしては、一九八九年に開かれた「大地の魔術師」(Magiciens de la Terre)という展覧会がありましたね。すでに多くの人が論評しているけど、ぼくはあの展覧会が西洋人にとってではなく、非西洋人にとってどういう意味を残したのかということを考えてみたい。というのも、あのころぼくは越前にある和紙の里で毎年開催されていた、今立現代美術紙展という全国公募展に深くかかわっていて、どうすれば周縁文化から、中央文化を変えていけるのかということに関心をもっていたからです。
天野 そもそもそのマジシャン・ド・ラ・テールという展覧会自体が色々問題をはらんでいたと思います。例えばアーティストとして活動している人と、それから、いわゆるそういう地元で現地の地域のためになにかものをつくっている人っていますよね。そういう人の制作物を一緒に出したということもその一つでしょう。
長者町 あれは、ポンピドセンターのなかにある国立近代美術館で開催されました。ですけど、企画者たちは西洋美術の範疇に組み込みやすい、いわゆるアーティストたちだけで展覧会を構成しても意味がないと考えていた。
天野 そう。だから逆に、国立近代美術館のなかに囲い込むということがどういうことなのか。美術館というのは西洋近代の人工的な制度ですから。いろいろ問題含みだったと記憶します。この大地の魔術師展は、ものすごくたくさん議論があるので、現時点で私は十分論じることはできず、今日は言及したくなかったんです。美術館で括ること自体が、いろいろな矛盾をはらんでいると感じますし、誰が誰を選別するのかという問題も含めて詳細な議論が必要です。
長者町 あれを計画した館長のユベール・マルタンは、研究者であると同時に行政官的な資質をそなえた人です。それで彼は、百人のアーティストを選び、半分を西洋人に、もう半分を非西洋人にしました。ぼくは自分の仮説を強調したくてアフリカ人にフォーカスして話をはじめましたが、実は日本人も三、四人入っています。その非西洋人のなかに、天野さんがおっしゃる現地の職人的な人たちがすくなからず混じっていたんですが、ユベール・マルタンをはじめとする企画者サイドには、「西洋の芸術観」に代わるコップを新調しようとする野心がありました。ただ、それが十分に機能しなかったとか、かえって第三世界を再び西洋に取り込む結果を生んだという批判はあったけど、そんな批判なんかは言わせておけばいいとぼくは思っています。
天野 異なった要素を混ぜ合わせて新しいものをつくること自体は良いと思います。もちろんそうですよ。だけど、そこに歴史的前提として非対称な力関係があったっていうことが二十世紀において問題だったんです。一方的に西洋が非西洋をまなざす主体となり、非西洋の要素を占有して、西洋の芸術の枠組みでものをつくってきた歴史があります。まずその眼差しの力関係の歴史を踏まえて考えないといけない。
長者町 いま天野さんがいったような見方っていうのは、日本人には馴染みやすいものです。なぜかというと、日本という国は弥生時代から大陸の技術を輸入して土器をつくり、明治以降はフランス美術を輸入して、それを和魂洋才という論法で、美術の根っこは俺の方にあるから、油絵の技術だけ模倣するんだというやり方で、ずっと先進国と日本を混ぜ合わせて自分たちの美術をつくってきたからです。
そういう日本人の論法からすると、アフリカの人たちだって、西洋の資本主義の侵略があっても、西洋近代美術という台座を借りて、そこに独自性を加味してきたはずだという解釈は、われわれの腑にストンと落ちる。
だけど、ユベール・マルタンは大地の魔術師展の図録で、こんな本音を漏らしていた。正直すぎて驚いたんだけど、彼は「行動の絶え間ない変化は、私たちの思考様式に深く根ざした現象である。……刷新と変化は私たちの精神構造にこれほど深く織り込まれているため、模倣を本質的原動力とする集団を創造することさえ困難である」といっている。ここでは、西洋美術を模倣した日本やアフリカを名指しこそしてないけど、彼我の精神構造のちがいに驚嘆し、そしてひるがえって、われわれの西洋美術は刷新と変化をしつづけなければならないと肝に銘じているようではありませんか。だからこの展覧会を計画したんだといわんがばかりです。
天野 マルタンの立場としてはそれはその通りだと思います。とはいえ和魂洋才の話が、どうして私のさっきの話と結びつくのか、ちょっと私はわかってないんですけれども。全く違う話だと思います。
直接的に植民地化された歴史を持っていない、あるいはむしろアジアに対して植民地化する側となった日本と、直接的な植民地主義の歴史の中で、自らの言葉やアイデンティティを奪われ、ポストコロニアリズムの中でそれを改めて模索しなければならなかった人たちとを安易に一緒にはできません。ポストコロニアリズムの理論のなかで、支配される側の戦略として、ミミクリー(模倣)とハイブリダイゼーション(混交)ということが言われます。混ぜ合わせていくこと、そして模倣によってずらしていくことによって、私とあなた、西洋と非西洋という括り自体を揺るがしていくことが、重要だったわけです。なぜかというと、西洋は非西洋を自分たちと切り離して、一方的に非西洋のイメージを作り上げて支配した。その背景には、西洋と非西洋の間の力関係がありました。その力関係の歴史を見ないで、西洋と非西洋をそれぞれ一括りにして語るのはとても危険なことだと思います。
長者町 力関係を無視しているつもりはないんだけど。反対に力関係があるからこそ、アフリカの側は、理念を掲げる西洋芸術にたいして、多様性それ自体を「装飾」として提起していると考えたい。
天野 多様性を装飾と結びつけるのはむしろ西洋の眼差しではないでしょうか。力関係を背景にピカソなりブラックなりがアール・ネーグルを引用して、一方的に自分たちのつくったものこそ革新的な芸術だといいだしてきた歴史があり、その一方で非西洋は表現の言葉自体を奪われてきたのです。
長者町 ぼくは日本の現状から、どうしても考えてしまうんです。自分が生きている国だから。どうしたって模倣という方法での、外来美術の受容をわれわれは拭い去れない。さっき天野さんは、ポスト・コロニアリズムの美術にはミミクリーとハイブリダイゼーションという特色があると指摘したけど、日本の近代美術がそんな巧緻な方法を意識的に使ったとはぼくには思えない。機能主義の建築やデザインを移植したときだって、アール・デコの装飾を応用したときだって、日本人はひたすらバカ正直に真似てきた。
だから現代の黒人アーティストの活動が、欧米美術に新しいコップ(芸術観)を創らせようとしているのだとしたら、それに便乗してぼくはこういいたい。日本のアーティストも新しいコップを模索して欲しい、と。装飾とはそうした多様性を容認するものだということに気づきだしている人がいると思うんです。
天野 誰がそういったんですか?
長者町 いえ、まだぼく一人です。
12 装飾は国家の形成を妨げる
天野 たとえばパターン・アンド・デコレーションは、装飾をテコに、これまでのグリーンバーグ的モダニズムに集約されるような西洋中心の伝統的な概念をひっくり返そうとしました。それは抑圧的な構造のあり方自体を問題にしてそれを崩そうとしたのです。一方で非西洋が西洋に対してオルタナティヴとしての枠組みを提示するという図式はわかりやすいけれども、実際にはそれでは恣意的で抑圧的な枠組みが再生産されるだけだと思います。結局西洋に対して非西洋をひとくくりに括って一方的な意味を付与している。具体的にはどのようなことでしょう。
長者町 ここで他人の哲学を引っ張りだすことには躊躇があるけど、ドゥールーズ&ガタリの「千のプラトー」という本があるでしょ。あのなかで遊牧民のノマディズムが語られています。あれは共同体のなかには、中央集権的な国家の形成を妨げる集団があって、そこには独自なメンタリティーや文化があることを、遊牧民とか脱領土化という言葉をキータームにして論じていました。そのなかに「装飾」がけっこう出てきます。もっともそれを根拠にして、装飾とは伝統的な西洋芸術にとって、「獅子身中の虫」としての機能をもちはじめたとまでいう気はありませんが。
天野 非常に面白いですよね、あれは。装飾文様の構造を、ひとつの思考のモデルとして使っている部分があって、あれはとても面白いと思います。たとえば、文様がもっているような外も内もなく、始まりも終わりもない、無限に変化して、どこにも構造をもたないで繁殖していく、そういうあり方をある種思考のパラダイムとして、新しい側面を切り開いていくものとして捉えているようなところがあると思います。
長者町 遊牧民の金工品を題材にして、ドゥールーズ&ガタリは、中心的な理念がなくても成立する芸術の可能性を示唆していました。
天野 それはでも、西洋であろうと日本であろうと、新たなパラダイムを模索するということだと思います。ドゥールーズ&ガタリがやったことも、それまでの西洋の思考の枠組みを崩すことでした。国家っていうものがいまグローバル資本によってどんどん打ち崩されていますから、もはや国家に閉じこもっていくような発想自体をする人の方が少ない。
長者町 そういう人、僕は多いように思います。
天野 日本っていうところは多分世界から隔離されていて、島国だからかもしれません。とはいえ日本といっても沖縄もあれば北海道まであって、何をもって日本と言うのか。日本っていう枠組みで考えるっていうのは、とても難しいというか、危険だと私は感じています。
長者町 さっき小林美波さんがご自身の発表で、テクノクラートのことをいっていたでしょ。彼女はなんていう言葉を使っていたかな。高級技術官僚だっけ。官僚ブルジョワでしたっけ。僕はあの人たちが、近代の国家をつくってきたと考えている。彼らは給料はそう高くはないけど、国家を構想して運営する権力をもっている。テクノクラートは国家のしもべではなく、彼らこそが国家を必要としているというわけです。
いまやアフリカの国々にも、テクノクラートはいるでしょうから、遊牧民の暮らしもテクノクラートの近代的政策によって変わりつつあることは容易に想像できます。それでも遊牧民の生き方を棄てない人たちがまだ残ってるとすれば、そうした集団の価値観のなかに、西洋とはちがう芸術観を胚胎させる根っこがあるんじゃないかと思いたいんです。
天野 でもそれは遠い彼方にファンタジーを抱く、ある種の「プリミティヴィズム」だと思います。いまのアフリカは、とにかく西洋から武器がどんどん入ってきて、戦争している国がいっぱいあって、という状況のなかで、なにか西洋を変えるファンタジーがアフリカにあるだろうっていうのは・・・
長者町 ファンタジーですよ。現地に行ったって見つからないでしょう。ぼくもそう思います。でも、そのファンタジーを拠りどころ、あるいはモデルにして、「装飾」という芸術のコップを論理化してみたいのです。
天野 やっぱり一種のユートピアですよね。どこにもないひとつの楽園だと思います、それは。
長者町 装飾には社会を変える力があると思いたい。ぼくはロマンチストなんです。
天野 そういうモデルを描いていくってことは重要だと思いますが、一方で装飾っていうものが非常にこう多様な側面を持っているのは事実です。多分装飾っていうのは人間の欲望と非常に密接に結びついているので、いいものも悪いものも孕んでいますよね。植民地主義の時代は、エキゾチズムと結びついた装飾が生み出されて、そこには明らかに植民地主義を背景として、非西洋の要素を占有して、そして支配するような、いわば植民地主義のイデオロギーを体現するような装飾がたくさんあったわけです。しかし他方で、もちろん装飾は社会的には排除され、声を持ち得ないマイノリティの欲望や夢をも孕み込むことができます。
それこそ現代のキャラクターグッズみたいなものだってそうかもしれませんけれども、みんながひとり一人の推しがあって、その推しキャラをカバンにチャームとして付ける。あれだって装飾ですよね。装飾っていうのは、それはもう人間そのものだと思います。
装飾は抑圧的なイデオロギーの媒体にもなりうる一方、装飾だという風に否定的に見られて抑圧されたもののなかに、非常に豊かな可能性とか、いままで見ていたものではないものが見えてくる可能性っていうものを十分に考えることができると思います。装飾や装飾文様という領域は、大変面白い領域だと思いますし、長者町さんがおっしゃいますように、いままでのパラダイムを変えていく要素が、そこに現れているっていうのは十分にあると思います。
長者町 いつまでもモダニズムにやっつけられた装飾が仕返ししているみたいな、そういう議論をしていてもどこにも行き先がありません。それを突破する仮説を、今日は提起させてもらいました。
天野 想定していたこととは違う話になったので、うまくは言えなかったかもしれません。物や言説の歴史的社会的文脈を大事に議論することから、私たちの社会における抑圧的な枠組みを揺るがしていく視点を捉えることができる、という立場からお話ししたつもりです。
長者町 ぼくはそういう歴史的社会的文脈が息苦しいんです。
(二〇二六年五月三〇日 装飾研究会 金沢美術工芸大学)

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