近代日本の陶芸を芸術の極みへと昇華させた陶聖・板谷波山とは

ライター
黒田直美
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近代陶芸の巨匠として現代に名を残す板谷波山(いたやはざん)は、陶磁器の装飾技法を生み出し、独自のスタイルを確立させ、そのストイックさから『陶聖』とも呼ばれました。しかしその功績とは裏腹に『板谷波山』の名を知らない人も多いのではないでしょうか。

その理由の一つに、約60年に渡る作陶人生において、1年間に20点ほどしか作品を世に出さないという、陶芸家として寡作の人だったことが挙げられます。己の作品への厳しい基準があり、仕上がった作品も気に入らない点があれば、こともなげに破棄してしまったのです。自身の命の火を注ぎ込むように、生み出された繊細で美しい陶磁器は、一切の妥協を許さない完成されたフォルムと徹底した釉彩へのこだわりの結晶でした。

創作意欲だけでなく、美を極めることを天命とした波山の生きざまは、血のにじむような思いで作陶を続けた生涯努力の人として伝えられています。幾度もの挫折と極貧生活を乗り越え、陶芸家の道を極めた板谷波山の生涯に触れます。

画や書、やきものに囲まれる生活の中で育まれた素養

波山は、明治5(1872)年、下館町(現在の茨城県真壁郡下館町)の御用商人も務めた裕福な町人の家に生まれました。父・増太郎は文人画をこよなく愛し、茶道の嗜みもある教養人で、波山も幼い頃からやきものに親しむ環境にありました。そんな波山は、商家への丁稚が性分に合わず、家業も継がず、体格検査ではねられ軍隊への入隊もできないという挫折の末、明治22(1889)年、東京美術学校(現:東京藝術大学)へと進みます。当初希望していた陶芸科の開設が2年後と知り、彫刻科へと入学。これが後の波山の作風に大きな影響を与えることになりました。また、この時に生涯の友となる、後に文化財保護の基礎を築くことになる新納忠之助(にいのちゅうのすけ)と出会います。

二人の師、岡倉天心と高村光雲から薫陶を受ける

波山は恩師である岡倉天心(おかくらてんしん)の掲げた「古典を基本とし、古物の描写で歴史、写生で自然を学び、新たな芸術を生み出す」という理念に加え、彫刻科で高村光雲(たかむらこううん)から徹底した写実主義を伝授されました。また、二人の薫陶を受け、波山は陶磁器をキャンバスに、繊細で美しい植物文様を生み出していきます。これが波山の陶芸家としての道を大きく花開かせたのです。

卒業後、明治29(1895)年に就職した石川県工業学校(現:石川県立工業高等学校)では、彫刻科教諭として赴任。ここで最先端の窯業技術を習得し、釉薬や顔料の調合などの研究にも没頭しました。芸術を追求する感性と最先端の窯業技術を体系的に学んだことが、陶芸家としての波山の技術向上へと繋がっていきます。

明治の日本では、陶磁器は殖産産業として外貨を稼ぐ手段とされ、工房で陶工たちによる分業が一般的となっていました。しかし波山は教職を辞職し、上京。東京・田端に個人で、本格的な高火度焼成の窯を構え、陶芸家への道を歩み始めます。波山、31歳、陶芸家としては遅いデビューとなりました。

貧困にも負けず、情熱で作品を生み出す

その船出は、ろうそくの灯のように心細く、退職金をつぎ込んで「雨露をしのげるだけの家と窯場を建ててくれ」と大工に依頼したほどでした。この時、波山の収入は、東京高等工業学校窯業科の嘱託講師としての賃金だけで、図案書きのアルバイトや中学校の写生のための石膏像を作るなどの内職もしていたといいます。波山にとって苦しい時代が続きます。初の窯入れにも、燃やす薪が足りなくなり、家屋の木材までも使用したとの話も残されています。

この時代の波山を支えたのは、東京美術学校時代の同窓生や教師でした。親友の新納忠之助や岡倉天心や高村光雲らが「波山会」を作り、出資。その甲斐もあって『日本美術協会展』に3作品を出展するなど、苦難を乗り越えた波山の実力は、多くの人の認めるところになりました。また、初釜の作品は、東京美術学校の校長であった正木直彦にも贈呈されています。

白磁葡萄唐草浮文壺(はくじぶどうからくさうきもんつぼ) 出典:ColBase(http://colbase.nich.go.jp/)

彫刻の技術と釉薬の調合で独自の世界観を確立

貧困生活に追われながらも、確固たる信念の下、素地づくりから、釉薬や顔料の調合まで、轆轤以外の作業はすべて波山が関わり、究極の美を求め続けました。その技法は、東京美術学校で学んだ彫刻を活かし、素地に植物や鳥獣などのモチーフを浮彫りにする、薄肉彫り※1で、繊細で美しい文様は独自の意匠を生み出しました。顔料で色付けした上に葆光釉(ほうこうゆ)※2をかけ、焼成することで、うっすらと膜のはったような自然で柔らかな色調が浮かび上がります。この気品を漂わせた葆光彩磁は、波山が生み出した装飾技法です。絹のような柔らかな色彩の美しさを放つ波山の特徴でもある葆光釉は、荘子の思想から影響を受けたともいわれ、代表作である《葆光彩磁珍果文花瓶》(ほこうさいじちんかもんかびん)は、重要文化財に指定されています。   

※1 貨幣などに見られる絵模様を低く浮き上がらせたもの。※2 マット釉の一つで、1200℃以上で焼成すると艶消しのような状態になる

波山が求め続けた美の追求

波山の向上心はとどまるところを知らず、古典の技術を受け継ぎながらも19世紀後半に西洋で流行したアール・ヌーヴォーをも自らの作陶に取り入れるようになります。西洋の釉薬や顔料を積極的に取り入れ、西洋と東洋の文化を融合させた世界を築き上げたのです。こうして出来上がる波山の作品には、沸き立つような品格と崇高な精神が宿っているようでした。

故郷を愛し、故郷の人々に思いを馳せた晩年の波山

「清貧の陶芸家」というイメージで語られていた波山ですが、昭和に入るとゆるぎない地位を築き、還暦を迎える昭和7(1932)年頃には、日本の陶芸界の頂点に君臨する立場となっていきました。昭和28(1953)年には、陶芸家としての初の文化勲章を受章し、翌年には、東京美術学校の先輩である横山大観と共に、茨城県名誉市民の第一号となります。

晩年は、愛する故郷・茨城への愛情も深く、61歳から19年間にわたり、故郷に暮らす80歳以上の高齢者、約260人にハトの飾りがついた「鳩杖(はとづえ)」を贈りました。また、戦没者の遺族に香炉や観音像を製作するなど、弱き立場にいる人たちを励まし続けたといいます。

創作に命を注ぎ続けた91歳の生涯を閉じる

唯一、轆轤だけは関わることのなかった波山でしたが、二人三脚で制作を続けてきた轆轤師・現田市松(げんだいちまつ)が昭和38(1963)年に交通事故で亡くなると、片腕をもぎ取られたようだと、意気消沈してしまいました。そして同年10月10日、後を追うように波山も91歳の生涯を閉じたのです。

一度見たら忘れられない、儚い美しさを放つ作品は、明治以降の近代陶芸を芸術の域へと昇華させ、崇高な魂の結晶のように、後世の現代陶芸家たちに多大な影響を与え続けています。

褐釉花唐草浮文壺(かつゆうはなからくさうきもんつぼ) 出典:ColBase(http://colbase.nich.go.jp/)

アイキャッチ:天目茶碗 「出典:ColBase(http://colbase.nich.go.jp/)」

参考文献
『板谷波山』 著者 荒川正明 小学館
『板谷波山の生涯』 著者 荒川正明 河出書房新社 

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