藝大書籍探検隊!伝説の漫画家・一ノ関圭の『鼻紙写楽』を読んでみた

ライター
瓦谷登貴子
関連タグ
コラム

東京藝術大学について、もっと知りたい。 そうだ! 関連する書籍を入り口にしたら、理解できるんじゃないだろうか? と言うことで始まったこのシリーズ。今回は、東京藝大卒の漫画家・一ノ関圭の『鼻紙写楽』を紹介します。私は最初、パラパラと数ページ読んだところで、いったん本をとじてしまいました。これはしっかりと読まないとダメなやつだ! 襟を正して、作品の世界へ没入しました。

第2回『鼻紙写楽』 一ノ関圭著 小学館

伝説の漫画家・一ノ関圭とは?

一ノ関は東京藝術大学絵画科油画専攻卒で、在学中に投稿した『ランプの下』が第14回ビッグコミック賞を受賞と、早くから非凡な才能が注目されていました。しかし寡作にして遅筆であることから、その後に発表した作品の数は多くありません。抜群の絵の上手さ、一コマ一コマのクオリティの高さを保ちながら、コンスタントに描き続けることは難しかったのかもしれません。しかし数少ない作品は、どれも高評価で、著名人のファンも多く、いつしか伝説の漫画家と呼ばれるようになります。

『鼻紙写楽』は、2003年から2009年に『ビッグコミック』増刊号で不定期に連載された全8話を元に加筆し、3部作に再構成して単行本化した漫画作品です。2015年に刊行されると、作品を心待ちにしていたファンや、漫画通の心をわしづかみにしました。そして翌年の2016年には、日本漫画家協会賞大賞および手塚治虫文化賞マンガ大賞受賞と、ダブル受賞の栄誉にあずかります。この異例の快挙は、当時大きな注目を集めました。

魅力的な登場人物たち

力強い線で、細部まで描きこまれた絵は、どこか懐かしいような、ノスタルジックな気分にもなります。さすが東京藝大卒と納得の画力だけではなく、緻密なストーリーも魅力の一つです。江戸時代後期の歌舞伎小屋を舞台に、主役、脇役が入り乱れての群像劇。まるで壮大な時代劇の映画のようで、作者は映画監督さながらに、その時々で中心となる人物に近づいたり、離れたり。無駄な場面などなく、飽きさせる暇を与えません。

町方役人の次男で、武士にもかかわらず、芝居小屋に通い詰めて、中村座の囃子方になる綴勝十郎(つづりかつじゅうろう)。五代目市川團十郎の娘で、男勝りで何かとトラブルを引き起こす、りは。大阪から絵師として上京し、画風を模索する伊三次こと後の東洲斎写楽。この三人の他に、りはの弟で歌舞伎役者の徳蔵の付き人になる奉公人の卯之吉など、歌舞伎を取り巻く人々の人生が絡み合い、愛憎を生み出す様を重厚に描いています。

写楽の他にも、鶴屋南北※1、田沼意次※2など実在の人物が登場し、史実や当時の風俗も押えられているため、人々の息づかいがリアルに伝わってきて、まるで江戸時代にタイムスリップしたかのようです。

※1長い下積みの上に名を成した歌舞伎狂言の作者。四代目のことを指すことが多い。『東海道四谷怪談』など、現代も多くの作品が上演されている。
※2江戸中期の老中。積極的な経済政策を行い、権勢をふるった。やがて賄賂が横行し、批判が強まった。

導入から引き込まれるストーリー展開

タイトルから考えて、すぐに写楽が出てくるのかと思いきや、その予想は裏切られます。3部のオムニバス形式の1部の主役は、勝十郎です。跡継ぎの兄と区別され、父から冷たい態度を取られる勝十郎は、14歳で歌舞伎と出合って、自分の居場所を見つけます。30歳になった時には腕利きの笛の囃子方として、裏方の一員になっていました。ところが兄が何者かに殺されたことで、再び武士の世界へ戻り、同心の見習いの生活が始まります。

勝十郎が心惹かれた歌舞伎の裏側の描き方が面白くて、一気にストーリーに入り込めました。そして、再び武士になった勝十郎は、連続幼女誘拐殺人事件に大きく関わっていきます。思うことはあっても、無駄口は叩かない勝十郎。映像化するとしたら、どんな俳優がふさわしいだろうか、などと妄想してしまいました。

歌舞伎や浮世絵が身近に感じられる

当時の江戸には複数の歌舞伎小屋があり、庶民に欠かせない娯楽だったんだなぁと、歌舞伎を知る入り口としても、この漫画は最適です。また役者だけではなく、ひしめくように、たくさんの人々で構成されていて、舞台を作る過程がわかりやすいです。ドロドロした人間の闇の部分や、当時はあったと言われている役者への理不尽な風習も、曖昧にせずにきっちりと伝えています。

また、この作品を描く上で重要な位置を占める錦絵(にしきえ)についても、丁寧な描写のお蔭で、身近に感じられます。浮世絵は江戸で生まれて独自に発展したので、「江戸絵」とも呼ばれました。肉筆画※3と木版画があり、多色擦りの木版画は、錦のように美しいことから、錦絵と名付けられたのだそうです。写楽が上京したのは、大阪には無かったこの錦絵に興味を持ったからでした。

※3絵師が自筆で描いた浮世絵のこと。

役者を支える姿に涙

りはの弟の徳蔵は、五代目市川團十郎の息子で、将来の六代目を継ぐ立場にあります。「小海老」と呼ばれて、才能の片鱗を感じさせる舞台姿から、周囲に期待される存在でした。ところが、幼い時に少女と間違えられて誘拐されてしまい、この出来事で心身共に大きなダメージを受けます。災害で両親と兄弟を失った卯之吉は13歳の時に、この徳蔵の付き人として雇われるのです。

わがまま放題の徳蔵に振り回される卯之吉は、ある日、我慢の限界が来て、町中で徳蔵を置き去りにしてしまいます。そして町をあてどなくふらつく内に、知人から思いがけず徳蔵の忌まわしい過去を聞かされます。慌てて徳蔵を探し出し、暴漢に連れ去られそうになっているところを救う卯之吉。

「一生かけて徳蔵を守る」と決意した卯之吉の支えで、徳蔵は負けん気を発揮して役者としての階段を上がっていきます。私は物語の中で、この2人の関係性が一番ぐっときました。不幸な過去を抱えながら、共に手を携えて、芸の道を進む姿は感動的です。

『鼻紙写楽』は継続中

実は、この作品は未完なのだそうです。また三代目瀬川菊之丞をテーマにした新シリーズが、2017年に『ビッグコミック』に連載されました。その後は発表されていないので、単行本化までには長い時間がかかりそうです。

この漫画を読み終えた後、数日頭の中で、登場人物たちがウロウロしていました。まさに一人一人が生きていて、ずっと身近に存在している感覚なのです。さて、作者はどのように着地させるのでしょうか? 

一ノ関には、漫画以外に、子ども向け絵本の絵を担当した作品があることを知りました。作者見習いの少年を主人公に、江戸後期の顔見世興業を、緻密な絵で再現しているのだそう。この『夢の江戸歌舞伎』は、研究者と共に8年の歳月をかけたのだとか! 漫画でも、絵本でも、作品と真摯に向き合う姿勢は、藝大で培われたものなのかもしれません。

◆藝大書籍探検隊シリーズ

藝大書籍探検隊!『最後の秘境 東京藝大-天才たちのカオスな日常-』を読んでみた

おすすめの記事