岡倉天心(おかくらてんしん)の名前を、聞いたことがある人は多いと思います。しかし、どういう人かと問われると、明確に答えられる人は少ないのではないでしょうか? 肩書きは、美術行政家、美術史家、思想家と幅広く、当時の人としては珍しい英語を使いこなしていた知識人。そんな天心を生涯の師と尊敬していた横山大観(よこやまたいかん)は、「天心は英雄であり偉人であり、計り知れないものである。我々のような小さなものには、到底わかり得ない」と語っています。
誰もが認める非凡な才能を持ち、天才と呼ばれた天心ですが、その生涯は波乱に満ちたものでした。激動の人生を駆け抜けた、偉人の足跡を辿ってみたいと思います。
幼少期より育まれた英会話術
天心は、文久2(1864)年に、福井藩士の父岡倉覚右衛門(おかくらかんえもん)の次男として誕生します。幼名は岡倉角蔵(おかくらかくぞう)。後に本名を岡倉覚三と改名しています。「岡倉天心」は雅号です。
天心が生まれたのは、明治維新直前に開港地となっていた横浜の本町でした。福井の下級武士だった父は才能を買われ、江戸藩邸詰めを任命されるほど出世しました。その後、横浜で貿易商「石川屋」の支配人となります。店には西洋人も出入りしていたことから、天心は幼少期より英語に親しんで育ったようです。
孤独な環境からエリートの道へ
9歳の時に、思わぬ不幸が訪れます。妹を出産時の産辱熱で、母が急逝してしまったのです。天心は親戚の家に預けられた後、長延寺の住職に預けられます。ほどなく父が後妻を迎えたからなのか、英才教育のためだったのか、理由は不明ですが、幼い天心には理不尽に思えたことでしょう。他の兄弟は家族と暮らしているのに、なぜ自分だけが? 父を恨む気持ちが芽生え、優しかった母への恋慕が、後の女性問題に影響したのではと、言われています。
ただこの寺で漢学の知識を深めたこと、英学校に通って基礎英語を習得したことは、後の活躍の基盤となるものでした。12歳になると、父が東京へ移って旅館を営むことになったため、家族と共に上京。そして14歳で東京開成学校(後の東京大学)へ入学を果たします。学費を支給される給費生(きゅうひせい)待遇だったことを考えると、いかに優秀だったのかが伺えます。
フェノロサと進めた日本美術の保護と研究
天心が東京大学(東京開成学校から改称)で、外国人教師として招かれていたアーネスト・フェノロサ※1と出会ったのは、運命だったのかもしれません。通訳や翻訳など日本美術研究を手伝ったことが、将来の進むべき道の足がかりとなりました。また興味の赴くままに、文人画を習得し、英米文学をむさぼり読む天心は、学内で異色の存在でした。明治12年(1879)年には、18歳で相思相愛となった基子(もとこ)と結婚します。
翌年に大学を卒業すると、文部省に入り官員となった天心。命をうけて、旧知のフェノロサと共に京阪地方の古美術調査※2を行います。明治17(1884)年 、法隆寺夢殿(ほうりゅうじゆめどの)で、寺の僧侶が拒むのを説得して、約200年ぶりに秘仏を開帳した時の驚きの言葉が残っています。「実に一生の最大事なり。光背(こうはい)※3に描ける焔(ほのお)のごとき、ことに鮮明なり」
聖徳太子の等身像とも言われる、救世観音菩薩立像(くせかんのんぼさつりゅうぞう)は、フェノロサも「側面の美しさにおいて、古代ギリシャ彫刻に迫る」と絶賛。これらの公になっていなかった膨大な宝物を調査し、ランク分けして国宝に指定する作業を、天心とフェノロサは推し進めました。保護のための作業を通して、日本美術史と、美術史学の研究も並行して行われました。
東京美術学校を設立し、校長として活躍
明治19(1886)年、文部省の美術取調委員(びじゅつとりしらべいいん)としてフェノロサとアメリカ経由でヨーロッパを巡り、翌年帰国すると東京美術学校※4幹事を命じられます。同校の創設に努め、開校後の明治23(1890)年には、校長に就任しました。この時、天心は若干29歳。年長の筆頭教授の橋本雅邦(はしもとがほう)は、才気溢れた若き校長に従い、また終生支えました。横山や下村観山(しもむらかんざん)、菱田春草(ひしだしゅんそう)といった画家も輩出し、彼等も天心を崇拝し、行動を共にしました。
学校運営と共に古美術調査の縁で、帝国博物館の美術部長も兼任します。また同時に美術専門誌『国華(こっか)』※5を創刊。第1号には、自ら円山応挙についての論評を執筆しました。凝った印刷の豪華雑誌で、1円という破格の値段に、世間は驚きました。当時の小学校の先生の初任給が8円程度だったことを考えると、いかに高額かがわかります。
初めての挫折
天心は八面六臂の活躍ぶりでしたが、思わぬ落とし穴が待っていました。美術学校騒動※6が起こり、校長辞任を決意せざるを得なくなったのです。早くから世間に認められ、日本美術の世界をリードしていた天才に、突如訪れた失脚劇。初めて味わう挫折でした。まだ37歳という年齢で、校長職以外の肩書きも、全て失ってしまったのです。
騒動の原因となった不倫の代償で、家庭も崩壊寸前でしたが、別居していた基子が戻ってきたので、元のさやに。しかし、不倫相手の九鬼波津子(くきはつこ)※7は精神を病んで入院の事態に陥ります。この一連の出来事は、天心に虚無感を植え付けたようです。当時作った俗謡に、心境がしのばれます。
谷中、うぐいす、初音の血に染む紅梅花、常々男子は死んでもよい。
奇骨侠骨、開落栄枯は何のその、常々男子は死んでもよい。
一見勇ましい書生調の唄ですが、死を身近に感じていたのでしょうか。失意の天心でしたが、教え子や同士は、彼を見捨てませんでした。橋本や横山らは、美術学校を辞職してついてきてくれたのです。気持ちを奮い起こした天心は、在野の美術団体・日本美術院を創設します。天心は資金調達から指導と精力的に活動し、大観たちは後世に残る名作を多く生み出しました。
新しい活躍の場を国外に求めた天心
順調な滑り出しを見せた日本美術院も、次第に勢いを失います。こうなると出てくるのが、天才・天心の悪い癖。元々一つのところに落ち着くのが苦手で、かつて8年の間に8回もの転居を繰り返したこともあったとか。その度に出費がかさみ、米代に事欠くことがあっても、全く気にしなかったようです。
天心は、問題山積みの日本美術院を人にまかせ、突然にインドへと旅発ってしまいます。残された者にとっては、はた迷惑な行動でしたが、インドの旅で得た経験から生み出されたのが、天心の名著『東洋の理想』です。仏教、儒教などのアジアの思想が、日本美術の中にどのように息づいているかを英文で論じた内容で、明治36(1903)年にイギリスで出版されました。
天心は日本人でありながら、文章での表現は英語の方が得意だったようです。その後、ボストン美術館の東洋部顧問に招かれると、明治39(1906)年に『茶の本』を書き上げます。茶道を通じて伝統的な日本の精神文化と生活を、英文で説いた内容で、欧米知識人の間で広く読まれて、評判となりました。昭和4(1929)年には邦訳も出版され、国内でも注目されます。
時代を先取りした天才の最期
英語を駆使してグローバルな活動をした天心は、人より一歩も二歩も先を進んでいました。明治40(1907)年に帰国すると、日本美術院の拠点を茨城県出浦(いづら)へ移します。風光明媚な土地での暮らしと、刺激的な海外とを、行き来して楽しんでいたのかもしれません。
激しい人生を歩んだ天心も、孫が誕生して、柔和な好々爺の顔を見せるようになっていました。けれども、幸せな時間は続きませんでした。体調不良を訴えるようになり、徐々に深刻な状態に。静養が必要と、大正2(1913)年、新潟県赤倉へ赴きます。病を押しての汽車旅だったので、ひょっとしたら死期を感じていたのかもしれません。山荘に着いた数日後に体調が悪化し、妻や家族、大観たち弟子が駆けつけます。
親族ですら「矛盾を抱えた人物」と評した天才肌の天心でしたが、最期は愛する人たちに見守られながら、永遠の眠りにつきました。享年52歳。日本美術に捧げた生涯を終えたのです。
参考書籍:『岡倉天心』斎藤隆三著(吉川弘文館)、『岡倉天心』大岡信著(朝日新聞社)、『岡倉天心アルバム』茨城大学五浦美術文化研究所監修 中村愿編(中央公論美術出版)、『日本美術史ハンドブック』(新書館)、『日本大百科全集』(小学館)