東京美術学校彫刻科初代教授・髙村光雲とは?その人生や代表作を紹介

ライター
米田茉衣子
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みなさん、突然ですが、「東京三大銅像」をご存知ですか? 「えーっと、上野の西郷さん……?」おっ、アタリ!「渋谷のハチ公…?」残念、不正解……!「えーっと」……

正解は……、靖国神社の大村益次郎像、皇居外苑の楠木正成像、そして、上野恩賜公園の西郷隆盛像の3つの銅像です。明治時代につくられたこれらの銅像が、現在、「東京三大銅像」と呼ばれています。

そして、実はこの内の2つの銅像、楠木正成像、西郷隆盛像の制作には同じ人物が携わっているんです。

西郷隆盛像(上野恩賜公園)

 

楠木正成像(皇居外苑)

それがこちらの人物。

髙村光雲(アトリエにて)髙村光雲著『光雲懐古談』より 出典:国立国会図書館デジタルコレクション

明治時代に日本の近代彫刻を牽引し、東京藝術大学の前身、東京美術学校の彫刻科の初代教授を務めた彫刻家・髙村光雲(たかむらこううん)です。今回は、木彫に生涯を捧げた、髙村光雲の人生とその作品を追ってみたいと思います!

髙村光雲の生涯

光雲は大工になる予定だった!?

髙村光雲、幼名・中島光蔵は、嘉永5年(1852)2月18日に江戸・下谷源空寺門前の長屋で生まれました。(これは、現在で言うと、上野駅を挟んで上野恩賜公園の反対側、東上野6丁目のあたりです。)

光雲の実家はあまり裕福ではない町人の家でした。父の兼松は、自身が幼少期に家庭の事情で手に職を付けることができなかった経験から、「息子には何か手に職を付けてやりたい」と望み、幼い頃から鋸(のこぎり)や鑿(のみ)で木片を切ったり削ったりして遊んでいた光雲の姿を見て、親戚の大工の棟梁の家に奉公に出そうと考えました。当時、光雲は12歳。江戸の男の子は、12歳になると奉公に出て、それから10年間の年季奉公、1年間の礼奉公を勤め、23歳まで修行するというのが一般的でした。

しかし、いよいよ奉公に出る前日、髪を整えようと訪れた近所の床屋で、光雲の運命は大きく変わります。床屋の主人は、光雲が大工に弟子入りするという話を聞くと、「えぇ~それは残念……! 実は、光坊(注:光雲のあだ名)の長屋の隣の家に昔住んでた、彫刻師の髙村東雲先生に、“弟子を一人取りたいんだけど誰かいい人いない?”って聞かれてたんだった! 大工は辞めて彫刻師に弟子入りしない?」と彫刻師・髙村東雲への弟子入りを提案してきたのでした。

それを聞いた光雲も、「何か……、俺、、彫刻師の方がいいかも!」とその気になり、善は急げとばかりに、その日の内には床屋の主人が光雲の父に話をつけ、翌日には東雲の家へ挨拶に行き、なんとその場で弟子入りが決まったそうです。こうして、髙村光雲は大工ではなく、彫刻の道に入ったのです。床屋さん、グッジョブ!!

仏師・髙村東雲のもとで彫刻を修業

光雲が弟子入りした髙村東雲は浅草諏訪町(現在では、蔵前駅近くの隅田川沿い、駒形2丁目にあたる)に店を持ち、当時既に名の知られた仏師で、寺院や富裕な商人からさまざまな仕事を受けていました。光雲は師匠・東雲のもとで仏師になるための一通りの技術を学ぶため、熱心に修行に打ち込んで徐々に頭角を現し、明治7年には、丸11年の奉公を終え、東雲から「光雲」の号を授かりました。

(左)26、7歳頃の光雲(右)37、8歳頃の光雲(髙村光雲著『光雲懐古談』国立国会図書館デジタルコレクションより)

光雲は年季が明けた後も東雲のもとで働き、明治7年(1874)には徴兵を免れるため、東雲の姉の養子となり、髙村姓を継ぎます。

そして、明治10年(1877)に催された第一回内国勧業博覧会では、明治政府から出品依頼を受けた東雲の指示により、『白衣観音(びゃくえかんのん)』を制作し、最高賞である「竜紋賞」を受賞しました。

独立後に待ち受けていたのは、木彫界の苦境…

しかし、この頃、光雲の師匠・東雲が病に倒れ、逝去します。師匠亡き後、光雲は下谷西町(現在の東上野1~2丁目あたり)に仕事場を構え、独立することになりますが、折しも明治初期は、政府の神道国教化の方針に伴う、神仏分離・廃仏棄釈政策によって、多くの寺が壊され、仏像・仏具などが打ち捨てられた時代。日本で古くから継承されてきた仏師の仕事は、風前の灯といった状態でした。また、このような状況から、彫刻の技を持つ者たちは、当時需要が増えつつあった海外輸出用の象牙彫刻に一気に転向。日本の彫刻界は象牙一色になっていました。

明治時代の象牙彫刻(東京国立博物館蔵)出典:ColBase (https://colbase.nich.go.jp)

光雲も木彫の腕を見込まれ、貿易用の工芸品を扱う商人に象牙彫刻への転向を勧められます。しかし、光雲はあくまでも木彫の世界にこだわって、「俺は木で彫るものなら何でも彫ろう」と決意し、仏師としての矜持を保ったのでした。

牙彫師・石川光明との出会い、そして“美術”の世界へ!

それから光雲は、木彫で依頼を受けた仕事は洋傘の柄から貿易品の型彫りまで何でも引き受け、一人コツコツと木彫の技を研鑽しました。そんな折、光雲のその後の人生を左右する一人のキーパーソンに出会います。

石川光明「野猪」大正元年(1912) 出典:ColBase (https://colbase.nich.go.jp)

それが、こちらの彫刻の作者である、石川光明です。石川光明は光雲と同い年で、下谷稲荷町の宮彫師の家に生まれ、牙彫師・菊川正光のもとで牙彫(げちょう)を修行。明治14年(1881年)第2回内国勧業博覧会に出品した『魚籃(ぎょらん)観音』が「妙技二等賞」を受け、その超絶技巧とも言える卓越した技術で、当時日本有数の牙彫師として活躍していました。

同い年、地元も同じ(下谷)、さらに同じような経歴をもつ、職人気質な2人はすぐに意気投合。石川光明に勧誘され、光雲は当時できたばかりの「日本美術協会」の会員となり、これがそれまで仏師として地道に職人の道を歩んできた光雲が、日本の“美術”の世界へ足を踏み入れるきっかけとなったのです。その後、光雲は日本美術協会役員の推挙によって、石川光明とともに皇居造営の室内装飾を担当するなど、日本の木彫の第一人者として認識されるようになりました。

東京美術学校の彫刻科初代教授に就任

明治22年(1889)に開校された東京藝術大学の前身である東京美術学校には、開校当初、日本画科、彫刻科、工芸科の3つの科が置かれました。光雲は岡倉天心から話を受けて、開校時の彫刻科の教員となり、翌年には教授に就任。また、同じ年には、日本の美術・工芸の保護と奨励を目的として皇室が定めた「帝室技芸員」に石川光明らとともに任命されました。

その後は、明治初期に衰退した日本の木彫の再興のため、自身の作品制作の傍ら、東京美術学校で指導に当たると同時に、工房でも多くの弟子を取って後進を育成。その門下からは、米原雲海、山崎朝雲、平櫛田中などの著名な彫刻家が輩出され、日本近代彫刻の礎を築きました。

昭和33年の髙村光雲 髙村光雲著『光雲懐古談』より 出典:国立国会図書館デジタルコレクション

回想録『光雲懐古談』よりハイライト3選

さて、髙村光雲の生涯について、ダイジェスト版で見て参りましたが、光雲の生涯を知るにあたり、必読の本があります。それが、髙村光雲著『光雲懐古談』!(リンク先で全文公開)

髙村光雲著『光雲懐古談』 出典:国立国会図書館デジタルコレクション

昭和4年(1929)に刊行されたこの本は、髙村光雲が息子・高村光太郎と編集者の田村松魚(たむらしょうぎょ)に自分の人生を語り、それを田村松魚が書き留めたものです。

「おじいちゃんの昔話かぁ……」と面白くなさそうな雰囲気満載のタイトルですが、これが予想を裏切り、めちゃくちゃ面白い!! 読み始めると夢中になって、夜を徹して読んでしまうタイプの本です。「今日はそれを話しましょう。」と光雲先生が饒舌に語り出すお話は、ワクワクあり、笑いあり、あたかも千夜一夜物語のよう。

江戸時代の職人の師弟関係に始まり、西南戦争、第一回内国勧業博覧会、明治初期の日本の工芸と美術を取り巻く状況、東京美術学校開校、帝室技芸員任命……など、歴史的出来事の裏側を当事者目線で詳細に、生き生きと、かつフランクに語られているので、幕末や明治時代に興味がある方にとっても貴重な良書です。珠玉のエピソードばかりの本書から、中でも興味深く、面白かったハイライト3選を抜粋してご紹介します。

●「実物写生ということのはなし」より

一つ目は、髙村光雲が自身の作風を確立したときの話です。

どうかしてこの仏臭を脱して写生的に新しくやって見たいものだということが私の胸に浮かんで来ました。……すなわち、私自身としては自分の製作の態度や方法を一変して新しくやって見ようという心を起こしたのであります。

こうして、当時出回り始めていた輸入モノの石版画や鉛筆画、挿絵などを集めることにした光雲。

それを見ていると、どうしても在来の彫刻のやり方では、それが一向に現れて来ない。(中略)やはり西洋画が写生を主としたと同じように写生を確かり(しっかり)やらなければならないと、こう考えました。(中略)私は此所へ着眼して一意専心に写生を研究しました。ちょうど、それが画家が実物を写生すると同じように刀や鑿をもって実物を写生したのである。毛の上に毛の重なり合い、あるいは波打ち、揺れ動く状態等緩急抑揚のある処を熟視して熱心にやりました。

髙村光雲の日本美術史上の功績としては、日本の伝統的な仏師の技に立脚しながら、明治時代の西洋化に伴い、西洋の写実的表現を取り入れ、日本の木彫の近代化を一人で推し進め、後の日本木彫の後進にバトンを渡したということが挙げられます。この部分では、西洋のものが一気に流入し、大きく変容しようとする明治初期における、一人の仏師の心の葛藤と思考の変遷が描かれており、光雲が従来の日本の彫刻から、どのようにして写実的な次世代の彫刻へと転換を図ったかをうかがい知ることができます。

●「佐竹の原へ大仏を拵(こしら)えたはなし」

次は、面白いエピソードを一つ。光雲が友人たちと話が盛り上がって、家の近所の佐竹の原という原っぱの興行地に、人が入れるドデカイ大仏のアトラクションを作った時の話。完成を間近に控えた巨大大仏を上野の山から見てみたシーンです。

ちょうど、今の西郷さんのある処が山王山で、其所から見渡すと、右へ筋違いにその大仏が見えました。重なり合った町家の屋根からずっと空へ抜けて胸から以上出ております。空へ白い雲が掛かって笊(ざる)を植えた大きな頭がぬうと聳(そび)えている形は何んというて好いか甚だ不思議なもの…しかし、立派な大仏の形が悠然と空中へ浮いているところは甚だ雄大…(中略)黒ッぽい銅色に塗り上げると、大空の色とよく調和して、天気の好い時などは一見銅像のようでなかなか立派でありました(この大仏に使った材料は武人丸太と小舞貫と四分板、それから漆喰だけです。)

光雲も当初は軽いノリで関わり始めた巨大大仏づくり。それがあれよあれよという間に形になり、初めは現場に任せていた光雲ですが、途中からはクオリティーが心配になり、「これは、任せておけん!」と、自ら毎日現場に通い、高い足場の上で汗水垂らして大工相手にディレクターとして制作の指揮を取ったそうです。そして、ついに巨大大仏アトラクションは完成!

大仏の頭が三畳敷位の広さで人間が五、六人くらいは入れますが、目、口、耳の窓から外を見ると、先の客は後から急かれて出ていくので、入り交り立ち交るという手順で、手ッ取り早く出来ております。蓋が明いた六日の初日には果して大入りでありました。

ちなみにこの大仏の高さは約14.5メートルあったそうです。見物客は大仏の頭の部分に入って、目・口・耳の窓から外を見渡せただけでなく、大仏の体内で閻魔踊りの出し物や骨董展も楽しめたそう。いや~光雲先生プロデュース巨大大仏アトラクション行ってみたいですね!! 大人になっても遊び心を忘れない、そして、モノづくりになるとついつい本気を出してしまう光雲の職人魂を感じさせるエピソードです。

●「木彫の楠公を展覧に供えたはなし」

最後のエピソードは、今も皇居で目にすることのできる楠正成像を制作した際の話。この楠公像は、大阪の住友家が宮内省へ献納するため、東京美術学校へ制作を委嘱したものです。当時としては、稀に見る大作で、そのプロジェクトの制作主任を務めたのが髙村光雲でした。光雲をはじめ、東京美術学校の関係者や外部の有識者・技術者一同が総力を挙げ、丸2年間かけて銅像のもとになる木彫原型が完成。すると、「木彫を明治天皇の御覧に供せよ」との御沙汰が岡倉校長に届いたのでした……。

東の空が白む頃関係者は学校へ出揃い、木型を車に積んで運び出しましたが、上野から宮城(きゅうじょう※皇居の意味)までかれこれ二時間位掛かり、御門を這入って、それから三本の足場を立て、滑車で木寄せの各部分を引き揚げては組み合わせるのに、熟練はしていても一時間半くらいを費やし、都合四時間ほどの時間が掛かりました。(中略)岡倉校長を先導に主任の私、山田、後藤、石川、竹内、その他の助手、人足など大勢が繰り込みましたことで、仕事は滞りなく予定の時刻の九時頃に終わりました。御玄関に向った正面へ飾り付け、足場を払って綺麗に掃除を致し、幔幕を張って背景を作ると、(中略)其所へ楠公馬上の像が建つとなかなか大きなものでありました。それに材は檜で、只今、出来たばかりのことで、木地が白く旭日に輝き、美事でありました。

完成したばかりの楠公像の木彫が朝日に輝く姿が目に浮かぶようですね……。楠公像の原型の制作は、数名の先生と職人のスペシャリストによって、パーツごとに分担して作業にあたり、光雲が自ら作業を受け持ったのは顔の部分の造形です。しかし、楠正成の顔についての記録は全く残っておらず、光雲は楠正成の功績から、「智の方面に傑出した相貌の顔に作りました」と記しています。兜の影から見えるゾクゾクするほど精悍な顔つき……、皆様もぜひ、皇居外苑を訪れた際は楠公像の顔に注目してみてください!

髙村光雲の代表作『老猿』を鑑賞!

それでは、お待たせいたしました、髙村光雲の代表作の一つを鑑賞しましょう。こちらは、明治26年(1893)にアメリカで開催されたシカゴ万国博覧会に出展され、優等賞を受賞した『老猿』(重要文化財)。髙村光雲が41歳の頃に手掛けた作品です。(スマホの方はぜひアップにして細部もご覧ください!)

髙村光雲「老猿」明治26年(1893)(東京国立博物館蔵) 出典:ColBase (https://colbase.nich.go.jp)

高さは108.5センチメートルとなかなかの大作です。材料には、光雲が自ら栃木県の山中の発光路まで行き、材木屋と交渉して手に入れた栃の木が使われています。

今まさに大鷲と一戦を交えた直後の老猿。手には数本の羽根が握られ、その目は飛び去った大鷲を見つめているのか、空の彼方をじっと見据えています。

一筋一筋丁寧に彫り上げられた、生命感溢れる毛並み。猿の目には、黒色鉱物が嵌め込まれています。「写生」にこだわった光雲は動物をモチーフにする際、実物の動物をモデルにして作品を制作することが多く、本作の制作時も実物の猿を借りてモデルにしたとの記録が残っています。

この作品に取り掛かる頃、光雲は手塩にかけて育ててきた長女・咲子(さくこ)を病で失いました。娘の葬送を終え、失意の底にいた光雲がその深い悲しみを振り払うべく、情熱を傾けて取り組んだのがこの『老猿』でした。

日本伝統の仏像制作で育まれた木彫の技を基盤にしながらも、光雲が西洋美術をもとに研究を重ねたリアリティのある毛並みの表現を融合させた一作です。細部は見れば見るほど隙がなく、その完成度の高さに驚かされます。また、作品全体が湛える精神性の高さは、人びとの祈りとともにある「仏師」の潮流にいた光雲ならではの到達点かもしれません。本作は、江戸に生まれ、明治に生きた光雲の人生そのものを背景に感じさせる貴重な遺作であると同時に、日本の彫刻史に燦然と輝く一つの頂であったといえるのではないでしょうか。

現在、『老猿』は、東京国立博物館に収蔵されています。(展示予定は未定です)

【髙村光雲作品の所蔵館】

・宮内庁三の丸尚蔵館……『矮鶏置物』(明治22年)、『山霊訶護』(明治32年)、『文使』(明治33年)、『鹿置物』(大正9年)、『松樹鷹置物』(大正13年)、『養蚕天女』(大正13年)など
・東京国立博物館……『老猿』(明治26年)
・東京藝術大学……『聖徳太子坐像』(明治44年)
・大阪中之島美術館……『砥草刈』(大正3年)

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