西郷隆盛像が上野にある理由は?その歴史と製作に関わった人物を解説

ライター
中野昭子
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上野の立ち寄りスポットはいくつかありますが、その中の一つに入るのが上野恩賜公園(上野公園)の敷地内にある西郷隆盛(さいごうたかもり)像です。この像は「上野の西郷さん」の名で親しまれ、常に観光客や待ち合わせをする人で賑わっています。
以下、100年以上の歴史を誇る上野の西郷隆盛像についてご紹介します。

西郷隆盛の肖像。
出典:近代日本人の肖像(https://www.ndl.go.jp/portrait/

「上野の西郷さん」がつくられた経緯

「上野の西郷さん」は、身長370.1cm、胸囲256.7cm、足55.1cmという、大変大きくて立派な像です。明治23(1890)年に銅像建立の話が起こり、明治26(1893)年から銅像を建てるための募金運動が始まり、その寄付金によって銅像が制作され、明治31(1898)年12月18日に除幕式が行なわれました。

明治維新の指導者である西郷隆盛は、明治10(1899)年の西南の役で、天皇や朝廷に敵対する勢力である朝敵となり死亡しますが、5年後には許されて朝敵ではなくなりました。その後、明治22(1889)年には大日本帝国憲法発布に伴う大赦で復権しています。大赦の翌年という早いタイミングで銅像をつくる話が出ているのは、隆盛を慕う人がそれほど多かったということでしょう。なお、銅像建立の募金の際は、明治天皇も金一封を出しています。
西郷隆盛像は鹿児島県霧島市溝辺町の西郷公園や鹿児島市の像も有名で、それぞれ風格のある雄姿を見せています。

西郷隆盛像の銘板。制作の経緯などが書いてあります。

ところでこの像は、なぜ上野にあるのでしょうか。
実は像の発起人たちは、隆盛が維新第一等の功臣であり、また江戸城無血入場を実現したという理由で、皇居の近くに建立したかったようなのですが、既に復権していたとはいえ、まだまだ周囲の反感が強かったそうです。
そのため、戊辰戦争の戦闘の一つである上野戦争において、黒門口の戦にて薩摩兵が奮戦したゆかりの土地ということから上野が選定されたといいます。

西郷隆盛像を作った高村光雲は、日本の彫刻界に貢献した傑出したアーティスト

上野の西郷隆盛像を制作したのは彫刻家の高村光雲(たかむらこううん)です。光雲がつくったことには間違いないのですが、実際は、東京藝術大学の美術部の前身である東京美術学校を中心地とし、光雲が主任となって制作した、という言い方が正しいようです。

東京の浅草に生まれた光雲は、仏像制作の工房に弟子入りして木造彫刻の腕を磨きますが、明治維新後に廃仏毀釈運動が起こり、仏師としての仕事がなくなります。そんな中、光雲は西洋美術を積極的に取り入れ、木彫に写実主義を取り入れて制作し、日本の江戸時代までの木彫の技術を近代につなげる役割を果たしました。光雲の彫刻は新旧の要素を積み上げた技巧の塊であり、対象の本質に肉薄した迫力に溢れ、見る者を圧倒します。

高村光雲作『老猿(ろうえん)』明治26(1893)年 木造 東京国立博物館 重要文化財
出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp/
※明治26(1893)年に開催されたシカゴ万国博覧会で受賞した名品。鷲と格闘した直後の猿の姿は気迫に満ち、高潔さすら漂ってきます。

その後、光雲は、岡倉天心の依頼により東京美術学校に勤務します。最初は依頼を断ろうと思っていたようですが、天心宅を訪問した際に、家でやっていることを学校でやってほしい、生徒が光雲の仕事を見ることで、光雲が生徒に教えていることになる、という趣旨のことを言われて引き受けたといいます。その後、彫刻科教授にまで昇格し、同じ時期に宮内省の美術・工芸品の顕彰制度である帝室技芸員に選抜されています。
なお、高村光雲の長男は、彫刻家や画家であり、『智恵子抄』で有名な詩人でもある高村光太郎です。

光雲が西郷隆盛像をつくるにあたり、確かに隆盛本人のものと言いうる写真が残されていませんでした。そのため光雲は隆盛の絵をもとにし、隆盛の知人や血縁者に聞きながら制作したといいます。制作時には隆盛は亡くなっていますので、いかに写実に優れた名彫刻家であっても、生前の写真がない人の彫像をつくるのは大変だったことでしょう。すでに生存していない人物をモチーフにすることが多かったので、歴史考証を行いながら制作することに経験値があったのだろうと思います。

西郷隆盛像の傍らにいる犬を作ったのは、高村光雲に木彫を習った後藤貞行(ごとうさだゆき)です。貞行はもともと軍馬の種馬の研究をしており、陸軍軍馬局などに勤めていました。そして馬好きが高じ、馬を絵や立体で再現するために試行錯誤する中で、木彫という手法に出会ったそうです。
そんな彼は動物、とりわけ馬の彫刻を大変得意とし、東京美術学校に勤務した後は、皇居外苑にある楠木正成像の、正成がまたがる馬などを制作しています。後藤貞行の手による動物たちは、リアルで躍動感がありつつも非常に緻密で、作者の技量とモチーフへの深い情を感じさせます。

後藤貞行作『馬』明治26(1893)年 木造 東京国立博物館
出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp/
※写実を徹底するために馬の解剖も行ったという後藤貞行。馬が大好きだった貞行は馬の名作を多く残しています。

像の鋳造には、東京美術学校の鋳金科で教鞭を執り、鋳造技術の高さで有名だった岡崎雪声(おかざきせっせい)が担当したとされています。作品が明治22(1889)年のパリ万国博覧会で2等を獲得し、明治26(1893)年のシカゴ万国博覧会にも出品されるなど精力的に制作を続けた雪声は、西郷隆盛像の制作にあたっては東京美術学校の外に鋳造所をつくって仕事をしたといいます。西郷隆盛像は日本で最初に造船技術を使って鋳造したとのことで、継ぎ目がないのが特徴の一つとなっています。

岡崎雪声作『弁才天図額(べんざいてんずがく)』明治時代・19世紀 東京国立博物館 金工
出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp/
※岡崎雪声は、鋳金家としても鋳物師としても活躍しました。

なお、上野公園の西郷隆盛像は、皇居外苑の楠木正成像、靖国神社の大村益次郎像とともに「東京の三大銅像」の一つとされていますが、西郷隆盛像と楠木正成像は、高村光雲、後藤貞行、岡崎雪声が制作に携わっています。

実は犬の散歩中ではなかった「上野の西郷さん」

実は西郷隆盛像の原型は、当初陸軍大将の盛装の姿でつくられたそうです。ところが、名誉回復がなされたとはいえ、一度は明治政府に叛いた逆賊とされた人の像を軍服姿にすることに反対があり、今の姿になったといいます。

西郷隆盛像の傍らにいる犬は、隆盛のお気に入りの薩摩犬、ツンがモデルになっています。隆盛は天神様への参拝の際にツンと出会い一目ぼれをし、飼い主に譲ってくれとお願いをしたそうです。なお、大きな主人に比べてツンは小さいような気がしますが、薩摩犬は小さいため、この像でも実際より大きくつくられているとのことです。

隆盛の傍らに立つツン。ピンと立った耳が薩摩犬の特徴。

和装の着流し姿で愛犬ツンを伴っている西郷隆盛像は、ご近所の散歩をしているようで親しみを感じますが、実は兎狩りに出かけているところで、腰には兎罠を挟んでいます。薩摩犬は飼い主に充実で泳ぎがうまく、イノシシ猟などで活躍する猟犬だったと言いますので、ツンも単なるお供ではなく、追い込み猟で活躍する猟犬だったのだろうと思います。なお、薩摩犬は現在絶滅してしまったとされています。

腰に兎罠が見えますね。

銅像の正面左側には、隆盛の生涯と銅像の由来を記した銘板があり、上部に「敬天愛人」という文字が描かれています。天をおそれ敬い、人を愛することを意味するこの言葉は隆盛の座右の銘で、この字を揮毫した隆盛の書も現存しており、現在は鹿児島市立美術館に収蔵されています。

西郷隆盛像の左側に立つ銘板。

生前も死後も広く知られ、慕われる隆盛ですが、光雲が苦労したように、確かな写真はないとされています。理由としては、本人が写真嫌いだったためだとか、暗殺を避けるためなどと諸説あります。写真には残っていなくても、多くの人が「西郷隆盛」という名から想像する外観にあまり差はないのは、恐らく「上野の西郷さん」の宣伝効果が大きいものと思われます。
歴史の中の出来事や人物は、時間が経つと評価や意味が変わることが多いですが、隆盛は像のイメージと共に、ずっと愛され続けることでしょう。

西郷隆盛像 基本情報

住所: 東京都台東区上野公園・池之端三丁目(東京都立上野恩賜公園内)

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