「ART PLAZA TIMES」では、小説家・長者町岬氏による対話企画「近代美術を『もう一度やり直せたら』 日本美術 近代化の蹉跌」をスタートします。長者町氏は東京藝術大学を卒業後、東京国立近代美術館の研究員として数々の展覧会を企画した後、東京都庭園美術館の館長などを歴任し、その後小説家に転身した異色の経歴の持ち主。
タイトルにある「蹉跌(さてつ)」とは、「物事がうまく進まず、しくじること」や「挫折」を意味する言葉で、日本美術には近代化によってもたらされた大きな「蹉跌」があったと、氏は考えています。
第7回では、株式会社東京画廊 代表取締役社長の山本豊津氏と対話します。
山本豊津(やまもと・ほづ)
東京画廊代表取締役社長。一九四八年、東京都生まれ。一九七一年、武蔵野美術大学造形学部建築学科卒業。元大蔵大臣村山達雄秘書。二〇一四年より四年連続でアート・バーゼル(香港)へ出展。二〇一五年からはアート・バーゼル(スイス)へ出展。アート・フェア東京のアドバイザー、全銀座会の催事委員を務め、多くのプロジェクトを手がける。全国美術商連合会常務理事。日本現代美術商協会理事。著書に、「コレクションと資本主義」(共著、角川新書)、「アートは資本主義の行方を予言する」(PHP新書)がある。二〇二〇年、東京画廊は創立七十周年を迎えた。
脱欧米こそ「もの派」の悲願
1 「位相―大地」に仏教芸術の影響を見る
長者町 山本さんのご著書「アートは資本主義の行方を予言する――画商が語る戦後七〇年の美術潮流」を読ませてもらいました。刺激的な指摘が多く、印象に残りました。
なかでも印象に残ったのは、「脱欧米こそ『もの派』の悲願」という小見出しです。これがとくに心に刺さりました。一九六〇年代末に登場した「もの派」と呼ばれた美術家たちを題材にして、彼らには「脱欧米」の意欲が溢れていたと指摘してました。よくここまで言い切りましたね。今日はこの「脱欧米」について、最初に話をさせてください。いや、最初どころか、全体のテーマになりそうな気がします。
まず、もの派が「脱欧米」を悲願にしていたと山本さんが判断した理由を、最初に聞かせてもらえますか。
山本 わかりました。まず、もの派と呼ばれた美術家たちは、関根伸夫(せきねのぶお)をはじめとして、李禹煥(りーうーはん)さんはちょっと置いといて、小清水漸(こしみずすすむ)、吉田克朗(よしだかつろう)、成田克彦(なりたかつひこ)、菅木志雄(すがきしお)。みなさん戦後の教育を受けた世代なんです。これがすごく重要でね。
でも彼らがもっとも影響を受けたのは、明治生まれの斎藤義重先生なんです。斎藤先生がどのような役割を果たしたのかがすごく重要になる。明治生まれの世代は、東洋と西洋の両方の教養でアートをつくってきたんですね。斎藤先生の講義をぼくは高松次郎さんのところで受けたことがあるんだけど、なんと老子を話してました。ぼくは前衛の先頭に立つ斎藤先生が老子の講義をしていることに、大変ショックを受けました。
明治生まれの夏目漱石とか森鴎外たちは漢詩がつくれるんですよ。でも、ぼくたち戦後生まれの世代は漢詩できないじゃないですか。
長者町 山本さんとぼくはほぼ同じ世代だけど、学校で漢文の授業は受けたにしても、あんな程度じゃ漢詩をつくることなんてとてもできないからね。
山本 関根伸夫さんの作品「位相―大地」から話します。
地面に円柱型の大きな穴を掘り、その隣に掘った土で、穴と同体積の円柱を築く作品です。一九六八年の神戸須磨離宮公園現代彫刻展でつくられた、もの派の起点となった作品です。
その関根さんから聞いたんだけど、当時は学生運動の真っ只中、関根さんは政治にあまり興味がなく、暇だった。ある日、お姉さんの代わりに池坊教室に花材を取りにいったんです。そこで先生が、「あんた何してんの?」って訊くから、多摩美に行ってると答えた。それだったら、「あんた、ここでちょっと花生けてみたら」といわれて活けたら、先生が、「あんた筋がいいから、しばらく来なさい」って、教室にしばらく通ってた。
生け花の縁で、関根さんは日本の造園にも関心をもち、穴を掘って、その土で山をつくることも知ったんです。
長者町 築山ですか。
山本 そう。築山は掘った土を使う。「位相―大地」は円筒形だから、幾何学的な形をしているので、世間は日本庭園の伝統と繋がるとは思わなかった。オルデンバーグもマイナスの彫刻という、穴を掘っただけの彫刻をつくったけど、彼は掘った土を捨ててしまったんだ。
長者町 要するに、もの派が脱欧米だったというのは、たとえば関根さんが生け花や日本庭園に関心があったからだということですか?
山本 それが、関根さんが脱欧米を意識してたかどうか、いまひとつ分からない。なぜなら須磨の前に東京画廊が企画した「トリックス・アンド・ビジョン」展に関根さんは、「位相」と題したレリーフを出していて、それが西洋的な発想の作品だったからです。
視覚の錯覚でアート、とくに絵画が成り立つことをテーマにして、中原祐介さんと石子順三さんの二人が企画した展覧会だった。そもそも関根さんは多摩美の油絵科を出ている。ところが須磨は彫刻展じゃないですか。当時の関根さんの収入の道は、応募して賞金を得るしかなかったから、彼は須磨の彫刻展に出品するってオーケーしてしまった。
長者町 須磨の現代彫刻展に応募した以上、彫刻をつくらなきゃいけない。それで、関根さんは生け花と日本庭園を手がかりにしたということですか。
山本 そうだと思います。
長者町 面白い話だけど、生け花と日本庭園が、彫刻とどう繋がるんですか?
山本 生け花がそもそもどっから来たかっていう話になるんだけど、池坊は仏教とともに遣隋使が持ってきたといってます。だから仏教のなかに生け花がある。他方、仏教から日本人は庭園も学んでいる。平安時代の庭園は浄土を模したものだから。それが鎌倉時代の枯山水になって、室町時代に向月台がつくられた。
長者町 銀閣寺にある、円錐台形の築山のことですね。
山本 そう。向月台を関根さんも見ているわけです。だから仏教を信仰すると、お花だとか、庭園だとかは共通の教養になるんです。
長者町 脱欧米の原点には、仏教に由来する造形があったということですね。
山本 ぼくたち日本人は、明治から西洋の学問を教育の基本に置いてるでしょ。ちょっと和歌や漢文を読んでも、教養の中心は西洋じゃないですか。だから西洋化した教養から、もう日本は抜けだせなくなってしまった。
ところが第二次世界大戦になった。これがチャンスになったわけですよ。フランスもアメリカも戦争状態になって、美術の発展が止まるんです。それどこじゃないって話で。日本も戦前に斎藤義重さんや瀧口修造さんたちがロシアやパリから前衛を持ち込んでいたけど、第二次大戦でそれが止まり、それで戦争が終わった途端、世界中が平等にスタートラインに立つことになったわけ。
近代化した国々では、そこから美術のスタートが再設定されたんだけど、ところが近代はとっくに終わっていて、現代に移り変わっていたんです。戦後に生まれた作品を、私たちはいま常識的に現代美術と呼び、大戦前のものを近代美術って呼ぶように。
長者町 近代化のスタートがリセットされたことで、日本に脱欧米の芽が出てきたということでしょうか。
山本 日本は追いついてしまったってこと。西洋が止まってたから。西洋が止まってる間に、日本の人たちもスタートラインに立てた。一九五〇年代の中ぐらいから世界が同時に抽象をはじめるわけです。
長者町 近代化の進歩が、日本ではいわば中抜き状態で西洋に追いついたんで、それで日本人は西洋模倣の呪縛から解かれて、仏教とともに輸入された華道や庭園が、記憶の底から蘇ってきたということですね。
山本 アートっていうのは、前の世代の意識はきちんと継承していくでしょう。でも継承しても、自分たちは前の世代と同じことをやるわけにはいかないじゃないですか。そういうときに必ず起きるのは、それ以前に戻ることです。だから関根さんたちは「位相―大地」をつくったときに、お花とか日本庭園の前近代的な身体感覚を自覚するんですよ。
それを理論づけたのは李禹煥さんです。李さんの「出会いを求めて」っていう本を読むと、メルロ・ポンティの話が多く出てくる。一方、関根さんたちのいちばん大きな問題は、自分たちで興したもの派を言語化できなかったことです。
長者町 それはぼくも同じだな。ぼくは小説家だなんて自称しているけど、まだまだ美術史家的なとこが残ってるから、歴史で語っちゃうところがある。結局、古い自己を保存するバリアを張っているんですかね。
それにしても、華道もあれば庭園もある。広い意味での仏教に目覚めていたにしても、だからといってもの派の人たちが脱欧米だったと言い切っちゃうのは、安易じゃないですかね。彼ら自身、西洋芸術に日本の伝統文化を加えるだけで脱欧米になるなんて、考えてなかったんじゃないですか? そういう安易な発想に、彼らは一種の警戒感というか、怖れをもっていたように思うんですが。
山本 いますごく大事なこといってるね。
それで、後に雅楽に目覚める西洋音楽を学んだ四人の作曲家の楽譜展を、一九六四年に東京画廊で企画しました。でもオーケストラを使って、そこに日本の雅楽を加えただけでは、具体美術協会と同じなんです。具体は、キャンバスの上に白髪一雄さんが滑って描くのも、吉原治良さんが円を描くのも、キャンバスと木枠と油絵具っていう西洋絵画の素材の上に載っかってるわけでしょう。
円のイメージを描かず、背景を塗って円を残した吉原さんと同じことやってるのは熊谷守一。熊谷は東洋画の輪郭線を描くことを拒んでいた。下地を残して輪郭とする技法も、油絵具という素材を土台にしているかぎり、脱欧米とはいえないよね。
2 文明の独自性は、素材ではなく技法の違いに起因する
長者町 土でも、木でも、鉄でも、「素材」は地球上のどこでも同じだけど、それを加工するときの「技術」は場所々々で違いますね。その違いに、山本さんは文明の原点を見ていると著書で書かれていました。
「位相―大地」の例でいえば、もの派は土という「素材」よりも、それを加工する「技術」に着眼して、欧米の芸術で使われてきた加工技術を排除したので、彼らは脱欧米を意図していたということになるのでしょうか?
山本 ぼくを訪ねてくる若いアーティストに最初に訊くんです。「あなたは何の素材を使って、どういう技術で、何を考えて作品をつくってますか?」と質問するんです。これを訊いて答えが面白い人の展覧会をします。素材、技術、コンセプトって、ほんとうは言語的に分けにくいんだけど、訊きやすいから、そういう言葉を使ってます。
さっきの「位相―大地」でいえば、「素材」は土で、穴掘ってこっち側に盛るのは「技術」。土を掘ってそれを別のところに盛るっていうアート的技術は、西洋にはない。その後の鉄板の器に水を溜める作品もそうだし、関根が七〇年までにつくった作品は、うちでやった「位相―油土」もそうです。そういうことをやったのは、土の痕跡を残そうとしたウォルター・デ・マリアぐらいかなあ。ギャラリーのなかに土を盛った作品がそれに近いのかもしれない。
というようなことで、もの派は素材の扱い方を変えたわけです。そこが西洋流の現代美術から逸脱したきっかけなんじゃないかと思って、ぼくは脱欧米という言葉を使ったんだ。
長者町 日本の工芸には、動物の皮革を素材にして、それを曲げ伸ばして乾燥させて箱を作ってしまう漆皮なんていう巧みな技術が正倉院に残っていて、それを再現した人がいましたけど、ああいう技術は日本独自の文明ということになるんですか?
山本 箱を造ることが文明で、いまおっしゃった工芸の世界は、文明とは関係なくて、いわゆる文明の上に乗っかったものに装飾しているだけなんですよ。
土っていうのは還元すれば世界中共通じゃないですか。世界中共通にある素材に、ある特殊な技術を加えたら、違った作品ができたっていうことがすごく重要だと思ってるんです。
長者町 そうすると、工芸とか装飾というものがずいぶんと矮小化されてしまう気もするけど、難しいな。もうちょっと、具体的に。
山本 たとえば、ロクロの技術を使って量産することは文明だと思うんです。ロクロを使ってない縄文土器は文明じゃないですよ。縄文土器は手捻りで加工しているから、いわば主観的な造形物。文字のように客観性を備えていて、量産して誰でも使える陶器が僕は文明だと思う。
長者町 しょせん地球上のどこだって自然は似ているわけですから、土の成分はちがっても、土それ自体は同じです。結局、どこにだって異なる文明はありえるということですね。
山本 そう。文明の元になる素材はどこにでもあるんです。木枠とキャンパスをつくることが文明なんですよ。さっき言ったように、具体はどこまでいっても木枠とキャンパスの上で描いてますから。
長者町 土はどこにでもあるけど、それを加工する技術に客観性があれば、その成果である陶器を文明と呼んでみようということですね。そして、技術の違いがもたらす陶器の違いを、文明の違いと理解しようということですね。
山本 素材はどこにでもありますけど、その素材を自分の生活のなかで使うときに、そこに技術が発生しますよね。土があったとしても入れ物はできないじゃないですか。土をどういう風に使うかによって、文明の違いがでる。
長者町 世界中にあるような素材を使っても、そこに技術がかかわることによって、文明の違いが形成されるんだと、こういう理解でいいわけですか。
山本 いいです。
長者町 もの派の人たちは、土、木、鉄、ガラスといった素材を、西洋文明の加工技術から解放させました。しかしそれらの素材を、東洋文明の技術によって加工し直すことはなかった。ということは、彼らは新しい文明を志向したわけではなく、それらの素材にまとわりついていた西洋文明を排除したということになるのでしょう。彼らはまさに脱欧米を自己目的化していたわけですね。
山本 ぼくたちは土を意識的に見ることがなくなってしまった。子供のときはね、砂場で砂掘ったり土掘ったりするけど、大人になるとほぼ意識として土はもうなくなるわけです。ところが、お花を活けるのはいわゆる文明。中国から学んだ文明なのかもしれないし、もうちょっと前からあるのかもしれないけど。
素材をその土地でどう使ってるかっていうのが文明だとすれば。その歴史が今日どこまで影響を与えてきたかっていうのが重要なんです。
長者町 だとすれば、西洋文明からの逸脱を意図したもの派の人たちにも、東洋文明と繋がろうとする気持ちがひそんでいたということになりますね。
山本 それが李さんのいう「出会いを求めて」っていうことだと思うんです。
長者町 李さんはなんといっているんですか?
山本 ぼくの拙い解釈では李さんは、「世界はすべて人間が編集したものになってしまった」といっています。人間が編集していない世界を西洋は認めないけど、編集されていない世界があることを、われわれはもう一回考えるべきだというのが李さんの考えだと思いました。
たとえば、人間がここまで自然をいじってしまって、その自然からいま大きな反撃を受けている。だから素材と出会うためには、われわれがいままで文明と呼んできたものの見方を避けなければならないと、李さんいっているわけです。
長者町 李さんの場合は、東洋文明との出会いを求めているんじゃなくて、既存の文明から決別することを求めているようですね。山本さんもご自分の著書で、そこまで言及されてましたね。
山本 いやいや、いまのぼくは、あの本のときとは違うからね。
長者町 それはまたそれで困るんだけど……。それはともかく、ありきたりの素材を、違う目で見ていくことの重要さは、いまならだれでも賛同するでしょうけど、一九七〇年ころの若者たちも、土の違う扱い方を自分たちは試してみようと思ったわけですね。
山本 いや、それはね。ぼくたちは結果としていえるけど、当の関根さんたちは、そこまで考えてなかったはずです。むしろ制作したものに感化されて考えたんだ。
長者町 もの派の人たちの文明にたいする態度は、いわば身体的な反応だったというわけですか。
山本 そういうことだと思います。事前に「位相―大地」のプランを斎藤先生のところに見せに行ったら、齊藤先生が「これは俺がやりたかった」っていったそうです。それで、関根さんは自信もって、あれをつくったんです。
3 コンセプトを重視することの怖さ
長者町 ところで山本さんは、さっき若手作家に作品の「コンセプト」を訊くっていってたでしょ。この言葉を画廊という美術の現場ではどういう意味で使っているんですか。
たとえば、ここに置いてある福岡道雄の「石になる人」という彫刻だけどね、福岡さんが、「俺は山奥ででっかい石を見つけた。その石を作品化したかったんだ。それがこの作品のコンセプトだ」といえば、普通に通じますよね、コンセプトって言葉が。だけど山本さんがいってるコンセプトは、そういうレベルじゃない感じがする。
山本 画商の経験から察するけれど、結局アーティストって、制作の動機を言語化するのがすごく苦手なんですよ。
僕が若いアーティストに「あなたはどういうコンセプトでつくったんですか?」って訊くじゃないですか。そうすると、シドロモドロに言語化します。その言語化しえなかったなにかが、僕の興味を引くわけですよ。
長者町 なるほど。
山本 だから、ちゃんと理路整然とした言語として出てきたものには、ほぼ興味ない。それよりも彼らが言語化できない、いわゆる言葉をしゃべってるんだけど、言語化できない部分を見て、あっ、このアーティストは面白いなっていう風に。ぼくもコンセプトという言葉にたいしては同じように反応してるから、ぼくも言葉にできない。
長者町 現代美術はコンセプトを重視する芸術だという理解は幻想かもしれませんね。でも、強いていうと、その場合のコンセプトって日本語でいうとなに?
山本 考え方だね。
長者町 自分の考え方か! だったら作品をつくるときの思想だよね。それでいうと明治以来の日本の西洋画家がやってきたのは、西洋絵画の歴史が頭のなかにあるから、どうしたって抽象表現主義のような、ああいう既存の美術思想に引っ張られていく可能性があると思うんだけど、それをもの派の人たちは、西洋渡来の思想を一回遮断してたんで、それが脱欧米のとば口になったということになりそうですね。
山本 遮断はしてないと思うけど。ぼくがいままで学んできた西洋的な発想っていうか、西洋的な作品にはない表現の仕方を、もの派はやったってことですよね。
関根さんの「位相―大地」を見たとき、ぼくの心が反応しちゃったわけです。これはいままで見たことがないと。だから美しいっていう感覚ではないんですが。美しいっていう感覚ではなくて、これはぼくがいままで見たことがないっていう反応ですね。
長者町 考え方や思想で止まっていればいいけど、作者にコンセプトの表明を求める場合、そこには「他人にも理解される例でいえば」という条件がついているように思う。つまりコンセプトっていう言葉は、考え方や思想を世間の共通概念の型にはめて説明することだから、作者に向かってそれを問うことは、詰まるところ、観覧者が理解できる既存の思想を、作者に過去の歴史から引っ張り出してくることを強要することになるんじゃないでしょうか。
いってみればコンセプトって、世間が作者に求める「古い思想の引用」でしょう。
山本 それはそうだね。
長者町 だからコンセプトによって、脱欧米の思想を探ろうとしても、そこに未知の思想が出てくる可能性はないんじゃないかな。出てくるのは、「日本回帰」のような、思考停止した紋切り型の思想ばかりでしょう。
だから脱欧米を探る手掛かりとしては、山本さんのいう「技法」に注目したほうが有効だと思う。
4 バーゼルのブースに漢字文化圏の作品を並べる
山本 いまぼくは、もの派以降の世代を扱っていますけど、我が国に自分のアイデンティティを表すような作品が生まれるんだろうかっていう不安がある。
東京画廊はバーゼルのアートフェアに、毎年ひとつのブースを構えています。バーゼルのアートフェアにブースを構えるためには、基本的に脱欧米を念頭に置かないと、一五〇軒、三〇〇軒のブースのなかで、自分のブースの特徴を保つことができないんです。だからぼくの画廊のブースは、明らかに不思議なブースになっている。
西洋人が関心をもっている日本美術は、一九六〇年代、七〇年代なので、脱欧米っていう自分の意思をもたないと、ブースの際立ちが出ないので、商売として戦っていけないって考えています。
長者町 こういう話ができるから、山本さんと話したかったんです。つまり、評論家と美術家が抽象論を交わしているんじゃなくて、現実と繋がったところで話せるので、今回はとても興味深いんです。
それでバーゼルのブースでの、非西洋的な価値とはなんでしょうか?
山本 それは常に考えています。ただ弱点は、もの派だと売るものが少ない。関根さんの「位相―大地」だって、ダラスのコレクターが図面を買ってしまいましたしね。
長者町 バーゼルではブースを際立たせるために、もの派がもっていた基本的な考え方をどういう風に演出しているんですか?
山本 それを言語化するのはすごく難しい。
長者町 では、どういう人の作品を置くんですか?
山本 一九八九年に弟の田畑が中国とかかわるんだけど。その前に父が一九七三年に、「五人のヒンセク(白)」と題した韓国のアーティストの展覧会を企画してます。いまバーゼルでは、韓国と中国と日本の現代アートを合わせてひとつのグループで、ブースを構成してるんだけど、これが西洋ばかりでなく、他の外国人にも興味深く思われている。
長者町 わかりやすくいうと、多国籍作家の展示?
山本 国籍っていうより地域だな。そして、共通項でいうと漢字文化。東アジアで漢字をいまも日常的に使う地域は、かなり限られてますよ。韓国では日常生活で漢字を使う機会がかなり減ったでしょう。漢字は東アジアにとってはヨーロッパにおけるラテン語のような役割を果たしているので、韓国が漢字を使わなくなるのは残念です。中国は漢字を変えたけど、まだ漢字で筆談できてるから。
長者町 そうですね。
山本 多分これから韓国は自分の古典が読めなくなるだろうと。
長者町 そこは本当にぼくも感じますね、ある韓国人男性に娘さんの名前を漢字でどう書くのかと訊いたら、これは音の響きがいいだけで、意味はないといってました。
でも多少の救いはあって、実は漢字の発音をハングルで書いたり、アルファベットで表記してる場合も結構あるようです。
ベトナムに行って、そうかと思ったのは、たとえばハノイというのは、あれ「河内」の音読みなんです。大阪の河内と一緒。中国の何時代にベトナムに河内という漢字が伝わったのか知らないけれど、その時代の発音が河内をハノイと読ませたんでしょう。だからベトナムの知識人は、ハノイという音を聞いて、河内という意味を思い浮かべているはずです。
山本 それは面白い。タイとかマレーシアとかシンガポールとか。シンガポールは中華圏だけど、インドネシアにも、それがあるのかな。
長者町 イスラム文化圏になると、それは分からない。クアラルンプールなんて、泥の河口という意味だそうだしね。
山本 中国は新漢字になっても、物の考え方のなかには、実は古い漢字によって構築された構造が残ってるとぼくは感じましたね。
ところで、バーゼルで並べる脱欧米的作品に話を戻せばね、中国のコレクターも欧米のコレクターと同様に、菅木志雄の作品を購入します。中国人は菅の作品がもっている論理的な構造を説明すれば理解してくれるんです。菅の作品には漢字によって構築された構造があるから、そこに中国人は共鳴しているのかもしれません。
長者町 「漢字によって構築された構造」ですか。それを中国のコレクターと菅木志雄が共有しているのだとすれば、それこそ本源的な意味での脱欧米ですね。
山本 菅さんの大きな特徴はね、五十数年もあのつくり方していると、大概の人はうまくなるんですよ。でも菅さんのすごいところは、五十年経っても上手くならない。上手くなると工芸になる。あの上手くしないところが、脱欧米なんじゃないですかね。
長者町 戦後日本の現代美術は、仕上げを上手くしない頑固さによって、ありきたりな日本美術になることを避けてきたっていうわけですか。
山本 そう。西洋自身の美術も、戦後にものすごく東洋から影響を受けた。ロバート・マザウェルが「書」から影響を受けたり、ジャクソン・ポロックも書の本を観ていたり。周辺国の文化が、西洋の中心に戻って来る。イヴ・クラインと日本の美術が合うのは、素材の扱い方が似ているところがあるからです。
脱西洋っていうのは、西洋自身の試みでもあった。西洋は周辺国の文化を取り込むことによって自分の過去を脱していった。そのときに日本も同時に脱西洋したんだ。だから両者のあいだにコミュニケーションが成り立つっていうことではないかなっていうのが、ぼくの見方。
長者町 そこはとても画期的な指摘だと思います。ただちょっと検証したいところもありますが。
山本 そうですよね。それはもう、ぼくが検証するんじゃなくて、あなただ。
5 脱欧米を意識しなかった日本画
長者町 言ったもん勝ちみたいですね。
それはそうと、一九七〇年代に日本画家たちも、脱欧米の主張をもってもよかったと思うんだけど、しかし実際には、そういう動向が日本画家からではなく、もの派の方から出てきたというのは、一種の転倒があのとき起きていたのかなとぼくは思ったんです。それは画廊から見ていてどうでしたか?
山本 それこそ多くの日本画が西洋絵画になってしまった。
あの時代にね、一九六〇年代にいちばん日本に衝撃を与えたのはね、あらゆるジャンルに前衛がついたでしょう。前衛書道、前衛舞踏、前衛華道で、日本画だけ前衛がついてないんですよ。だからぼくから見るといまの日本画は材料が違うだけで、ほとんどが明治以来の西洋絵画です。
それはなぜ起こったかっていうと、書画一体だったのに、明治になって書と画が離れたからです。藝大に書がなくなってしまった。
長者町 ほんとだ。東京美術学校は日本画中心の教育だったのに、書の専攻がなかった。東京音楽学校のように邦楽部が蘇らなかった。
山本 書と画が離れたので、藝大の先生たちはもう書をやらなくなり、水墨画を描かなくなり、いわゆる東洋画を描けなくなった。以前、イルカをモチーフとした先生が学長になったとき、書を復活させようと思ったらしいですよ。そしたら、誰を先生にするかで揉めて実現できなかったと聞きました。
日本画は額装になり、どんどん厚塗りになる。そのうち輪郭線も無くなって、もう日本画はぼくにとっては模様にしか過ぎないような感じになってしまった。
長者町 もしも日本画が「日本」に拘らなくなると、日本画家はなにを考えて表現していくんだろう。
山本 いや、考えてないでしょうね。
いままでにぼくが真の日本画家だと思ったのは高山辰雄です。晩年の高山先生の作品を観たんだけど、シミを上手く使って描いている。それはマーケットにほとんど出てこないです。数点しかないから。持ち主は「これはね山本くん、先生は筆で線を描いてないんだよ」といってました。
すっごい。榎倉康二さんのやり方に近かったんだけど。だから高山先生だけは、ぼくはお会いしたことないけど、作品を観るかぎり日本画のこと考えてたと思う。詳しく調べれば、まだ他にもいるかもしれませんが。
長者町 高山辰雄のそういう画を、バーゼルのブースに並べられればいいですね。
山本 バーゼルで自分のブースに立っているとね、現地のコレクターはほんとに根掘り葉掘り聞いてくる。たとえば、「山本さん、これは日本画っていってるけど、どうなんだ?」とかね。彼らは説明できないものは買わない。だからそれで鍛えられるんですよ。日本国内だと説明求められないから。富士山がきれいねとか、桜がいいわねとかいうだけ。
よく考えてみたら、日本画にコンセプトがいらない最大の理由は、日本の定型詩である和歌が個性の表現を控えるのと通じているかもしれない。それで日本画家は、一月は富士、二月は梅、三月は桜といった具合に描いていても、時期ごとにお客さんが絵を買いに来てくれるんです。
長者町 日本画家がそういう花鳥風月で、いまだに商売しているって、そこまで言い切れるのは、やっぱり山本さんはすごいと思うよ。学芸員や美術評論家はそこまでいえない。
山本 でも、村上隆以降はすこし変わってきたかもしれない。
長者町 脱欧米をもの派の人たちがいいだしたっていうのは、結局、彼らから見て、同時代の日本画になにか期待できるものを感じなかったということじゃないでしょうか。
山本 それはね、この人たちに任せといても、脱欧米は多分進まないだろうと。だったら、自分のなかに少しはまだ残っている東洋文明を、もの派は探りだしたんでしょうね。あの世代のアーティストたちは、同時代の日本画に興味ないから。
長者町 先日、会田誠と話したんですが、彼もそんなようなことをいっていました。
山本 長者町さんと会田さんとの「対話」読みました。重要なのは、一九七〇年代の終わりころから、高松次郎さんが長谷川等伯とか、マチスの話をはじめたことでしょう。
七〇年代の初めまで、もの派の人たちは絵画、彫刻という名称を使っていなかった。平面と立体っていってた。それがとつぜん、高松次郎さんが絵画の話しをはじめた。その絵画の話はまずいんじゃないかと、李先生は話していたと記憶してます。
そこへ戻っちゃうと、やってきたことの意味がなくなるんだけど、でもマーケットを考えると絵画、彫刻っていう区分けはどうしても必要なんですよ。
長者町 そういうところが、山本さんのように現場で生き抜いてきた人の言葉だと思うんです。評論家からはそういう話が出てこないだろうし、出てきたとしても、傍観者的に上から目線で指摘するだけで面白くない。
それはそうと、もの派の人たちも日本画に興味をもたないというだけじゃなくて、日本画が近代になって帯びてきた政治性を批判の俎上に載せていたら、もの派の主張がもっと強靱になっていたとぼくは思うんだけど。
山本 日本画が帯びてきた政治性って、明治政府が王政復古によって築いた日本固有の文化という共同幻想を、日本画が美術の側面から形成したっていうこと?
長者町 そうです。国民を国家に集合させるために施行された国家主義的な政策、平たくいえば日本美術の伝統という文化的な制度が、芸術を個人の表現にしていくうえで邪魔なんだということをいってくれればよかったと思う。
山本 そこまで踏み込むもの派の作家は、ぼくの知るかぎりいなかったな。
長者町 この話をしながら、ぼくは峯村敏明さんからいわれたことを思いだしました。
ぼくが「もの派は、土や木や鉄に人間の馴致できない力を見出した」と書いたら、峯村さんに「むしろ反対だ。もの派は彼ら自身が振付師になって、それらの素材に演技をさせたんだ。君はそれが分かっていない」と批判されたことがありました。
いま考えるとね、峯村さんはもの派に自分の解釈した理想を投影していたんじゃないでしょうか。だってもの派は、日本画が近代の国家制度と融合して、日本画という概念を形成したことを批判していないんだから、もの派の脱欧米は従来の日本文明を感覚的に拒んだ程度の、身体反応のようなものなんだと考えざるをえない。そういうもの派が、日本美術の素材にたいして振付師として振る舞うだけの論理をもちえたとは思えないんです。
当時、もの派の人たちは若く、もっと直観的だったんでしょう。さっき山本さんは李禹煥の「編集されていない自然を再認識すべきだ」という主張を引き合いに出していましたが、まったくその通りで、登場してきたときのもの派は、編集されていない自然を直観したんだと思います。
山本 なるほど。
長者町 だから、もの派の脱欧米に堅固な思想を読み取るのは、贔屓の引き倒しになるんじゃないでしょうか。戦後の日本が欧米から学習した人間中心主義や合理主義に、右へならえしていくことにたいする違和感の表明こそ、彼らのいだいた脱欧米の本質だったといえないでしょうか。
山本 なるほど。そういうことかもしれないね。
話は日本画に戻るけど、会田誠さんの文章を読んでて思ったんだけど、日本画は結局サブカルチャーになってしまったからね。もうメインカルチャーじゃないんですよ。日本画家でぼくがいちばん評価してるもうひとりは、片岡球子です。日本が第二次世界大戦で負けたでしょ。富士山っていうのが、第二次世界大戦までは大日本帝国の象徴だった。あの人の富士は歪んでるじゃないですか。日本の歴史のなかで歪んだ富士描いたのは、片岡球子さんだけですよ。片岡さんの富士山には、戦争で負けたのは男で、私たち女は負けてないという意識をぼくは感じる。
長者町 もしもね、もの派と同時期の日本画家で、山本さんが面白いと思う人を東京画廊が取り上げたら、すごいね。もの派を相対化することができる。
山本 日本画で抽象を描く画家が京都にいます。ぼくが扱えるかもしれないと思った数少ない画家のひとりです。ただし、日本画の画商さんたちは彼の抽象は扱いづらい。そう、売りにくいから。ぼくもやってみようと思ったけど、でもそこまでまだ踏み切る勇気がない。
長者町 そういう人の画が東京画廊で展示されるとね、日本画家が独自に自分の原点に目覚めたという感じがして、ぼくは期待したいですね。
6 新人作家を扱うマーケットの作り方
長者町 これは俗な話だけど、さっき「そこまでまだ踏み切る勇気がない」とおっしゃったけど、商業画廊の個展では一回外すとすごい赤字になるんですか?
山本 いや、そうではなくて。最低でも同じような傾向のアーティストが三人いないと、マーケットをつくれないんですよ。さっきの高山辰雄先生にしても、晩年の五点しかないですよ。これでは世界に打って出られないんです。最低でも数十点なきゃいけない。
さっき話した抽象を描く日本画家の場合も、数十点あればぼくは打って出るかもしれない。まず展覧会で二十点並べて注目を得られれば、つづいて他の作品も芋づる式に売れてマーケットができる。
長者町 なるほど。やはりマーケットの形成ですね。
山本 いや極端にいうと、まず日本の美術館が取り上げてくれるのか?
長者町 ことは画廊と美術館との連携ですか。
山本 だっていま、東京画廊を訪ねる若い美術館の学芸員は減ってしまった。
長者町 それは知らなかった。
山本 むしろ外国のキューレーターは以前より増えていますが。
長者町 ちょっと整理するとね、もの派の脱欧米に匹敵する日本画家が、ある程度人数が揃って、作品も何点か継続的に制作される見通しがつけば、そういう分野を取り上げてもらえる可能性はあるということですか?
山本 さっきやってみたいといった京都の日本画家は、なんで抽象的な作品を一生懸命描いてるのかっていうのは、非常に興味ありますね。
長者町 ところで、東京画廊は陶磁器をつくっている近藤高弘さんも扱っているけど、やはり類似した作家が三人いるんで、彼を象徴的に取り上げているってことですか?
山本 近藤さんを取り上げた理由は、彼がもの学を研究する会に参加していると聞いていたからです。それは京都大学の宗教哲学科の蒲田東二先生が主催する研究会で、そこに関根さんと小清水さんを招きたいと近藤さんがいうんで、興味をもったんです。
それに近藤さんは若いので、グループを組める人が三人いなくても、彼の制作能力がものすごくしっかりしてるので、彼とだったらやってもいいなと思って。
長者町 またしても、もの派が縁だったんですね。
山本 近藤さんもぼくと付き合うようになって、少しずつ作風が変わってきた。いままでの造形的なものは、ぼくはあまり理解できなかったけど、彼のある映像作品を見て、これを実体化できるかなっていったら、頑張ってみますって。
近藤さんは卓球のチャンピオンだったから、ロクロのスピードが速くて、あの大きい壺を一気に引きあげる。たぶん運動神経と動体視力が全然違う。
長者町 さっきのバーゼルの例でいうと、欧米のお客さんには、近藤さんの作品をなんて説明するんですか。
山本 バーゼルには銀滴の作品を主に展示して、実験的な作品はまだ一点しか出品していない。ぼくは英語が話せないので、スタッフはなんて説明してるかな。
長者町 日本人のお客さんには?
山本 まず八木一夫の説明からですよ。八木一夫さんたちから前衛陶芸が普遍性をもちはじめたと思って。だから、その前衛陶芸の後継者に近藤さんを位置づけたいと考えてる。
長者町 前衛陶芸って、なんだったんですかね。陶芸を前衛かそうでないかで分けて見てしまうと、結局は陶芸も日本の前衛美術と同じように、欧米化の潮流に回収されてしまうのでは。それよりも、陶芸から使用価値を排除したところに、八木一夫たちの最大の功績があるように思います。
山本 そうです。使用価値がないっていうのが、僕のアートの前提条件なんで。近藤さんの作品は使用価値がないから、これは八木さんからつなげられるのかなと。
長者町 私たちは習慣的に、西洋画だとか、日本画とか、陶芸というジャンルの言葉を使ってるけど、実はこういうジャンル分けも意味を喪失しつつあるんでしょう。
山本 それはまったくその通りだと感じます。ただ、取り上げてみると、前衛書も前衛華道も、そもそもの教養体系がないのはダメですね。
古典を学習するには、現代では血筋で追求する方法と、才能で追求する方法がある。前者は家元制度がそれにあたります。才能の方は環境に左右されるので難しいところもあります。血筋と才能をどのように結びつけるのか、それはこれから可能なのか。
長者町 家元制度というのは、書道、華道などの「道」がそれにあたるんでしょうが、いま道は硬直化していますから、そこから才能が飛びだすのは難しいでしょうね。
山本 そうですね。
7 画廊の中国進出
長者町 ところで、東京画廊が中国に進出した話に移りたいんですが、中国に出かけていって、そこで画廊を経営することになったわけですが、そこでは日本の美術品を中国で売ろうとしたのですか、それとも中国の美術を世界で売ろうとしたのですか?
山本 両方です。
長者町 それって、中国の人たちから見ると、日本がまた戦前のようにやってきて何かを押し付けるんじゃないかっていう、そういう懸念とぶつかることはありませんでしたか。
山本 弟が北京に画廊を開くときに、いちばん彼が考えた懸念です。だから東京画廊の名前つけずに、BTAP(ビータップ、ベイジン東京アートプロジェクト)と名づけて、日中の文化交流をする場所にした。でも、中国のアーティストたちはすぐ東京画廊だと気がつくから。それでよかった。一般の人に東京画廊と分かんなければ。そういうようなことではじめました。
長者町 向こうで画廊を開くということは、そこで作品を並べたり、つくらせたりするわけでしょ。そのとき、どういう文脈でやったんですか。つまり日本美術には欧米から自立した精神がある、だから一緒にやりましょうと提案したのか、それとも中国人が理解しやすい現代美術にたいする考え方ってあるでしょうから、そこで一致点を見いだそうとしたんですか。
山本 一九八九年に初めて現代美術を志向する人たちと会ったとき、アーティストたちは西洋のことを知っていました、情報としては。だから制作もしてるんだけど、そもそも彼らは脱欧米なんだと思います。日本人ほど欧米にあこがれないため、近代美術を超えて現代に入りやすいのかもしれません。
長者町 そこは難しいですね。世界や欧米のことを知っていた中国のアーティストは、どうして脱欧米の視点に立っていたんでしょう?
山本 だって中国のアーティストは、中華思想は基本的には西洋文明より上だと思ってるんです。
長者町 彼らは井の中の蛙とは違って、懐の深い自信を秘めていたわけですね。
山本 知ってて、なおかつ、中国のアートの方がすごいんだぞと思っているわけ。だって世界中が北宋山水画とかを認めてるじゃない。
長者町 でもそれって、過去の美術の話ですよね。
山本 いや、過去でもいいんですよ。
長者町 いまのアーティストは、いまの作品をつくるんじゃないの?
山本 いや、そういう風にアートの歴史を区切ってはいけないってことです。アーティストで自国の過去の伝統を知らない人でも、それをもういちど学び直せば、世界に俺たちのものが通用するんだと分かるんです。世界は日本の水墨画よりも、中国の北宋、南宋の水墨画の方を知ってるでしょ。
長者町 たしかに、中国の水墨画の方が源泉だ。
山本 でしょう。それだったら西洋文明に中国文明を対抗させられるじゃないですか。日本はできにくい。
長者町 中国の現代美術家たちは、自分たちの歴史の過去を学んでいて、なおかつ海外のことも知ってると。そこからどんな芸術がでてきたんですか。
山本 中国文明を明確に意識したひとりの芸術家が生まれた。それがシュー・ビン(徐冰)です。彼は、意味のない四千字の漢字をつくった。しかも木を彫った活字体でです。
そもそも中国の漢字は七万字以上あるらしい。で、彼と話して面白かったのは、「山本さん、漢字って自分たちがオリジナルだけど、周辺の人たちがそれぞれに独自の漢字をつくっているんです。だから西夏文字とか女真文字が、文字としては残っている。民族は拡散してしまったけど、でもその文字は漢字の一種なんです」っていうんです。
「峠」が中国の漢字にないように、日本人もたくさんの漢字をつくった。なんか資本主義に似てると思いませんか。近いじゃないですか。周辺の国が漢字を学んで、それぞれ独特な漢字をつくるなんて。そういうことにシュー・ビンは気がつくわけですよ。
偽物の漢字をつくって残すと、この漢字を使った民族が過去にいたなんていうコンセプトが立つ。彼は東京画廊に――その漢字は箱に入ってるんですけど――二十冊、ニューヨークに二十冊、それから台湾に二十冊っていう風に。それぞれの画廊に、「これは美術館に入れないで図書館に入れるように」と言いました。
そんなスケールあることを考える日本人の作家に、いままで会ったことがないから、中国の人はすごいなと思った。これは中国を仲間に入れた方が、世界と戦えるんじゃないかと。
長者町 北京に画廊をつくって進出したのは、中国にはそういう内も外も自覚してるアーティストがいるから、彼らを世界に紹介したいというのが目的だったんですね。
山本 それを父がまず韓国で実行したんです。さっき話した「五つのヒンセク(白)」という韓国の現代アーティストのグループ展がそれです。
長者町 お父さんは冒険精神のパイオニアだ。数回しかお会いしたことがなかったけど、そのときもそう感じました。
山本 その五人のアーティスト以外にも、李禹煥さんたち韓国のアーティストを父の代から二十数年、三十年ぐらい扱ってきた。なんと東京画廊が韓国の現代美術にとっていちばん重要な画廊になってしまい、三年ぐらい前に韓国の現代美術館がその資料をアーカイブすることになり、資料を全部向こうへ貸しました。
文在寅の政権下でしたから心配しましたが、学芸員の方々が頑張ってアーカイブをつくりました。「大変でしたね」と訊いたら、「いや山本さん、東京画廊にあったこの韓国作家の資料がないと、韓国の現代美術の歴史に空白が生まれてしまう。だからアーカイブをつくった」といってました。
長者町 その話を聞いてるとね、それこそ日本が近代になって、朝鮮や中国に出かけていって、その国の考古学を研究して世界的な成果を上げたことを思いだします。文化自体はその国にあっても、その国の人たちが十分に意味を理解していないんで、それを日本人が外部からの視点で客観的に捉え直して価値を創造していった歴史です。
山本 そこです。父は五つのアジア展を企画しました。古美術を中心に。中国の磨崖仏碑の拓本、朝鮮の肖像画と民画、クメールの仏像、それから、チベットのタンカとインドのタントラ。この五つの展覧会です。杉浦康平さん、田中一光さん、横尾忠則さんらにカタログのデザインを依頼しました。多分、父は自分が勉強したいので、その展覧会やったんだと思います。
ぼくが中国にハマったのは、書家の比田井南谷先生のお父さんである比田井天来さんが持っていた磨崖碑の拓本を見せてもらったからです。素晴らしかったですよ。
長者町 それは、民藝の柳たちが朝鮮に行ったことにつながりますね。
山本 父は日本民藝館のこと知ってたから。柳さんのことも分かっていると思います。
長者町 なるほど。民藝運動と通底する問題意識があって、お父さんは中国、朝鮮に目を向けたということですね。
山本 とうぜん父は現代美術を探しに、中原祐介先生とフィリピンにも行ったし、ぼくもインドまで行ったんだけど、さっきの日本画と一緒で、やっぱりインドまで行って現代美術を探すのは、仕事としてはもう無理だと思い、いまこの三つの国、中国、韓国、日本に絞ってるのが現状ですね。
長者町 さっきもいったけど、お父さんの流儀は民藝の柳たちの活動を彷彿とさせる。それがいまの東京画廊に繋がっているんですね。
山本 日本の文化の成り立ちにアジアは欠かせないと考えたのでしょう。ただ民藝の矛盾点は、無垢の人たちが過去につくっていたものを、なぜ現代の作家につくらせたのかということですよね。過去の美しさは、現代では再現されないでしょう。多分そこはね、京都の先生、民藝を代表する彼は、その矛盾点にどっかで気がついていたんじゃないかな。
長者町 河井寛次郎ですか。
山本 そう。どう考えたって、河井寛次郎さんのあの洋服の着方を見てると、制作のときは作務衣を着てロクロ挽いてますけど、街を歩くときの河井寛次郎さんは英国紳士風じゃないですか。民藝作家といっていいのかどうか、後ろ側になんとなく植民地主義の匂いがするし、そういうのがあるんじゃないかなって感じてましたけどね。
長者町 つまり民藝の視点でアジアに行って、そこでなにかを掴んで帰ってくるのは、日本人にとっては重要な意味があるけど、現地にいる中国人や朝鮮人からすると、迷惑なところもあるということですね。あなたたちはこういう人たちなんですよ、気づきなさいっていってるようなもんですから。
よくいえば啓蒙だけど。率直にいえば、他人の家に入り込んでいって、あなたの家はこういう家なんですよって諭しているようなところがある。日本民藝館の設立運動をはじめたころから、柳たちは日本の民藝に目を向けだしますが、それは大東亜戦争の影響で活動が内向きにならざるを得なかったんだけど、でも同時に朝鮮や中国と訣別するいいタイミングだったかもしれない。もっと朝鮮と関係していたら、国内からつよい反発があったかもしれないですから。
山本 これと似た構造は、カピタンと浮世絵の関係でもいえます。オランダ人は大量の浮世絵を出島から持ち出した。日本人は浮世絵に資産としての価値を置いてなかったから、それを禁止しなかった。明治になって林忠正は、パリでそんな浮世絵に新しい価値を与えていった。それはジャポニスムというコンテキストのもとでの、浮世絵の再生だった。なんかこういう見直しと、同じような気がしないではないですよね。
8 他者との接触が価値を生む
長者町 似てますね。確かに。
山本 やっぱりアートの本質は、他者と触れあうことだね。
長者町 他者との遭遇から、価値が生まれてくるんでしょうね。西洋の植民地政策はその典型で、支配された側からすれば、すべてを奪われたということになるでしょう。一方、芸術の面ではその不幸な遭遇から、新しい芸術が生まれるきっかけにもなったのでしょう。
山本 確かに支配される側は、なにしに来やがったんだと思うけど。でも朝鮮の白磁は、日本人がこれだけ取り上げたが故にマーケットができたっていうことがあると思う。浮世絵も西欧の人たちが取り上げたからで、だから痛し痒しだよね。それを被害者と加害者の対立として、ずっと引きずるのか。表現の歴史的経緯でいうと、そういう出会いが新しい価値をつくっていくっていうことを、なんかもうちょっと言い方があるのかなって思う。
長者町 山本さんがいってる資本主義というのは、そういうことなんだろうね。要するにマーケットの形成だ。理念とか価値観の問題だけで自他の問題を考えるんじゃなくて、そういうものを超えたところに芸術の生成があるんでしょうね。
山本 そうですね。ある意味さっきいってた、ほら、素材はどこにだってあるじゃないかということです。それと同じ意味で、マーケットはいまやもうどこにでもあるわけじゃないですか。ロシアにだってあると思う。そういうところで、他の問題っていうのは、アウフヘーベン(止揚)していけるっていうのかな。
長者町 そうですね。山本さんのいう資本主義は重要だ。
山本 ぼくがアーティストを選ぶことでは、あくまでも山本豊津っていう個人が、ある個人のアーティストと出会うってことではないですか。そのときには美しさは関係ない。
長者町 それは関係ないです。美しさを決めるのは力関係や、権威ですから。
山本 そうじゃなくて、珍しいっていうことなんですよ。
長者町 だけど、なにをもって珍しいかっていうことになると、柳が朝鮮に行って白磁を発見したように、「珍しさ」は日本の朝鮮進出があったからこそ認識されたんじゃないでしょうか。そういう力関係がなければ、李朝の白磁は特別視されていないはずです。
山本 資本主義の活力はどこから生じるかっていうと、珍しさだとぼくは思う。
長者町 山本さんが語っているのは、出会いの美学とでもいうべきことではないですか。でも、珍しいものとの出会いがあって、そこに美が付随していたとしても、そういう珍しさは一瞬のことで、すぐに政治や経済のような、山本さんのいうマーケットに回収されてしまうでしょう。
やっぱりね、誰がこれを発見した、誰がこれを珍しいといったかということが価値をつくっていく。たとえば草間彌生のカボチャだって、珍しかったのは最初だけで、その後は美しいとか芸術的だという価値を、批評の力で保持してきたではありませんか。
山本 いや、それはなんでしょうか。珍しいものを集めることが、ものすごく価値をつくるんですよ。分かります? 世界で最初に美術が売買された事例を考えると、それは一七〇〇年代のことです。十八世紀に、イギリスでは二つのオークション会社がつくられている。サザビーズとクリスティーズ。美術商が現れる前なんです。
ということは、いかにイギリスが世界中のものをたくさん集めたかってことなんですよ。たくさん集めてから大英博物館を建てコンテキストを形成して、この価値概念は今日までつづいているとぼくは思ってるんです。それを考えると、まず珍しいものを集めることが重要で、そのコンテキストを形成するのはつぎなんですよ。
長者町 最初に珍しいものありきか。
山本 そのコンテキストができると、コンテキストに従って一般の人はものを見るようになるから、はじめて美しいっていう概念ができるんですよ。
だからぼくたち美術商は、とくにプライマリーのギャラリーは、やっぱり珍しさが先端にあって、アーティストに会って素材、技術、考え方を訊いたときに、珍しいなとか、おもしろいなと感じたときが、扱おうと決める動機の発端になる。そういうアーティストを何人か集め、さっきいったように最低三人を揃えないとコンテキストができないんだ。
長者町 それならよく分かる。結局ね、珍しいっていう言い方自体が、価値の源泉になっている。私はその珍しいという言葉以前に、自国の日本にないもの、ヨーロッパならイギリスにはないものにたいする関心があって、それを所有したいっていう願望が資本主義やマーケットの根っこにあるだろうと思ってるんです。
山本 でもそれは、柳の時代までだと思う。もういま、僕たちのこの資本主義の社会はね、自分の国にないものから、世界にないものというレベルになってきている。
長者町 人類が知らないこと、というレベルですか。
山本 ぼくたちと同時代の人が知らないこと。たとえば、昨年のアートバーゼルでイギリスのリッソンギャラリーのブースに行ったとき、中国人でアメリカに住んでいるアーティストの絵画を見たんです。これは面白かったですね。ぼくはあの人だったらやってみたいと思った。でももうそれはリッソンに所属していているからあきらめた。それとかベルリンの若いギャラリーの若い女性のメキシコ人アーティストも面白かった。ただ、それは日本にもってきてもまず売れないなと思ったんで手を出せなかったけど。
やっぱりぼくが扱いたい大きな動機は、必ずしも日本で珍しいんじゃなくて、これは世界でもいままで見たことがないなって。だからバーゼルに行かないと、世界が見えないじゃないですか。もしくはヴェネチア・ビエンナーレとかで体験をたくさん積むしかない。
逆に、いま日本の陶芸をイギリスのギャラリーがアーティストの一本釣りをしてる。彼らも日本の工芸に、自分たちが見たことがないものを見てるんじゃないかなと思うんですけどね。
長者町 山本さんは、やっぱり現場にいるんですね。だから、珍しいという言葉が躊躇なく出てくるんでしょう。ぼくなんかまだ美術史のしっぽが残ってるから、珍しいという言葉が、価値を帯びないで語られると戸惑ってしまう。でも山本さんは直観で、まず見たときに珍しいって言葉で接してるんだろうな。そういう風に感じます。
山本 大英博物館が凄まじいと思うのは、約八〇〇万点のコレクションを持ってるわけでしょ。ルーブルでも約二五〇万点だから、大英はルーブルの三倍持ってて、アメリカのメトロポリタンも三〇〇万点ぐらい。日本の東博は十二万点ぐらいじゃない。もうとても勝負にならない。
それから、先ほど話した生け花のことだけど、五年以上前に立花をパリで立てられるかとエルメスに頼まれたことあるんです。問題は花材ですよね。日本から花材を持っていかなければと。冷凍して宅急便で送るとか算段してたら、ブローニュの森である程度揃うんですよ。ジャポニスムの時代に種や苗を持っていってたんですね。
長者町 そうか、そうか。
山本 イギリスのキューガーデンでも日本の立花の花材が揃うんですよ。だから西洋人のやった植民地政策は、われわれが考えてるレベルの植民地じゃなくて、根こそぎっていう感じが恐ろしいですよね。
長者町 結局そういう好奇心を山本さんは、画廊という現場で培ってきたんでしょう。ところが研究者とか学者ってのは、それを道理で説明してしまう悪い癖がある。たとえば、「イギリスの女性貴族はキューガーデンをつくって、自分たちの生活様式を近代化していった」という風にね。
珍しさを直観的に感受して、それを資本主義の発展に山本さんが結び付けているのは、なるほどなっていう感じがしました。
山本 それがなんかね、いまちょっと面白いなと。
長者町 ただ、そういう資本主義に不安もあるけどね。
山本 それは大いにあります。
長者町 山本さんが最初にいってた、「技術とは文明だ」とか、「異なる文明との遭遇が価値を生む」とか、「珍しさが価値の源泉だ」というところは共感できるけど、それらを資本主義の問題として括ってしまうと、どうだろう。
資本主義っていうのは、結局、人類の生存活動を正当化する経済活動だから、芸術の価値まで資本主義で括ってしまうと、そういう資本主義は、今日まで人類がやってきた気候温暖化、海洋汚染、原発事故、そして戦争による殺戮といった歴史のすべてを肯定する理屈に使われてしまいそうな気がするんです。芸術ってのは、人類がやってきた功利的な「自然の編集」に抵抗するための最後の砦であって欲しいとぼくは考えています。だから、人類の生存活動を無条件に正当化する考え方が、ぼくにとっては不安なのです。
山本 なるほど。でも正当化しているつもりはないけど、あくまで商人の考えと察してください。
長者町 近代日本は生存活動の歴史を、同調圧力によってなし崩し的に正当化してきましたが、そうでない方法をバーゼルや北京で見つけてきてください。

(二〇二六年二月一八日 装飾研究所)

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