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朝倉文夫とは?東洋のロダンと呼ばれた作家の作品を紹介!

ライター
瓦谷登貴子
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朝倉文夫(あさくら ふみお)は、明治から昭和初期にかけて活躍した彫刻家です。生涯で400点以上もの作品を生み出し、近代日本彫刻のアカデミズムを体現したと評されました。リアリティに徹する作風から「東洋のロダン」とも呼ばれています。

フランスを代表する彫刻家と並び称されるほどだった朝倉の作品とは、一体どんなものだったのでしょう? そこで、朝倉の辿った人生と共に、珠玉の作品の数々を紹介したいと思います!

そもそも彫塑(ちょうそ)とは?

朝倉は、彫塑という技法を使って、多くの作品を制作しました。そのため彫塑家とも呼ばれます。アートに詳しくない人にとっては、馴染みがない言葉ですが、どんな技術なのでしょう?

一般に彫刻と呼ばれるものは、石や木を彫って作成。一方彫塑とは、まず粘土で形を作り、石膏で型取りをして原型を作ります。その後、原型を基にブロンズなどを流し込んで完成させます。朝倉はこの技術を後進に伝えるために、自宅を解放して私塾を作りました。現在は『朝倉文夫彫塑館』として一般公開されています。

兄の影響で彫刻家を目指す

朝倉は明治16(1883)年、大分県大野郡池田村(現豊後大野市)で、渡辺要三の三男として誕生しました。9歳の時に朝倉家の養子となり、19歳で実兄の彫刻家・渡辺長男(おさお)を頼って上京します。元々は俳句に興味があって正岡子規※1に弟子入りを考えていましたが、亡くなってしまったために、方向転換を余儀なくされます。

兄のもとで彫塑の技法に魅せられて、必死の受験勉強の末、明治36(1903)年に東京美術学校(現東京藝術大学)彫刻家選科に入学。すでに著名だった兄に追いつこうと技術を磨いたかいあって、明治41(1908)年に、第2回文展で『闇』が最高賞の2等賞を受賞します。大学卒業後、研究科に進学した25歳の時でした。この受賞で世間から注目されるようになり、その後も文展で連続入賞を果たします。

※1明治時代の俳人、歌人。俳誌『ホトトギス』などで活動。門下に高浜虚子、伊藤左千夫らがいた。

朝倉文夫(提供:朝倉文夫記念館)

猫好きが最初に制作した『吊された猫』

大の猫好きとしても知られている朝倉は、数多くの猫をモチーフにした作品を制作。モデルは実際に飼っていたペットだったようで、その愛らしい仕草や表情から、猫マニアを中心に人気です。この『吊された猫』は、最も初期の明治42(1909)年の作品で、猫の首の後ろをつまむ腕と、その腕に持ち上げられた一瞬をとらえています。

『吊された猫』(提供:朝倉文夫記念館)

代表作『墓守』を生み出す

明治43(1910)年に、27歳で発表した『墓守』は、朝倉の作品の中で、最高傑作と言われています。墓守をしていた老人が、朝倉の家の者がさす将棋を見て笑っている姿を写したものだとか。モデルにポーズを取らせたのではない、自然主義的なリアルな表現が、評価されました。平成13(2001)年に石膏原型が国の重要文化財に指定されています。

この作品を作るまでは、自分の表現したいテーマに合わせて観念的なモチーフを選ぶことが多かった朝倉。まさにターニングポイントとなった作品で、以降はモデルのありのままの姿を表現する作風に変化しました。まるで、そばに老人が立っているかのような自然な佇まい。また背負ってきた人生や内面が感じられるような表情に、惹きつけられます。

『墓守』(提供:朝倉文夫記念館)

躍動感溢れる姿が印象的な『砲丸』

長年にわたり彫刻という「静」の中に、いかに「動」を宿せるか。このことを追求する朝倉にとって、スポーツを表現するのは必然だったのでしょう。大正13(1924)年に41歳で発表した『砲丸』からは、選手の人体の躍動感が伝わってきます。まさに、東洋のロダンの面目躍如と言ったところでしょうか。

朝倉は、この作品を発表した時期から昭和19(1944)年まで、20数年にわたって東京美術学校彫刻家教授として指導し、多くの後進を育成しました。

『砲丸』(提供:朝倉文夫記念館)

戦後の女性裸像の代表作『三相』

昭和25(1950)年に67歳で発表した『三相』は、若い女性が背中合わせで立ち、「智・情・意」を表現しています。戦後に発表した作品の代表作の一つと言われています。この像は上野駅構内に設置されていますが、上野駅開設の年と、朝倉の生まれた年が同じなのが縁で、寄贈されたのだとか。

昭和23(1948)年には彫刻家としてはじめて文化勲章を受章と、日本の彫塑界をリードする存在となりました。

『三相』(提供:朝倉文夫記念館)

同窓生だった『瀧廉太郎』の像

『三相』と同年に制作した作曲家の瀧廉太郎※2の像には、エピソードが残っています。朝倉は郷里の竹田高等小学校で、瀧の後輩でした。そのため、約60年前の記憶にある、学校の式場でオルガンを弾いたり、全校生徒の前で尺八演奏した瀧への憧れや思いを込めて作成したのだそうです。

※2明治の作曲家。『荒城の月』、『お正月』などで知られる。父の転勤で、各地を転々としながら育つ。23歳の時に、大分で亡くなった。

『瀧廉太郎像』(提供:朝倉文夫記念館)

時代を超えて伝わる作品の魅力

朝倉は、生涯に渡り精力的に活動しましたが、昭和39(1964)年に81歳で亡くなりました。残された作品は、故郷の大分県豊後大野市(ぶんごおおのし)にある朝倉文夫記念館で見ることができます。建物の設計は、弟子の建築家・清家清(せいけきよし)が担当し、館内の展示構成は、娘の舞台美術家・朝倉摂が担当しました。ブロンズの代表作約40点が展示されています。

朝倉文夫記念館

東京都台東区にある『朝倉彫塑館』では、作品と共に、凝った造りの建物や庭が楽しめます。詳しくは、こちらの記事をご覧下さい。

ぜひ行ってみて!黒壁が目印の東京谷中「朝倉彫塑館」にある5つの石の意味

参考書籍:『日本美術史ハンドブック』(新書館)、『日本彫刻の近代』(淡交社)、『現代彫刻アンソロジー』(芸術新聞社)、『日本大百科全集』(小学館)

アイキャッチ画像:彫刻作品『砲丸』と並ぶ朝倉文夫(提供:朝倉文夫記念館)

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