旧東京音楽学校奏楽堂は建物にも注目!歴史と見どころを紹介

ライター
山見美穂子
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「荒城の月」を作曲した瀧廉太郎(たきれんたろう)や、「からたちの花」を作曲した山田耕筰(やまだこうさく)など、日本の近代音楽の礎を築いた音楽家たちが集った学び舎が、今も上野に残されています。
上野駅公園口を出て、上野公園の噴水広場をこえ、東京都美術館のもっと奥へ。
東京藝術大学の少し手前に静かにたたずんでいる洋館「台東区立旧東京音楽学校奏楽堂」です。

周囲の博物館や美術館に比べるとコンパクトながら、国の重要文化財にも指定されている貴重な建築。
2階には日本で初めてモーツァルトやベートーヴェンの交響曲が演奏された音楽ホール「奏楽堂」があり、今も定期的にコンサートが開かれています。

旧東京音楽学校奏楽堂の歴史と見どころ

旧東京音楽学校奏楽堂は、1890(明治23)年に東京音楽学校(現在の東京藝術大学音楽学部)の校舎として建てられました。
設計は明治時代に数多くの学校建築を手がけた山口半六(やまぐちはんろく)と久留正道(くるまさみち)。学び舎らしく装飾を抑えてすっきりとした洋館は、屋根が瓦葺きの和洋折衷建築です。

屋根のモニュメント

建物の中に入る前に、屋根の正面にあるモニュメントに注目を。中央には雅楽に使う楽太鼓、左に西洋楽器の竪琴(ハープ)、右に笙(しょう)の笛という和楽器が配置されています。西洋の音楽を吸収し、日本の伝統的な音楽も受け継ぎながら、新しい音楽を作っていこうとする心を表しているのだそう。

ペディメント

1階の展示室にも模型があり、楽器の形を近くで見ることができます

瀧廉太郎像

玄関横では「東洋のロダン」と呼ばれた彫塑家、朝倉文夫(あさくらふみお)作の瀧廉太郎像がお出迎え。
朝倉文夫と瀧廉太郎は高等小学校の同窓で、像の裏側には朝倉文夫の思いが刻まれています。その解説パネルは1階展示室の、ちょうど瀧廉太郎像の後ろにある窓のところに展示されていていて、瀧廉太郎の背中を見ながら読むことができるようになっています。中へ入ってみましょう。

瀧廉太郎像

朝倉文夫作 瀧廉太郎像

日本最古の音楽ホール「奏楽堂」へ

建物の2階にある奏楽堂は、一般の人々を招いて音楽を聴く楽しさや喜びを伝えるために作られました。ホールの中央には大きなシャンデリア。天井にも透かし彫りの装飾がほどこされていて、上品な華やかさでお客様をもてなしてくれます。

ヴォールト型(カマボコ型)の丸天井は、音響効果を高め、客席の熱気を通気口へ逃がすように作られたもの

壁の四隅はアール(曲線)になっています。これも音響を良くする工夫のひとつ

随所に音響を高める工夫が施されていますが、建築当時の明治時代の技術なので、近代的な音楽ホールに比べると効果はおだやか。
残響が少なく、生の音をそのまま聞くことができるとも言えます。

日本で初めてオペラが上演されたのも、この奏楽堂です。東京音楽学校在学中に歌劇『オルフォイス』の舞台で評判となった三浦環(みうらたまき)は、のちにイギリスのロンドン・オペラハウスで『蝶々夫人』を演じ、作曲家のプッチーニから絶賛されるなど世界的にも活躍しました。

奏楽堂の座席数は、ステージと客席の距離が近い310席(現在は感染防止対策のために、さらに席数を減らしています)。昔は固定のシートではなく椅子を並べていたので、もっとぎゅうぎゅうに人が入っていたそうです。想像するだけで、当時の熱気が伝わってきそうではありませんか。

奇跡のパイプオルガン

目を奪われるのは、ステージに設置されている大きなパイプオルガンです。
このパイプオルガンは奏楽堂に最初からあったものではなく、音楽愛好家として有名な紀州徳川家の徳川頼貞(とくがわよりさだ)侯爵が、自宅の敷地に「南葵(なんき)楽堂」という音楽ホールを建設するにあたってイギリスから輸入したものでした。しかし、関東大震災で南葵楽堂が損壊。パイプオルガンは奇跡的に無事だったことから、1928(昭和3)年に奏楽堂に寄贈されたのです。100年以上の歴史がある古いものですが、修理を重ね、今もコンサートでその音色を響かせています。

奏楽堂を救え! 昭和の解体・移築

実は旧東京音楽学校奏楽堂そのものも、解体の危機にあったところを救われて現在の場所へ移築されたというエピソードがあります。
もともとは東京音楽学校の敷地に建っていたのですが、東京藝術大学音楽学部となった頃から手狭になりはじめ、新しい奏楽堂に建て替える案が持ち上がりました。

関東大震災も乗り越えた丈夫な建物でしたが、昭和40年代になるとだんだんと老朽化も深刻になっていきます。
貴重な建物を保存するために、地方の博物館への移築計画も持ち上がっていたそうですが、まとまらないまま月日が経っていきました。

東京音楽学校の卒業生らによる「奏楽堂を救う会」が発足したのは、1980(昭和55)年。
膠着状態になっていた奏楽堂の保存に手を差し伸べてくれたのは、地元の台東区でした。区が管理を引き継いで解体と移築を行い、現在の場所にクラシック専門の音楽ホール「旧東京音楽学校奏楽堂」として開館したのが1987(昭和62)年。
国の重要文化財に指定されたのは翌1988(昭和63)年です。

音楽ホールの壁には、外からの音を遮るために藁が詰められています。移築の際にはこうした工夫も受け継がれました

古い建材もできるだけそのまま使用しています。年代ものの窓ガラスにはところどころに歪みや気泡があることも

平成の大改修で甦った色

旧東京音楽学校奏楽堂のように文化財を使いながら残していくことを「動態保存」と呼びます。
使うことによって建物が痛んでしまうのは、ある程度は避けられません。
2013(平成25)年からは5年間の長期休館をして、耐震工事を含む修繕を行いました。

色あせて元の色が分からなくなっていた奏楽堂のカーテンは、古い写真や資料から明治時代の色を調べたそうです。
古写真をデジタル解析にかけても、もともとの色が分かりませんでしたが、夏目漱石の『野分(のわき)』という小説の中で主人公が奏楽堂に行くシーンがあり「みどりの窓掛」と書かれていたことから、緑色のカーテンを再現しました。

生きた文化財で気軽なクラシックを

2018(平成30)年にリニューアルオープンした旧東京音楽学校奏楽堂では現在、原則として毎月第3木曜日に藝大生によるコンサートを、第1・第3日曜日にはチェンバロの、第2・第4日曜日にはパイプオルガンの演奏を聴くことができるミニコンサートを開催しています。しかも木曜コンサートは500円、日曜コンサートは300円というお手頃価格。贅沢な生演奏をとても身近に楽しむことができます。

「日本の新しい音楽」が生まれた場所、旧東京音楽学校奏楽堂のコンサートへ足を運んでみたくなりませんか。

旧東京音楽学校奏楽堂 Information

住所:東京都台東区上野公園8‐43
イベントの詳細は公式サイトでご確認ください。
https://www.taitocity.net/zaidan/sougakudou/

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