菱田春草とは?近代日本画の改革に生涯をささげたその画業をたどる

ライター
ふじまるあやか
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菱田春草(ひしだしゅんそう)は、明治時代後期に活躍した日本画家です。

代表作のうち四点が重要文化財に指定されており、満36歳という若さでこの世を去るまで、数多くの傑作や問題作を発表し、短い人生を近代日本画の革新に捧げました。

その画業をじっくりと振り返ってみましょう。

『菱田春草肖像』 出典:国立国会図書館デジタルコレクション「近代日本人の肖像」

菱田春草の生涯

菱田春草は、日本画の改革に尽力した岡倉天心(おかくらてんしん)のもとで、横山大観(よこやまたいかん)、下村観山(しもむらかんざん)らとともに日本美術院を牽引し、近代日本画美術史に大きな影響を与えました。

非常に理知的な人で、さまざまな画法を試すなど、緻密な実験を重ねたといわれる春草。まずはその生い立ちからみていきましょう。

画家を志すまで

菱田春草は、南アルプスを望む風光明媚な長野県の飯田で生まれ育ちます。
菱田家は代々、飯田藩主堀家に仕えて御側用人を務めたこともある家柄で、幕末の動乱を生き抜いた春草の父は、飯田に設立された第百十七銀行の銀行員として生計を立てます。

春草は1874(明治9)年9月に菱田家の三男として生まれ、本名は三男治(みおじ)といいました。
三男治は幼い頃から絵が上手で、利発ながらわんぱくな子供だったといいます。

満5歳で地元の飯田学校に入学し、優秀な成績で高等科を進みます。のちに洋画家として活躍する中村不折(なかむらふせつ)にここで図画と数学を教わりました。
法律を勉強したいと言う春草に、画家になって画才を活かすよう強く勧めたことを不折は後に回想しています。

ちょうど三男治が飯田学校を卒業した翌年の1889(明治22)年の2月、東京美術学校(現・東京藝術大学)が開校します。

受験するにあたって、それまで学校の図画教育しか受けていなかった三男治は、兄を頼って上京。美校の助教授であった結城正明(ゆうきまさあき)に教えを請い、翌年の1890(明治23)年に三期生として東京美術学校に入学しました。

東京美術学校時代

東京美術学校に入学した菱田春草は、はじめから天才的な画才を示したわけでなかったようです。
先輩にあたる溝口禎次郎(みぞぐちていじろう)の回想によると、二年生頃から著しく成績が上がり、その傑出していることが学校中の評判になって、卒業期にもなるとその名声と期待は素晴らしいものだったとか。

当時の美術学校の実習は、「古画の模写」、「写生」、「新案」で構成されており、観念的な意味の表現を目指す「新案」は同校の特徴の一つでした。
春草は特に写生やこの新案を深く学びますが、卒業制作として提出した『寡婦と孤児』は、審査の場で論争を巻き起こします。

最優秀を主張する橋本雅邦(はしもとがほう)や岡倉天心(おかくらてんしん)に対し、ある教授が「化物絵」だとののしって落第を主張したのです。

菱田春草筆『寡婦と孤児』部分 明治28(1895)年 絹本彩色 東京藝術大学蔵 出典:東京国立博物館デジタルコレクション「新古画枠第8編(菱田春草)」

結局、校長の天心の裁定で、優秀第一席が与えられて決着しますが、この作品を天心や雅邦が高く評価した理由は、そこに「意味」の表現が認められたからでした。
ちょうど日清戦争が終結するというこの時局、『太平記』に題材をとったといわれるこの作品に、春草は国民が共通して抱いた感情を表現したといいます。

伝統を学び、写生を実践し、意味の表現を図ることが新時代の日本画であるという母校の教えは、その春草の絵画観の軸となりました。

古画の模写と画壇デビュー

東京美術学校を卒業してすぐ、春草は帝国博物館の模写事業に抜擢され、1895(明治28)年から翌年にかけて何度か近畿へ赴きます。

これは博物館の美術部長を務めていた天心の発案で、寺社に所蔵される古画の記録と活用を目的としており、描き手として最年長の小堀鞆音(こぼりともと)以下、横山大観や下村観山らとともに最年少の春草が選ばれました。

一緒に参加した溝口宗文(みぞぐちそうぶん)によると、「菱田君の写し出す色がいかにも如実で巧妙なのである」、また「緑青とか群青とかのごとき岩ものゝ古色を極めて無造作に作り出す」と、春草の卓越した再現力を伝えています。

菱田春草筆『模写一字金輪像』 明治29(1896)年 紙本彩色 東京国立博物館蔵 出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp/)帝国博物館模写事業における春草の模写作品の一つ

1896(明治29)年9月、春草が22歳の時に第一回絵画共進会(展覧会)に出品し、「従来の画法に拘わらず新たに開発を謀らんとするもの」と規定される第三部で初出品、画壇デビューを果たします。
共進会は美校のいわば大学院のような研究・発表機関でした。

ちなみに「春草」の雅号は、この時に出品した『四季山水』で初めて使ったとされ、美校受験前には「晴天(せいてん)」、普通科2年頃には「黄壑(こうがく)」、本科2年頃から「秋江(しゅうこう)」を用いています。
その後、一作しか使用例のない「長照(ちょうしょう)」を挟み、春草に落ち着いたようです。

菱田春草筆『微笑』 明治30(1897)年 絹本彩色 東京国立博物館蔵 出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp/)第二回絵画共進会に出品された作品で、人物の描写に古画模写の経験を生かされている。

日本美術院時代と「朦朧体」

春草が東京美術学校を卒業し、嘱託教員として働きはじめた矢先の1898(明治31)年、岡倉天心が校長の職を追われる、いわゆる「美校騒動」が起こります。

春草は橋本雅邦、横山大観、下村観山ら20名近くの同僚とともに天心に殉ずるように美校を去り、天心を中心とした日本美術院の創設に参加することになります。
このとき春草は満23歳。神田駿河台に移り住み、同じ年の7月に千代(ちよ)と結婚しています。

この頃の春草は、新しい試みとして没線描法(ぼっせんびょうほう)、いわゆる「朦朧体(もうろうたい)」に挑戦します。
それまで墨線や筆勢を重視してきた日本画の中で、墨線を取り去ったらどうなるのか、それは日本画であり得るのかを追求したのです。

菱田春草筆『菊慈童』 明治33(1900)年 絹本彩色 飯田市美術博物館蔵 
山にはぼかしの手法で効果的に表現され、人物の輪郭には墨ではなく衣服や肌の色になじむ色の線が用いられている。人物と景色の明暗を意識しながら繊細に描くことも没線描法(朦朧体)の特徴の一つ。

空気や光線などの表現の新しい試みであった没線描法の特徴は、墨線を用いず、かわりに色線を用いること、乾いた刷毛、すなわち空刷毛を使って色をぼかし重ねることの3つが挙げられます。

その結果、画面は全体にぼんやりとほの暗い雰囲気になり、風景表現では湿った空気や情趣といったものを表現することができるいっぽう、画面に明瞭さを欠いてしまいます。

「没線」や「朦朧体」とは、こうした表現や意味深長な主題への違和感から当時、生み出された批評言語でした。

菱田春草筆『霊昭女』 明治35(1902)年 絹本彩色 飯田市美術博物館蔵
澄んだ色彩の主彩画な作品で、初期の朦朧体に比べると、背景はほとんどなくなり、人物を際立たせて明瞭な画面になっている。

インドやヨーロッパへ外遊

1903(明治36)年、満28歳の時、春草は横山大観とともにインドへ半年、翌年にはアメリカ・ヨーロッパへ一年半に及ぶ外遊に出ます。

この外遊で彼らが西欧で見たものは、ターナーやホイッスラーのような、感覚に訴える色彩画が評価され、礼賛される様子でした。
そして日本では酷評された没線描法(朦朧体)が、西欧では予想外の好評を博すことになるのです。

春草と大観は、滞在費や旅費を捻出するためにニューヨークで3回、ボストン郊外のケンブリッジで1回、ワシントンで1回、そしてロンドン、パリでもそれぞれ1回ずつと、計7回もの展覧会を開きました。

この時、春草はこれまで多かった人物画や歴史画にかわり、かなりの数の風景画的な作品を描いたようです。
大観の回想によると、欧米人には朦朧体がアメリカの画家、ホイッスラーの作風に似て見えたらしく、いずれの展覧会も期待を上回る売り上げだったとか。

菱田春草筆『夕の森』 明治37(1904)年 絹本彩色 飯田市美術博物館蔵 
西洋の人々に、ホイッスラーなどの絵画を思い起させたとされる風景画の一つ。しかし必ずしも外国人向けの主題だったわけではなく、外遊前に日本で描かれた類作が存在する。

療養生活と早すぎた晩年

1905(明治38)年、外遊から帰国した春草は、大観と連名で発表した論文の中で、これまでの朦朧体などの実験の意義を、琳派を先駆けとする「色的印象派」への道を日本画に拓いたことにあると述べました。
これからは色彩研究を進めることを目標とすることを示し、翌年の11月に日本美術院が移転したため、春草も大観や観山らとともに茨城県の五浦に移住して、さらに画業を深めます。

春草の描く朦朧体が姿を変えはじめた矢先、春草の眼に異変が起こります。
慢性腎臓炎を原因とする網膜炎で失明の危機に遭い、春草は医師に制作を禁じられてしまいます。小康を得て、ふたたび筆を握れるようになったのは半年後のことでした。

東京、代々木に仮住まいして療養した春草は、徐々に視力が回復したため制作を再開しますが、3年も経たないうちに病気が再発。
1911(明治44)年4月には再び制作を禁じられ、その年の9月、視力が戻らないままこの世を去ります。
37歳の誕生日を迎える直前のことでした。

菱田春草の代表作

朦朧体の克服と新たな表現

春草は、最期の時期にこれまで挑戦を続けてきた新しい日本画の創生に、残された時間のすべてを注力します。
そして、亡くなる前のわずか二年あまりの間に『落葉』、『黒き猫』といった近代美術史上の名作と呼ばれる作品を生み出し、新たな表現の展開を見せました。

菱田春草筆『黒き猫』部分 明治43(1910)年 絹本彩色 重要文化財 永青文庫蔵 出典:東京国立博物館デジタルコレクション「芸術資料. 第三期 第六册 図書 金井紫雲 編 (芸艸堂, 1941)」 
何も書かれない背景と装飾的な表現により、写実的に描かれた猫の存在感が強くなっている。

装飾的表現と写実の重視

1909(明治42)年、春草35歳の時、代々木で再び絵筆が執れるようになった春草は自宅付近の林で写生を行い、ここから春草の代表作の一つ、『落葉』連作が生まれ、第3回文展に出品して好評を得ました。
春草は「画の面白味」を出すために明確な「距離」の表現を犠牲にし、「距離」をとらえた上でそれを放棄する、と語っており、それが作品の絵画空間を大きく飛躍させたことがわかります。

さらに、朦朧体の弱点を克服し、新たな表現を模索対象物の描写に対する意識が高まったことで、装飾的表現を追求し、さらに写実を重視するようになっていきます。

モチーフや手法、背景を描かない構図など、琳派の表現に近づいたことがうかがえますが、すでに海外で評価されていた琳派は国内に逆輸入され、「装飾」は新たな鑑賞会のキーワードとなっていました。
春草はこの時代をとらえて新しい日本画の要素の一つにしたのかもしれません。

菱田春草筆『春秋』 明治43(1910)年 絹本彩色・双福(右) 飯田市美術博物館蔵 

菱田春草筆『春秋』 明治43(1910)年 絹本彩色・双福(左) 飯田市美術博物館蔵 
無背景に近く、双幅として形態、色彩、構図のすべてで左右の対象をもくろんだ構成は琳派を念頭においたものと思われる。

菱田春草はその人生を一途に新しい日本画の創造のためにささげ、近代日本画の革新に重要な役割を果たして駆け抜けました。

しかし、完成や大成という域に達するにはあまりに短い生涯に、春草の悔しさを思うと胸が痛みます。
師の岡倉天心は、追悼文の中で春草を「不熟の天才」と呼び、盟友の横山大観は、自身が日本画の巨匠と呼ばれるたび、「春草君が生きていたら俺なんかよりずっと巧い」と口にしていたといいます。

もし菱田春草が早逝しなければどんな表現が生まれていたのか、そんなことにも思いを馳せながら鑑賞してみてはいかがでしょうか。

画像提供:飯田市美術博物館

参考書籍:
もっと知りたい菱田春草 生涯と作品(東京美術)
近代日本の画家たち‐日本画・洋画 美の競演(平凡社)
日本美術史(美術出版社)

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